第三十八話・最後の贈り物
「く、うぅ……ッ!」
「リンファ、大丈夫なの!?」
「わ、私なら問題ありません、この程度……」
頭上から振り下ろされる五指の鋭利な爪を見てリンファは後方に飛び退いたが、それはわずかに間に合わなかった。眼前にかざした腕を斬り裂かれる痛みに彼女の表情には苦痛が滲み、軽くよろける。肉が裂けてしとどに溢れ出る血の感覚が、なんとも言えず気持ち悪い。
ルルーナはそんな彼女の傍らに駆け寄ると、その傷の具合を窺った。
「なに言ってるのよ、アンタ馬鹿じゃないの!? こんな腕で……!」
「ウィル様に……ウィル様にやらせるわけにはいかないのです……!」
回避しようと後ろに飛んだことで直撃は免れたが、その傷は決して浅くはない。先ほどから最前線で交戦していた身だ、既に腕だけでなくあちらこちらがボロボロだった。
だが、リンファは珍しく今にも泣き出しそうな顔でそう訴えると、再び短刀を握り締める。ルルーナはそんな彼女に軽く口唇を噛み、複雑な面持ちでウィルと――彼と交戦するシルヴァへと視線を投げた。
マナは詠唱こそしていたものの、すぐに構えていた杖を下ろす。
シルヴァと交戦するウィルは互いに距離が近い。オマケにシルヴァは動きが速く、ウィルが距離を取ったところでほとんど意味がないのだ。これでは、彼女が魔法を使えばウィルを巻き込んでしまう。
代わりに一拍遅れてルルーナの傍らに足を向けると、視線はウィルに合わせたまま複雑な面持ちで呟いた。
「……でも、ウィルはきっとリンファにそんなこと望んでないわ」
「え……?」
「ウィルはシルヴァさんのこと、すごく大事に想ってたけど……リンファのことは妹のように思ってるのよ。そんなリンファの手を汚させるような真似、させるわけないじゃない」
マナのその言葉に、リンファは思わず双眸を見開いた。
ウィルは幼い頃に妹と両親を亡くした身、師匠でありながら母のように慕っていたシルヴァを彼の手で殺すことを――リンファはどうしてもさせたくなかったのだ。
しかし、ウィルとしても恐らく同じ想いなのだろう。仲間に、妹のように思うリンファに仲間殺しなどさせたくないと。
「ガアアァッ!!」
「ぐううっ……! 相変わらず、重い……ッ!」
シルヴァと交戦するウィルは、矢継ぎ早に繰り出される爪による攻撃に歯噛みしていた。
元々「烈風の騎士」と言われていただけあってシルヴァの攻撃は非常に速かったが、今の彼女の攻撃は人間のそれではなく、まるで野生の獣のような獰猛さをありありと醸し出している。
だが、リンファと共に交戦してきたお陰でシルヴァ自身は弱ってきていた。今なら一瞬の隙を突けば――恐らく倒せるだろう。彼が持つ神槍ゲイボルグはそれほどの威力を持っている。
『君は年長だそうだな、色々と背負い込み過ぎているように見える』
『まずは、自分の身を最優先にしなさい。誰かを守りたいと思うのであれば、まずは自分が元気でなければならない。……君を見ていると心配になるよ』
これまで、シルヴァと交わしてきた言葉がウィルの頭の中に次々に浮かんできた。
彼女はいつでも、母親のようにウィルや仲間たちを見守っていてくれた存在だ。ジュードの頼りなさを指摘することはあったが、それも彼の身を案じてのこと。
幼い頃に亡くした母を、彼女に重ねていた。そんな彼女を殺さなければならない、考えるだけで気が狂いそうだ。
「――ウィル!!」
利き手に構えた槍がふと下がるのを見て、マナは思わず声を上げた。まさか、やはり殺せないと諦めたのではないかと思って。
シルヴァは両手を突き出し、突進してくる。ウィルの首元に咬みつこうというのだ。
けれどもウィルは構えを解いたまま、利き手に持つ槍の切っ先を前に突き出すのみに留めた。前から勢いよく突進してくるのだから、それだけで充分――充分すぎた。
アンデット化したせいで知能はなくなったか、程なくしてシルヴァの身は勢いよくゲイボルグに突き刺さる。その口からは苦しげな呻き声が洩れ、それでも血肉を求めて両腕を泳ぐように動かし続けた。
「シルヴァさん……俺は、駄目な弟子だったかもしれないけど、幸せでした。でも…………本当は、もっと色々なことを……教えてもらいたかったです……」
今にも消え入りそうなウィルのその言葉が彼女に届いたかどうかは定かではない。
