第二十八話・オリヴィアの目的
『……カミラ、まだ決まらないのか?』
夕食を終えた城の一室では、カミラが寝台に腰を掛け頭を抱えて唸っていた。そんな彼女の正面には、未だ正体が不明の赤毛の青年――ジェントが困り顔でカミラを見下ろしている。
うんうん唸りながら頭を働かせるカミラはと言えば、先程から顔を真っ赤にして俯いていた。現在の彼女は彼――ジェントに何から聞こうかを必死に考えているのだ。
落ち着ける場所に着いてから話そう、とそう言っていたのはジェント本人であり、彼自身もカミラが抱いているだろう疑問への返答を拒否する気はない。それ故に何から聞いてくれても問題ないと思ってはいるのだが、彼女の中では何から聞くか、というのは重要な事柄らしい。先程からずっとこの調子だ、部屋に戻ってきてもう三十分は経とうとしている。
ジェントの呆れたような声にカミラはそっと顔を上げると、困り顔で静かに口を開いた。
「だ、だって、何から聞けばいいか分からなくて……」
『……取り敢えず、君が今気になっていることを聞けばいいんじゃないか?』
「え、えっと、それじゃあ……あなたは、わたしたちの敵じゃないんです、よね……?」
流石に待たされ過ぎたのか、ジェントが向けた妥協策にカミラは指折り何かを数えながら一番気になっていたらしい疑問を口にした。
するとジェントは特に躊躇うような間もなく静かに頷く。
『そのつもりだ、君たちに敵意を持つ理由がない』
「そうですか、よかった……でも、あなたは一体誰なんですか? どうしてあれに宿っているんですか?」
『誰、か……それは難しい質問だが、もう一つの質問に対する答えは未練が……やり残したことがあるから、なんだろうな』
「じゃ、じゃあ、あなたは幽霊なんですか!?」
未練ややり残したことがあるから、と言う言葉で連想するのはやはり幽霊などの存在だ。未練があるから成仏出来ずに世を彷徨っている、カミラも例に洩れずそう思ったのである。
するとジェントは一度双眸を丸くさせ片手を己の顎の辺りに添えると、数拍考えるような間を要してから薄く笑い肯定を返した。
『幽霊……はは、そうだな、そんなものだ。過去の亡霊とでも思ってくれ』
「ひえ……っ」
幽霊――今まで、カミラは巫女だからとそういった類の存在をあまり恐れたりはしなかった。悪霊がいたとしても、彼女であれば光の魔法で一掃出来るからだ。
しかし、今目の前にいるこの青年は彼女にとって敵ではない。たった今、それを確認したばかりでもある。では、そんな幽霊とどう接していけば良いのか、それが分からなかったのだ。
何処か引き攣った声を洩らすカミラを幾分微笑ましそうに見遣り、ジェントはふと眦を和らげた。怖がらせるつもりはなかったが、どうやら必要以上に衝撃を与えてしまったらしい。
それでも、彼女にはまだまだ多くの疑問があるだろう。揶揄もほどほどにしておかなくてはと、ジェントはそう思ったのだが、その刹那――
「ど、どうかしたんですか?」
「……」
不意に、ジェントが部屋の窓へ勢い良く向き直ったのだ。それを見てカミラは小さく肩を跳ねさせると、恐る恐ると言った様子で彼の様子を窺う。敵ではないにしても、やはり彼の正体は不明だ。オマケに幽霊だと言う――警戒は怠れないと思ったのである。
だが、当のジェント本人はカミラの問いかけに応えない。ただ一点――窓を凝視したままだ。何を見ているんだろうと、カミラは彼の視線の先を追ってみたが、彼女の目には特に何も映らなかった。
しかし、暫しの沈黙の末にジェントは弾かれたようにカミラに向き直り、口を開く。
『……ジュードは!?』
「えっ? お、お部屋で休んでるはずですけど……」
『早く部屋に、フォルネウスが来る!』
「え……ッ!?」
その言葉に、カミラは全身から血の気が引いていくのを感じた。
フォルネウスが来る――ジュードを捕まえに。圧倒的な力を持つ大精霊が、自分の大切なものを奪いに。
それを頭で理解するなり、カミラは寝台から立ち上がり出入り口に立て掛けてあった剣を手に部屋を飛び出した。
* * *
「そうなんですか、グルゼフでそんなことが……大変だったのですね」
その頃、ジュードはオリヴィアに連れられて王都の外にある森へと足を運んでいた。――尤も、森と言っても『元』だ。今ではすっかり雪に潰され、聳えている木は少ない。降り積もった雪に倒されてしまったものが多く、無事な木と言えば雪にも倒されない頑丈なものだけ。
王都から離れて大丈夫なんだろうか、ジュードはそう心配しながら先を歩くオリヴィアの背中を眺める。オリヴィアはこの国の王女だ、一般人と一緒に歩いているところを民に目撃されるのは少々問題がある。それ故にこうして人目を避けて都の外まで来たと言うのは理解しているのだが、今は状況が状況だ。出来るだけ都からあまり離れない方が良いのでは、と思っていたのだ。
この大雪で魔物の襲撃こそないが可能性がゼロとは言えないし、辺り一面に広がる雪原が問答無用に方向感覚を狂わせる。あまり都から離れ、帰り道が分からず遭難など冗談ではなかった。
「それで、皆様は明日また行ってしまわれるのですわね……」
「は、はい、あとはミストラルに書状を届けないと……その後はエンプレスに戻り、女王様に協力するつもりです」
厳密に言うのであれば、今後ジュード達がどうなるか現段階では分かっていない。
魔族が今後もジュードの身を狙ってくるのであれば、彼が何処かの国に留まることはそれだけでも危険なのだ。そのため、この任務を終えた後に女王が彼らをどうするのか――それはジュード自身気になることではあった。
