第七話・明かされた記憶
ジュードの声が聞こえなくなったことに、アルシエルとネレイナは上機嫌にその顔に笑みを滲ませた。呆気ない――そう言いたげに。
これで世界は自分たちのものになる。そう確信してアルシエルは身体ごとサタンに向き直り、緩く眦を和らげた。サタンの身は依然として元の姿形へ再生出来ずにいるが、ジュードは勇者の血を引く光の民。それを喰らえば徐々に再生も出来るだろう。現在その身の再生を阻んでいるのは、あくまでも勇者が使っていた聖剣の光の魔力なのだから。
しかし、その時。
不意に凝縮された魔力の塊が、幾つも彼らの元に飛んできたのだ。
アルシエルとネレイナは咄嗟にそちらに向き直るが、その内の数発が彼らの間をすり抜けてサタンの腹に直撃した。
「――何事だ!?」
彼らが振り返った先には、テルメースが立っていた。美しい風貌を鬼のように変貌させ、抑え切れない怒りを滲ませている。
アルシエルとネレイナは応戦すべく身構えるが、それよりも先にテルメースが再び動いた。改めて魔力の塊を己の周囲に出現させると、躊躇もなく飛ばしたのだ。
アルシエルを守ろうと近くにいたグレムリンたちが間に割り込むが、放たれた魔力の塊が勢い良くぶつかると、その身をいとも容易く貫通した。
「くッ! なんという威力なのだ……!?」
「私の……私のジュードを返してええぇッ!!」
幾つものそれは、アルシエルやネレイナの身をも打った。
ネレイナは直撃する寸前に魔法の威力を軽減させる防御壁を張り巡らせたことで身を守ることには成功したが、完全とはいかない。その勢いまでをも和らげることは出来なかった。
アルシエルとネレイナの身は大きく弾き飛ばされ、それを確認したテルメースは休む間もなく第二波を放つ。
「サタン様ッ!」
無数の魔法弾がサタンの身に直撃すると、サタンは苦悶の声を洩らして呑み込んだばかりのジュードの身を吐き出した。テルメースは慌てて愛息子の元に駆け寄ると、その場に屈んで両腕でしっかりとジュードを抱き上げる。
彼の身にはねっとりとした粘液が付着しており、目は固く伏せられていた。死んでいるのでは、とテルメースは目を見張ったものの、辛うじて息はあるようだ。気を失っているだけだろう。
「く、ぅ……ッ! やってくれたわね、王妃様……その子をこちらに渡しなさい、そうすればあなたの命だけは助けてあげる……」
「お断りするわ、魔族に魂を売ってしまうような者に誰が渡すものですか……!」
「アルシエル、あの女を捕まえて! 逃げるつもりよ!」
ゆっくりと身を起こしたネレイナは極力穏やかな口調で要求を向けたのだが、テルメースがそれを呑む筈がない。考えるような間も置かず返る返答に、ネレイナの美しい風貌も歪んだ。
テルメースは静かにその場に立ち上がり、片腕にジュードの身を抱いたまま逆手の指先を宙に滑らせる。それを見てネレイナは咄嗟に声を上げ、アルシエルは屈んだまま利き手を突き出して五指から業火を出現させると、お返しとばかりにレーザー砲の如く飛ばした。
しかし、それがテルメースの身を捉えることはない。火炎弾が直撃する前に――彼女の身が空気に溶けるように消えてしまったからだ。
「おのれ、あの女……逃げたか! 貴様ら、あの女を探せ! 決して逃がすなッ!」
それは、テルメースが使った転移魔法だ。
アルシエルは忌々しそうに舌を打つと、己の周囲にいたグレムリンや部下に怒鳴るように命令を下した。そして己はサタンの傍らに駆け寄ると、その具合を窺う。
あの魔法弾の威力は凄まじく、アルシエルの身体にも確かなダメージを与えてきた。恐ろしいほどの威力である。サタンの身も――テルメースの放った魔法弾により負傷している。
魔法が直撃しただろう患部を見下ろして、アルシエルは奥歯を噛み締めた。
