第四十七話・結界の先
「ど、どうなってるんだ、これ……」
精霊の森——そう呼ばれる場所に足を踏み入れたジュードたちは、目の前に広がる光景に思わず言葉を失った。
なぜなら、大雪に見舞われた筈の水の国アクアリーに存在する場所ながら、その森には一切雪が降り積もっていなかったからだ。延々降っていた雪は既に止んでいるが、アクアリー全土は未だ大雪が積もっている。そんな中で全く積雪がないというのは普通では考えられない。
木々はその命を燃やし尽くすこともなく青々としているし、足元には様々な草花が生えている。とても季節が冬だとは思えない光景が彼らの目の前には広がっていたのだ。
ライオットはちびの頭の上から飛び降りると、なぜか妙に誇らしげに腹にしか見えない胸を張ってみせた。
「これが精霊の森だに、精霊族の里にある聖石があらゆる現象からこの森を守ってるんだによ!」
「でもみなさん気を付けてくださいナマァ、はぐれて迷子になると森から出られなくなるナマァ」
「じゃあ、あんたたちに付いていけばいいのね」
「分かったからさっさと案内してちょうだい、早いところ方法を見つけて陛下のご心痛を和らげて差し上げたいわ」
見たところ特別深い森という訳でもなさそうだが、この森のことを知るライオットやノームが言うからには迷うと出られない何らかの仕掛けがあるのだろう。
マナは了承の意味を込めて頷き、ルルーナは辺りを見回しながら急かすように精霊二人に言葉を向けた。彼女は地の国の貴族ではあるものの、リーブルのことは特に気に掛けている。その言葉からは純粋な心配の念が滲み出ていた。リンファはそんなルルーナを横目で見遣ると、余計な言葉を掛けることはせず——それでもほんの僅かに表情を和らげた。
「分かったに、こっちだにー!」
「ノームは一番後ろからみなさんに付いていくナマァ」
「ああ、そうしてくれ。それならはぐれるような心配もないな」
先頭はライオットが、殿はノームが務める。精霊二人が前後にいてくれればはぐれる可能性は低い、万が一はぐれてしまってもノームが導いてくれるだろう。
ライオットの後に続きながらジュードは珍しく口を閉ざしたまま黙々と歩く、カミラはそんな彼の傍らに並ぶと横から彼の顔を覗き込んだ。ジュードは別に普段からあれだこれだと騒ぎ立てる喧しいタイプではないが、大人しい訳でもない。彼の口数が明らかに少ないことにカミラは気付いていた。
ウィルは初めて訪れた精霊の森の神秘的な雰囲気に完全に心を撃ち抜かれているし、今は自分がジュードの支えにならなくては、と妙な使命感を持っているのだ。
* * *
——だが、森に入って約一時間。
一向に精霊の里とやらには着かない。聖石の力のお陰か、幸いにも魔物の襲撃こそないが延々歩き続けて多少なりとも疲労を感じ始めた頃にウィルが口を開いた。
「……おい、ライオット。ここ通るのもう五回目だぞ」
「う、うに!? わ、分かるのに!?」
「地形を見りゃなんとなく覚えるだろ、その奥の木は特徴的だし草の生え方も記憶するには十分な並びだし……その奥を曲がったら次は右と左に道が分かれてて、右が近道、左が遠回りになるけどどっちも結局は入口方面に戻る。右側の途中の獣道は行き止まりで、左には小さい池があったな。俺の記憶してる限りだと行ってない道はないと思うんだが……」
「ううぅ……」
淡々と告げるウィルにライオットは蛙が潰れたような声を洩らしてしょんぼりと俯く、どうやら完全に道に迷ってしまったようだ。ルルーナはライオットの前で足を止めると両手を腰に添えてもっちりとしたその身を見下ろした。
「アンタねぇ……偉そうなこと言っておきながら迷うってどういうことよ、迷ったなら迷ったでもっと早く言いなさいよね」
