第一話・風の国の少年
嘗て、この世には魔界へと通じる扉があった。
その扉からは『魔族』と呼ばれる恐ろしい生き物が現れ、この世に様々な災いを齎した。
魔族は群れを成し、この世に住まう人間達を次々と襲い、そして殺していった。
人々は魔族を恐れ、絶望し、誰にともなく助けを求めた。
そんな人間達に憐みを感じた竜の神は一筋の涙を流し、救世主たる一人の青年と、光り輝く剣を授けた。
天から遣わされた青年は神の剣を携え、人間の少女と共に押し寄せる魔族たちと果敢に戦った。
長い戦いの末、青年は魔族の王サタンを倒し、闇に呑まれつつあった世界を救ったのである。
人々は青年を『勇者』と崇め、世界に平和を取り戻した勇者は聖剣を世に残し、天へと還っていった。
「――これが、大昔にあった勇者様と魔族の王サタンの戦いだ。今から約四千年ほど前になる」
そう告げてパタン、と本を閉じた老神父はどこか満ち足りた様子で顔を上げた。だが、その表情もすぐに鳴りを潜め、代わりに重い溜息が零れる。
なぜなら、彼の視界に映るのはいずれも退屈そうな顔をした少年少女たちばかりであったからだ。
わざわざ声に出して言われなくとも、少年たちが何を言いたいのかは神父には分かりきっていた。どうせ「またその話?」というものだろう。恐らく一言一句間違ってはいないと、根拠のない自信さえ持てるほど。
「ねー、ジス神父さまぁ、またその話ー? たまには違うお話が聞きたいよぉ」
「そうだよ~。毎週同じ話ばかり聞かされたらつまんなーい」
「お、お前たちは……どうせそんなところだろうと思ってはおったが……」
子供とはなんとも素直で正直なものだ、各々思ったままの言葉を躊躇いなく吐いてくる。
この場に集まった子供はそのほとんどが六歳から十歳程度の者ばかり、特に容赦がないとも言える。
ジスと呼ばれた老神父は傍らの机に分厚い本を置きまた一つ溜息を零すと、固く拳を握り締めて力説した。
「よいかお前たち! 今ワシらがこうして生きていられるのは、約四千年前に勇者様が世界を救ってくださったからなのだぞ! それをつまらないだの他の話がいいだの……」
「だって四千年前とか言われてもよく分かんないもん」
「そうだよぉ、それに毎週同じ話じゃ飽きて当然じゃん」
「こういつも同じ話じゃ、さすがのジュードだって飽きて――」
どれほど力説しても、どうやら子供たちには届かないようだ。ジス神父と子供たちとの間には決して相容れない温度差がある。矢継ぎ早に向けられる言葉の数々に神父も一度はたじろいだが、一人の少年の言葉にその意識も再び浮上を始める。
少年の言葉に興味を持ったのは神父だけではなかったらしい、その場にいた子供たちも皆一様に少年の視線を辿った。
その視線の先には一目で年長者と分かる少年――否、青年と呼んでも誤りではない年頃の男がいた。
赤茶色の髪を持つこの男は、風貌に未だあどけなさこそ残るものの年頃は十七、十八ほどだろう。この場に集まった子供たちの中では間違いなく一番年上だ。
だと言うのに、彼は子供たちのように飽きたと不平不満を洩らすことなく、むしろ翡翠色の双眸を嬉々に輝かせながら話の続きを待っている。
そんな様を目の当たりにして、話を投げ掛けた少年を始め子供たちは呆れたように深い溜息を吐いた。
「ジュードってほんと勇者さまのお話好きだよね……」
「なにがそんなに楽しいのか教えてほしいよ」
そんな呟きを零す子供たちにようやく気付いたのか、ジュードと呼ばれた男は一度軽く頭を振ると依然として双眸を輝かせながらそちらに視線を向けた。
「なに言ってるんだよ、カッコイイじゃないか! すごいよなぁ、憧れるよなぁ……」
「ジュード、やはりお前はよく分かっている子だ。ワシの話をそんな風に聞いてくれるのはお前だけだよ」
「ジュードはただ勇者バカなだけだって……」
