第十一話・導く声
自分達の装備を取り戻したウィル達は、地下牢空間の異変に気付いていた。
人がいないのだ。本来いる筈の見張りの兵士が。
幾ら魔法を使えない牢に閉じ込めたとは言え、投獄した者を見張りもなく放置とはまず考えられない。この地下牢にはウィル達だけではない、他の罪人もいる。それらを監視する者がいないと言うのは聊か疑問が残った。――尤も、この国で言う罪人は他の国では罪人ではないのかもしれないが。
詰め所にも兵士の姿はない。だが、置かれたカップの中にはまだほんのりと温かいコーヒーが入っている。最初からいなかったと言う訳ではないのだろう。恐らくは何かがあって飛び出していったのだ。
「言ったでしょ、爆発みたいな音が聞こえたって。多分、それで行ったのよ」
「なるほどな……じゃあ、急いだ方がいいか。出来ることなら人間と戦うなんてしたくないからな」
「そうね、見張りがいないならその方が好都合だわ」
「だが、ジュード君の居場所は分かるのか?」
「ジュードが部屋を移動していなければ三階の奥の部屋にいる筈だけど……」
マナの言うことは尤もだ。見張りがいれば、その分戦闘に時間を取られて合流するのに手間も時間も掛かる。そうしている間にどれだけの援軍がやって来るかも分からない。下手をすれば人の命を奪ってしまう可能性もあるだろう。
見張りがいないのなら、それはそれで好都合だった。
ルルーナは片手の人差し指を立てて己の顎の辺りに添えると、先程ジュードと母の話を盗み聞きした記憶を探る。あれは何処の部屋だったかと。
だが、続いて彼女から返った言葉にマナは眉尻を下げ、ウィルは薄く苦笑いを滲ませた。
「……あんまり期待は出来ないわね」
「……? なぜだ、ルルーナ嬢が嘘を言っていると?」
「いーえ、ジュードの奴が大人しく捕まってるとは思えませんから」
「そうそう、絶対に脱走してますよ。こういう時は黙って捕まっててくれると探す手間が省けていいんですけどね」
「……ジュード様はジュード様で私達を探していそうな気がします」
そこは、幼い頃から共に育ってきたウィルとマナである。ジュードの性格など彼らにはお見通しだ。依然として本調子とは言えないリンファも、カミラに支えられながらポツリと一言呟いた。彼女はこの中で誰よりも歳若いながら、仲間のことをよく見ている。それ故にジュードの内面も理解してきたのだろう。
リンファのその呟きにウィルとマナは一度顔を見合わせると、苦笑い混じりに小さく頷いた。普段から仲間想いの彼のこと、ウィル達を見捨てて一人で逃げ出す筈がないのだ。探しもするだろうし、何より心配していることだろう。
「ライオットがついてるから大丈夫、だよね……」
「ライオットさんはあれでも頼りになるナマァ、大丈夫だナマァ」
「アレが頼りになるの? へえぇ……」
カミラはリンファの身を支えつつ自分に言い聞かせるように呟くが、そんな彼女を安心させるべく、カミラの肩に乗ったノームが何度も頷きながら答える。だが、ルルーナは依然としてライオットのことは快く感じていないのか、胡散臭そうにノームを見遣った。とは言っても、毛嫌いしている訳ではないのだろうが。
ウィルとシルヴァは地下牢から一階へと上がる階段を慎重に上り、そっと扉を開く。石造りの地下空間には微かな足音だけが響いた。
開いた隙間から先の様子を窺い、緊張に固唾を呑む。地下牢に見張りがいないだけで、廊下にはいるかもしれない――その可能性を考えてのことだ。
「……どうですか?」
「……ああ、大丈夫。人の気配はないな。……ルルーナ嬢の言った騒ぎに駆り出されたんだろう。だがグズグズしていては兵が戻ってきてしまうかもしれない、急ぐぞ」
