第二十九話・白を染める赤
「オリヴィア、さん……」
「今のわたくしにとって、誰より大切な方はフォルネウス様なんですの。この方はジュード様と違ってわたくしを一人にしませんでしたわ」
今にも途切れてしまいそうな意識を辛うじて繋ぎ止めながら、ジュードはオリヴィアを見上げる。今の彼には既に立っているだけの力も残ってはいない。全身に回りつつある痺れを引き起こす毒の影響だ。
毒は身体に回り、指先一つ動かすことさえ難しい。オリヴィアは抵抗さえままならないジュードを見下ろして、何処か楽しんでいるようであった。その可愛らしい風貌には愉悦に染まる笑みが浮かんでいる。
フォルネウスはジュードの正面までゆったりとした歩調で歩み寄ると、その場に片膝をついて屈んだ。
「……残念だったな、卑怯だと恨みたければ好きに恨め。どうせお前は明日にはサタンに喰われる身だ」
「っ……」
オリヴィアへ向けていた視線を目の前まで歩み寄ってきたフォルネウスに合わせ、そこでジュードは眉根を寄せて表情を顰める。
見れば見るだけ、確かにフォルネウスはシヴァに似ている。いっそ恐ろしくなるほどの美しい顔立ちなど、彼とほぼ同等だ。髪色の僅かな違いこそあるが、兄弟だと言われれば自然と納得が出来てしまう。
このフォルネウスがシヴァの弟であるのなら、単純に魔族だと、敵だと言い切ることも出来ないのだ。
だが、この現状はどうにかしなければならない。しかし、身体が動かない以上は出来ることは何もないのも事実。
手を伸ばしてくるフォルネウスに対し、ジュードは悔しそうに奥歯を噛み締めた。
――その刹那。
「そこまでです! ジュード様から離れなさい!」
「ジュ、ジュード、大丈夫!?」
フォルネウスの手を目掛けて躊躇いも何もない短刀が真横から飛んできたのだ。
それと共に聞こえてきた声にフォルネウスは無感情の双眸を以てそちらを見遣る。すると、やや離れた場所にはリンファとエイルが立っていた。
リンファの姿をそこに認めるなり、オリヴィアは先程までの笑みも何処へやら――その顔を怒りに染め上げて声を上げる。
「リンファ、何をしに来た!? またわたくしの邪魔をしようというのか!」
「オリヴィア様、このようなことをして陛下がお喜びになられるのですか!? 恩あるジュード様を魔族に引き渡すなど……!」
「お父様がわたくしのために何をしてくれたっていうの!? お父様もお前も、みんなみんな大嫌い! わたくしを必要としてくださるのはフォルネウス様だけよ!」
国王リーブルの想いは、やはり娘のオリヴィアには届いていなかったのだ。
これまで甘やかしてきたからこそ、娘のためを想い多少厳しく当たるようになったのだが、彼女は父のその態度を「愛されていない」と解釈してしまったのだろう。
それ故にオリヴィアは心を閉ざし、唯一優しくしてくれたフォルネウスに心酔するようになったのだと思われる。彼女の言葉通り、フォルネウスは今のオリヴィアにとって全てなのだ。
リンファは口唇を噛み締めるが、それ以上は彼女に言葉を向けることはせずにフォルネウスに向き直る。オリヴィアのしたことは問題だが、とにかく今はジュードを助けることが最優先だ。
あわあわと慌てるエイルを後目に、リンファは勢い良く駆け出す。そんな彼女を見てフォルネウスは屈んでいたそこから静かに立ち上がると、利き手を天に向けた。
すると、淡い水色の光が彼の手に集束し、軈てその光は三叉の槍――トライデントの形を成し、フォルネウスの手に収まる。それは地の王都グルゼフで彼が振るっていた武器だ。
「リ……リンファさん……ッ!」
ジュードは、その槍の威力がどれほどのものであるのかを身に染みて理解している。リンファの身のこなしが常人より遥かに優れているにしても、フォルネウスを相手に一人では無理だと――ジュードはそう思ったのだ。直撃を受ければただでは済まない。
相手は今は魔族とは言え、元は大精霊。シヴァと同等の力を持った存在なのだから。
だが、リンファとて引けない理由がある。此処で自分が引き下がればジュードが連れて行かれる、そのようなことを彼女が許せる筈もなかった。
