第十三話・メンフィスの過去
「メンフィスさん、大丈夫ですか? 眠るなら宿に戻った方が……」
「ジュード」
「え、あ。はい」
ここで眠ってしまうと、満足に身体を休められないのではないかとジュードは心配して声を掛けたのだが、全く気にも留めていないように即座に名を呼ばれて、半ば反射的に返事を一つ。
メンフィスはそんなジュードとカミラを見遣ると、視線のみで近場の椅子を示す。座れ、と言うことらしい。
ジュードとカミラは互いに顔を見合わせ、そして促されるままに空いている席に腰を落ち着かせた。休憩所には他に休んでいる者もいたが、席はまだかなり空いている。少しくらいなら構わないだろう。
とにかく、赤ら顔且つ据わった目をした――見るからに酔っ払いと化しているメンフィスをこの場に放置はしていけない。彼の気が済むまで、または眠ってしまうまで付き合おうかとジュードは内心で思った。
メンフィスは酒瓶に口を付けて、また一口喉に通す。喉を鳴らして中身を飲み、満足するように腹の底から唸りを洩らして、夜空へ視線を投じた。
その姿は、気軽に声を掛けるには些か抵抗のある姿であった。
そして、暫しの沈黙の後にメンフィスは視線を夜空に投じたまま、改めて口を開いて彼の名を呼ぶ。
「ジュード」
「はい」
「ワシはお前に口喧しく言ってしまっているな」
ふと、唐突な言葉を向けられて、ジュードは思わず翡翠色の双眸を丸くさせる。
恐らくは戦闘や魔物のことについてである。ジュードが魔物を殺せないこと、戦闘に於いて敵に刃を突き立てるのを躊躇うことだ。
ジュードは、嘗て共に在ることも多かった魔物に対し、完全なる敵意も持てなければ、命を奪うことにも強い抵抗を抱いている。
戦闘で躊躇う度に――傷を負う度に、メンフィスはジュードを咎めるのである。
「えっ、いや……だって、オレが魔物を……殺せないからで、その……」
ジュードはそんな自分を情けなく感じ、恥じてさえいるが、メンフィスの言葉や咎めを煩わしいものだと思ったことはない。
慌てたように頭を左右に揺らして、ジュードはメンフィスに告げるのだが、言葉途中に自身に対しての情けなさを感じてか、語尾は次第に小さくなっていく。
カミラは何か声を掛けようとはしたが、メンフィスの雰囲気に余計な口を挟むのは妙に憚られた。
当のメンフィスはと言えば、改めて無言のままジュードを見つめていた。しかし、やがて静かに口を開く。
「…………ジュード。ワシにはな、今のお前と同じくらいの息子がいたんだよ」
「……えっ?」
それは、ジュードもカミラも予想していない告白であった。
静かに視線を丸テーブルへと下ろし、メンフィスは酒瓶をそこへ置く。何処か寂しそうに、そして切なそうに見えるのは恐らく間違いではない。
「八年ほど前になる、王都に魔物の大群が攻め込んできてな。ワシはその時、ちょうど前線基地にいて防衛に戻れなかった」
「……」
「騎士になり立てではあったが、正義感の強い子でな。王都や住民達を守る為に魔物の群れに特攻をかけて……」
八年前と言えば、既に魔物の狂暴化が始まっていた頃だ。
魔物が異常なほど狂暴になり始めたのは、今から約十年ほど前になる。
火の国エンプレスは、特に魔物の狂暴化が早く――そして異常なまでの強さへと変貌していった国でもある。
当時は前線基地が設けられたばかりの頃であり、メンフィスも周囲に何より頼りにされる騎士であった。一軍を任されるメンフィスが個人的な理由で王都に戻ることは許されず、息子の訃報を聞いても、王都に戻れたのはそれから二週間ほど後のことであった。
その時の襲撃で王都の四分の二が破壊され、住民達にも多くの被害が出た。そして、被害者の中にはメンフィスの妻さえも含まれていたのである。
魔物の大群はメンフィスから愛する妻と息子を奪い、多くの人間の命を喰い散らかしたのだ。
メンフィスはテーブルの上でゆったりと両手を組み、何とはなしにそこを見つめながらゆっくりとした口調で語る。ジュードとカミラは何処か痛むような、そんな表情で彼を見守っていた。
「……見つかった遺体は、五体不満足でな。腹は抉られ、両腕と片足がなかった。腹を空かした魔物に喰い荒らされたんだろう」
「……メンフィスさん……」
ゆっくりとした口調で語られる内容は、決して穏やかなものではない。
実際にその光景を目の当たりにした時のメンフィスの絶望や痛み、悲しみなど想像も出来ないほどである。
ジュードも、そしてカミラも――メンフィスになんと声を掛ければ良いのか分からなかった。
メンフィスは静かにジュードに視線を戻すと、軽く眉を寄せて再度口を開く。
「ジュード、ワシは恐ろしいんだよ。お前が傷付く度に、あの子の死が頭を過ぎる。お前もあの子のように、魔物に殺されてしまうのではないかと」