テルメースが転移した先、そこは竜の神が住まうと言われる神の山。
頂上にやってきたテルメースは、辺りを見回して表情を顰める。竜の神が住むと言われてはいるものの、彼女の双眸はその姿を捉えることは叶わなかったのだ。
ヴェリアはもう終わりだ、夫のジュリアスでもあれだけの魔族を防ぎ切れるかどうか。ヘルメスやエクレールのことも気掛かりだが、とにかくジュードだけでも安全な場所に逃がさなくては――彼女の頭を占めているのは、そのことだけだった。
テルメースは泣き出しそうな顔で天を仰ぐと、思いのままに声を上げる。
「……っ、神よ、竜の神よ! どうかお願いです、この子を助けてください!」
この山の頂上は、雲とほぼ同じ――標高が高いのだ。
当然、それほどの高さであれば酸素も薄い。一つ叫ぶだけで息が上がってしまう。
それでもテルメースは必死に声を上げ続けた。己の腕に抱く我が子を助けたい、その一心で。
「お願い、お願いします……っ! この子を、この子だけでも、助けて……!」
絞り出すように告げたその時――雲よりも更に高い上空からゆっくりと竜が舞い降りてきたのだ。
蒼い鱗に覆われたその巨体は、蒼き竜の神ヴァリトラに間違いはない。
ヴァリトラはテルメースの目の前にゆっくり降り立つと、黄金色の双眸を以て彼女を見下ろす。それを見上げてテルメースは涙を溢れさせながら、様々な感情が入り混じる複雑な表情を滲ませた。
安堵、嬉々、罪悪感――幾つもの感情が彼女の中で渦を巻く。
「……ごめんなさい、全てを投げ出した私が助けを乞うなんて調子が良いと思います。でも、でも……お願いです、お願いします。どうかこの子を……争いのない平和な場所に連れて行ってください!」
テルメースはその場に座り込むと、片腕にジュードを抱いたまま深々と頭を下げた。
彼女は自分の役目を放棄して逃げ出した身だ、本来ならば神に頼み事をする資格はない。そう思っている。逃げ出したくせに調子が良いと。
しかし、どうしてもジュードのことだけは助けたかった。助かるかもしれない命を、自分の所為で潰させるなど冗談ではなかったのだ。
どんな叱責を受けても構わない、望むなら神にこの命を差し出しても良いから息子だけは助けたいと。
「――お前のその願い、確かに引き受けた」
けれども、ヴァリトラから返ったのはそんな了承の言葉であった。
テルメースは思わず顔を上げ、涙を拭うことさえ忘れたようにヴァリトラの巨体を見上げる。そしてゆっくりと差し出された大きな手に、震える腕でそっとジュードの身を横たえた。
「お前は共に往かなくて良いのか?」
「私は……ヘルメスやエクレールを探さねばなりません、それに王妃として……王をお助けせねば」
「……分かった、この子は我が必ず守ろう」
ヴァリトラから向けられる返答に、テルメースはようやく笑みを浮かべる。しかし、それでも止まらぬ涙に、その表情は笑顔と言うより、ただの泣き笑いにしかならなかった。
そして羽織る外套の下から一つの美しい腕輪を取り出すと、祈るように両手でそっと握る。それは彼女が身に付けていた金色の腕輪だ。己の髪を留める髪飾りを外し、金具部分で腕輪の内側に何かしらの文字を刻んでから眠るジュードの手に握らせた。
彼女の目からはポタリポタリと涙が次々に零れては、山の地面を濡らしていく。
「ジュード……一緒に行けなくて、ごめんね。本当ならあなたが成人した時に、もっと立派なものを造ってあげたかったわ。この腕輪……お母さんだと思って、大事にしてね……」
眠るジュードにそっと頬を寄せると、また一つ涙が零れた。
子供らしく丸いジュードの頬を手の平で優しく撫で付けて、テルメースは口唇を噛み締めながら静かに身を離す。出来ることなら傍にいたい、共にも行きたい。