ジス神父も、自分の話を嬉しそうに聞いてくれるジュードに対し至極嬉しそうに表情を輝かせる。目には見えないが、じーんと言う感動の効果音さえ聞こえてきそうなほどの様子で。
子供たちはやれやれと呆れたように、そして諦めたように小さく頭を横に振った。
――ここは世界の西方に位置する風の国ミストラル。
この場所はミストラルにある名もない小さな村の教会だ。ジス神父はこの教会で神父を務めており、学校もない小さな村のため、子供たちに勉強を教える場として教会の一室を教室として提供している。現在は歴史の勉強中なのだが、この通りだ。
子供たちはジス神父の話を「飽きた」と言い、いつも満足に聞こうとしない。――とはいえ、子供たちの言うことも確かに理解は出来るのだが。
ジス神父がいつも歴史の授業で話すのは、いつも決まって約四千年前に起きた人間と魔族の大戦のことだ。
嘗てこの世界は魔族の侵攻に遭い、多くの人間達が命を落とした。魔族の王サタンはこの世界を支配すべく、各地に同胞を放ち人々を蹂躙していたのである。
だがある時、神から遣わされた一人の青年が光り輝く聖剣を手に魔族たちと戦い、そして勝利を治めた。魔族の王サタンは青年により倒され、この世界は魔族の脅威から解放されたのだ。
それがなければ世界は魔族により支配され、人間はこの世に存在していなかったかもしれない。ジス神父はその重要性、その有難みを子供たちに理解してもらいたいと思っているのである。
しかし、子供たちがそれを理解するにはまだ時間が掛かるようだ。
* * *
子供たちが自宅へと帰っていく様子を教会の出入り口で見送り、ジス神父は分厚い本を片手に本日何度目になるか分からない溜息を零した。それはやはりひどく重苦しい。
片付けを手伝っていたジュードはそんな彼の背中を静かに見つめて、軽く眉尻を下げる。
「ねぇ、神父さま。話の続きを聞かせてよ」
ジュードがそう声を掛けると、神父は優しそうな――どこまでも優しそうな表情で彼を振り返った。ゆったりと緩慢な歩調でジュードの傍らまで歩み寄ると「ふふ」と愉快そうな笑い声を洩らして、己の白く長い顎ヒゲをゆったりと撫でる。
「あの子たちも言っていたが……お前は本当に勇者様の話が好きだな、ジュード。まだ十にもならん頃から読み聞かせてきた私が言うのもアレなのだが、よく飽きないものだと思うよ」
「はは、自分でもちょっと思うけどさ……なんか、好きなんだ。いくら聞いても飽きないし、むしろもっともっと色々知りたいと思うよ、なんでかなぁ……」
「他の勉強にももっと熱心であれば、親父さんもお前の知能に頭を悩ませずに済むんだがなぁ」
「う……だ、だって聞いてもよくわからないから嫌なんだよ、勉強って」
ジュードはこの村に住んでいる訳ではなく、村の奥にある山の中に住んでいる少年だ。普段は仕事をしているのだが、材料調達のために村に降りてきた時はこのように教会に顔を出している。
その度にジス神父に勇者の話を聞かせてもらっているため、彼の勇者好きは自然と村全体に広まっていったのである。――もっとも、神父が言うように彼が好きなのは『勇者の話』だけだ。勉強と名の付くものはなによりも嫌いで、脱兎の如く逃げ出すほど。
「まったく……ほら、こっちに来なさい」
ジュードの勉強嫌いを、当然ジス神父は理解している。それはもう痛いほどに。
今更どうこう言って彼が勉強を好きになるとも思えず、神父は特に口うるさく言わないことにしていた。――現状、勉強ができれば将来が安泰ということはない。それどころか学業よりも武術を学んだ方が将来的に重宝されるのが現実である。
今から約十年ほど前、世界の中央大陸にあるヴェリア王国で不気味な光が目撃されてからというもの、世界各地では魔物が狂暴化を始め、人々を襲うようになった。
南方に位置する火の国エンプレスは特に魔物の狂暴化が進んでおり、人々は死と隣り合わせの日々を送っている。それゆえにエンプレスは各地から戦える者を集め、自国の東方――特に凶悪な魔物が出現するエリアに前線基地を設置し、魔物の侵攻を食い止めている状態だ。
