第七話・レッドウルフ再び
火の国から水の国までは、それなりの日数が掛かる。
水の国は世界の北側に位置しており、間にヴェリア大陸を挟む。火の国から陸路で行くには東方の地の国、もしくは西方の風の国を経由して行くしかない。船を使って行ければ良いのだが、危険と称されるヴェリア大陸の近くを通ることになる。何があるか分からないと判断され、最近は火の国と水の国の間で船はほとんど出ていなかった。
地の国は魔物が狂暴化を始めた頃から現在に至るまで、依然として完全鎖国の姿勢を崩していない。当然、通行など許可はされない。そのため一度風の国へ戻り、北の関所を通って水の国へ入国することとなった。
火の国の王都ガルディオンを発った時、時刻は既に正午過ぎ。可能であれば今日の内に風の国に入国したいとメンフィスは思っていた、火の国の魔物は狂暴だからである。風の国の領土に入ってしまえば、それほど狂暴な魔物は出現しない。出たとしてもオーガ程度だ。
だからこそ、焦りで気付けなかったのである。こちらを狙う魔物の気配に。
「……っ!」
走る馬車を目掛け、不意に茂みから紅い獣が飛び出してきた。火の国の関所でジュードが対峙したレッドウルフだ。
レッドウルフは馬を目掛けて飛び掛かり、その突然の襲撃に驚いた馬は前脚を上げ伸び上がった。高く鳴き、そのまま混乱したように何度も嘶く。
馬車はバランスを崩し、中にいたウィル達はそれぞれ必死に身を支えた。馬が暴れ回り馬車内部は大混乱だ。
「わわわっ! な、なんだ、魔物か!?」
「ちょっと! アンタ達さっさと外に行って倒してきなさいよ!」
「なんであんたにそんなこと言われなきゃならないのよ!」
ウィルは馬車の壁に片手を添え身を支えながら窓越しに外を見遣り、ルルーナはいつものようにいがみ合っていたマナに、馬車が揺れると同時にちゃっかり抱き付いてやり過ごしながら指示を飛ばす。マナはそんなルルーナに、これまた常の如く文句を飛ばしていた。
カミラは鞘に入ったままの剣を手に持ち、素早く立ち上がると扉を押し開いて外へと飛び出す。それは火の国に滞在することになった時にジュードやウィルに頼んで譲り受けたものだ。
「魔物……っ、ジュード!」
辺りに見える紅い獣を確認して、カミラは咄嗟に周囲を見回す。馬の後ろ側に乗っていたメンフィスとジュードの安否を確認する為である。
ジュードは手綱を握るメンフィスの横から飛び降りると馬へ一瞥を向けた後に、彼へ一声掛けた。
「メンフィスさん、馬は!?」
「大丈夫だ、すぐに宥める」
幸いにも馬に目立った怪我はなさそうであった。ジュードは小さく安堵を洩らすと即座に魔物へと向き直る。紅い獣達は牙を剥き出しに涎を滴らせていた。以前クリフと共闘した時は数匹であったが、今回は七匹ほど見える。油断はならない。
馬車の中からは、カミラに続いてウィルとマナが飛び出してきた。
「ジュード、大丈夫なの!?」
「ああ、問題ない。やるぞ!」
こちらの準備が終わるまで、魔物は待ってはくれない。当然である、向こうは空腹なのだから。
一匹の魔物がジュード目掛けて駆け出すと、残りの魔物達も一斉に飛び出した。頭へと飛び掛かってきた魔物に、ジュードは眉を顰めて小さく舌を打つと鞘に入ったままの剣を大きく開かれた口へあてがう。そのまま咬み砕かれてしまうのではないかと思うほどの力である、鞘の軋む音がジュードの耳に届いた。
鞘はそのままに素早く剣のみを引き抜いてしまうと、続いて飛び掛かってくる複数の魔物達へ意識を向ける。足、腕、様々な箇所を目掛けて大口を開け飛び付いてきた。直撃すれば腕や足の一本や二本は簡単に持っていかれるだろう、当然捕まる訳にはいかない。
何とか後退し直撃する寸前で避けはするが、数が数だ。長くはもたない。それを理解しているからこそ、ウィルは背中に携える槍を手に持ちジュードの元へと駆け出した。真横から飛び付こうと身構える二匹の魔物達の背後を取り、真横から真横へと思い切り槍を振り抜く。
