第十九話・能力封印
「このまま神さまがいない状態だと、世界はどうなるのでしょうか?」
「そうよね、神さまがいないと浄化が出来ないから負の感情がどんどん広まっていくんでしょ? それが魔物を狂暴化させてるんだとしたら……もっと魔物が狂暴になるの?」
ジュードの傷の手当てを終えたリンファは馬車の壁に凭れ掛かりながら呟く程度に疑問を洩らした。マナはそんな彼女の言葉を聞き、小さく頷いた後に緩やかに小首を傾ける。
ヴェリア王国が壊滅した十年ほど前から、この世界の魔物は狂暴化を始めてきた。その原因は謎とされていたが、ライオットの言うように負の感情の所為であるのだとすれば、それを浄化出来ない現在と今後がどうなるかは定かではない。
「マスター達は見た筈だに、負の感情は魔物だけじゃなくて精霊もおかしくしてしまうによ。もちろんいずれは人間にも影響が出てくるに」
「人間にも……?」
「そうナマァ、姿形が変わった例は今までにはないナマァ。だけど急激に人格が変わったり、乱暴になったりするナマァ」
カミラやルルーナはともかく、ジュード達は恐ろしい姿に変貌したノームを目の当たりにした。こうして話しているライオットも、今のままではいずれあのような現象に襲われる可能性がある、と言うことだろう。
そして更に負の感情の侵食が広まれば、やがて人間にも変化が現れるのだと言う。もし世界中の人間が負の感情により狂暴になってしまったら――そう考えてカミラは力なく頭を左右に揺らした。そんなことになってしまえば、この世界は終わりだ。人間が人間を殺し、そして更に憎しみや怒りが広まり、取り返しのつかないことになる。
「(神さまは一体どこに行ってしまったの……? 本当に魔族に殺されてしまったの……?)」
カミラは俯いたまま奥歯を噛み締めると、膝の上で固く拳を握り締めた。彼女は人間同士が争わずに済むようにこうしてあちこちを駆け回っている。全てはヴェリアの民に真実を伝えるためだ。大陸の外――つまり外の世界の者達は決してヴェリアの民の敵などではないのだと。
だが、このまま世界中に負の感情が広がり続ければ、確実に人が人を殺す世界になってしまう。とは言え、それを避けようにも負の感情を浄化する方法がない。何とかしようにも状況は八方塞がりだ。
「…………ねぇ、負の感情っていうのは……優しかった人を冷酷な人間にすることもあるの?」
ふと、今にも消えてしまいそうな声量で呟いたのはそれまで黙り込んでいたルルーナだ。あまりにも覇気のない声にジュード達は反射的に彼女に視線を向けた。
今のルルーナの姿はと言えば、普段からは考えられないほどに落ち込んでいる。元気がない、としか言えないほどに。
「……お母様、昔は本当に優しかったのよ。なのに、そのお母様があんな……」
「ルルーナさん……」
「お母様はジュードに呪いを掛けたのは自分だって言ってたわ、それに……魔族のことも知ってるようだった。昔はそんな人じゃなかったのよ、なのに……」
「ルルーナの母さんがジュードに呪いを……!?」
幾ら何でもないように振る舞って見せても、ネレイナはルルーナの実の母なのだ。彼女にとってネレイナは全てであり、唯一信じる存在でもあった。
しかし、そのネレイナがジュードを連れて来させた理由は、自分が世界の神になりたいから。だから彼の力を求めている。更にジュードに呪いを掛け、解いてほしければ自分に協力しろなどと脅迫さえしていた。
そして、ルルーナが何よりも気になっていたのはフォルネウスとのことだ。
ネレイナはフォルネウスの存在に何の反応も示さなかった。それはフォルネウス自身も同じで、互いが互いを認識しているかのように驚いてみせることさえなかったのである。フォルネウスはともかく、相手が魔族であれば人間であるネレイナは驚き恐怖してもおかしくはないと言うのに。
