第四十二話・残された絶望
メルディーヌはせり上がってくる血を盛大に吐き出した。貫かれた身が痛い、腹部からは止め処なく血が流れ出ていく。顔の右半分には深刻なまでの激痛が走り、右目は完全に潰れていた。目が開いているのか閉じているのかさえ分からない感覚だ。
無事な左目を開けて、メルディーヌは必死に目の前の男を視界に拾う。美しい白の光に包まれた剣を携えるその男は、頭や胸、脇腹や四肢など様々な箇所から血を流しているが、目は死んでいない。明確な敵意を宿してメルディーヌを睨み据えてくる。
立ち上がらねば、この男を殺さねば。そうは思うのに意志に反してメルディーヌの身体は動いてくれなかった。力なくその場に崩れ落ち、意識が薄れていく。
――右目が痛い、顔が痛い。
自分の顔に傷を付けたこの男が、自分の芸術的な作品を破壊したこの男が、決して折れず穢れない気高さを持つこの男が――どうしようもなく憎い。
『こ……ろして、やる……ごろじで、やる……ッ! 貴様は、この、ワタシが……必ず……っ!』
『……』
『そして、貴様も……ワタシのコレクションに加えて、やる……ふふ、くふふ……ふは、はははは!!』
その後のことは彼の記憶にはない。次に目覚めた時、男の姿は影も形もなかった。
男が自分に情けを掛けたのか、それとも死んだかどうかを確認する余裕もなかったのかは定かではないが、メルディーヌは生きていた。
そして誓ったのだ、あの男だけはこの手で必ず殺すと。自分にこれほどまでの屈辱を与えたあの男だけは、決して生かしてはおくまいと。
それだけが、メルディーヌの生きる目的となった。
* * *
「……そう、だ……そうだぁ……閃光の衝撃……あの時も、貴様はそうやってワタシの美しい顔に……くふ、ふふふ……」
「……! まだ立てるのか……!」
ジュードは倒れたメルディーヌが動かなくなったのを暫し見下ろしてから、ゆっくりとした足取りで後退する。警戒だけは怠らず、後ろ向きに。
だが、その刹那。不気味な笑い声を洩らしながら、メルディーヌは固く拳を握り締めると殊更ゆっくりとした動作で立ち上がった。様々な箇所から大量に出血するその姿は、生きているのも不思議なほどの凄惨な光景だ。
信じられないとばかりに己を見つめるジュードや他の面々の視線に気付いているのか否か、それさえ定かではない。今の彼は何かに取り憑かれたかのように虚ろな眼をしている。震える手で己の顔右半分に触れ、確認でもするかの如く指先で目の傷を辿った。
――途端、メルディーヌの身からドス黒い霧が勢い良く噴出し、彼の身を覆っていく。そして身を仰け反らせて天を仰ぐと、腹の底から笑い声を絞り出した。
「――ひゃははははッ! そうだ、貴様だ、貴様……貴様がああぁ! ジェントオオオオォッ!!」
「な、なに……」
突然叫ぶように笑い声を上げたメルディーヌに、流石のジュードも怯えたような表情を浮かべて数歩改めて後退る。明らかに先程までとは様子が異なる、一体どうしたと言うのか。ジュードは固唾を呑んで様子を見守った。
今の内に追撃を加えれば良いのかもしれないが、得体の知れない恐怖に足が思うように動いてくれなかったのだ。奴は危険だと、本能が危険信号を出していた。
その場にいる誰もが身動き一つ取れないまま、メルディーヌを見つめる。まるで金縛りにでも遭ったかのように。
しかし、ジュードたちがそれぞれ持つ白銀の光を抱く武器が一際強く輝きを放つと、メルディーヌの身を包む霧が徐々に飛散を始めた。それを見てメルディーヌは一瞬動きを止めると、我に返ったように片手で自らの顔を押さえて項垂れる。
「ふ、ふふ……理解しましたよ、その力はオンディーヌのものですね……ワタシが持つ負を抑え込もうと言うのですか……いいでしょう、今回は退いてあげます。痛み分けと言ったところですね」
「なん、だと……!」
「ふふふ……ワタシがこの都に来るまでの間にどれだけの人間を死の雨で魔物に変えてきたと思いますか? 今やこの国の街や村は、元は人間だったゾンビで溢れ返っていることでしょう。トール・レーゲンを受けた者は二度と元には戻りません、殺せば魂は永遠にこの世を彷徨い続けます。さあさあ、どうしてくれるのでしょうねぇ?」
