第三十三話・届かない手
「――ウィル、マナ!」
ようやく王都の出入り口に差し掛かった頃、カミラとエクレールの視界には地面に座り込むウィルとマナの姿が映り込んだ。辺りにはグレムリンたちの死骸が転がっている。
彼らも負の感情にやられているのかと思うと、カミラは心配そうに二人に駆け寄った。
「カミラ、エクレールさんも……」
「ウィル、大丈夫なの?」
「俺は大丈夫だけど、マナが……」
カミラの声に振り返ったウィルの顔は別に苦しそうではないが、マナは別だ。彼女は他の住人たちと同じように胸の辺りを押さえて、苦しそうに浅い呼吸を繰り返している。上手く呼吸が出来ないのか、その顔色は蒼い。
だが、ウィルは――その言葉通り特に体調に異常はなさそうだ。マナの正面に屈んで心配そうにその肩辺りを摩っている。カミラは不思議そうに目を瞬かせた。
『……ゲイボルグだ、あれがウィルをこの禍々しいものから守ってくれている』
「(あ、そうか……! 神器は神さまが生み出したもの、負の感情から持ち主を守ってくれるんだわ)」
ジェントのその声を聞いてカミラは納得したように小さく頷く。だが、苦しそうなマナを見ればそうも言っていられない。
だが、彼らの心配も他所にマナは固く伏せていた目を薄く開けると、途切れ途切れながらも言葉を向けてくる。
「あ、あたし、あたしはいいから……早くジュードを……魔族が来てるって、ことは……狙いはジュードでしょ……!」
「……ッ、分かった……エクレールさん、悪いんだけどマナを頼む。こいつ、変に強情で無理するから」
「は、はい! 分かりました、お気を付けて……」
ウィルはそれでも納得していないようだったが、彼女の気持ちは分かる。もし自分がマナの立場でも同じことを言うだろう。
しかし、マナはエクレールを傍に付けてくるとは思っていなかったのか、ウィルの言葉に咄嗟に声を上げようとはしたが――それでも息苦しさには抗えないか、力なく項垂れる。エクレールは慌てて彼女の傍らに寄り添った。
「行くぞ、カミラ!」
「うん!」
そんな様子を確認すると、ウィルはカミラに一声掛けてから彼女と共に駆け出した。
彼らはジュードの居場所が分かっていたのかと、カミラはちらりと横目にウィルを見遣る。
「ウィルとマナは、ジュードの居場所分かってたの?」
「あいつ、慌てて飛び出して行っちまって……最初は俺たちも困ってたんだけど、もしも魔族が襲って来たんなら、あいつの場合は自分を囮にするだろうなと思ってさ」
「なるほど……」
「都や街の人たちに被害を出さないためにはどうするか――考えたら、多分街の外だろうってな」
流石に長い付き合いの二人だ、突然の襲撃を受けて混乱してもジュードの行動パターンはしっかりと理解出来ている。
カミラとて落ち着いていればそう言った可能性を導き出すことも出来ただろうが、実際に彼女に出来たのは狼狽えることばかり。こうして敵が自ら居場所を教えてくれなければ、今もまだ何処へ行けば良いのか惑っていた筈だ。
そこまでジュードを理解出来ていることが羨ましい――言葉には出さないが、カミラはそんなことを思った。
* * *
都の外に出た時――カミラもウィルも、その表情を絶望一色に染めた。
外には、確かにジュードがいた。加勢に来たのだろう精霊たちの姿も見える。
しかし――彼らは皆、いずれも力なく地面に倒れ伏していたのだ。その中心部には岩を思わせる大男が一人立っている。
「ジュード!!」
「……ん? おっと、久し振りだなァ、小僧」
ウィルは思わず声を上げて駆け出したが、そんな彼の声に気付いた大男はゆっくりと振り返るなり厳つい風貌に笑みを滲ませた。
男のその顔を見て思わずウィルは立ち止まり、カミラは唖然としたように息を呑む。
大男の正体は、アグレアスだった。これまでに何度も対峙してきた魔族。
だと言うのにその正体に気付けなかったのは――彼の外見があまりにも異形に変わり果てていたからだ。
「アグレアス……なのか……!?」
「フフッ、そうさ。そいつはアグレアスだよ、私も楽しませてもらう予定だったんだけど……どうやらアグレアス一人で充分だったようだから傍観させてもらった」
「(イヴリースまで……!)」
イヴリースはこれまでと全く変わらない姿だが、アグレアスの方は違う。
真紅の双眸は変わらぬものの、その白目は漆黒に染まっている。元々鍛え上げられた見事な身体をしていたアグレアスだが、現在は全身の筋肉が固い岩のような盛り上がりを見せている。
――否、全身が岩肌に覆われているような見た目だ。身の大きさはこれまでの倍ほどはあるだろう。
見た目からは依然としてパワーファイターの印象を受けたが、言い知れぬ恐怖をウィルもカミラも確かに感じていた。
「(イスキアさん、トレゾール鉱山ではコイツを圧倒してたってのに……! どうなっちまってんだ……!)」
前回、地の国でアグレアスと交戦した時――イスキアが来てくれなければウィルは死んでいた。
だと言うのに、あの時アグレアスを簡単にいなして勝利を収めた筈のイスキアも、他の精霊たち同様に倒れていたのだ。ウィルとカミラの声に反応しないところを見ると、恐らく意識はないものと思われる。
ジュード、精霊、そしてちび――その誰もがぐったりと力なく倒れていた。
「我々には弱者を甚振る趣味はない、大人しく帰るがよい。そうすれば命日はほんの僅かにでも延びるぞ」