一般的に城の兵士などが持つパルチザン型の槍である。刃が付いている為、突く以外に斬り付けても充分なダメージを与えられるものだ。オマケにウィルはジュードよりも力が強く、更に身体を軸に回転するように振り抜けば幾ら火の国に生息する魔物相手とは言え、致命傷を与えられる。背後を取られ背中を斬られた二匹の魔物は悲鳴に似た声を上げて、その場に崩れ落ちた。
槍はリーチが長く、剣よりも比較的安全に戦える機会は多い。が、欠点があるとすれば――
「――ちっ、この野郎……! だからすばしっこい魔物は嫌いなんだ……!」
懐に入り込まれると弱いところである。敵が素早いと思うような反撃が困難な場合もあるのだ。
魔物はウィルに向き直ると、怒りを露わにするように紅い毛を逆立て、咆哮を上げる。すると周りの魔物が一斉にウィルへと飛び掛かった。
「……氷の刃よ、敵を討て! アイスニードル!」
しかし、その為の仲間である。
ウィルに飛び掛かっていく魔物へ、マナが隙を見て魔法を発動させた。彼女の声に呼応するかの如く、マナの周囲には無数の氷の刃が出現し、魔物の群れへと飛んだ。ジュードの短剣が放つことの出来た初歩的な氷系魔法である。
飛び上がった状態では、当然回避など出来ない。レッドウルフは水や氷に弱いこともあり、氷の刃は魔物の胴体を撃ち抜き、二匹を撃ち落とすことに成功した。
残った魔物達がウィルへ向けて前脚を凪ぐように繰り出し、その前脚の鋭い爪は僅かに反応の遅れた彼の片足へ食い込み、グリーブで守られていない右太腿を抉った。その痛みにウィルは表情を歪め、バランスを崩して半ば反射的に地面へと片手をついてしまう。魔物達が、その隙を見逃す筈がない。
追撃を加えようとした一匹の魔物が大口を開けウィルの首元へ照準を合わせて駆け出すが、仲間をやられて黙っていられないのがジュードである。そして、ウィルが懸念していた――悪癖持ちだ。
ジュードは手にしていた剣を、ウィルを狙う魔物へと思い切り投げつけた。勢い良く飛んだ剣の刃はウィルを喰らうことに集中していた魔物の胴体へ見事に突き刺さる。勢いがあったこともあり、致命傷に近い傷を負わせることに成功した。
が、その瞬間。ジュードは眉を寄せて何処か痛むように表情を顰めた。
――痛い、痛い! 苦しい!
いつものように、彼の頭には魔物のものと思われる声が響き渡ったのだ。
更に――丸腰になったジュードへ残った二匹が背後から飛び掛かる。ジュードは咄嗟に身を低くすることで飛び掛かり攻撃を回避すると、地面へと両手を付いた。地面に広がる砂を両手に掴み、牙を剥き出しにして再攻撃に駆けてくる二匹の魔物へと振り撒いた。
細かな砂は魔物の両目を潰し、二匹の魔物は思わず呻くような声を上げながら暴れ回る。視界が利かなくなったのを確認し、先程ジュードが投げ付けた剣を魔物の身から引き抜いたウィルは、彼へ声を掛けてその剣を宙に放った。
「ジュード、使え!」
宙に舞う剣を確認しジュードは地を蹴り跳び上がると、上空でその剣を手に取った。メンフィスに言われた通り片手で持ち、着地の勢いを加えて一匹の魔物へ剣を振り下ろす。
勢いのついた剣は魔物の背へ直撃した。背骨を粉砕する感覚と皮膚が裂ける感覚とが手から伝わり、ジュードは思わず眉を顰めて嫌悪する。そして彼の頭には、やはり魔物の悲痛な叫びが木霊し続ける。肌が粟立つのを感じた。
しかし、嫌悪感に浸っているだけの余裕はない。残る一匹の魔物が自棄になったかのように暴れ出したからだ。
「うわ、わっ! いでッ!」
ぐるぐると、自らの尾を追い回し回転する犬のように、勢い良く回り長い尻尾が舞う。それは近くにいたジュードの背を打った。