「そ、そんな……」
メルディーヌのその言葉にジュードやウィルは驚愕に双眸を見開き、マナたちは周囲にいる住民たちに思わず視線を向けた。辺りには未だにトール・レーゲンで身を溶かされ、苦しむ者たちが大勢倒れている。彼らは誰一人として助からないと言うことだ。
完全ではなかったのか、魔物化した者はいないようだが、だからと言ってそれが救いになる筈がない。頭皮や髪が溶け、頭蓋骨がむき出しになっている者が多く、中には脳が見えている者さえいた。目蓋までもが溶けてしまったがために目の渇きに苦しみ喘ぐ者、変わり果てた自らの姿に泣き喚く者、被害は計り知れない。
マナは両手で口元を押さえると、込み上げる涙を堪え切れなかった。つい先程まで当たり前のように生活をしていた普通の人たちが、なぜこうまで惨い目に遭わなければならないのか。そう思うと泣きたくなくとも涙が溢れてきたのだ。
リンファは固く武器を握り締めながら深く俯き、ルルーナは言葉もなく目を伏せる。
「だから、痛み分けです。シヴァは無駄死にでしたねぇ、命懸けで守った国はこの通り壊滅ですから。まあ、元々ワタシの今回の目的はシヴァの始末でしたから非常に満足ですよ――はははッ、あははは!」
彼らの反応にある程度満足はしたのか、メルディーヌは吐き捨てるようにそう言い残すと、まるで空気に溶けるかのように黒い霧に包まれて――その身を消した。
魔族の脅威は去ったが、後に残されたのは先の見えない絶望だけ。リーブルになんと報告しろと言うのか、アメリアにどう言えば良いのか。これでは同盟が結べても、ほとんど意味を成さない。
フォルネウスは暫し上空でジュードたちを見下ろしていたが、軈てゆっくりと地上に降り立つ。そして雪の上に落ちたままの氷の欠片を一つ拾い上げた。
「……お前たち、兄上は死んだのではない」
「……え?」
「我々精霊は竜の神によって生み出され、竜の神と共に死ぬ。神が生きている限り精霊に絶対的な死は訪れぬ、……兄上の魂はまだ此処に」
その言葉にジュードたちは顔を上げると、フォルネウスの手元に視線を合わせた。続いてウィルはライオットを見遣り、その意図に気付いたライオットとノームは揃って静かに頷く。フォルネウスの言葉を肯定するように。
「そうだに、竜の神が生きてる限り精霊は肉体を失っても再生するによ。でも……魂はあっても、シヴァがこれまでと同じ存在として再生出来るかどうかは分からないに。姿形は同じでも、これまでの記憶を一切持たない別の存在として再生する可能性が高いに……」
「それってシヴァさんであってシヴァさんじゃないってこと……? なんにしても今までの記憶は全部無くしたまま生き返るかもしれないってことよね……」
「そうだ、故に私は兄上と共に暫し眠る」
その言葉にライオットとノームは思わず飛び跳ねるほどに驚いた。
シヴァの肉体は失われたが、魂は消えていない。だが、彼を失ったことでこの世界を包む氷の加護は極限まで弱くなってしまっている。その上で水を司るフォルネウスまで眠りに就いてしまったらどうなってしまうことか。
ジュードはそんな二匹の様子を後目に、改めてフォルネウスに目を向けた。
「でも……眠るって、そんなことをしても大丈夫なんですか?」
「問題はない、どの道そうしなければこの地の負を鎮められん。……兄上が自分自身を取り戻せるよう、傍で支えたいのだ」
「……分かりました」
フォルネウスの言葉に小さく頷いてから、ジュードはそちらに歩み寄る。そして彼の手にある氷の欠片に、そっと片手を触れさせた。
「……シヴァさん、ごめんね。今までのシヴァさんでも違ってもいいから、ちゃんと帰ってきてよ」
ジュードが呟くように洩らすと、僅かに――ほんの僅かに氷の欠片が淡く光ったような気がした。それがまるで「承知した」とでも言っているかのようで、ジュードは滲んできた涙を逆手で拭う。
カミラはそんな光景を静かに見守りながら、そっと視線のみで傍らのジェントを見遣る。
メルディーヌは叫んでいた、確かに――彼の名を。聞きたいことは山のようにある、だが今は目の前に積み重なった様々な問題を解決するのが先であった。