第十話・散りゆく命
『うわあぁん! ウィルのばかあぁ!』
その日、雲一つない青空の下には幼いジュードの泣き声が響いていた。
ぐす、ひっく、としゃくり上げながら片腕にはちびを抱き、危うい足取りで山道を歩いている。
小さな逆手で涙を拭うが、それは何の効果も持たない。涙は次々に溢れては、彼の丸い頬を伝って地面へ落ちていく。ちびはそんなジュードを「きゅーん」と鳴きながら、心配そうに見上げていた。
『いっつもいっつもバカバカって、うわあぁん!』
それは、幼いジュードがいつものようにウィルと喧嘩をした何気ない日常のひとコマ。
ちびはジュードの腕からするりと抜け出すと、彼の肩にしがみついてペロペロとその頬を舐めた。泣かないで、とでも言うように。
すると、それまでわんわん泣いていた筈のジュードは翡翠色の双眸を丸くさせ、嬉しそうに笑ってはしゃぎ始めた。
『ふわ、あはは、ちびくすぐったい!』
『わうぅっ、うぎゃぎゃ』
ジュードとちびは、いつでも一緒だった。離れることになるまで、いつも一緒で何処に行くのも一緒。
人と魔物の違いこそあれど、まるで本当の兄弟のように仲が良く、片時も離れようとしなかった。
それがジュードにもちびにも当たり前であったし、再会してからもきっとずっとそうだと――信じて疑うことはなかったのである。
* * *
ジュードは目の前の光景に双眸を見開いたまま固まっていた。
彼の視界には至極ご満悦そうに笑うヴィネアがいる。
マナは両手で口元を押さえ、ウィルやルルーナ、リンファはやや蒼い顔をしながら絶句。グラムや精霊たちは突然のことに頭が追い付かず、茫然自失と言った状態であった。
ヴィネアは風の魔力を溜めた片手を突き出し、ジュードへと放ったのだ。
極力傷を付けぬようにとは――これまでにもアルシエルに言われてきたことではあるが、既にヴィネアにはその言い付けを守ろうと言う気は残っていない。腹の中で燻る怒りをぶつけるべく、加減もせずに風の魔法を放ったのである。
腕や足の一本、二本。別になくても構わないだろうと――勝手な判断で。
それほど、ヴィネアは激怒していた。
魔族である自分が、人間などに傷を付けられたことに。
だが、彼女が放った魔法はジュードに直撃することはなかった。
何故なら――ヴィネアとジュードの間に、咄嗟にちびが入り込んだからだ。
「ちび……ッ、ちび!!」
当然ながら、ちびの身はヴィネアの風魔法により斬り裂かれた。
誰もが皆、その光景に言葉を失っていたのである。
ちびのふわふわの身は鋭利な風の刃に四方八方から斬り刻まれ、傷や口から盛大に血を吐いて――力なく倒れてしまっていたのだ。
その様は皮肉にも、嘗てちびを守ろうとして命を落とした母ウルフの姿にそっくりであった。
「ちびッ、ちび……なんで……!?」
ようやく頭が状況を理解したジュードは、それまで金縛りにでも遭ったかのように動かなかった身を必死に動かしてちびの傍らへと駆け寄る。ぐったりとした身をその場に座り込んで抱きかかえると、ちびは薄らと目を開けた。
ルルーナとリンファは大急ぎでそちらに駆け寄り、それぞれ片手を翳す。気功術と治癒魔法で傷を塞ごうと言うのだ。
マナは魔法の詠唱を始め、ウィルとグラムはその風貌を憤怒に染めながらヴィネアへと駆け出す。
「きゃはははッ! ジュードくんには当たらなかったけどぉ、こっちの方がダメージ大きいかしらぁ?」
「こんの野郎!!」
「あの程度でこのヴィネアちゃんを倒せたと思ったぁ? アハハっ、そんなワケないでしょおぉ?」
身を起こしたヴィネアの身体には、既に先程までの傷は存在しない。まるで最初から無傷であったかのように。
当然ウィルとグラムが気付かない筈はない。しかし、今はそのようなことはどうでもいい。起き上がってくるのなら何度でも叩き伏せる――彼らの頭にあるのは、それだけだ。
「きゅ、うぅ……」
「ちび、ジッとしてろ。血が……血が、止まらない……から……」
ライオットとノームも慌ててジュードの傍らへと駆け寄ってきたが、精霊二人の目にはすぐに分かった。
――傷が深い、助からないと。
それにちびの左前足、右の後ろ足、更にいつも元気に揺れていたふさふさの尻尾は、完全に千切れて切断されていた。
リンファの気功術も、ルルーナの治癒魔法も意味を成さない。ちびの身体は既に治癒が不可能なほどに損傷し、傷を修復する細胞も大量に死んでいた。
二人の治癒術を以てしても、溢れ出る血を止めることが出来ない。
