第二十七話・不穏な空気
「おいリンファ、待てよ、待てったら!」
今日はこのまま水の国の王都シトゥルスに泊まり、翌日に出立と言うことになったジュード達は各々旅の疲れを癒すべく割り当てられた部屋で身を休めている。恐らく、夕食までは部屋で眠るのだろう。
地の国の王都グルゼフであれだけの騒動、その上に追っ手から逃れるため急ぎで此処まで来たのだ。彼らの身に蓄積された疲労は生半可なものではない。色々と確認し、情報も纏めたいところだろうが、まずは休息が必要であった。
そんな中で、リンファは一人身を休めるでもなく来た廊下を引き返し、幾分か足早に先へ先へと進んでいく。その後ろからは慌てたようにエイルが付いてきていた。
エイルはリンファの隣に並ぶと、足を止めることのない彼女に慌てて声を掛ける。彼のその表情は困惑に満ちていた。
「ど、どうしたんだよ、どこに行くんだ?」
「エイル様、オリヴィア様はいつからあのようになられたのですか? 以前とは随分と様子が違いましたが……」
「え? う、う~ん……僕も詳しくは分からないけど……お前がジュード達と一緒に行って、それから少ししてからだったかなぁ……」
以前のオリヴィアは、あのように淑やかな姫君ではなかったのだ。
何もかも自分の思い通りにならなければ気に入らないような、何処までも我儘で勝気な少女であった。ジュードやウィルのことを大層気に入り、特にジュードに対しては好意と言うよりも執着に近い感情さえ抱いていた。幾らこれまで離れていたとは言え、あれほどまでに強烈なアプローチを掛けていた対象を前にして、そう簡単に関心を失くせるものだろうか――リンファはそう思ったのだ。
手酷い扱いを受けていたとは言え、リンファにとってオリヴィアは恩人とも呼べる存在である。やはりあの変わりようは引っ掛かるものがあった。
「ジュード達がこの国を出てから、陛下のお考えに少し変化があったんだ。今まで王女を甘やかすことばかりだったけど、少しずつ厳しくするようになって……その所為で落ち込んでいるのかもしれないとは思ったけど……」
「陛下のお考えに、変化……」
続いたエイルの言葉にリンファは一度黙り込む。
あの日、リンファがオリヴィアの護衛を解雇された日――確かに国王は言っていた。今まで娘に嫌われることが怖くて、オリヴィアがリンファに辛く当たるのを知っていながら何も言えずにいた、と。
ジュード達の何かに影響を受けて、そしてオリヴィアに多少厳しく当たるようにした――その結果、今まで甘やかされ放題だったオリヴィアがショックを受けて内に閉じこもってしまった、と言うことであれば納得は出来る。
「(オリヴィア様はお寂しい想いをされていらっしゃるのかもしれない……)」
無論、国王とてオリヴィアが憎くてそうしている訳ではないだろう。だが、これまで甘やかされて育った以上、そこに父の愛を見い出せるかどうかと言われれば、それは難しい。
リンファは行き着いたオリヴィアの自室前で足を止めると、複雑な表情を滲ませて閉ざされた扉を凝視した。これは父娘の問題だ、自分が口を挟んでも良いのかと気になったのである。王には王なりの娘への接し方があるのではないか、と。
不意に立ち止まったリンファに倣いエイルもその場で足を止めると、彼女と扉とを何度か交互に見遣る。リンファは元々オリヴィアの護衛をしていたこともあり、こうして王女の部屋まで足を運ぶことは何度もあったが、エイルはごく普通の一般兵だ。そんな兵が易々と王女の自室まで来て良いものではない。それを気にしているのだ。
だが、その時――部屋の中から微かに声が聞こえてきたのである。その声は他の誰でもない、この部屋の主オリヴィアのものだ。
「……?」
そこで、気になったのは『その相手が誰なのか』だ。
誰か話し相手がいてくれるのなら、とリンファも一度は胸を撫で下ろしかけたのだが、耳を澄ませて聞こえてきたその言葉に、彼女の表情は怪訝そうなものへと歪んだ。
