第三十六話・アルシエル
ふと、全身に感じる鈍痛にジュードの意識は徐々に浮上を始める。
なんでこんなに身体が痛いのか、自分は何をしていたか――上手く働かない頭でそんなことを考えながら、浮上する意識に抗うことなく静かに目を開けた。両腕がなんだか猛烈にだるい。
「……?」
目を開けて真っ先に視界に映り込んだのは、黒。本当に目を開けているのかと自分で自分を疑ってしまうほどの、漆黒の暗闇だった。
身体は――横になっていない。直立の状態だ。まさか立ったまま寝ていたのかとバカなことを考えるが、どうやら当たらずしも遠からずと言ったところらしい。ジュードの身は確かに立った状態だ、両足は床についている。
けれども、その足は動かそうとしてもピクリとも動かなかった。どうしたのかと身じろぎしてみて、初めて自分の状態を理解する。
「な……ッ!」
両手両足が、何かに拘束されている。両足は立った状態、両手は己の頭上で。
そこでジュードは己の記憶を探った。自分はどうしたんだったか、最後に覚えている記憶を必死になって探り始める。
そして行き着いたのは――アグレアスとイヴリースだ。
「(あれで、どうなったんだっけ……確かアグレアスがバケモノみたいな形になって、それで……イスキアさんたちでも全く歯が立たなくて……)」
アグレアスと確かに戦った筈なのに、満足に記憶が残っていない。
――否、残るほどの時間、戦うことも出来なかったのだ。常人よりも遥かに優れたジュードの目でも、アグレアスの動きを追うことが出来なかった。それほどまでにアグレアスの身体能力は異常なレベルにまで跳ね上がっていたのである。
満足に交戦することも叶わず、ジュードを守ろうとしたノームは正拳突き一発でそのふくよかな身を貫かれ、助けに入ろうとしたちびとライオットはイヴリースに鷲掴みにされて業火に身を焼かれた。
トールは属性相性がすこぶる悪いアグレアスに殴り飛ばされ、反してイスキアは有利な属性を持つ身であると言うのに重い蹴りを鳩尾に叩き込まれて終わった。
そしてジュードも――目で追うことも出来ないほどの速度で攻撃を叩き込んできたアグレアスに、何も出来なかったのである。
「みんなは……大丈夫なのか……」
ここが何処なのか、自分はどうしたのか、それよりも。ジュードの頭に真っ先に浮かんだのは、それだ。
精霊たちは、ちびは大丈夫なんだろうか。神が生きている限り精霊は死なないとフォルネウスは言っていたが、それでも心配は尽きない。彼らのことも、もちろんちびのことも。
「――起きていたか」
しかし、その時。不意に暗がりの中から声が聞こえてきた。
自然と俯けていた顔を上げると、程なくして暗がりの中に幾つかの明かりがあちこちに灯る。その光が、ようやくジュードに自分の置かれている状況を理解させた。
「……!!」
ジュードの目の前には、巨大且つ不気味な生き物。幾つもの生物が混ざり合ったような印象を受ける、まるで合成獣のように。
そして、その生き物には見覚えがあった。忘れられる筈もなかった。
それは――あの水の国の森で遭遇した「サタン」と呼ばれる生き物だったのだ。
ここは魔族の居城で、自分はあのままアグレアスとイヴリースに捕まった。このような状況に置かれれば流石にジュードの頭でも理解出来る。
ジュードの身を拘束するもの、それはサタンの不気味な肉体から伸ばされた触手のようなものだった。
けれども、声を掛けてきたのはサタンではない。その傍らに佇む銀髪の男だ。
「十年ぶり……と言いたいが、お前は覚えておらぬのだったな。初めましてとでも言っておこう、私はアルシエル……サタン様の忠実な部下だ」
「お前が……!」
アルシエル――今まで幾度となくその名を耳にしてきたが、こうして姿を見るのは初めてだ。
病的なまでに白い肌と、長く美しいストレートの銀髪。両側頭部には角が生えている。切れ長の双眸は血のように赤く、秀麗な姿をしているが――纏う雰囲気は氷のように冷たい。薄らと浮かべる微笑は見る者を恐怖させるには充分だろう。
アルシエルはゆっくりとジュードの真正面にまで歩み寄ると、双眸を笑みに細めて口角を引き上げた。とても上機嫌そうに。
「随分と待たせてくれたものだな、再び見えるまでに十年も掛かるとは思わなかったぞ」
「十年……」
「そうだ、本来ならば十年前のあの日に全て終わっていたと言うのに……」
十年前と言われても、ジュードはちょうどその辺りの頃から記憶がないのだ。アルシエルが言っていることがよく分からない。
怪訝そうに自分を見つめるジュードを見て、アルシエルは小さく笑うと静かに語り始めた。