だが、ヘルメスやエクレールがどうなったか、ジュリアスは今も戦っているのか。他の家族のこと、そして民のことを考えると自分が逃げ出すなど出来る筈もなかったのである。
ヴァリトラはそんな彼女を小さく唸りながら見下ろしていたが、軈て両翼を羽ばたかせて天高く飛び上がった。その手には、彼女に託されたジュードを抱いて。
「う……ううぅ、うッ……ジュード、私の……どうか、争いのない場所で、幸せに……ッうああああぁっ!!」
テルメースの願いを聞き届け、ジュードを連れたヴァリトラは空へと舞い上がる。
つい少し前までは幸せだった日常、確かにこの手にあった愛息子の温もり。しかし、それはもう手の届かないところへ行ってしまったのだ。
テルメースは溢れ出る悲しみのまま、大声を張り上げて泣いた。
しかし、上空へ飛び立ったヴァリトラを待っていたのは平穏ではない。
神の山から飛び立つ様を見たアルシエルが、竜の神を殺せと部下を寄越していたのだ。空へ舞い上がってすぐのこと、ヴァリトラは上空で――優に百は超えるほどの魔族の大群に囲まれた。
それらはただのグレムリンではなく、アルシエルの直属の部下も紛れている。グレムリンなど咆哮一つで消し飛ばすことくらい容易だが、その部下たちだけはそうもいかなかった。
ヴァリトラの手にジュードがいることまでは知られていないようだったが、幾ら神と言えど複数の手練れを相手に苦戦を強いられた。
尾を切断され、片翼には鋭利な魔法の槍が幾つも突き刺さり貫通する。
限界近くまで追い込まれ疲弊したヴァリトラは魔族の群れを一掃すべく、最後の力を振り絞って咆哮を上げると共に一つの魔法を放つ。それは世界中を照らすほどの力強い閃光となった。
その光こそ、十年前にヴェリアで目撃された不気味な光だったのだ。
「ぐ、うぅ……この我が、こうまで……子は、王子は無事か……」
弱りきったヴァリトラは、既にフラフラだ。いつ海に墜落してもおかしくはない。
片翼は既に機能のほとんどを失い、動かす度に血が溢れ出す。それでも必死に羽ばたき、軈て一つの国へと行き着いた。
――その場所が、あの風の国ミストラルである。陽気な者が数多く揃うこの国は負の感情に汚染されておらず、世界の中でも特に平和な場所。テルメースの願った通りの国だ。
だが、降りる場所など選べなかった。ヴァリトラにはそのような余裕は既になかったのだ。
半ば墜落するような形で一つの森に墜ちたヴァリトラは、片手でジュードの身を包み込んだまま唸る。辺りには小さくとも魔物の気配。幼いジュードでは、例え弱い魔物が相手であっても喰い殺されてしまうだろう。
そう判断し、動く。震える手で近くの岩を引っ掻いたのである。
すると、岩に刻まれた爪痕からは神の気が放出され、森全体を包み込み始めた。ジュードは――依然として眠ったまま、目を覚ます気配はない。
ヴァリトラはそんな彼に薄く笑うと、ジュードの身を地面に横たえて鼻先を寄せた。
「ふ……すまぬな、許可を取っているだけの余裕は我にはない……お前の中で、暫し休ませてもらうぞ……」
こうしている今も、ヴァリトラの身に刻まれた幾つもの傷痕からはダラダラと血が溢れ出している。放っておけば弱り、死んでしまうだろう。
聞こえている筈もないジュードに一方的にそう断りを入れると、ヴァリトラの身は白い光に包まれて小さな光の玉となり、幼い彼の胸の中へと沈んでいった。
そうして今日に至るまで、ヴァリトラはずっとジュードの中で身の傷を癒しながら彼を見守り続けていたのだ。
この後、目を覚ましたジュードは右も左も分からぬ中、漠然とした不安に押し潰されて泣き喚いていたところをグラムに拾われ、彼を父として暮らすことになったのである。