視界は利かなくなっても魔物は耳が良い、その声を頼りにレッドウルフはジュード目掛けて突進をかます。思い切りそれを腹部に受け、思わずバランスを崩して尻餅をついた。
「ジュード!」
マナが咄嗟に彼の名を呼び駆け出そうとするが、魔物の方が遥かに早かった。ジュードが体勢を立て直す前に、覆い被さるように飛び掛かったのである。
獣特有の本能か、真っ先に首元を目掛けて咬み付こうとする魔物と、そうはさせまいとするジュード。力は圧倒的に魔物の方が上で、体勢に於いても有利であった。
両手を突き出し剣を盾にすることで咬み付かせまいとするジュードだが、魔物は口だけでなく鋭い爪も持っている。ジュードの身体の上に乗り上げる魔物の前脚、爪が肩や脇腹に食い込んで確かな痛みを彼に与えた。首に咬み付かれれば怪我では済まない。
マナが魔法で援護しようにも、ジュードが近くにいては使えない。魔法を受け付けない彼の体質は痛いほどによく理解しているからだ。
カミラはウィルに駆け寄り傷を癒そうとしたが、ジュードの危機を目の当たりにしてそちらに駆け出す。
――が、次いだ瞬間。魔物は高い悲鳴を上げてジュードの身の上から吹き飛ばされた。
「え、あ……メンフィスさん……」
馬を落ち着かせ終えたメンフィスが戦線に加わり、ジュードに咬み付こうと躍起になっていた魔物を剣で凪ぎ払ったのである。
吹き飛ばされた魔物は腹部から大量に出血し、暫し身を痙攣させていたが、やがて動かなくなった。
メンフィスはジュードに歩み寄ると、片腕を掴んでその場から立ち上がらせる。取り敢えず目立った外傷や酷い出血はない。
「迂闊だったな、馬車を狙ってくるとは」
「助かりました、……馬はどうですか?」
「多少、足を痛めているな。今日はここから少し行った森で野営にしよう、あまり無理はさせられん」
馬にも目立った傷はなかったようだが、全くの無傷とはいかなかったらしい。突然のことだったのだから、無理もない。
ジュードはメンフィスの言葉に小さく頷くと、マナと共にウィルの元へと駆け寄る。彼の傍らには既にカミラが寄り添っており、太腿に刻まれた傷へ片手を翳していた。
カミラが目を伏せて意識を集中させると、彼女の手の平からは白い光が溢れ出した。その光はウィルの太腿に走る裂傷を包み込み、瞬く間に傷を癒していく。程なくして、傷痕さえ残らず綺麗に消えた。それを見てウィルとマナが歓喜を洩らす。
「わあ、治った!」
「治療系の魔法は難しいってのに、大したモンだな。サンキュ、助かったよ」
ジュードも安心したように表情を和らげて、カミラとウィルに声を掛けようとはしたのだが。それよりも先に真横から飛び付かれたことで再度バランスを崩し、転倒した。
「うわっ! な、なんだ!?」
咄嗟のことに反応も受け身も取れず、見事に堅い地面に腰骨を打ち付けてジュードは低く呻く。が、すっかり慣れてしまった柔らかな感覚を胸の辺りに感じて「う」と極々小さく唸った。
なんてことはない、ルルーナである。戦闘が終わり馬車を降りた彼女は、真っ先にジュードの元へ駆け寄り、飛び付いたのだ。柔らかな感触はルルーナの豊満な胸である。
「ジュード、ジュード! 怖かったわ!」
「そ、そう……もう大丈夫だって……」
「守ってくれてありがとう、ジュード。大好きよ」
結果的に、仲間で力を合わせての勝利である。声高らかに訴えるような者はいないが。
だが、それを良いことにルルーナは表情に笑みを浮かべるとジュードの首に両腕を絡ませて頬に一つ口付けを贈った。
え、とジュードは表情を引き攣らせ、マナはそれに対し憤慨する。
「あんたを守った訳じゃないわよ! さっさと離れなさいってば! ジュードも鼻の下伸ばさない!」
「伸ばしてない!」
すっかり日常茶飯事となった光景にウィルは苦笑い混じりに小さく溜息を吐き、カミラはそんなウィルの後ろから彼らのやり取りを眺めていた。
水の国までは、まだ長そうである。