第五十三話・強大な存在
その頃、ジュードとウィルの帰りを待っていたカミラたちは突如としてラギオの家を飛び出していったちびの後を追い掛けて、里の奥に続く道を駆けていた。いつまでも戻らぬ二人を心配して、その最後尾にはラギオとイスラの姿も見える。族長の慌てた様子は里の住人たちも気になったようで、更に後ろからは里の若い衆も数人同行していた。
カミラの肩に乗るノームは小さなその身を震わせながら円らな瞳を潤ませている。ノームもライオットも先程からずっとこのような状態だ、完全に何かに怯えていた。
「ううぅ……気持ち悪いに、ムカムカするに……」
「なによ、二日酔いじゃあるまいし」
「こ、この感覚には覚えがあるナマァ……きっとアルシエルが持つ魔剣だナマァ……」
「アルシエル……魔族を率いる男ですか?」
マナの頭の上で腹這いになって顔を伏せるライオットの声は全く以て元気がない、その言葉通り非常に具合が悪そうだ。ルルーナは駆けながら横目にマナとライオットを見遣り一言呟くように洩らし、続くノームの言葉にはリンファが反応する。
――アルシエル。これまでにも何度か聞いた名前ではある、魔族の王サタンに代わり現在の魔族を率いる親玉だ。カミラは思わぬその名に眉を寄せると視線のみを横に動かし、肩のノームを見遣った。
「まさか、アルシエルが来てるの?」
「そ、それはないナマァ。ここは神の聖石に守られてるナマァ、精霊に所縁のある者しかこの里は見つけられない筈…」
「ちびが多少のことであんな風に反応する筈ないわ、きっとジュードに何かあったのよ。急ぎましょ!」
「マナッ!」
まるで弾丸の如く飛び出していったちびの姿は既に見えない、全速力でジュードの元に駆けて行ったのだろう。そう考えればマナの胸中には焦りばかりが生まれた。
声を上げた彼女に咎めを向けたのはルルーナだ、何事だと視線をそちらに向けてみれば鬼の形相とまではいかなくとも、複雑な面持ちでマナを睨み――そして次にその双眸を言葉もなく後方に流す。最初こそ不思議に思ったが、一拍の思案の末に思い至った。
ラギオとイスラに気を遣えと言うのだ。確証はなくとも、彼ら二人がジュードの祖父母である可能性は非常に高い。初めて逢えた孫に何かあったのではないか、そう聞いて穏やかでいられる筈がないのだ。
そこまで理解してマナは顔の前に片手を立てると片目を伏せる、ルルーナはそれを見て一息洩らすとそれ以上は何も言わずに進行方向へと視線を戻した。「仕方ない」とでも言いたげに。
「(今のジュードは力を封印されてるのに、もしアルシエルに遭遇したりしたら……!)」
カミラは口唇を噛み締めると固く拳を握り締める。走っても走っても、やはりちびの姿は彼女たちの視界には映らなかった。
今のカミラたちにジュードたちの正確な居場所は分からない、ただちびが此方に駆け出したから同方向へ向かって駆けているだけなのだ。この道の先にジュードとウィルがいると言う確証は何処にもない。
「(もし道が間違っていたら……)」
そう考えると、カミラは全身から血の気が引いていくような錯覚を覚えた。
道が間違っていて、自分たちの知らないところで二人が危険な目に遭っていたら――考えれば考えるだけ恐ろしくなったのだ。
「(こっちでいいの? 本当にジュードとウィルはこっちなの? 二人は……大丈夫なの?)」
次々に浮かぶ疑問に比例して彼女の中には津波のように恐怖が押し寄せた。また自分の知らない場所で大切な人が奪われるのではないか、何よりも大きい恐怖はそれだ。
しかし、不安と恐怖で軽い眩暈を起こしかけた時、そんな彼女の耳には一つの声が届いた。
『――カミラ、どうした。何かあったのか?』
「(――!! ジェントさん……!)」
声と同時に、彼女の視界の片隅には赤毛の青年の姿が映り込む。
カミラは既にその正体を知っている、伝説の勇者と呼ばれるジェントだ。彼の姿を認識するなり、カミラは涙腺が緩むのを感じた。恐怖を掻き消す言葉にならない安心感と共に。
* * *
眩い閃光が止んだ時、ウィルは朦朧とする意識を何とか繋ぎ止めながらそちらを見遣る。既に蹲っていることさえ難しい、うつ伏せに倒れながら、それでも意識を飛ばすに至らないのはやはりジュードの身を思うが故にだ。出血は既に止まることを知らず、次々に溢れては地面に血溜まりを作っていく。
ジュードとアンヘルが取っ組み合うように倒れ込んだまでは記憶している、だがその後はどうしたのか――突如として眩い光に包まれたことで状況が確認出来ずにいた。アンヘルはジュードの身体を乗っ取ろうとしていたのだ、ジュードは大丈夫なのか。激痛に意識を呑まれそうになりながらも気掛かりなのは彼の安否なのである。
しかし、その閃光が収まった時、そこにはジュードの上から飛び退いたと思われるアンヘルと、上体を起こすジュードがいた。
「ジュ……ジュード……っ」
何が起きたのかは分からないが、取り敢えずは大丈夫のようだ。それを確認してウィルは顔を伏せた。
ダーインスレイヴにより刻まれた傷は、既に二の腕の深い部分までを裂いている。このままいけば、骨が砕かれるのも時間の問題だ。腕を切断した後は肩までを裂き、いずれは全身に及ぶのだろう。先程から治癒魔法を施してはいるが、傷は塞がるどころか嘲笑うかの如く広がっていくばかり。そしてその度にウィルに激痛を齎してくる。
命が尽きるその時まで、この傷は肉体を蝕み蹂躙するのか――ウィルは自嘲気味に笑った。
「う、うぅ……なんだ、何が……」
ジュードは不意に己の上から消えた重みに小さく頭を振りながら身を起こす、先程までの金縛りのような感覚は既に何処にもない。指先だけでなく、四肢は自由に動いた。
そしてアンヘルは警戒を露わに後退し、放った魔剣を拾い上げながら穴が空くほどにジュードを睨み付ける。心なしか顔色が悪く、その口唇からは浅く荒い呼吸が洩れていた。まるで自分よりも強大な何かを前に恐れ戦くように。
「(なんだ、今のは……コイツの中には触れてはならない領域がある……!? オレを拒むと言うのか……!)」
アンヘルは魔剣の柄を固く握るが、この魔剣でジュードを斬り付ける訳にはいかない。血の魔剣ダーインスレイヴは対象の命を奪うもの、ジュードを殺してはならない。それはアルシエルに固く言われている。
しかし、アンヘルは確かな存在をジュードの中に感じていた。殺すとか殺さないとかではない、彼の中には自分や――恐らくはアルシエルさえも知り得ていない何かがある。
ジュードの身を乗っ取ろうとした先程、アンヘルは彼の心に触れた。だが、その瞬間。光輝く何かが全力でアンヘルの存在を拒絶したのだ。出ていけと言わんばかりの強烈な閃光――それが先の、両者を包んだ眩い光だ。
更に言うのなら、アンヘルはジュードの上から退いたのではない。拒絶の意志を見せた何かに大きく吹き飛ばされたのだ。
「(コイツ……何を隠してやがる、野放しにはしておけない。最悪、その正体だけでも突き止めてやる!)」
アンヘルは忌々しそうに舌を打つと、己の内に込み上げる恐怖から敢えて目を背ける。そして奥歯を噛み締めると再びジュードへ飛び掛かった。