「……お前は一度サタン様に喰われたことがあるのだよ。十年前、我らが聖王都を襲撃した際にな」
「え……」
「だが、サタン様がお前を完全に取り込む前にあの女が……お前の母テルメースが、サタン様の腹を叩いて無理矢理に吐き出させたのだ」
アルシエルが語る言葉にジュードは瞬きも忘れて、彼を見遣る。その口が紡ぐのは真実か、それとも騙そうとする偽りかを探るように。
だが、このような状態でよもや嘘は告げないだろう。今のジュードは既に抵抗さえ封じられている、何も恐れることはないのだ。あとは後ろに控えるサタンに喰われれば、それで終わりなのだから。
「その後、あの女は幼いお前を抱えたまま魔法で姿を消し……どうやったのかは知らんが、お前を大陸の外へと逃がしたのだ。それからと言うもの、我々はお前を探し続けていたのだよ。そして今日、ようやくこの日を迎えられた」
「……」
ジュードの耳には、既に後半部分は届いていない。
彼の頭を占めるのは、満足に言葉さえ交わさなかったテルメースのこと。そして胸には刃物で刺されたような痛みが宿った。
「(……オレ、疎まれて捨てられたんじゃなかったんだ……)」
ずっと、自分は親に捨てられたのだと思ってきたが、どうやら違うようだ。
テルメースは疎んじて捨てたのではなく、ジュードを魔族から守るために敢えて手放すしかなかったのだろう。そうであるのなら、あの港街で再会した時に彼女が流した涙も頷けた。
母親はいないと思って生きてきたために、彼女が母であるなどと未だに実感は湧かないが。
あの街で彼女と逢った時、混乱で逃げ出した。
だが、その後もテルメースと話をしようと思わなかったのは「捨てておいて何を今更」と思う気持ちがあったからだ。
しかし、彼女のことを何も知らなかったのだと思い知らされた。ちゃんと向き合っておけばよかったと、今更ながらそう思う。
「心配しなくともよい、お前は死ぬ訳ではない。それに――お前はもう一人いるからな、お前の仲間もお前自身に殺されるのなら本望だろうよ」
「……どういう意味だ?」
「覚えがあるだろう? 自分と同じ顔をした男に」
ジュードがもう一人いる、その言葉にジュードは眉を顰めるとその意味を問う。純粋に意味が分からなかったからだ。
だが、アルシエルが返してきた言葉に一度こそ思案の間を要しはしたが、程なくしてジュードの頭は一人の男に行き着いた。精霊の里で遭遇したあの男だ。
「アンヘルって言ってたあいつのことか……! あいつは一体なんなんだ!」
「フフ……十年前サタン様に喰われた際、お前は当時持っていた記憶の全てを喰われたのだ。アンヘルはその時に分離したお前の記憶そのもの、奴は精神体となり長い間サタン様の中で眠っていたが……今は我々の思想に賛同し、私のために行動してくれているよ」
「記憶、そのもの……? 精神体なら、なんで肉体を持ってるんだ?」
「メルディーヌの手に掛かればその程度は朝飯前だ。クク……光の国に生まれ落ちた王子が、メルディーヌの精神操作の術によって記憶を書き換えられ、闇に染まっていく様は非常に愉快であったぞ」
その言葉にジュードは思わず表情に怒りを乗せた。まるでオモチャのような扱いだ。
つまり、アンヘルはジュードが忘れてしまっている過去の記憶そのものと言うことになる。だが、メルディーヌの手で偽りの記憶を植え付けられ、操られてしまっているのだろう。
――悔しかった、猛烈に。
自分自身が、こんな奴に好き勝手されていることが。
「さて……そろそろよいか、観客も痺れを切らし始めているようだからな」
だが、アルシエルはそんなジュードを嘲笑うかのように一つ笑いを洩らすと、その視線をやや上の方へと向けた。
その視線を追った先、そこには多くの魔族と思われる者たちがいた。中にはアグレアスやイヴリース、メルディーヌの姿も見える。アルシエルの言葉通り観客なのだろう。これから行われる儀式と言えそうな行為を一目見ようと言うのだ。
アルシエルは薄笑みを浮かべながら静かに後退し、サタンの傍らへと戻っていく。残されたジュードは真正面からサタンと睨み合った。
「(これで終わりなのか、こんなところで……人をオモチャみたいに扱うような、こんな奴らに負けるのかよ……!)」
対峙するサタンは頭と思われる部位をゆうるりと伸ばしてきて、牙が無数に生える口を大きく開けた。それと同時に粘着性のある唾液が床へと落ちていく。
四肢は拘束され身動き一つままならず、ジュードに出来ることは今となってはもう何もない。そんな彼を見て、サタンが薄らと笑った気がした。
そしてサタンは大口を開けると、己を睨み付けてくるジュードの身に喰らい付いた。