「言ってくれるじゃねーか……ッ!」
「フッ、お前がそう言われて引き下がるものかよ、なァ?」
アグレアスはウィルがどのような男であるのかを理解している、死を覚悟しながらもジュードのために執拗に立ち上がってきた男だ。絶望的な状況を前にしても引き下がる性格ではないだろうと、愉快そうに声を立てて笑う。
しかし、次の瞬間――カミラは呼吸も忘れて呆然とその光景を見つめるしか出来なかった。
「え……?」
さも愉快と言わんばかりに笑っていたアグレアスが、次の瞬間には開いていた距離を埋め――更には身構えてさえいなかったウィルの腹に拳を叩き込んでいたのだ。
一体いつの間に距離を――否、いつ動いたというのか。ウィルとカミラの目では全く追うことなど出来なかった。
訳も分からないまま腹部に衝撃を受けたウィルは、受け身を取ることも出来ず数メートルほど殴り飛ばされた。カミラはあまりの力の差に満足に身構えることさえ出来ないまま、呆然と状況を眺めることしか出来ない。
頭が状況を理解出来ないのだ、何がどうなってこうなったのかまるで分からない。そんな様子。
「おっと、手加減したつもりなんだが……惜しいねェ、うっかり一撃で殺っちまったか」
アグレアスは殴り付けた拳を開き、わざとらしくその手を手首から揺らしてみせる。思い切り鳩尾に入った感触はあった。魔心臓により強化された剛腕で思い切り殴り付けられれば――人の身には耐えれるものではない。見た目には変化はなくとも、体内で内臓が幾つも破裂しているだろう。
アグレアスもイヴリースも薄く笑って、今度はカミラに向き直る。
「なんだ、お前は来ないのか? まァ、その方が賢明だろうがな。人間と言えど女子供に必要以上に乱暴するのは好かん、そのまま大人しくしていろ」
カミラ、とジェントが必死になって呼ぶ声は聞こえるのだが身体が思うように動いてくれない。
だが、アグレアスの手がうつ伏せに倒れたままのジュードの身に触れると、不思議なほどに思考と意識が切り替わった。
守らなければ、助けなければ――ジュードを。
カミラは片腕に填める腕輪に逆手を翳すと、腕輪の形状を錫杖へと変化させる。それは嘗ての姫巫女が使った聖杖ケリュケイオン、これも神が造り出した神器の内の一つだ。
それを見てアグレアスは不敵に微笑むと「やれやれ」と片手で己の髪を掻き乱した。女子供にあまり手は上げたくないのに、そう言いたげに。
しかし、そんなアグレアスはふと真横に気配を感じた。それと同時に右肩を抉る激痛も。
「――こんの野郎っ!!」
「なに……ッ!?」
それは、先程確かに一撃で殴り殺したと思ったウィルだった。
内臓が破裂したような痕跡はない、もしそうなっているのだとしたらこうして反撃になど移れる筈がないし、血を吐いていてもおかしくはない。だと言うのに、彼には殴り飛ばされた際に身を打ち付けたと思われる掠り傷程度しかなかったのである。
尤も、左手で腹部を摩る様子からして結構なダメージはあったようだが。
無事だったウィルの姿にカミラは表情を輝かせると、彼の手にある美しい輝きを放つ――神槍を見つめた。
神槍ゲイボルグは、その輝きで己だけでなくウィルの身をも包み込んでいる。恐らくはこの神の槍がアグレアスのあの一撃から守ってくれたのだ。
「っ……ほう、お前はやはり面白い男だな、敵にしておくには惜しいほどだ」
「アグレアス、そろそろ時間よ。お前も私もまだ完全に魔心臓を制御出来ていないんだからね」
「ああ、分かってるさ」
イヴリースはそれでも焦りを滲ませることはせず、何処か楽しそうな口調で言葉を向ける。するとアグレアスは不敵に笑んだまま了承を示して頷き――固く握り締めた拳を勢い良く大地に叩き付けた。
すると、辺り一面の大地は呼応するかのように抉れ――倒れていたジュードたちの身を上空へと叩き上げる。下手をするとその勢いで骨の一本や二本、折れていてもおかしくはない。
アグレアスは共に上空に跳び上がると他の者には目もくれず、未だ意識を飛ばしたままと思われるジュードの身を肩に担ぎ上げた。
「ジュード!!」
カミラは咄嗟に声を上げて魔法を放とうとはしたのだが――この状況では、撃てば確実にジュードにも当たる。ならば、とウィルは駆け出すと助走を付けてアグレアスに飛び掛かった。先程の攻撃は効いていたのだろう、アグレアスの右肩には今も生々しい槍の傷痕が残っている。
ならばもう一度、今度はその腹に叩き込んでやる――と、ウィルは渾身の力を込めて神槍を突き出した。
「な……ッ!?」
「ふふ、残念だな。得物は立派でも、それに遊ばれているようでは我々には通用せんぞ」
槍の切っ先はアグレアスに届くよりも前に、間に割り込んだイヴリースによって受け止められてしまっていた。彼女は片手に炎を纏わせて、ゲイボルグを包み込む眩い光を防いでいる。
それでなくとも神槍ゲイボルグは風、対するイヴリースは火、属性相性はすこぶる悪い。
イヴリースは口角を引き上げて薄笑みを浮かべると、逆手をアグレアスの胸に添える。そしてゲイボルグを受け止めた手を「バイバイ」とでも言うように揺らしてみせた。
そして次の瞬間――イヴリースはジュードを抱えたアグレアスと共に影も形も残さず消えてしまったのである。
彼らの姿が消える間際、ウィルは思わず逆手を伸ばしたが――彼の手は虚しく虚空を切るだけであった。