その言葉通り彼自身は協力したいと思ってはいるが、国側がそれを求めない限りは叶うものではない。そしてジュードがその場にいることが、国にとって何より危険なことでもあるのだ。
「そうでしたか……あの、ジュード様。一つお窺いしてもよろしいですか?」
「え? あ、はい。なんでしょうか?」
思考回路の迷路に迷い込みそうだったジュードの意識を引き戻したのは、オリヴィアが投げ掛けてきた言葉であった。ほとんど国の外に出ることのない彼女には、知りたいことが数多くあるのだろう。ジュードはそう思ったのだが、オリヴィアの口から出た問いは彼の予想とは大きく異なっていた。
「どうして、リンファを連れて行ったのですか?」
「……え?」
「どうしてわたくしではなく、リンファを選ばれたのですか?」
そう疑問を投げ掛けてくるオリヴィアは表情は、あの時のものであった。現在の淑女そのものではなく、嘗てワガママ放題であった当時のもの。自分ではなくリンファが選ばれたことが納得出来ない、認められない――そう言いたげな何処までも悔しそうな表情だ。
正確に言うのであれば、リンファを連れていくことを望んだのはジュードではなくウィルだ。オリヴィアの護衛とは名ばかりの奴隷のような扱いを受けていたリンファを憐み、そしてそんな彼女を救いたいと望み国王に直談判したのである。故に、リンファを連れていくことを決めたのはウィルと言える。――尤も、当時誰も反対はしなかったが。
もしもリンファではなくオリヴィアであったのなら――恐らく、誰も賛成はしなかっただろう。オリヴィアとリンファの違いが何かと言えば、それは仲間に対する認識だ。リンファはいつでも仲間の身を案じてくれるが、オリヴィアはそうではない。仲間よりも自分、そして次にはジュードとウィルだけだ。彼女にとってそれ以外の仲間は『どうでもいい』レベルのものでしかなかった。それで信頼など築ける筈もない。
そこまで考えて、ジュードは脇に下ろした拳を握り締めると改めてオリヴィアへと向き直る。しかし既に彼女はジュードからの返事になど期待はしていなかった。
何故なら、先程まで悔しそうな表情を浮かべていたにも拘わらず、今は何処か恍惚とした――尚且つ仄暗い薄笑みを滲ませていたからだ。それは、見る者に不気味な印象さえ与えてくる。
「オ……オリヴィア、さん……?」
「うふふ……やはり、不毛なことを聞くのはやめておきましょうか。あ、勘違いなさらないでくださいね、ジュード様。わたくしは別にあなたを恨んでいる訳ではないのですよ?」
「え……」
「だって、今のわたくしがあるのはジュード様たちのお陰ですもの――」
その刹那、オリヴィアは袖の下から何かを取り出した。動体視力の優れたジュードには、それが何であるのかは瞬時に判断が出来た――が、頭でそれが何かを理解はしても状況だけは咄嗟に判断することは難しい。それ故に、ほんの僅かに行動が遅れたのだ。
オリヴィアは袖の下から出したもの――ナイフを両手で持ち、フリルの下から覗く鋭利な刃の切っ先をジュード目掛けて向けるなり、そのまま駆け出してきたのである。その姿は完全に素人だ、戦闘経験など全く見受けられない。
とは言え、彼女の手に握られているのは間違いなく刃物。直撃する訳にはいかなかった。
「――ッ!」
ジュードは咄嗟に、辛うじて横に跳び退くことで直撃だけは避けたのだが、その刃は彼の片腕を浅く掠めた。激痛こそ感じなくとも、微かな鈍痛は感じる。ジュードは軽く眉を顰めてそこを逆手で押さえると、片足を軸に素早くオリヴィアに身体ごと向き直った。
彼女と一戦交える気はないが、それでも襲ってくるのであればどうにか対処しなければならない。
「うふふ、あなた方がわたくしを置いて行ってくださったお陰で、わたくしはあの方に出会えましたの。だから感謝していますのよ」
「あの、方……?」
「誰も傍にいてくれない孤独を埋めてくださるのはあの方だけだった……ジュード様たちもお父様も、国の者たちもみんなみんな大嫌い。わたくしに必要なのは最早あの方だけですわ――ねぇ、フォルネウス様?」
「な……っ……!?」
オリヴィアが恍惚とした様子でそう呟き天を仰ぐと、そこには空中に浮遊しながら此方を見下ろすフォルネウスがいた。ゆっくり静かに降りて来るなり、フォルネウスは薄らと嘲笑するような表情を滲ませて口を開く。
するとオリヴィアは手にしていたナイフを雪へと放り、フォルネウスの側へと駆け寄った。
「……同胞に裏切られる気分はどうだ、贄」
「オリヴィアさん、なんで……」
「わたくしはフォルネウス様のためにジュード様を捧げると決めましたの、あのナイフには麻痺の毒を塗り込んでありましたからもうじき身動き一つままならなくなりますわ。でも……悪く思わないでくださいませね、全てジュード様がお悪いのですから」
オリヴィアのその言葉を聞いて、ジュードは先程彼女が投げ捨てたナイフへと一瞥を向ける。既に役目を終えたそのナイフは冷たい雪の上に放られ、月の光を受けて淡く光っている。
彼女の言葉通り、確かにじわりじわりと四肢から力が失われていくのをジュードは感じた。
オリヴィアには、各国の状況を聞こうなどと言う気はなかったのだ。目的はこのため――人気のない場所にジュードを連れ出してフォルネウスに引き渡すこと、ただそれだけだったのである。
その場に立っていることも難しくなったジュードは片膝をついて屈むと、不敵に笑いながらこちらを見下ろすオリヴィアを見上げて奥歯を噛み締めた。