「……うふふ、まさかこんなに早くチャンスがやってきてくれるだなんて……」
「(……チャンス? 一体何の……)」
「ジュードさま、悪く想わないでくださいませね……あなたがお悪いのですから……うふふ」
「(……ジュード様? ……オリヴィア様、一体何を……)」
一体どういうことなのか、この部屋の中にジュードがいる筈がないのだ。彼は今現在、割り当てられた部屋でちびと共に眠っている筈なのだから。
リンファは固唾を呑むと、極力物音を立てぬよう気を付けながら静かにドアノブを捻った。そっと僅かに扉を開き、出来た隙間から室内を覗いてみれば、そこには確かにオリヴィアがいた。
窓際にある大きな鏡の前に立ち、そっと片手の指先で鏡面をゆったりと撫で付けている。部屋の明かりが落とされているのと、この場からは距離があるためにその表情までは窺えないが、室内にジュードの姿がないことは確かだ。
では、これはただの独り言と言うことになる。
「(……オリヴィア様は何をお考えなの……? まさか、ジュード様に何か……)」
オリヴィアのその言葉が何を意味しているのか、それは今のリンファには分からなかったが、何かしらジュードに関係があると言うことは間違いではないだろう。
リンファとエイルは互いに顔を見合わせて、静かにその場を離れた。――胸中に嫌な予感を抱えながら。
* * *
その夜、夕食を終えたジュードが部屋で寛いでいると、ふと部屋の扉をノックする音が聞こえてきた。寝台に横たえていた身を起こし、誰だろうかと思案しながら部屋の出入り口まで行くと扉の先にいるだろう来客に一声掛けながら戸を押し開ける。
「はーい、誰……」
「……あ、ジュードさま、お久しぶりでございますわ。今、お時間よろしいでしょうか?」
「こんばんは、オリヴィアさん。うん、ちょうどゴロゴロしてただけだから大丈夫だけど……どうしたの?」
「よかったですわ、あの……もしよろしければお二人で少しお散歩しませんか? 各地の状況など色々お聞きしたいと思っておりましたの」
白い頬をほんのりと朱に染め胸の前辺りでもじもじと両手の指先同士をすり合わせる様子は、やはりこれまでの彼女からは想像が出来ない。一体これまでのオリヴィアは何だったのかと言いたくなるほどの変わりようだ。だがジュードは、このようなタイプの女性を決して嫌いではない。
もう以前までのように相手の気持ちを考えられないようなことはしないだろうと、ジュードはちびに一声掛けてからその誘いに了承を返した。
「(オリヴィアさんはこの国の王女だもんな、やっぱり他の国の状況とか気になるんだろ……)」
一国の王女であれば、各地の様子が気になるのは当然だ。各国がどのような状態になっているのかを知り、時に王を助け、不安を抱える民の声に耳を傾けなくてはならない。それが王族と言うものだ。
恐らく彼女も王のため、そして民のために各地の様子がどのようなものか聞きたいのだろう――ジュードはそう思っていた。
彼女の魂胆など、この時のジュードに気付ける筈がなかったのである。
ジュードとオリヴィアが部屋を出て行くと、角の廊下からそっとリンファとエイルが顔を出した。気付かれないように、あくまでも小声で言葉を交わしながら。
「……お、おい、本当に行くのか?」
「はい、なんだか嫌な予感がするのです。何もあってほしくはありませんが……エイル様はお戻りを」
「な、何言ってんだよ、僕だって王女のあの変な独り言を聞いたんだぞ。それにジュードは大事な友達だ、だからジュードに関することなら僕も行く」
リンファは既に水の国の王族に仕える存在ではないが、エイルはこの国の兵士だ。そんな彼が王女を疑い尾行したと言うことが知れれば、恐らくただ事では済まされない。それを心配して告げたのだが、エイルは頑として引こうとはしなかった。
無理に追い返して単身で付いて来られても困る――そう判断したリンファは、多くを語ることはせずに小さく頷いた。