リンファは腰裏から別の短刀を引き抜くと、迷うことなくフォルネウスに斬り掛かる。振り被り、逆手で持つ短刀を思い切り振り下ろしたのだ。
フォルネウスは表情一つ変えることなく手にした槍の柄でその一撃を防ぐ。しかし、その程度でリンファは攻撃の手を休めたりはしない。素早くその手を引き、共に身を翻すことで今度は真横に刃を振るった。
ウィルも苦手としていることだが、槍は長さの問題で懐に入られると切り返しに難がある。更にリンファは持ち前の素早さを活かした――手数で勝負するタイプだ。圧倒的に有利と言える。
「やあああぁッ!」
「――っ、ほう……」
矢継ぎ早に繰り出される躊躇さえない攻撃の数々をフォルネウスは槍の柄を使い防ぐが、それは完全な守りにはならない。彼の頬や腕、肩など様々な箇所に裂傷が刻まれていく。
視線のみを動かすことでフォルネウスはそれを確認すると、依然として無表情のまま何処か感心したような声を洩らした。
「(流石に急所には入らせないか、せめて一撃だけでも叩き込めれば――!)」
リンファは相変わらず無表情のままのフォルネウスに奥歯を噛み締め、更に連撃を叩き込もうとはしたのだが――そんな彼女の背中に唐突に声が掛かった。
「お待ちなさい、リンファ! 武器をお捨て!」
「……ッ!? エイル様!」
それは、オリヴィアの声だった。
先程投げ捨てたナイフを拾い、エイルの首にその切っ先を宛がっていたのだ。
オリヴィアは戦闘に関しては完全な素人だ、エイルとて彼女に力負けはしないだろう。だが、オリヴィアは水の国アクアリーの王女であり、エイルはその国の兵士――王女に反抗などして良い筈がない。
その光景を目の当たりにしてリンファは咄嗟に攻撃の手を止めると「ごごごめん」と蒼褪めながら告げるエイルに歯噛みした。
「所詮は人間か――くだらぬ」
攻撃の手を止めたリンファ見てフォルネウスはつまらなさそうに双眸を細めると共に鼻を鳴らし、利き手に持つ三叉の槍を彼女の腹目掛けて思い切り突き出した。
「――リンファさん!」
「リ、リンファ……! うわああぁッ!」
リンファが直前で身を横にずらしたことで腹部への直撃は免れたが、槍の切っ先は彼女の脇腹を深く抉った。真っ白な雪に鮮やかな赤が舞い、その色に染め上げていく。
衝撃でリンファの身は吹き飛ばされ、深い裂傷が刻まれた脇腹の激痛に彼女は双眸を見開いた。一拍遅れで全身に襲い来るその激痛に流石の彼女も苦悶を洩らし、反射的に傷を片手で押さえる。脈を打つのに合わせて溢れ出てくる血の生温かさに無意識の内に「死」を感じた。
フォルネウスは改めて槍を構え、再度リンファに照準を合わせる。今度は倒れ込んだまま動けずにいる彼女の命を確実に奪おうと言うのだ。
見れば彼の肩や頬に刻まれた傷はすっかり消え失せている、まるで最初から傷など負っていなかったかのように。
「(以前ジュード様が仰っていたのはこういうこと……精霊には深手を負わせられない……ましてやこの方は元は大精霊、私などが敵う相手ではないのか……)」
エイルは今にも泣き出しそうな顔で傍らのオリヴィアを見遣り、相手が王女であることも忘れたように声を上げた。
「あんた、なんでこんなことするんだよ! リンファが殺される!」
「殺されてしまえばいいのよ、あんな女。わたくしの居場所を悉く奪ったんですもの、いい気味ですわ!」
「本気で言ってるのか! この――ッ……!」
オリヴィアのその言葉にエイルは目の前が真っ赤に染まるような錯覚を覚えた。斬り付けられてもいい、リンファの助けに入らないと――そう思うなり、エイルは彼女の元へと駆け出す。
案の定、背中には「お待ちなさい!」というオリヴィアの声が届いたがエイルは止まらなかった。リンファが攻撃の手を止めたのは自分の責任なのだ、だから自分が彼女を助けないと。そう思うと止まれなかったのである。
「トドメだ、恨むなら贄を恨むんだな」
「やめろおおおぉッ!」
エイルが上げた声は、まるで悲鳴のようだった。