「ライオット、ネレイナさんは……」
「うに、マスターの力のことを知ってたに……負の感情の影響で人格が変わった可能性はあるけど、でも確実にそうだとは言い切れないに……」
「ジュードの力って、具体的にどういうことなんだ?」
「……お母様は、ジュードはこの世界を破壊も出来るし創り変えることも出来るって言ってたわよね」
「なんだって?」
ジュードは、ネレイナからその話を聞いていた。そしてルルーナも、部屋の外でその話を聞いていたのだ。――尤も、それ故にネレイナの企みを知りウィル達を牢から出したのだが。
だが、地下牢に入れられていた彼らは当然ながら詳しくその話を聞いていない。ジュードの力と言われても分からないことばかりだ。
「……マスターはこの世界を形作る四神柱を使役することも出来るんだに、だから……」
「……魔族はその力がほしいの?」
「そうナマァ、魔族はこの世界そのものを創り変えて自分達のものにしようとしてるんだナマァ」
「世界を創り変える力だなんて……規模が大きすぎてあたしの頭じゃ何がなんだかもう……」
「お母様はジュードの力のことを知ってた、つまり……魔族と繋がってる可能性がある、ってことね」
ライオットとノームの言葉にマナはあんぐりと口を開けたまま力なく頭を左右に振り、そしてやがて項垂れた。これまでのんびりと平和な暮らしをしてきたマナにとって、世界そのものを創り変えるなど到底想像も出来ない話なのだ。
そしてそれは何もマナだけではない、生まれながらに姫巫女と言う宿命を背負っているカミラはともかく、ウィルにとっても――ルルーナやリンファにとっても同じことである。
――無論、ジュードにとっても。
「……けどオレ、さっきライオットと交信出来なかった」
「あれ、やっぱり失敗だったのか」
「今まで失敗なんてしたことなかったわよね、なのにどうして……」
「マスターさんは精霊との相性がとても良いナマァ、だから特別な努力をしなくても交信出来るんだナマァ。何か変わったことはなかったナマァ?」
ジュードは落ち着きがないと言う認識が強い部分はあるが、大事な局面での集中力はずば抜けている。その上、精霊との相性が良いとあれば交信の失敗などあまり有り得ることではない。
ノームからの問いを聞きながら、ジュードとライオットは揃って思案に黙り込んだ。
「変わったこと……って、なんかあったっけ……色々なことがあったから記憶がメチャクチャなんだけど……」
「――ひとつだけ、ひとつだけあったに。マスター、あの不気味な魔法陣はなんだったに? 本当になんともなかったに?」
ライオットのその言葉に対し、ジュードは今更ながら思い出したように緩く双眸を丸くさせると何とはなしに利き手を自らの胸の辺りに添えた。
ネレイナが操ったあの不気味な魔法陣は確かに謎だ。一見魔法のように見えたのだが、もしそうであったのならジュードの身が拒絶反応を示さないのはおかしい。では、あれは一体何だったのか――謎は深まるばかりだ。
二人のやり取りを聞いて一番に反応を返して寄越したのはウィルだ、怪訝そうに眉根を寄せて軽く首を捻りながらその言葉を復唱した。
「魔法陣?」
「そうだに、あのおばさんが不気味で変な魔法陣を展開してきて……ファなんとかケーラって……」
「……」
続いたライオットの言葉にウィルは一度思案するように視線を下げると、静かに立ち上がり馬車の隅へと移動した。どうしたのかとマナはリンファと互いに顔を見合わせ、ジュードとカミラは不思議そうに首を傾ける。
ウィルは馬車の隅に置いてあった鞄から一冊の分厚い本を取り出すと、パラパラと捲り始めた。
「ウィル、どうかしたの?」
「いや、少し引っ掛かることが……あった、これだ」