「ご、ごごごめんなさいにー……でもおかしいに、入口が見つからないに……」
「入口が見つからない?」
「確かに前の場所に入口がなかったナマァ……もしかしたら魔族の襲撃を警戒してもっと複雑な場所に変えたのかもしれないナマァ」
ライオットは真ん丸とした双眸を涙で潤ませながら謝罪を口にすると周囲に視線を向ける。その言葉にマナは不思議そうに首を捻った。ライオットの言葉を肯定するノームにリンファは向き直ると、困ったように彼女もまた辺りを見回す。
その可能性は否定出来ない——だが、もし精霊の里に通じる出入り口の場所が変わっていたのならどう探せと言うのか。
そんな仲間たちのやり取りを聞きながら、ジュードは静かに足を踏み出す。カミラはそんな彼に瑠璃色の双眸を瞬かせると、慌てたように彼の後に続いた。
「ジュ、ジュード、どうしたの?」
「いや、この岩……」
ジュードは木々の間に鎮座する岩に目を留めていた。何かが見えた訳ではない、聞こえた訳でもない。ただ——本当になんとなく、気になったという程度のもの。
だが、そっとジュードが岩に触れた時、彼の指先を中心に目の前の空間に水面の如く波紋が広がったのだ。ライオットはその場でピョンピョンと飛び跳ねると思わず声を上げた。
「うに、うに! マスターそれだに! それが入口だに!」
「い、入口? これが?」
「そうナマァ、外部からの侵入を阻むために精霊の里の出入り口には周囲の景色と擬態する特殊な結界が張り巡らされてるんだナマァ、その先が精霊の里ナマァ!」
ライオットとノームの言葉にジュードは一度彼らを振り返るが、すぐに目の前の岩に向き直る。肉眼では確かに岩が置いてあるだけなのだが、この先に精霊族が暮らす里があると言う。
カミラは暫し心配そうにジュードの様子を窺っていたが、軈て彼の手を引くとその先へ促した。
「……よし、行こうジュード! 水の国の人たちを戻す方法を必ず見つけようね!」
努めて明るい口調で誘いを向けてくるカミラにジュードは数度瞬きを繰り返すと、その意図を理解してしっかりと頷いた。彼女はジュードが抱える両極端な想いに気付いているのだ。それを問うことはせず元気付けようとしてくれる様子に、ジュードは堪らない愛しさを感じた。
——そうだ、身を変えられてしまった水の国の人間たちを元に戻す方法を探してここまで来たのだ。本来の目的を忘れてはいけない。
* * *
結界を通り抜けた先には、ごく普通の村に似た風景が広がっていた。
畑があり、小川が流れ、家畜がいる。精霊族の住む里だと言われない限りは何処かの村に迷い込んだとしか思えないような長閑な雰囲気。
建ち並ぶ家屋も村々とほぼ変わらない一般的な木造の小屋ばかりである。周囲こそ大きな木々に覆われてはいるものの、幻想的であったり神秘的な様子は森とは異なり一切見受けられない。
「……ここが、精霊の里なのか?」
「そうだに、一番奥が族長の家だによ。聖石のところまで行くには族長の許可が必要だに!」
ライオットのその言葉を聞きながら、リンファはそこで足を止める。腰裏にある得物に手を伸ばしはしないものの、明らかな警戒を滲ませて里に視線を巡らせた。
「……しかしライオット様、私たちは歓迎されていないようです」
「そうみたいねぇ、珍しいものでも見るような顔されちゃってるわ」
リンファの呟きに反応したのはルルーナだ、彼女の紅の双眸も里の中に向けられている。その眸が捉えるのは辺りにいた精霊族と思われる里の住人たち——彼らは皆一様にジュードたちに様々な意図を孕んだ視線を送ってきていた。
警戒するもの、敵意を滲ませるもの、恐怖するもの——本当に様々なものを。