「こんな時にシヴァさんとイスキアさんはどこに行ったのよ、肝心な時にいっつもいないんだから……」
「そうねぇ……大精霊ってくらいだもの、ジュードの気配を辿るなんて簡単そうだけど……」
マナが不服そうに洩らした言葉はルルーナも同感だったか、紅の双眸を半眼に細める。彼らがいつも神出鬼没なのはライオット、もしくはマスターであるジュードの気配を辿っているからなのだろうと、二人はそう思ったのだ。
もしもジュードが本当に脱走し部屋を移動していたとしたら、この広い王城から探し出すのは容易ではない。一体どれだけの兵士と戦闘を行わなければならないと言うのか。カミラはそれを考えて緩く下唇を噛み締めた。
開かれた扉の先――そこにはやはり兵士の姿はない。もぬけの殻と言って良いほどに静かである。シルヴァは慎重に一歩足を踏み出すと、腰から愛用の剣を引き抜き周囲に視線と意識を向ける。何処に兵士がいるか分からない以上、警戒は決して怠れない。
ウィル、マナ、ルルーナとその後に続き廊下に出たところで、カミラはリンファの身を支えながら静かに地下牢の空間を後にする。とにかく、今はリンファに無理をさせる訳にはいかない。
「上に行く階段は廊下の突き当たりを右に曲がったところよ、でも……本当に三階にいるかしら」
「取り敢えず、行ってみるしかないだろうな。いてくれればそれで良いんだが……」
城の造りはルルーナが熟知しているが、流石に動き回る対象ばかりはどうしようもない。シルヴァの言う通り、取り敢えず行ってみないことには状況は分からないが、行ってみてその先にジュードがいなければ無駄な戦闘を行うことになる可能性もある。騒ぎがあったのなら、そこに兵士が集まっているのだろうから。
だが、シルヴァが足を進めようとした時――ふとカミラが彼女を制した。
「――あ……待って、待ってください」
「……? カミラちゃん、どうしたの?」
「う、ううん、あの……」
一体何事だと、シルヴァは突然掛かった制止の言葉に彼女を振り返る。状況が状況だ、今はあまり無駄話などしていられない。
だが、進行方向とは真逆の方を見つめて佇むカミラを見ればその表情は怪訝そうに歪んだ。一体どうしたのかと。
「巫女様?」
「……あ、あの、あっち……あっちに行きませんか?」
「でもカミラちゃん、あっちは中庭よ。どうしたの?」
「え、あの……ええと……」
カミラが示した先は、これから進もうと言う方向とは真逆であった。ルルーナは彼女が示す先にある場所を頭の中に思い返すと、文字通り不思議そうに小首を捻ってみせる。中庭に通じるそちらの方向にも階段は存在するが、それは多少なりとも遠回りになるのだ。
カミラはカミラで、困ったようにあちらこちらに視線を投じ『あの、あの』と必死に言葉を探しているようだった。だが、その視線はやはり中庭方面へと向く。それを見てマナは小首を捻り、ウィルは何事か思案するような神妙な面持ちで黙り込んだ。
「(だって、だって……聞こえたんだもん……そっちじゃない、って……それに……)」
カミラが視線を向ける先、そこには何もない。ただ廊下があるだけだ。だが、彼女の双眸はそこには存在しない筈の姿を捉えていた。何度目を擦ってみても変わらない、幻覚の類ではない。
それは、彼女が先日見た夢の中の青年であった。彼がカミラに言ったのだ、そっちじゃない、と。だが、カミラ以外に彼の姿は見えていないらしい。もしも見えているのなら誰かが反応するだろう。
「(夢じゃなかった、夢の中の存在じゃなかった。でも……あなたは一体誰なの……?)」
出来ることなら今すぐにでも問い質したいが、状況を考えるとそうもいかない。今はただ、どう説明するか、だ。
