第九話・仲違い
――まさに修羅場。
そんなやり取りを微笑ましそうに見守っていた女将は、小さく笑って助け舟を出す。
「ふふふ……ちょうど良かったわ。ねぇ、ジュード君たちも水祭りに出ていかない?」
カウンターに片腕を預け、頬杖をつきながら微笑む女将の聞き慣れない単語にジュードやマナ、ウィルは彼女へと目を向けた。
風の国は陽気な者達が数多く存在している。この王都フェンベルでは、ほとんど毎日と言っても過言ではないほどにお祭り騒ぎをすることが多い。聞き慣れない祭りがあるのは当然なのだ。思い立ったように祭りを開催する都なのだから。
「水祭り?」
「水の国の騒動が早く落ち着きますように、って願いを込めてのお祭りよ。夕方からやるの。いつもみたいにただ騒ぐだけなんだけどね」
王都フェンベルでの祭りは「飲んで食べて歌って踊る」が基本である。
そして今回も例に漏れず同じらしい。変わらない王都の有り様にジュードは緩く眉尻を下げつつ、ウィルやマナを振り返った。
「いいんじゃないか? どうせ今夜はフェンベルで一泊するんだしさ」
「そうね、早めに切り上げれば明日にも響かないんじゃないかしら」
口々にそう答えるウィルとマナの目は、それぞれ輝いている。二人とも風の国の出身だ、元々陽気な性格の上、楽しいことは大好きなのである。参加したい、その気持ちは言葉にしなくとも表情から理解出来た。
次いでカミラに視線を遣ると、彼女も穏やかに笑いながら胸の前で両手を合わせる。
「わたしたち水の国に行くのだから、水の国の人たちの安全をお祈りするのはいいことだと思うの」
カミラも何処か嬉しそうに見える。ジュードは小さく笑って頷いた。
――だが、ただ一人。ジュードに寄り添っていたルルーナだけは、面白くなさそうに鼻を鳴らすと早々に踵を返す。それには流石のジュードやマナも驚いたように――しかし不思議そうに彼女に目を向けた。
「バッカバカしい、これだから庶民は嫌なのよね。私は先に部屋で休ませてもらうわ。浮気しないでよジュード」
ジュードに釘を刺すことだけは忘れずに一言告げてから、ルルーナはさっさと二階へと上がっていく。
彼女は貴族の中の貴族である。庶民の嗜みを嫌うのには頷けたが、だからと言ってマナもプリムもその言動に頷けるほど寛大でもない。
プリムは改めて憤慨すると、隠すでもなく怒りに声を張り上げた。
「あったまきた、なんなのよあの失礼な女は! 宿はボロだって言うしお祭りはバカにするし!」
「いや、なんていうかその……ごめん」
その様子にジュードは眉尻を下げると、片手で後頭部を掻きながら謝罪を述べた。そんな姿と言葉にプリムは改めてジュードに向き直り、そして詰め寄る。
彼の胸倉を掴み、鬼の形相で言葉を続けた。
「ジュードは本っ当にあんな女がいいの!?」
「いや、だからそれは」
「プリム」
なんとか誤解だけでも解いておいた方がいいかとジュードは口を開きかけるが、それよりも先に女将が彼女に一声掛ける。そこはやはり母親――プリムは一度母を振り返り、そして程なくして頭を垂れた。
自宅であり、自分も気に入っている宿を馬鹿にされたことは特に彼女の心に怒りを生んだのである。しかし、母が全く気に留めた様子もないことから、プリムはそれ以上は何も言わず閉口した。マナはそんな彼女の傍らに歩み寄ると、慰めるように横から彼女の両肩に手を置く。
「ルルーナってああいう女なのよ。祭りに参加しないなら逆にいいじゃない、あの女がいたら楽しいお祭りも台無しになるわ」
「そうよプリム。さあさあ、いつもみたいに衣装でも見繕ってきなさいな、ジュード君とウィル君も」
いつもと変わらない柔和な笑みを浮かべる女将に、ジュードもウィルも安堵を洩らし内心で感謝しながら、互いに顔を見合わせて頷く。続いてマナとプリムに目を向けると促しを向けた。
「そうだな、嫌なことは騒いで忘れちまおうぜ」
「……責任は感じるけどな」
「何言ってんだよジュード、お前だって手に負えないだろ?」
