第二十二話・初めての対話
結局、王都シトゥルスまでの道のりは遠く、その日は満足に進むことさえままならなかった。
関所を出て約三時間ほど歩いたところに、急遽設置されたと言う簡素な休憩小屋がある。今夜はそこで一晩を過ごすことになったのだった。
休憩小屋と言ってもこの大雪だ、満足な仕事も出来なかったのだろう。造りは粗雑なもので、隙間風など当然のように吹き込んでくる。立て付けも悪く、やや勢いを付けて扉を閉めなくては完全に閉まることさえなかった。室内に暖炉こそ設置されてはいるものの、吹き込んでくる隙間風に冷やされて火が消えてしまうこともよくある。
とは言え、延々と雪が降り積もる中で野宿をすればほぼ間違いなく凍死してしまう。粗末な造りの休憩小屋であっても、非常に有り難いものなのだ。造りこそ雑だが広さはなかなかのもので、馬車を引く馬二頭を中に入れることも出来た。
夜が明ければまずは馬車の周りの雪掻きから始まり、また王都へ向けて歩いていかなければならない。これまでの疲れもあったのだろう、誰が何を言うまでもなく各自身を横たえて浅い眠りへと落ちていった。
「…………」
だが、ふと。カミラは一人寝床となった固い床から静かに起き上がると、一度だけ周囲の仲間を見回す。そして誰も起きていないことを確認すると、極力物音を立てないように静かに立ち上がり外へと足を踏み出した。
扉を開くと同時に吹き付ける冷風に反射的に身を竦めながらも、小屋の裏手へ回るとそこでそっと一つ吐息を洩らす。依然として刺すような寒さは消えぬものの、裏手であれば現在は風の向きの影響で直撃を受けない。その分、ごく僅かなものではあれど寒さを防げると思ったのだ。
以前水の国を訪れた際に購入した防寒具は持ってきてはいるが、それがあれば寒さなど怖くないと言う訳でもない。雪国とはそういうものだ。
ならば、なぜそんな極寒の地でカミラが一人で外に出たのかと言うと――――
「……あ、あのっ、今もわたしの近くにいるのなら姿を見せてください……」
あの、正体不明の赤い髪の青年とコンタクトを取るためだ。
カミラの夢の中に現れたのを機に、彼はふらりと姿を現すようになった。あの青年は一体誰で、何だと言うのか。ジュードの居場所を教えてくれたのも彼ではあるのだが、敵なのか味方なのか、なぜ自分にしか見えないのか。
カミラが聞きたいことは山のようにある。
しかし、しばらく待ってみても彼女の目の前にあの青年が姿を現すことはなかった。
「……やっぱり幻なのかな……」
こちらの声が届いていないのか、それともやはりあの青年は幻なのか。その正体も何も分からないために、本当に彼が存在するものなのかどうかさえ定かではない。
もしかしたら自分は途方もないことをしているのではないか、カミラはそう思ってその場に座り込んでしまうと深い溜息を吐き出した。それはもう、腹の底から全てを出し切るように。
だが、そんな時。ふと彼女の視界の片隅に淡い光が映り込んだ。一体何かと徐に視線を上げた先――そこには、何処か困ったような表情を浮かべたあの赤い髪の青年がいたのである。
「――――ッ!!?」
カミラが落ち込んでしまったのを見て出て来てくれたのか、それとも別の理由があってなのかは不明だが、彼の姿を視認するなりカミラは双眸を見開き両手で己の口を押さえる。そうでもしなければいつものように甲高い悲鳴を上げてしまいそうだと思ったのだ。
そうなれば小屋で眠る仲間達を起こしてしまう、それ故に咄嗟に自分の口を押えたのである。
「(わ、わ、わ……! 本当にいた、幻じゃなかったんだ!)」
どう見ても、何度目を擦ってみても幻ではない。王都グルゼフで自分達を導いてくれた、あの夢の中の青年だ。彼が目の前にいる。
カミラは瞬きも寒さも忘れたように暫しそのままの状態で固まり、目の前の青年を凝視した。聞きたいことは山ほどあると言うのに、いざ彼がこうして現れると何から聞けばいいのか分からなくなってしまったのだ。
「あ、あああああの……ッ! あな、あなた、だだだだれ……っどう、してわたし、にしか……!」
彼は一体誰なのか、なぜ自分にしか見えないのか、それを聞きたかったのだが全く言葉になっていない。その自分の言葉を聞いて、カミラは一拍の末に恥ずかしそうに顔を赤らめてしょんぼりと俯いてしまった。青年はと言えばそんな彼女を眺めると、やがて愉快そうに小さく笑う。
『……別に焦らなくていいんだけどな……』
「だ、だって、折角出てきてくれたんですし……それに聞きたいことがいっぱい……」
『――え?』
「えっ?」
青年の言葉にカミラは下げた頭をゆっくり上げると、そっと彼の顔色を窺う。初めて夢の中で見た時も思ったが、この青年はやはり恐ろしいほどに整った風貌の持ち主だ。そんな見た目麗しい男性に笑われたと言うのは、例え邪な感情を持っていないにしても気恥ずかしいものがあった。
しかし、そんな羞恥も青年が驚いたように目を丸くしたことで鳴りを潜める。何か彼が驚くようなことを言っただろうか、と純粋な疑問がカミラの中に湧いたのだ。
『……俺の声、聞こえるのか?』
「え、あ、あれ? そういえば……」
