第三十話・誘拐
フォルネウスが突き出した槍は、リンファの身に触れる直前で止まった。
当のフォルネウス本人は驚愕したように双眸を見開き、信じられないと言わんばかりの表情で息を呑む。そして構えていた槍を下ろすと、静かに――何処までも緩慢な所作で周囲を見回した。
「あ……あれ?」
駆け出したエイルは思わず目を丸くさせて一度立ち止まる。確かに「やめろ」と叫んだが、本当にフォルネウスが止まるなど可能性として万に一つもないことだと思っていた。
だが、すぐに改めて駆け出すとエイルはリンファの傍らに屈み、彼女の脇腹に片手を翳した。それは水の力を借りた治癒魔法だ。
「エイル、様……何が……」
「わ、分からない、分からないけど……とにかく今は黙ってろ、傷に響く」
リンファの治療をしながら視線のみでフォルネウスを見遣っても、彼はやはり何かを探すように周囲を見回すばかり。襲ってくるような様子はない。そんな姿にオリヴィアも不安になったのか、エイルの後を追うことをやめ、彼の傍らへと駆け寄っていく。
「フォルネウス様! どうなさったんですの!?」
「(気の所為、なのか……? いや……だが、確かに聞こえた……)」
そんなオリヴィアの声も聞こえているのか否か、フォルネウスは辺りに広がる夜の闇に頻りに視線を投じたまま応えない。
彼は確かに、リンファの身を貫こうとしたのだ。
だが、その刹那――彼はある声を聞いた。『フォルネウス、やめろ』と。
それは兄のシヴァのものではない、嘗て彼が深い信頼と忠誠を誓った人間のものだ。
「(いるのか、何処かに……いるのならば、なぜ私の前に現れない……!)」
どれだけ辺りを見回してみても、彼が探し求める姿は何処にも見受けられない。ただただ夜の闇と白い雪原が広がるだけだ。
フォルネウスは固く口唇を噛み締めると、槍の柄を握り締める。そしてその視線をリンファやエイルに向けた。
「(私を止めたと言うことは、あいつはこいつらが正義だと判断しているのか……? この私が間違っていると……)」
そこまで考えてフォルネウスは静かに、そして力なく頭を左右に振る。様々に入り混じる思考を止めるように。
オリヴィアはそんな彼の背中に片手を添え、心配そうにフォルネウスの横顔を見つめた。
「ジュード! みんな!」
そこへ、部屋を飛び出したカミラが駆け付けた。ウィル達に報せるだけの余裕はなかったのだろう、やって来たのは彼女と、ジュードの部屋にいただろうちびだけだ。そのふわふわの頭には常の如くライオットも乗っているが。
リンファとエイルはその声に反射的にそちらに視線を向け、オリヴィアは忌々しそうにその風貌を嫌悪と怒りに染めた。当のジュード本人は麻痺の毒が全身に回ったのか、うつ伏せに倒れ込んだまま身動き一つしない。ちびはそんな相棒の姿を見るなり怒りを滲ませて吼え立てる。
「マ、マスター! フォルネウス、お前マスターに何したにー!?」
「……」
ライオットはちびの頭の上で立ち上がると、短い四肢をバタつかせて憤りを露わにする――が、如何せんその見た目故に迫力はない。
フォルネウスは槍を下ろしたまま暫しライオットを見つめていたが、軈て気配を探るように双眸を細めて再度周囲に視線を巡らせる。その表情が何処か苦しそうに見えて、カミラは戸惑うような面持ちで構えていた剣を下ろした。彼女の目には、何故かフォルネウスが泣いているように見えたのだ。まるで迷子になった子供のような。
だが、彼の視線がカミラを捉えるなり、そんな様子も一変した。驚愕したように双眸を見開いたかと思いきや、突如としてカミラの元へと駆け出してきたのだ。
突然のことに反応が遅れたカミラは慌てて剣を構え直そうとするものの、それは間に合わなかった。
「カミラ!」
「ギャウウゥッ!」
攻撃が来る――誰もがそう思い咄嗟に彼女の守りに入ろうとはしたのだが、それは違った。
フォルネウスは攻撃を加えることなく、カミラの片腕を掴んだのだ。当然ながらカミラは一体何事かと瑠璃色の双眸を丸くさせ、反抗も忘れたようにフォルネウスを見上げる。
「フォルネウス様!? 何をなさいますの!?」
自分以外の女を求めるのかと――オリヴィアはフォルネウスの行動に思わず声を上げて、そちらに駆け出す。
ちびは大口を開けてフォルネウスに飛び掛かったが、それは彼の身に触れることはなかった。直撃するよりも先に、フォルネウスがカミラの身を抱き上げて後方に跳び退ったからだ。
「は、離して! 下ろして!」
「カ、ミラ……様……っ!」
リンファは未だ傷口が塞がらぬものの、武器だけは手放していない。貧血に陥りながら、それでも静かに立ち上がった。エイルはそんな彼女を慌てて止めようとするが、リンファは聞く耳を持たない。
仲間が誘拐されそうだと言うのに、這い蹲っている訳にはいかない――そう思ったのだ。どれだけ身がボロボロになろうと、彼女の気持ちは決して負けてなどいなかった。
オリヴィアは不満顔でフォルネウスに駆け寄ると、物言いたげな様子で彼の横顔を見上げる。次いでリンファは大地を蹴って駆け出し、短刀を固く握り締めてフォルネウスに襲い掛かった。
――だが、それは僅かに間に合わない。
リンファが振り被った攻撃はフォルネウスの身に直撃することなく、空を切るだけであった。フォルネウスとオリヴィアは、彼女の目の前で空気に溶けたように消えてしまった。カミラを伴って、転移の魔法で姿を消したのである。
それを理解するなりリンファは双眸を見開き、そして泣きそうに表情を歪ませた。
「――カミラ様ッ!」
「カ、カミラ……フォルネウス、なんで……どうしてだに……」
ライオットはちびの頭の上で呆然としながらフォルネウスたちが消えた方を見つめ、リンファはその場に両膝をついて崩れ落ちた。固く拳を握り締め、堪え切れない悔しさから大地を殴り付ける。それは、普段感情を表に出さない彼女にしてみれば非常に珍しいこと。それだけの悔しさなのだろう。
仲間を守り切れなかった――それは先程受けた身体の傷よりも遥かに痛い、リンファの胸は刃物を突き刺されたかのように激しく痛んだ。
「目の前でカミラ様を連れて行かれるなど……ジュード様や皆さまになんとお伝えすれば……ッ!」
「リンファ……」
リンファのそのような姿を見るのはエイルとて初めてだ。
これまで見たこともない彼女の姿に、エイルは暫し呆然としたままそんなリンファを見つめていた。