「ま、まあ……それはそうなんだけど……って、カミラさん?」
ルルーナはジュードに強引な求愛をしてはいるが、そのジュードにも彼女を制御するのは困難なのだ。口が達者なためか何を言っても言い負かされることがほとんど、出来ることはほぼ何もないに等しい。
半ば強引に肩を組んで、揶揄するような表情で言葉を向けてくるウィルを横目に見遣り頷くと、ジュードは取り敢えずメンフィスに仔細を伝えるべく踵を返す。しかし、ふとカミラが二階に続く階段を見上げているのに気付けば、不思議そうに首を捻った。
カミラはジュードに向き直ると、小さく頭を左右に揺らす。そうして一声返すと二階へと駆け上がっていった。
「ジュード、みんなと先に行ってて。わたしルルーナさんとお話ししてくる」
「え、カミラ? 放っておきなさいよ、あんな女」
「ううん。……ルルーナさん、なんだか少し寂しそうに見えたの。ちょっとお話しするだけだから」
「あ、カミラさんが行くならオレも――」
じゃあ、と片手を揺らし二階へ消えていくカミラに、ジュードは慌てて後を追おうとしたのだが、ウィルに襟首を掴まれてそうもいかなくなった。
ジュードが不服そうに自分を振り返るのを見て、ウィルは双眸を細めると、ずい、と顔を近付けて言い聞かせた。
「ジュード、お前が行ったら余計にルルーナに懐かれるだけだぞ。カミラは俺がちゃんと連れていくから、お前はマナやプリムと先に行ってろ」
「……ウィル」
「その気がないなら、気ィ持たせるようなことはすんなって」
ジュードは、女性には特に優しい男である。だからこそ誤解され易く、好意も持たれ易いのだ。ウィルはそれが分かっているからこそ一言そう付け足した。
ジュードは僅かながらの思案の間こそ挟みはしたが、程なくして小さく頷く。そうしてマナやプリムと共に宿を出て行った。
カミラは二階の廊下を清掃していた宿の従業員にルルーナの行方を聞き、無事に彼女の部屋に行き着いた。この部屋は今夜、カミラやマナにとっても身を休める場所になる。数度ノックしてからカミラは扉を開き、室内へと足を踏み入れた。
部屋はまだ夕方より多少早い時間帯であるにも拘らず薄暗かった。窓がカーテンで閉ざされていたからである。
部屋はこじんまりとしているが、古臭い印象は受けない。赤地に金色で、美しい紋様の描かれた絨毯が出入り口に敷かれ、硝子で装飾の為された綺麗な照明が天井を飾っていた。部屋の中央には丸型のテーブルがあり、その真ん中では一輪挿しに鎮座する赤い花がひっそりと宿泊客を出迎える。
薄暗い部屋の中、ルルーナは窓辺に佇みカミラに背を向けていた。
「――意外ね。アンタもバカ騒ぎしに行ったんじゃなかったの?」
ルルーナは肩越しに出入り口を振り返ると、そこにカミラがいたことが意外だったらしく、ゆっくりと身体ごと振り返り薄い笑みを浮かべた。
カミラは暫し無言のまま彼女を見つめていたが、やがて心配そうに表情を曇らせる。そこに同情や哀れみを敏感に感じ取るとルルーナはいつもの余裕に満ちた笑みではなく、あからさまに怒りを滲ませて再度口を開く。
「……なんなの? 何か言いたいことがあるなら言いなさいよ」
それでもカミラは暫しの間そうして黙り込んでいたが、程なくして頭の中で言葉を選ぶように視線を下げる。その間もルルーナからは、突き刺さるような怒りの視線を向けられたままであった。
カミラは視線を下げた状態で、ゆっくりと言葉を連ねる。
「……ルルーナさんが、寂しそうに見えて……」
「…………はあ?」
カミラの言葉に、ルルーナは数拍の沈黙を経てからあからさまに嫌そうな、そして小馬鹿にしたような声を一つ洩らす。何を言っているのか分からない、そんな声色で。
しかし、カミラは怯むことなく言葉を続けた。
「ルルーナさんが、とても寂しそうに見えたの。それで、わたし――」
「はっ、それでなによ? 慰めに来たとでも言うの? 何様なのよ、アンタは!」