その話を聞いて、ジュードもカミラも理解した。
なぜメンフィスが、魔物を殺せないジュードに特に口喧しく咎めを向けるのか。
そして、防具を付けるのは好まないと言ったジュードに、なぜ屋敷でああも怒鳴ったのか。
全ては、彼の身を案じてのことだったのである。自分が嘗て失った愛する息子をジュードに重ね、心から心配してくれていたのだ。
どれだけ咎めようが怒ろうが、メンフィスはジュードにはいつも優しかった。怪我をすれば咎めはしても、心配そうに傷口を見つめて優しい動作で手当てを施してくれる。グラムと同じく、まるで実の親のように。
ジュードは初めて耳にした彼の過去と、これまでの自分自身の失態に胸が痛くなった。
そんな彼の心情を知ってか知らずか、メンフィスは咎めるものではなく――穏やかな口調で再度ジュードへ言葉を向ける。
「……ジュード、自分を大切にしておくれ。お前が死んで悲しむ者は大勢いるが、喜ぶ者など……誰もおらんのだぞ」
「……はい、メンフィスさん……」
メンフィスは一度、言葉途中にカミラを見遣る。彼女もまた、ジュードに万が一があった際に涙を流す者の一人なのだ。
ジュードは膝の上で拳を握り、そして俯く。メンフィスはそんな彼を眺めて緩く双眸を細めると、酒瓶を片手に静かに立ち上がった。
先程まではどうにも危なっかしい足取りではあったが、取り敢えず酔いはある程度落ち着いたらしい。完全ではないが、ゆっくりとであれば歩けるようだ。千鳥足にはなっていない。
メンフィスはそのまま数歩足を進めて休憩所を離れ、肩越しに振り返る。
「ワシは、そろそろ宿に戻って休ませてもらうよ。お前達も、あまり遅くならんようにな」
それ以上、メンフィスは何も言わなかった。落ち着いた足取りでゆっくりと人の輪の中に紛れ、消えていく。
カミラは暫しメンフィスの背を眺め見送っていたが、ややあってからジュードに目を向けた。
魔物との戦いや命を奪わねばならない現実を考えてか、はたまた単純に自己嫌悪かは定かではないが、ジュードは俯いたままだ。
カミラは暫しの逡巡の末に立ち上がると、椅子を両手で抱えてジュードの隣に置く。そうして改めてそこに腰掛けた。隣からそっとジュードの様子を窺う。彼のその横顔は痛みに耐えるように歪んでいた、眉を寄せて唇を引き結んでいる。
余計な言葉を掛けてもいいのか否か、カミラは改めて思案の間を要してから、そっとジュードに声を掛けた。
「……ジュード、わたしね、優しいジュードが大好きよ」
「……え?」
「ジュードは魔物の命を奪うことを躊躇える優しい人だもの、突然変わろうとしないで……いいと思うの」
真横から掛かった言葉に、ジュードは思わず顔を上げる。そして隣で懸命に言葉を連ねるカミラの方を向いた。
その表情は何処か必死で、胸の内側がほんのり熱くなる感覚にジュードは目を細める。考えなくても、彼女が自分を心配し、そして思ってくれているのだとは容易に理解出来た。
ジュードは静かに視線を正面に戻すと、暫しの沈黙の後にカミラへ問いを投げ掛ける。
「……カミラさんはさ、何を思って魔物と戦ってるの? 魔物と戦うの……命を奪うの、怖くない?」
「わたしは……魔族との戦いで、これでも少しは戦いに慣れてるから……」
「魔族……」
カミラは、ヴェリア大陸から来た少女である。
彼女が言うようにヴェリア大陸に魔族が現れたのであれば、これまでに戦闘を行った経験があるのも頷けた。ジュードはその単語を復唱して呟き、また一度視線を下げる。
自分が守らねばならないと思ったカミラは、自分よりもずっとしっかりしている。そう思うと打ちのめされるような、そんな感覚をジュードは確かに覚えた。
知れば知るほど、カミラはいつもジュードの予想の遥か先を行く。淑やかな箱入り娘かと思えば、剣を持って戦えるヴェリア大陸からの来訪者であったり。か弱いのかと思いきや、根はしっかりしている少女だったり。
彼女を知れば知るだけ、ジュードは不思議なほどに惹かれていく。
彼の横顔を眺めて、カミラは同じようにそっと視線を下げた。
「……ジュードには話したよね、わたしが大好きな王子さまのお話」
「うん、ヴェリアの第二王子様の話だよね」
「そう。わたしね、あの人がどこかで生きてるんじゃないかって……ずっと信じてきたの。だから、わたしが強くなって一匹でも多くの魔族を倒せば、あの人に危険が迫る可能性が、ほんの僅かにでも減ってくれるんじゃないかって……」
静かに語られていく言葉に、ジュードは話の腰を折るようなこともせず聞き入る。
ジュードにとって「魔族」と言うものは何処までも遠い世界の生き物であり、架空に近い存在だとも思っていたのである。
