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第六話・奪われた記憶


 過去の記憶の中で、その日(・・・)はやってきた。

 ジュードはいつものようにヘイムダルへ続く森へと向かうべく、母に声を掛けてから勢い良く王城を飛び出したのである。「王子様、お気を付けて」と笑顔で見送ってくれる衛兵に、元気良く手を振りながら挨拶を向けて。

 テルメースが彼の誕生の際に込めた想いは、確かに実っていた。ジュードは多くの民に愛される存在だったのだ。

 王族であるのに気さくで飾らず、勉強はイヤだ嫌いだと王宮専属の教師から逃げ出すことは日常茶飯事。いつも元気で明るく、分け隔てなく接してくれる性格は王族という枠を飛び越えて親しみ易い印象を民に与えていた。


 だが、この日。

 そんな日常は突如として終わりを迎えることとなった。


 王城を飛び出してすぐのこと、ジュードは鳥たちが怯えて上げる叫び声を聞いて立ち止まる。

 なんだろうと空を見上げてみれば、空は黒で覆われようとしていた。

 時刻は昼になる手前、先程まで空は雲一つない快晴で雨雲など存在してはいなかった筈。第一、雨雲は辺りを暗く染めはするものの、空そのものを()一色に染めたりはしない。


「う、うわあああぁ!」

「……!?」


 間もなく、その黒いモノは上空から地上へと急降下してきた。

 人型をしているものの、その背中からは悪魔のような翼が生えている。魔族――グレムリンだ。無数の黒いグレムリンが覆い尽くしているために、空全体が黒に染まっていたのだ。

 突如襲来したグレムリンの大群に城下の住民は逃げ惑い、巡回していた兵士たちもまた狼狽し、都全体が大混乱に包まれた。

 ヴェリア大陸には竜の神が住むとされる神の山がある。ヴァリトラの加護を受けたこの大陸は魔物でさえも大人しく、暴れ回ることはほとんどない。そのため、聖王都もヘイムダルも長年平和が続いていたのだ。


 だが、それが良くなかった。

 平和に慣れた兵士や騎士たちは突然の襲撃に大混乱を引き起こし、応戦さえ満足に出来ずにいた。魔物であればこのような事態にはならないのかもしれないが、相手は知恵を持つ魔族だ。

 グレムリンの群れは兵士たちが態勢を整える前にと、次々に攻撃を繰り出しては鋭利な爪で彼らの身を引き裂いていく。

 ジュードは周囲で繰り広げられる惨劇に呆然と立ち尽くし、ややあってから我に返ると逃げてくる住民たちの避難を手伝おうと駆け出した。

 しかし、そんな時だ。不意に彼の前に一人の女性が立ちはだかったのである。


「う……? おばさん、誰……? 早く逃げないと危ないよ!」


 その女性は、ふらりと気配もなくジュードの前に現れた。とても美しい大人の女性で、このような状況だと言うのに表情には穏やかな――それでいて嬉しそうな笑みを浮かべてジュードを見下ろしてくる。


「ふふ、あなたがジュード君ね? 遠見の術であの人を探していて、こんなに素敵なモノ(・・)を見つけるなんて……」

「……?」


 ジュードは彼女の言葉に怪訝そうな表情を滲ませた。この人は一体何を言ってるんだろう、そう言いたげに。けれども、全身が拒否するかのような不快感を確かに感じる。まるで本能が逃げることを促しているかのようだ。

 その彼女こそ――地の国で会ったルルーナの母親、ネレイナだったのだ。

 そして次の瞬間、彼女の周囲には幾つかの黒い影が集束し、中から数人の魔族が姿を現した。その中にはアルシエルの姿も見える。


「この子供か?」

「そうよ、アルシエル。言っておくけれど、約束は忘れないでちょうだい。世界なんてものはあなたたちにあげる、でもあの人だけはわたくしに――」

「分かっている、心配するな」


 見覚えのない者たちの顔を見上げて、ジュードは不安そうに眉を顰めると静かに数歩後退する。こんなことをしている場合ではない、辺りからは今もまだ住民たちの悲鳴が響いているのだから。

