第五十二話・侵食
ジュードとウィルは目の前に立つ男の挙動の一つ一つを注意深く観察する。
男が手にしている禍々しいオーラを放つ剣は、実際にその威力を目の当たりにせずともまるで本能が警鐘を鳴らすかのように全身が竦んでいた。
一度その刃の一撃を受ければどうなるか、想像もしたくないほど。
アンヘル・カイドと名乗った目の前の男はジュードとウィル、それぞれを観察した後に薄く口元に笑みを滲ませると剣を掲げ、次の瞬間に思い切り振り下ろす。互いの間には充分な間合いがある、幾ら刃が大きくとも直撃する距離ではない。
しかし――
「!?」
「ジュード、跳べッ!」
剣が床を直撃した刹那、地面を這う衝撃波が発生したのだ。
衝撃波は一直線にジュードとウィルに向かって来る、その高さは彼らの身長以上。ウィルは双眸を見開くと咄嗟に声を上げた。
二メートルはあろうかという波の横幅は一メートル前後、ジュードは右に、ウィルは左に大慌てで跳ぶ。頭から全力で跳び込み、直撃する前に辛うじて回避に成功するとジュードは軽く地面を転がりながら腰に提げる鞘から剣を引き抜いた。その身軽さは彼が持つ武器の一つだ。
アンヘルはそんなジュードに特別驚くような素振りも見せない、まるで想定内とでも言うかのように薄らと笑みを浮かべるのみ。
「へぇ、回避能力は結構なものだな。けど、お前と違ってそっちはどうかな」
「……ウィル!? どうした!?」
剣を持たぬ逆手の指先を己の口元に添えながら、アンヘルは何処か楽しそうにクスリと笑うが次に紅の双眸は蹲ったまま臨戦態勢に入れずにいるウィルへと向けられる。その視線を辿ってジュードは思わず声を上げた。
跳べと言ったのはウィルだ、彼の身体能力とて決して悪くはない。寧ろ常人よりも秀でている筈。確かにウィルも今の攻撃は避けられていたのだ。
「だ、大丈夫だって」
「何言ってるんだ、ちっとも大丈夫そうじゃ……」
「ふふ、痩せ我慢はやめた方がいい。お前がどうなるかはもう決まっている」
ウィルはジュードの声を聞くと、蒼い顔をしながら口元に笑みを刻む。だが、その顔色は明らかに悪く、額には脂汗が滲んでいた。決して問題がないとは言えない。
ジュードは見るからに大丈夫とは言えないウィルに思わず声を上げそうになるが、続いたアンヘルの言葉に怪訝そうな面持ちで彼を見遣る。どういう意味だ――言葉には出さずとも、視線にその意味を込めて。
するとアンヘルはさも愉快そうに喉を鳴らして笑い、恍惚とした表情を浮かべながら逆手の指先で剣の切っ先を優しく撫でる。まるで大層愛しいものを扱うかのように。
「この血の魔剣ダーインスレイヴで斬られた傷は決して癒えない、どのような掠り傷でも時間の経過と共に自ずと傷口を広げ、いずれその身を引き裂く。……ふふ、お前の腕の傷はどのくらいの時間でその腕を切断に至らせるだろうな。お前がその傷に命を奪われるにはどれくらいの時間が必要か……」
その言葉にジュードもウィルも一瞬呼吸を忘れた。
先程、ウィルが身に受けた傷は極々小さなものだ。調理中に誤って指を切ってしまったような、それほどの。だが、改めてジュードがウィルの片腕に視線を向けた時、既にその腕には滴るほどの出血が確認出来た。
刻まれた傷口が、自ら広がっているのだ。最初はごく僅かな傷であれ、時間の経過と共に広がっていくのであれば――アンヘルの言うように、確かにいずれは腕を切断するに至るだろう。
しかし、アンヘルはそこでつまらないとばかりに表情を変えると剣を構える。
「興味はあるが、オレはそんなに気が長くない。せめて苦しまないようにこの場で殺してやろう」