神器に貫かれたためか、その刹那――シルヴァは改めて苦しそうな声を洩らすと、浄化されるかのようにその身は光に包まれて消えてしまった。まるで風に溶けてしまったかのように。
ルルーナはそっと目を伏せて顔を背け、リンファは力なく項垂れる。マナは――泣き出しそうな表情で、それでも心配そうにウィルを見つめていた。
ウィルは固く神槍を握り締めると、次々に溢れてくる涙を拭うこともせずに俯く。油断すれば、嗚咽が洩れてしまいそうだと思った。
だが、そんな彼らの元にひとつ緩やかな風が吹きつける。その風に乗って「ありがとう」と――そんな優しい声が聞こえた気がした。
* * *
『ジュード、大丈夫か?』
「げほッ……げほっ……そ、れはこっちの台詞ですよ……! ジェントさん、その身体……っ!」
『問題ない、それよりジュード……すまなかった、大事なことを忘れていたな』
「え?」
ジュードの身は血にまみれていた、アグレアスの強烈な一撃を胸で受けた際に深く裂傷が刻まれていたのだ。彼が起き上がれなかったのは戦意を喪失したのではなく、この怪我によるものだと思われる。ちびは、そんな彼の傍らで心配そうにか細く鳴いている。
それでも必死に立ち上がろうとする様を見て、ジェントは申し訳なさそうにその表情を曇らせた。けれども、ジュードを驚かせたのはジェントのその状態だ。
左肩から先が完全に消え失せ、あちらこちらが消滅してしまっている。魂だからいいようなものの、これが血の通った生身の身体であったら――そう思うとゾッとした。
『ずっと気にかかってはいたんだ、聖剣の力はまだ完全ではないような……そんな気がしていた。それがやっとわかった』
「完全では、ない……?」
『聖剣エクスカリバーは、世界を変えたいという俺の願いを叶えるために形を成したもの……エクスカリバーにとっての主は、今もまだ俺のままなんだ』
ジェントのその言葉に、ジュードは痛みも忘れたように翡翠色の双眸を丸くさせた。
彼の頭で果たして理解できるかどうか――それが心配になったが、そうしなければ現状は打破できない。
「オ、オレじゃ聖剣は使えないってこと……ですか?」
『そうじゃない、聖剣は君を継承者として認めている。だから、君が教えてやるんだ。聖剣を使って、なにを成したいのかを』
「オレが、教える……?」
『俺は当時、この世界を守りたいと思ったことはない。むしろ壊したくて、変えたくて仕方がなかった。だが、君はそうじゃないだろう』
世界を守りたいと思ったことはない――伝説の勇者として崇められる彼が口にしていい言葉ではないような気はするのだが、彼が生きていた時代は今よりも遥かにひどかったとジュードは聞いている。彼がどのような境遇であったのかも。
ジェントはそんな世界を「変えたい」と聖剣に願い、エクスカリバーが顕現した。
しかし、彼の言うようにジュードの願いは真逆だ。ジュードはこの世界を「守りたい」と願っている。
『その力でなにを成したいのか、どう使いたいのか……君の純粋な願いを聖剣に教えてやるんだ。そうすれば、聖剣は君だけの新しい剣となって生まれ変わる』
つまり、守りたいと願いながら、変えたいという願いが込められた聖剣を振り回していたことになる。明らかな矛盾だ。相反する願いに挟まれて、聖剣はさぞかし戸惑ったはずだ。
聖剣エクスカリバーがジェントの願いを聞き届けて誕生した剣であるのなら、ジュードが新たに願えば聖剣は再びその形状を変え――ジュードだけの剣として誕生する。そういうことだろう。
「(オレだけの、新しい剣……)」
ジュードは、己の手にある折れたままの聖剣を見つめた。折れてからというものすっかり輝きを失ってしまっていたのだが、ジェントが傍にいるためか今はほんのりと光を纏っている。
折れてしまった聖剣を握る手を己の胸前に添えると、心の中で願いを託す。ジュードの中にある願いは、たったひとつだけだ。
世界を、自分にとっての大事な人たちを守りたい――ただ、それだけ。
「――勇者さまッ!!」
しかし、ジュードが聖剣にその願いを託した直後。
こちらに注意が向かぬよう、アグレアスの相手をしてくれていたクリフが叫んだ。
その声にジュードは弾かれたようにそちらに目を向けようとしたのだが、なぜ彼が声を上げたのかはすぐに理解できた。
「あ……」
傍で見守っていたジェントの背後――そこに、意識が回復したと見えるメルディーヌがいたからだ。