 だが、アルシエルはそんなジュードに気付くと切れ長の双眸を笑みに細めた。その刹那――アルシエルの後方からは無数の黒い蔦のようなものが幾つも伸びてきたのである。


「うわッ!?」


 それらはジュードの小さな身を瞬く間に拘束し、四肢の自由を奪った。

 何度記憶を探ってみても、彼らに関する知識は幼いジュードの中にはない。全くの初対面、何も知らない連中だ。だと言うのに、なぜこんなことをしてくると言うのか。

 アルシエルは口角を引き上げると、邪魔にならぬようにと己の身を脇に除ける。すると、彼のその後方からは不気味な塊が姿を現した。


 あらゆる生き物が混ざり合ったような、非常に不気味な生き物――それがサタンだった。

 魔物にさえフレンドリーに接するジュードですら、その見た目には嫌悪を覚えるほどの造形。到底生き物とは思えないような醜悪な姿をしている。

 言い知れぬ恐怖を幼心に感じて逃れようと身を捩るが、その拘束は僅かにも揺らがなかった。


「な、にするんだよッ! やめろ、離せ!」

「ふふ……ごめんなさいね、ジュード君。あなたに恨みはないのだけど、わたくしたちの願いのためにあなたを頂戴」

「ひ……ッ!?」


 ネレイナは蒼褪めながら身を捩るジュードを見て、形ばかりの謝罪を紡いでから大層愉快そうに笑った。全く悪びれていないことは、その様子から容易に知れる。

 そしてサタンは腹の部分を口のように大きく開くと、拘束したままのジュードをその中に突っ込んだ。文字通り喰ったのだ。

 その中は分厚い粘膜に覆われており、人の口のような形をしていた。だが、足元はブヨブヨと柔らかく舌のようで、全身に感じる生温かさが肌に纏わりついて不快感を刺激する。


「う、あ……ッ、なんだよ、これ……!?」


 けれども、ジュードの身を襲ったのはその不快感ではない。言葉にならないほどの恐怖だった。

 辺りのぬるついた粘膜の中から、細長い触手が幾つも飛び出てきたからだ。無数のそれはジュードの身に巻き付き、キツく――絞め殺すほどの強さでキツく締め上げてくる。

 うねうねと動くその様は、まるで無数のヘビに絡まれているような錯覚を与えてきた。

 だが、その気持ち悪さに思わず「誰か助けて」と思った時――不意に何かが抜け落ちるような感覚をジュードは確かに覚えたのである。


「え……え、あ……?」


 頭に浮かんだのは、よく顔を合わせる馴染みの兵士や騎士たちの顔。

 しかし、その顔は瞬く間にジュードの頭の中から消え去ってしまった。意識を他に取られたのではない、文字通り消えた(・・・)のだ。

 今、自分は誰を思っていたのだろう。そう考えても、つい今し方頭に浮かんだ筈の顔も名前も出てはこなかった。

 それだけではない、こうしている今も――ジュードの頭からは様々なものが消えていく。

 見知った兵士や騎士、侍女や街の住民、ヘイムダルの民。本当に多くのものが。


「う……うあ、ぁ……ッ! い、やだ……なんで……!」


 自分が何を、誰を思っていたのかさえ既にジュードには分からなかった。誰かを思い浮かべた筈なのに、それが次の瞬間には全く分からなくなっている。その現象に対し純粋な恐怖を感じていた。

 そしてそれは、ジュードの中にある最も大切な部分への侵入さえも容易に果たす。大切な家族に関する記憶だ。

 子煩悩で色々なことを教えてくれた父、朗らかに微笑んで家族を見守ってくれていた母、教師に追い回されるジュードをいつも笑って匿ってくれた優しい兄、そんなジュードの後をいつでも付いてきた泣き虫だけど可愛い妹。

 その家族との想い出が一つ一つ、消え始めたのだ。それと同時にジュードの中には恐怖と共に悲しみや憤りなどあらゆる感情が沸き上がる。


「――っ! いやだ、やめろ! やだ、いやだッ! お父さま、お母さまあぁ!」


 大きな翡翠色の双眸からは大粒の涙が溢れ始め、助けを求めるように手を伸べても――そこには嘲笑うかのように細かな無数の触手が蠢いているだけ。外からはネレイナやアルシエルの高笑いが聞こえてきた。

 その間にも家族との大切な思い出は一つ一つ、消しゴムで消されるかのように確かにジュードの記憶から抜け落ちていく。

 そして、彼の頭に最後に残されたのは――


『――わたし、わたしね。ジュードのことね、大好きだよ』


 互いに好き合っていた、カミラのことだった。

 大好きだよ、とはにかみながら伝えてくれたその可愛らしい笑顔も――ジュードの頭から消えてしまった。

 その瞬間、ジュードの中は絶望的な悲しみに支配され――感情が涙となって零れ落ちる。


「う……ッ、うああああぁ!!」


 幼いジュードの意識は、そこで静かに途切れた。



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