ジュードは涙でぼやける視界の中、必死にちびの顔を見つめる。両腕で抱くふわふわの身は、ゆっくりと、だが確実に冷たくなっていく。
ちびはボロボロと大粒の涙を流すジュードを見て「きゅうぅ」とか細くひと鳴きすると、その頬をそっと舐めた。
泣かないで――いつかの日と同様、そう言うように。
そして、そのまま力尽きた。がっくりと頭を垂れ、ジュードの両腕にはちびのその全体重が掛かる。
それを見てルルーナとリンファは、暫しの沈黙の末に静かに手を下ろして俯いた。
「嘘だ……ちび、嘘だ……こんな……うああああぁッ!!」
ジュードは叫んだ、狂ったように。
腕の中の身を何度揺らしてみても、目は固く伏せられ、二度と開くことはない。彼の頭に最後に聞こえたのは、ちびの何処までも優しく、嬉しそうな言葉だった。
『――ジュード、ありがとう。だいすきだよ』
ありがとうも、大好きも、ジュードとて同じだ。
それ故に、この現実が辛く苦しい。ちびが死んだなどと、到底受け入れられることではない。
「あははは! あなたが悪いのよジュードくん、あなたが大人しくヴィネアちゃんと一緒に来ないから! だからこんなことになっちゃったんじゃない!」
「(ジュード……!)」
ウィルは何度も何度も、ヴィネアの身に槍の切っ先を叩き込む。だが、その傷はやはり瞬く間に塞がってしまうのだ。
グラムは剣を振るいながら、それでも気掛かりなのはやはりジュードの精神。彼はジュードとちびの出逢いも、二人がどれだけ親しくしていたかも知っている。
そのちびを失って、果たして彼は大丈夫なのか――と。
「うふふ、ヴィネアちゃんも疲れちゃったしぃ、そろそろ終わりにしてあげるわねっ」
どうやら、ヴィネアは満足したようだ。先程までの怒りも随分薄れた様子で可愛らしくウィンクをして笑って見せると、それまでウィルやグラムと斬り結んでいた傘を下ろして後方に飛び退く。
そして、その場で勢い良く回転したのである。
それは初めて遭遇した時にも見せた技だ。あの時はこの攻撃一つで誰もが皆、動けなくなるほどに重い傷を負った。
ウィルは咄嗟に槍の柄で己の身を守ろうとしたが、その程度で防ぎ切れるものではない。
ヴィネアを中心に巻き起こる竜巻のような風の渦はフロア全体に広がり、彼らの身へ容赦なく打ち付けた。
間近にいたウィルとグラムは全身を斬り裂かれる激痛に思わずくぐもった声を洩らし、後方にいたジュードたちも例外ではなく――まるでゴミ屑のように吹き飛ばされた。
突如として襲い来る風の塊に手からはちびの遺体が離れ、ジュードは思わず双眸を見開く。身に受ける裂傷よりも心の傷の方が断然重く、そして痛い。
「きゃああぁッ!」
「ぐううぅ……っ!」
最後方にいたマナとて、その風の刃から逃れることは出来なかった。
文字通りその場にいた全員が、誰一人の例外もなく巻き込まれたのだ。
特にウィルとグラムの傷が重い。肩や腕、足など様々な箇所に深い裂傷が刻まれている。患部からは止め処なく鮮血が溢れ出し、床を赤で染めていく。
「きゃはははッ! そうよ、あなたたちみたいな下等生物はそうやって地べたを這い蹲っている方がお似合いですわぁ!」
ヴィネアは見事に吹き飛ばされた彼らを見て、さぞご満悦だ。片手を己の口元に添え、至極愉快そうにケラケラと笑っている。
そして重傷を負って動けなくなったウィルやグラムを見下ろして「ふん」と鼻を鳴らすと、弾むような足取りでジュードの元へと向かった。
だが、その途中でちびの遺体を見つけると、その風貌は悪戯でも考え付いたようなものへと変わり――
既に事切れたちびの身を、片足で思い切り蹴り飛ばした。
「……!」
「あははっ! きゃはははっ、おもしろーい!」
ジュードはうつ伏せに倒れたままその光景を目の当たりにすると、怒りの感情と共に胸の内で何かが膨れ上がるような錯覚を覚えた。
彼の交信能力は今もまだ封印されたままだ。だと言うのに、何かが膨れ上がって破裂してしまいそうな――そんな感覚。
だが、そんな時だった。
「――まさに下劣の極み。あなたのその声は非常に不愉快……耳障りですわ」
ふと、聞き覚えのない声が彼らの鼓膜を揺らしたのである。
何事かと思わず最深部出入り口に目を向ければ、そこには金髪の少女が一人佇んでいた。
肩に付かない程度の柔らかそうな金髪に、白い肌。双眸は大きく美しいエメラルド。楚々とした非常に可愛らしい少女だ。
少女は自分を振り返るヴィネアを見据えると、腰に提げていたレイピアを手に取る。
そして忌々しそうに己を見つめるヴィネアに、先の言葉通り不愉快そうに眉を寄せた。