至極当然のように告げると、次の瞬間アンヘルは地面を強く蹴って飛び出した。彼の視線の先にはウィル――右手に携える魔剣を固く握り締めると、猛獣が獲物を駆るように舌なめずりを一つ。
しかし、ウィルにその剣を振るうよりも先にアンヘルは右側から強い衝撃を受けて体勢を崩した。
「――やらせるかッ!」
「……っ、へぇ……」
ジュードだ。彼が、ウィルに突撃するアンヘルの真横から飛び蹴りを叩き込んだのである。
軽く飛ばされたアンヘルは空中で体勢を整えると逆手を地面につき、大して堪えた様子もなく無事に着地を果たす。右肩に直撃した蹴りによる鈍痛にさえアンヘルは愉快そうに笑うが、その反応がジュードの神経を逆撫でする。突然やってきて、このような事態――アンヘルという、この自分と同じ顔をした男が何を考えているのか全く分からなかった。
「お前、なんでこんなことするんだ!」
「アルシエル様が仰ったからだ、贄以外なら誰を何人殺しても構わないと」
「なんだと……!? アルシエルに言われたら何でもするのかよ、何とも思わないのか!」
「当たり前だろ、俺にとってあの方以外のものは何の価値もない。お前は俺のものにする、他の奴は全員殺す――それだけだ」
まるでそれが普通のことのように淡々とした口調で告げると、アンヘルは今度はジュード目掛けて駆け出した。この男がアルシエルの手先だと言うのは理解出来る――だが、アンヘルにはこれまで遭遇してきた魔族とは明らかに異なる点がある。
それは、肌の色だ。アグレアスやヴィネア、イヴリースにメルディーヌ。これまで遭遇してきた人型の魔族はいずれも病人のような真っ白い肌をしていた。
しかし、このアンヘルは違う。ごく普通の人間と同じ健康的な肌の色をしているのだ。
半分は人間だったらしい吸血鬼のあの男とて肌の色は魔族のものであった。ならば、このアンヘルは――
「くッ!」
「引っ掛かったァ! バカな奴、接触しちまえばこっちのモンだ!」
「何を……っ!?」
ジュードは頭上から振られた魔剣を利き手に携える愛剣で受け止める。辺りには金属の衝突音が響き渡り、鍔迫り合いへと持ち込まれた。
だが、アンヘルの狙いは別にあったらしい。口角を引き上げるなり魔剣を両手で持ち直し、そのまま力任せに真横に薙ぎ払う。すると予想だにしない動きに、ジュードの手からは容易に剣が飛んだ。それを見てジュードは舌を打つと、次に己の腰裏へと利き手を伸ばす。彼の戦闘の型は二刀流だ、武器はもう一つある。
「無駄だ!」
ジュードの手が腰裏の武器に触れるよりも先に、アンヘルは魔剣を放ると片手はジュードの右手に、逆手を彼の肩に添えて体当たりをかました。突然の体術に反応が遅れ、振り解こうとするもののバランスを崩してその場に転倒する。
倒れる拍子に僅かに身を丸めたことで後頭部を固い地面に強打することだけは避けられたが、その代わりにぶつけた背中にはやや強めの痛みが走った。己にのし掛かるアンヘルを睨むように見上げ、当のアンヘルはジュードから向けられるその双眸にさえ愉悦を滲ませて笑う。
そして上体を倒して互いの額同士を合わせると、ジュードは胸を鷲掴みにされるような錯覚を覚えた。それと同時に何かが侵食してくるような言いようのない奇妙な感覚も。
「う……あ、ぁ……ッ!」
「あははは! 今からオレたちは一心同体だ、お前のこの身体を戴く――!」
その言葉にジュードは双眸を見開いた。何とか振り払わなければと、そうは思うのだが、まるで金縛りにでも遭ったかのように指先一つ動かない。
自分の中に何かが入り込んでくる――じわじわと胸の中心から全身に走る、侵食されるような感覚に苦悶を洩らした次の瞬間、ジュードは目の前が真っ白な閃光に包まれるのを感じた。