しかし、現実にカミラはその魔族と刃を交えてきたのだ。それを理解して、ようやくジュードにも現実味を感じることが出来た。
メンフィスと同じように、カミラも愛する者を失った身だ。だからこそ、ジュードは余計に自分が情けなく感じられる。
ジュードは余計な言葉を向けることはせず、カミラが紡ぐ先を待った。
「あの人は勇者さまの血を引いているんだもの、生きていればきっと魔族はあの人の命を狙うと思って。わたし、あの人を守りたくて……それで、剣を持つ道を選んだの。まだまだ未熟だけど……」
「……カミラさん」
「怖いとは思ったけれど、でも……誰かがやらなければいけないことだから。わたしがやらなかったら、別の誰かが同じように怖い想いをすることになるから……」
「――――!」
胸の前で手を合わせしっかりと呟くカミラの言葉に、ジュードは思わず息を呑んで目を見開いた。彼女の決意の固さ、想いの深さに驚いた――と言うのはもちろんなのだが、カミラが口にした言葉に対してだ。
自分がやらなければ、別の誰かが同じような思いをする。
その言葉はジュードの胸に強く、そして深く突き刺さった。
ジュードが魔物にトドメを刺せない以上、誰かが――仲間がそれをしなければならないのだ。実際に、今もメンフィスやウィルが主にその役目を担っている。
誰も好きで命を奪ったりはしたくないだろう。しかし、ジュードが出来ないからこそ誰かが、その仲間がやらなければならないのである。
今のジュードは、自分がしたくないことを大切な仲間に押し付けているのだ。それは『逃げ』とも言えた。
先程よりも深く俯いてしまったジュードに、カミラはおろおろと慌て始める。
「ジュ、ジュード、ジュード?」
余計に落ち込ませてしまったのかとカミラは眉尻を下げ、必死になっていた。軽く上体を前に倒しジュードの様子や表情を窺い、困り果てたような表情を浮かべている。
しかし、ジュードは別に更に落ち込んでしまった訳ではなかった。
自分の不甲斐なさを痛感したと言えばした、情けなさに胸が痛む感覚もある。
だが、ようやく目の前の霧が晴れた、そんな感覚を一番強く感じていた。
ジュードは顔を上げると、勢い良くカミラに向き直る。
「――カミラさん!」
「はっ、はひっ」
――恐らくは「はい」と返事をしたかったのだと思われる。上擦った声を洩らして肩を跳ねさせるカミラに、ジュードは一度双眸を丸くする。
それでも、深く追求はせずに真剣な眼差しを彼女へ向けた。
カミラは胸の前でキツく両手を合わせて、緊張からか妙なほどに高鳴る心音を意識しながらジュードを見つめ返す。
「……ごめんね、それと……ありがとう」
「えっ?」
「簡単なことだったんだよな……簡単だけど、とても大事なこと……なんで今まで気付かなかったのか……」
静かに目を伏せて呟くジュードに、カミラは小首を傾けて疑問符を浮かべる。
ここ最近感じていた胸の痞えのようなものが取れた、ジュードは確かにそう感じていた。
要は甘えだったのである。自分がしたくないことを仲間に押し付けてしまっていたのだ。ようやくそれに気付けた。
伏せていた目を開き、真っ直ぐにカミラを見つめてそっと笑う。
「ありがとう、カミラさん」
「?」
なぜ礼を言われるのか、カミラには分かっていないらしい。その理由を告げることなく、ジュードは椅子から立ち上がると、拳を握り締めた。
そんなジュードを見つめて、やはりカミラは不思議そうに頻りに首を捻る。
「カミラさん、オレちゃんと変わるよ。メンフィスさんにも、もう心配掛けたりしないように」
「う、うん。でも……」
「大丈夫、無理はしないから」
何処までも心配そうなカミラに、ジュードは小さく頭を横に揺らしてそう告げる。それでもカミラは暫し心配そうにしていたが、ややあってからそっと笑った。
メンフィスにもウィルにも、マナにも――そしてカミラにも。自分はずっと大切な仲間に守られてばかりいたのだと、ジュードは思う。
だが、気付いたからには仲間の優しさにこれからも甘える訳にはいかない。もっと強くならなければと、しっかりと決意を固めた。
そして、ジュードはいつもしているように、そっとカミラに片手を差し出す。
「……そろそろ戻ろうか。明日は水の国に入るし、よく休んでおかないとね」
「うん。わたし、今日はとても楽しい夢が見れそう」
カミラは微笑んだまま、差し出されるその手を取り立ち上がった。
彼女にとって色々と心配はあるが、それでも無理はしないと言う彼の言葉を信じようと思ったのだ。自分の言葉が何かジュードの助けになれたのなら、とカミラは幸せそうに笑った。
ジュードとカミラは互いに手を取り、祭り会場へと背中を向けて宿へと戻っていった。