カミラの言葉はルルーナの神経を逆撫でしたらしい。更に不愉快そうな表情を滲ませると、普段の余裕さえなく苛立つ感情そのままに怒声を張り上げた。こうなると、もう止まることを知らない。彼女自身にも制御困難なほどに。
「アンタみたいなイイコちゃんで愛されっ子が、私は一番嫌いなのよ! 慰めに来たですって? アンタが、この私を?」
「…………」
「やめてよね、虫酸が走るなんてモンじゃないわ!」
「でも――」
「ああうるさい!!」
次々に向けられる言葉にカミラはスカートを両手で握り締めて黙り込む。何を言われようと目を逸らすまい、そう思っていた。
ルルーナが寂しがっている――カミラの目には、依然としてそのように映ったからだ。
しかし、何か言おうと改めて口を開いた時――ルルーナはテーブルにあった一輪挿しを手に取り、そしてカミラへ向けて思い切り投げ付けた。完全に逆上している。
投げられた一輪挿しはカミラまでは届かず、彼女の足元に落ちた。硝子で造られた繊細な身は板張りの床で砕け散り、勢い良く破片が辺りに散乱し高い音を立てる。
破片は間近にいたカミラへも飛び散り、頬や足首などに細かな傷を付けた。
「出て行きなさいよ! アンタの顔なんか見たくもないわ!」
その直後、カミラの後方にある扉が勢い良く開かれる。硝子が割れるような音に反応して、ウィルが慌てて駆け込んできたのだ。
ウィルは薄暗い部屋の中で、互いに対峙するカミラとルルーナをそれぞれ交互に見遣るが、カミラの白い頬に流れる細い赤に目を見張りルルーナへ向き直る。
だが、何か言う前にカミラが彼の腕を掴み小さく頭を横に揺らした。何も言わないで、と言いたげな様子に僅かな逡巡こそ挟みはするが、やがてウィルは眉尻を下げて頷く。もしも、この場に来たのがウィルではなくジュードであったら、そう思うとウィルは内心で安堵を洩らしていた。
カミラは改めて視線をルルーナに戻すと、一度そっと頭を下げる。
「……ルルーナさん、ごめんなさい」
カミラはそれだけを呟くと、静かに踵を返し部屋を後にした。ウィルは一度ルルーナを見遣りはするが、やはりカミラの願いであることも重なり、結局何も言うことなく彼女の後を追い部屋を出て行く。
その場に残されたルルーナは、ゆっくりとした足取りで出入り口まで歩み寄ると、開けっ放しになった扉を閉ざす。一輪挿しが砕けて床に広がった水の上、そこに浮かぶ赤い花を見下ろすと高いヒールで思い切り踏み付けた。払拭しきれない怒りを発散するように。
「……何が寂しい、よ。私が寂しい? 寂しくなんかないわよ……!」
指先が白くなるほどキツく両手を握り締めて、怒りに肩を揺らす。ルルーナの頭は勝手に、自らの記憶に刻まれた過去を再生していく。
華々しい社交界、愛する母と父。幸せな毎日に訪れた突然の別れ。自分に――自分達に背中を向けて遠ざかる一人の男。その、忘れられない背。
ルルーナは言葉にならない声を上げ、自らの美しい薄紅色の髪を両手で掻き乱す。思い出したくもない過去を頭から振り払う為に、他に方法を思い付けなかったのである。彼女の両側頭部に飾られる黒い蝶の髪飾りが、掻き乱すその動作で髪から外れ、ふわりと宙を舞った末に濡れた床へと落ちた。
世界の全ての音から逃れるように、ルルーナは両手で自らの耳を押さえるとその場に蹲る。
「寂しくなんかないわよ……っ! 寂しい訳あるもんですか! お母様は、お母様は仰っていたもの、あと少しの辛抱だって……!」
そうしてルルーナの頭が助けを求めるように思い描くのは、母国に残る愛する母であった。旅立つ前に母に言われた言葉が頭の中で綺麗に、そして鮮明に再生される。
ルルーナは静かに手を下ろすと、また改めてキツく拳を握り締めた。そうして薄く笑う。
「……そうよ、そのためにジュードが必要なんだから……私と、お母様のために……!」
ルルーナの中には、正確に言うとジュードの存在はないのである。
全ては自分と、愛する母のため。そのためにジュードを手中に収める必要がある、それだけなのだ。その理由は彼女の知るところではない。
彼女の原動力は、愛する母だけであった。