ウィルは片手の指先で紙面の文字列を辿ると、やがて眉を顰めて口唇を噛み締めた。緩慢な動作で改めて腰を上げ、元の位置に戻り静かに腰を落ち着かせながら小さく溜息を吐き出す。
マナとリンファはそれぞれ両脇から彼の持つ本に視線を落とし、ウィルが見ているだろう文字列をなぞった。その本はまじないや魔術、呪いに関する書物らしい。図付きで様々な種類のものが掲載されている。
「ウィルって本当にこういう本好きよね……」
「何か分かったに?」
「これじゃないか、ファクルタス・ケーラ……魔法じゃなくて呪いの一種だ」
「それだに、確かそんなこと言ってたに!」
呪い、という言葉にジュードは思わず表情を顰め、ライオットは身を乗り出してウィルの次の言葉を待った。それは一体なんなのか、どういうものなのか。それが気になるのだ。
だが、ノームはその単語を聞くなり座り込んでいたそこから弾かれたように立ち上がった。とは言ってもサイズがライオットと変わらないため、立ったと言っても分かりにくいのだが。
「まさか、本当ナマァ!?」
「ノーム、心当たりがあるのか?」
「あるナマァ、その呪いは確か……」
普段おっとりとしているノームがこれほどまでに慌てている以上、その呪いが生半可なものではないことはよく分かる。ただでさえジュードは魔法を受け付けないと言う呪いを持っている身だ、これ以上どのようなものが重ねて掛けられてしまったと言うのか。ジュードの傍らでカミラも不安そうな表情を浮かべながら固唾を呑んだ。
ウィルはそのページを開いたまま暫し固まり、ややあって重い口を静かに開いた。
「……ファクルタス・ケーラ――能力封印だよ」
「能力封印……? 禁術みたいなもの?」
「確かに効果としては同じだけど、禁術はあくまでも魔法だ。時間が経てば魔封じの効果は勝手に消えるけど……」
「呪いは解呪するまで、その効果が切れることはないんだナマァ……」
「え、ちょっと待ってよ、それじゃあ……」
禁術ならば、以前水の国で吸血鬼に誘拐された際、カミラやルルーナが受けたことがある。あの時は確かにウィルの言うように時間の経過と共に効果が切れたが、今回は魔法による封印ではなく呪いだ。
ノームの説明通り解呪されるまでその効果が続くということは、つまり――
「呪いが解けるまで、ジュードは精霊と交信出来ない……ってこと……?」
能力封印による対象がジュードの交信能力であるのなら、解呪されるまで彼は精霊と交信する能力を封印されたことになる。
そこでジュードは、ネレイナが言っていた言葉を思い返した。あれは確か、例の不気味な魔法陣を展開した直後だった筈である。
『フフ……これで、あなたはもう逃げられないわ。例え今はわたくしのやり方を拒絶していても、すぐに考えが変わるでしょうね』
ネレイナはそう言っていた。あの時、彼女は既に勝利を確信していたのだ。
ジュードの能力を封じてしまえば、彼は魔族から自分の身を守る術を失う。魔族に捕まれば命を落とすと言うことくらい、ジュードも理解はしている。それ故に死ぬくらいならば自分に従うだろうと――恐らく彼女はそう考えたのだ。それならば、ネレイナが焦る素振りさえなくジュード達を見逃したことにも頷ける。彼女は確信しているのだ、ジュードが自分のところに戻ってくると。
呪いを解いてほしければ――交信能力を返してほしければ自分に従え。
ネレイナのその言葉を思い出してジュードは固く拳を握り締めて項垂れた。魔族にもサラマンダーにも言われたことだが、ジュードなど精霊の力がなければただの子供なのだ。その子供が今まで魔族を退けてこられたのは、間違いなく精霊達との交信が出来たから。
その能力を封じられてしまった今、ジュードは魔族から己や仲間を守る術を失ったことになる。
目の前が真っ暗に染まるような錯覚を覚え、ジュードは指先が白くなるほどに拳を握り締めて奥歯を噛み締めた。