そのため、武術に秀でた者は火の国に徴兵されて行くと高い報酬が支払われていた。とはいえ、日々命懸けの戦いである、金に命ほどの価値があるかどうかは人それぞれだ。
教卓の向かいにある椅子に腰を落ち着かせたジュードを真っ直ぐに見つめた末、ジス神父は手に持つ分厚い本を開き静かに呟いた。
「ジュード、ヴェリア王国のことはもちろん覚えたな?」
「うん、勇者さまが魔族の王サタンを倒した後に中央大陸に創った国のことだよね。ヴェリア王国は今も勇者さまの子孫が国を治めてるって父さんが言ってた」
「うむ、そうだ。流石に勇者様に関連したことは覚えがいいな。では、姫巫女様のことは?」
「もちろん覚えてるよ、勇者さまと一緒に魔族と戦った女の人でしょ。正確には、ヴェリア王国は勇者さまと姫巫女さまが創った国なんだっけ」
「ああ、姫巫女様は魔族に対抗出来る強力な光の力を持っていた。二度と魔族が侵攻してこないよう、光の結界を張り魔族の通り道を塞いでくださったのだよ」
ジス神父が語る言葉を聞きながら、ジュードはやはり嬉々に表情を輝かせていく。期待、羨望、憧れなど様々な感情が入り混じった様子だ。
ジュードのように『勇者』と言うものに憧れを持つ者は少なからず存在はするが、それは大体が彼よりも随分と幼い少年ばかり。十七、十八歳ほどになる彼がこのように勇者に対する憧れを強く持っているのは極めて珍しいことなのだ。
昔は勇者に憧れていても、歳を重ねて現実を見るようになる者がほとんど。彼が純粋なのか、それとも何かしら理由があるのか――神父はずっと気になっていたのだが、特に深く聞こうとは思わない。なぜなら、聞いても返ってくるのは決まって同じ答えであったからだ。
「ジュード、いつも思うがお前はなぜ勇者様の話が好きなのだ?」
「え? さあ……自分でもよくわからないけど、なんか好きなんだよ。憧れみたいな感じかなぁ……」
――これだ。ジュードがなぜ勇者の話を好むのか、それは彼本人にも正確な答えが分からないのである。
恐らくは漠然とした純粋な憧れなのだろう、ジュードは曲がったことが嫌いで正義感が強い少年だ。勇者という世界を救った救世主に対しての憧れから、特にこの物語を好んでいるものと思われる。
そこまで考えて、ふとジス神父は窓から外を見遣った。まだ外は明るいものの徐々に陽は傾き始め、辺りを薄らと橙色に染め上げていく。
「……ところでジュード、お前さん帰らなくても大丈夫なのか? 今日は食糧調達のついでに村に来たのでは……」
「――あっ! いっけね、またマナにどやされる!」
「はっはっは、まったくお前は……帰り道は気をつけるんだぞ、親父さんにも宜しくな」
ジス神父の問いにジュードは翡翠色の双眸を見開くと、弾かれたように窓へと視線を投げかけ、そして慌てて立ち上がった。
彼が住んでいるのは村の奥に続く山の中だ、距離的にはあまりないが道中魔物に遭遇する可能性は否定できない。それを考えると陽が暮れてしまう前に帰路につくのが得策だ。
慌ただしく席を立ち、部屋の隅に置いたままだった荷物を拾い上げて背負うジュードを見守りながら、ジス神父は苦笑いを滲ませた。
「うん、わかった。それじゃあ神父さま、また来るね!」
「ああ、慌てすぎて転ぶんじゃないぞ」
文字通り慌てたように教会を出て行くジュードの背を見送り、ジス神父はそっと小さく吐息を洩らす。それは溜息というよりは安堵に近いものだ。
まるで嵐のようだと苦笑いを浮かべながら、神父は暫しの間ジュードが出て行った扉を見つめていた。
「……あの子がこの村に来るようになって、もう十年か。早いものだな……」
ジス神父のその言葉は当然ジュードの耳に届くことはなかったが、彼も、そしてジュードもまだ知らない。
――徐々に、だが確実に動き始める運命に巻き込まれていくことを。