そう言われて、カミラもようやく気が付いた。
これまで、彼の声を聴いたことは一度もなかった。夢の中で遭遇した時も、この青年はただ優しく笑うだけであったし、カミラを導いてくれた時も実際に声を聴いた訳ではなく「そんな気がした」と言うだけの酷く曖昧なもの。
しかし、今目の前にいる彼は確かに言葉を喋っている。そして自分の声がカミラに届いたということが、彼にとっては意外だったようだ。
『……また封印が綻んだんだな』
「封印? 封印って、なんの……」
『……俺は君の中にあるモノに宿っている存在だ、それの封印が綻んだためにこうして外に出てくることが出来るようになった。君に俺の声が届くようになったのも、また僅かにでも綻んだ所為だな』
「わたしの中にある、もの……」
淡々とした口調で答えた青年の言葉を復唱してカミラは不思議そうに瞬いてはいたものの、次の瞬間思い当たることがあったか――彼女のその顔は見る見るうちに蒼褪めていった。
慌てたように両手で己の胸の辺りを押さえ、顔面蒼白になったまま青年へと詰め寄る。その表情は何処までも必死であり、真剣そのものだ。
「――次の、次の所有者は!?」
『……まだ決まっていない』
青年が静かに返答を向けると、カミラは全身から力が抜けたように項垂れた。今度はその口から深い安堵らしき吐息を洩らして。
そんな彼女を何処か痛ましそうに見下ろしながら、青年は双眸を細めて改めて口を開いた。
『……君は、ジュードを危険に巻き込まないためにその気持ちを抑えているのか』
「……っ、……だって、わたしは巫女だもの……これはヘルメスさまにお渡ししなければ……ジュードがこれ以上重荷を背負うことはないんです」
『…………』
頭を垂れて吐き出すように呟くカミラを見つめて青年は何を思うのか、双眸を細めたまま暫し黙り込んだ。何かしら声を掛けようとはしたのだろうが、それよりも先にカミラは静かに顔を上げると懇願するような面持ちで再度口を開く。
「お願いです、お願いします。ジュードを所有者にしないでください。わたし、ジュードを今よりも危ない目に遭わせたくないんです」
『所有者を決めるのは俺じゃない、あくまでも君自身だ。……それは、君が一番よく分かってるだろう』
「……」
青年のその言葉にカミラは泣き出しそうな表情を滲ませると、再びその頭を垂れて顔を伏せてしまった。確認せずとも落胆の色が見て取れる。――落胆と言うよりは、いっそ絶望に近い。
ともかく、今はのんびりと話が出来るような状況ではない。いつまでもこの極寒の寒空の下に彼女を放置する訳にはいかないと判断した青年は、思考を切り替えるように小さく頭を左右に振り静かに言葉を向けた。
『……カミラ、いつまでも外にいない方がいい、風邪を引く』
「…………」
『な、なんだ、なぜそんな据わった眼で俺を見る……』
「どうしてわたしやジュードの名前を知ってるんですか? わたしはあなたのこと何も知らないのに……」
カミラから見ればなんとも不気味なものだ。
この青年はカミラにしか見えないものの、これまで見えなかっただけでずっと一緒にいたのであれば、恐らくは彼女のことだけでなくジュード達のことも色々と知っているだろう。尤も、彼らに関する知識はカミラと同じレベルのものだろうが。
それでも、自分にしか見えない青年と言うだけでよくよく考えてみれば非常に不気味だ。一方的に自分の情報を知られていることに、人は自然と恐怖に近い感情を抱くものなのである。
『言っただろう、俺は君の中にあるものに宿ってる。……詳しいことは落ち着ける場所に着いてから話そう、だから今は少しでも身を休めた方がいい。こうして言葉が届くことが分かった以上、話はいつでも出来る』
「……分かりました」
それでも暫しの間この正体不明な青年を眺めてはいたのだが、彼が言うことは尤もだ。いつまでも寒空の下にいて風邪でも引こうものなら仲間の足を引っ張ってしまう。ただでさえのんびりとしてはいられない旅路なのだから、足手まといになる訳にはいかない。
カミラは小さく了承の言葉を返してから頷くと、静かに立ち上がった。青年はそんな彼女を見つめてはいたものの、ごく小さく――下手をすれば風の音に掻き消されてしまいそうなほどの小さな声量でカミラの背中に一言声を投げる。
『……、……』
「……え? 何か言いました?」
『――ジェント、……俺の名前だ』
青年のその言葉に対しカミラは暫し双眸を丸くさせて彼を見つめていたのだが、やがてその表情は場に不似合いなほど嬉々に輝いた。相変わらず彼についての仔細は分からないままだが、名前だけでも教えてもらえた、と言う事実が単純に嬉しかったのだろう。
カミラは改めて彼に身体ごと向き直ると、花が綻んだように嬉しそうに笑って頭を下げた。
「ジェント……ジェントさん! えへへ……おやすみなさい!」
『……ああ、おやすみ。……ちゃんと休めよ』
「はい!」
下げた頭を上げ、カミラはそれはそれは嬉しそうに笑いながら今度こそ仲間達が休む小屋へと戻っていく。青年は――ジェントは、そんな彼女の背中を苦笑い混じりに眺めて見送った。