否、ただいただけではない。
砕けたソウルキャッセの破片を手に持ち、その破片の切っ先を彼の背後から突き刺していたのである。
「どこ見てやがるんだ! ええッ!?」
「ぐっ!」
「きゃあぁッ!」
注意の逸れたクリフとカミラを見て、アグレアスは口角を引き上げると一息に彼らの身を薙ぎ払った。
渾身の力を込めて振り払われた大剣を受け止めきることができず、クリフとカミラは圧倒的な剛腕に払われ、大きく吹き飛んだ。
クリフは辛うじて盾で身を守ることはできたようだが、カミラの身には大きな裂傷が走った。地面を何回か転がってようやく止まった彼女は腹部を斬り裂かれ、苦しげな咳が洩れる。ライオットは慌ててカミラの傍らに駆け寄っていく。
「俺の相手をしながらよそ見とは、感心せんな。まァ……そうでなくとも、貴様らでは俺の相手になどならんかったか――ガハハハハ!!」
「お、お嬢ちゃん……」
「おっ? なんだなんだ、まだ立てるのか? フフフ、なかなか楽しませてくれるようじゃないか」
クリフは攻撃を防ぎ過ぎて満足に力が入らなくなってきている両腕を必死に動かし、それでも武器と盾を手に立ち上がった。ただでさえ相性が悪い相手、彼の身はボロボロだ。
「ヒャハっ、ヒャハハハハ! 死ねッ、死ね死ね死ねええええぇ!!」
メルディーヌは狂ったような高笑いを上げながら、突き刺した刃をそのまま真横に薙ぎ払う。すると、ジェントは苦しそうな呻き声を洩らして吹き飛んだ。
ちびは眼を煌々と輝かせながらそんなメルディーヌに飛びかかり、ジュードは数拍遅れてからジェントの傍らへと屈み込む。
ジェント、カミラ――二人はもう重傷だ、ライオットがカミラの治療をしてくれているようだが、ジェントはどうすればよいのか。
悲しいのか腹立たしいのか、既にジュードの頭の中はいっぱいで混乱してしまっている。
「ジェントさん……ッ!」
『……そんな顔を、するな……ほら、受け取れ……』
彼の身は――既に半透明になりつつあった。うっかりよそ見でもしていたら、そのまま空気に溶けて消えてしまいそうなほどに儚い。
触れることもできないために、抱き起こして様子を窺うことさえできない。ジュードが泣きそうに顔を歪めると、そんな彼を見てジェントはそっと笑い、緩く握った片手を眼前へと差し出してきた。
静かに開かれたその手の平には、眩い輝きを放つ緑色の光が鎮座している。
「こ……これ……」
『シルフィードの、力だ……恐らくこれで……君にかけられた能力封印の呪いは、解ける……』
「えっ……」
能力封印の呪いが解ける――その言葉に、ジュードは思わず目を丸くさせた。
彼が言っている呪いは地の国に訪れた際にかけられたものだろうが、もし本当に呪いが解けるというのであれば――ジュードが持つ交信能力が再び目覚めることになる。それは今後の戦いで非常に大きな力になってくれるはずだ。
『君に力を与える度に……神柱たちが、その呪いを突き破ろうとしているのが……わかった』
「……!」
『さあ……これが、俺が君に贈れる……最期、の……』
ジュードは慌てて片手を差し出すと、ぽろりと零れ落ちてきた緑の輝きを受け取った。
すると、その途端――これまでと同じようにジュードの身は眩い光に包まれ、その場に居合わせる仲間たちが緑色の輝きに覆われる。
けれども、今のジュードにはそれに構っているだけの余裕はない。
「ジェントさん……! 身体が、どんどん消えて……っ!」
『ふふ……そんな顔をするなと、言っただろう……大丈夫、君なら……できるさ……』
それが、最後の言葉だった。
いつも過分なほどに褒めてくれたのと同様に、その言葉だけを残して――ジェントの姿は完全に消えてしまったのだ。
メルディーヌはそれを確認して改めて狂ったように、しかし嬉しそうに笑い声を張り上げ――ジュードは、己の中でなにかが切れるような錯覚を覚えた。
「……うあああああぁッ!!」
その刹那、獣のような叫びを上げると、ジュードの手にある聖剣の残骸が応えるかのように力強く光り輝き――彼の身を中心に天まで届く巨大な光の柱を出現させた。その柱は見る見るうちに規模を増し、瞬く間に都全体へと広がりを見せる。
辺り一面が真っ白で、誰がどこにいるのかさえわからないような状態だ。にもかかわらずジュードは静かに立ち上がると、迷うこともなく駆け出した。




