第二十話・新たなる敵
「き、貴様ら! 待て!」
「絶対に逃がすな! あいつらに逃げられたら俺達は……!」
シルヴァが手綱を握る馬車は、王都グルゼフを東に進んだ先にある関所へと差し掛かっていた。
地の国と協力関係を結べなかった以上、この国に長居は無用だ。早々に次なる目的地へと向かう必要がある。
水の国アクアリーと地の国グランヴェルは隣接しているため、この東側の関所を通り抜けさえすれば水の国への入国を果たすことが出来る。幾ら地の国とて友好国である水の国にまで強引な追跡は出来ないだろう。するにしても、多少なりとも時間が掛かる筈だ。
つまり、この関所さえ通り抜けてしまえば多少なりとも安心出来るのである。
元々ジュード達を捕まえるつもりであったのであれば、この関所の兵士とて大人しく通してくれる筈がない。シルヴァはそう考えた。
そして、彼女のその考えはやはり間違っていなかったのである。
関所の兵士達は、こちらを確認するなり武器を手に携え馬車を取り囲んできたのだ。だが、シルヴァは一度こそ止まりかけはしたものの、彼らを振り切るように再び馬車を走らせ――そして、現在に至る。
停止することなく関所を突っ切る馬車を、兵士達が必死に追いかけて来ているのだ。
ジュード達も捕まる訳にはいかないのだが、この兵士達もまた彼らに逃げられる訳にはいかなかった。何故って、ここでジュード達を逃がしてしまえば、彼らに待つのは『死』だけだ。この地の国グランヴェルでは使えない者はただ一方的に刈り取られていくだけ。雑草を引き抜くかの如く自然と、そして当然のように。
「向こうも必死だな……だが、我々とて此処で捕まる訳にはいかんのだ、悪く思うな」
彼らが必死に追い掛けてくる理由を、聡いシルヴァが理解出来ない筈がない。憐みこそ感じはするものの、それに付き合う気など彼女の中には存在しなかった。
人間が馬の足についてくるなど出来ることではない、このまま走れば難なく振り切れるだろう。水の国へ入国してしまえば暫くは追跡を警戒する必要もなくなる。
早く、早く。シルヴァは逸る気持ちを押さえながら馬を走らせた。
* * *
一方で、魔界へと通じる闇の居城では魔王サタンの片腕、アルシエルが水晶玉を通して地の国グランヴェルの様子を眺めていた。彼が持つ水晶玉に映るのは、ルルーナの母親であるネレイナだ。アルシエルにとってネレイナは怖くも何ともない存在ではあるが、自分達の障害になると言うのであれば話は別。
自分達の障害になる――それはつまり、魔族の目的であるサタンの完全復活と、この世界を我が物にしようという目的の邪魔になると言うことだ。当然、アルシエルがそれを許す筈もない。
「フ……女狐が、この私を謀ろうなどと……折角目を掛けてやったと言うのに、愚かな女だな」
誰に言う訳でもなく一つそう呟くと、玉座に腰掛けたままアルシエルは己の前で跪く一人の男に視線を投げ掛けた。
その男は桃色の髪に道化師のような二又に分かれた可愛らしい帽子を被っている。そして服装もまた、動き易さを重視したようなもの。胸部は露出しており、身に付けている着衣と言えば下肢を覆う裾広がりのスラックスのみだ。足は靴さえ履いておらず裸足である。足首と手首には金色の腕輪を填めてはいるが、それ以外の飾り気は全くないと言ってよい。
アルシエルはその男を薄笑みを滲ませながら見下ろすと、静かに口を開いた。
「メルディーヌ、此度も期待しているぞ」
「はっ、必ずやアルシエル様のご期待に応えてみせましょう。……アレは、未だサタン様の中に?」
「ああ、大人しく眠っているだろう。アレはこの十年、目を覚ましたことはない。調整を終え次第、ヴェリアの者共を屠る前にこの女狐を始末させろ」
「御意。ヴェリアの者達の反応も実に楽しみなところですな、ククっ……」
メルディーヌと呼ばれた男はアルシエルの言葉に静かに顔を上げると、口角を引き上げてニィと幾分不気味に笑ってみせる。風貌にも道化師を匂わせる白塗りと丸形や三角などの模様が描かれているが、その表情や様子は何処か愉悦に満ちており、楽しそうだ。元の素顔は恐らく大層美しい顔立ちをしているものと思われる。
しかし、男の顔には右側の眉部分から顎に掛かるまで深い怪我を負っただろう傷痕が刻まれていた。それは真新しいものではなく、随分と古いものだ。だが、そのくっきりと残る痕から傷がどれほど深いものであったかは容易に想像が出来た。恐らく顔に塗られた白塗りや化粧はこの傷を少しでも隠すためなのだろう。――とは言え、隠れるほどの浅い傷痕でもないのだが。
アルシエルは彼の顔に刻まれた傷に視線を合わせると、切れ長の双眸をゆうるりと細めながら一つ問いを投げ掛ける。
「……その傷、やはり消さぬのか?」
「ふっ……当然で御座います、この傷はあの男への憎悪の象徴。消してしまえば身を焦がさんばかりのこの憎しみが僅かにでも薄れてしまいそうで……」
「そうか、咎めはせぬ。お前の好きにするとよい」
メルディーヌの返答を聞くなり、アルシエルは薄く――何処か呆れを滲ませた声色で言葉を連ねはするものの、当のメルディーヌ本人はと言えば満面の笑みを浮かべながら頭を深く下げた。
そして跪いていたそこから静かに立ち上がると、最後に改めて一礼をしてから踵を返す。アルシエルはそれ以上、彼に余計な言葉を掛けることはしなかった。
玉座の肘掛に片腕を預け、メルディーヌの背中が見えなくなるまでを見送ってから人知れずそっと小さく笑みを滲ませる。
「……その傷を付けた勇者がそれほどまでに憎いか、メルディーヌよ。だが、私はお前のその性格を決して嫌いではないぞ」
その言葉は当然メルディーヌ本人には届かなかったが、アルシエルはすぐに意識と思考を切り替えてしまうと薄暗く、そして高い天井を仰ぐ形で顔を上向けた。
自分達の目的が着々と達成に向けて動き始めている――例え目に見えている現実が彼らにとって思わしくなくとも、アルシエルは確かな手応えを感じ、そして勝利さえも確信しているのだ。
アルシエルにとってサタンは忠誠を誓う存在であるが、メルディーヌは彼の有能な部下――と言うよりは友に近い。それ故に彼の力量や能力、内面をよく理解していると言える。
メルディーヌは嘗ての勇者を誰よりも追い詰め苦しめた男、その強さはアルシエル直属の部下であるエレメンツ達よりも遥かに上だ。更に彼の持つ能力、それにより千年前の戦いではどれだけ多くの者が命を奪われ、そして惑わされたか。
「フ……死霊使いの力、再びこの目で見させてもらうぞ」
玉座に深く腰掛けたまま、アルシエルはそう呟き喉を鳴らして低く笑った。