だが、それまで黙り込んでいたウィルが小さく頭を左右に振ると一度シルヴァに視線を向けた。
「……まあ、いいじゃないですか。カミラは姫巫女です、俺達には分からないことでも何か感じるのかもしれません」
「……そう、か。……ああ、分かった」
シルヴァはそれでも納得はしていないようだったが、それ以上とやかくは言わなかった。カミラはウィルの助け舟に安堵を洩らすと、言葉で礼を伝える代わりに軽く頭を下げてみせる。
彼女自身、誰にも見えない存在を信じるなど馬鹿げていると頭の片隅では思っていた。それでも、幻覚でもなんでもないその存在を信じてみたいと――カミラは何故かそう思ったのである。
優しくも、何処か悲しい眼をした正体不明の青年を信じてみたいと。
* * *
「だああああッ! しつこい!」
一方で、ウィルやマナの予想通りジュードは先程までいた部屋を脱走していた。リーチの長い鞭を扱うネレイナの脇を潜り抜ける際に腹部の他、腕を負傷してしまったが、今はそんなことを考えてはいられない。
何故って、今現在彼の後方からは数えるのも億劫になるほどの兵士が追い掛けて来ているからだ。『待て、逃がすな、捕まえろ』と言う声がジュードの鼓膜を次々に刺激する。決して立ち止まる訳にはいかない。
綺麗に掃除のなされた廊下を全力疾走で駆けながら、片手で腹部を押さえる。その傷は決して浅いものではなかった。
「マ、マスター、大丈夫かに!?」
「立ち止まってもいられないだろ、落ち着ける場所に着いたらゆっくり手当てする!」
「いつ落ち着けるにー!?」
ライオットは振り落とされないようにジュードの肩にしがみつきながら、心配そうに彼を見つめる。腕に負った傷とて、掠り傷などと言えるものではない。それに、先程ネレイナが放った魔法と思わしきものもある。
だが、結局ジュードはいつものような拒絶反応を起こすことはなかった。あれは一体何だったというのか――ライオットの中で疑問は深まるばかりだ。
「ああもう、この服ヒラッヒラして走り難いったら……ええい!」
ジュードが今現在身に着けているのはルルーナの屋敷で用意された貴族服だ。上着は膝よりも下まで丈があり、走る度に足に当たり多少なりとも動きを妨害してくる。――とは言っても微々たるものなのだが、着慣れないジュードにとっては苦痛なのだろう。
走りながら首元を覆うスカーフを取り払うと、次々に床に放り投げていく。これまで辿って来た道に放っていくのは、少しでも追手の足を遅らせるためだ。最後に上着も脱ぎ捨ててしまうと、その下は黒のベストと白いドレスシャツだ。彼にとって動き易いとは言えないが、これまでよりは良いと判断したのだろう。そこでようやく手を止めて再び全速力で通路を駆け抜けていく。
だがその途中、ジュードはふとあるものを見つけて立ち止まった。突然止まったことでライオットはやや前につんのめりながら、そんな彼に慌てて声を掛ける。
「うにににッ! マ、マスターどうしたに!?」
それは純金で造られた騎士鎧や装飾品の数々であった。鎧は観賞用なのだとは分かるが、造りは甲冑だ。それが幾つも並んでいる、非常に眩しく目に痛い。これを通路に引き倒せば追手の足止めには使えるだろう。ジュードはそう思って立ち止まったのだと、ライオットはそう判断した。
だが当のジュードは純金の甲冑に歩み寄ると、そっと両手で表面に触れるばかり。幾ら道に衣服をばら撒いてきたとは言え、布などそう足止めにはならない。早くしなければ、とライオットはジュードの髪を軽く引っ張った。
「マスター、どうしたに? それ足止めに使うんじゃないに?」
「い、いや、そうなんだけど……でもライオット、これよく見てみろよ、純金だぞ」
「……? それがどうかしたに?」
「これだけあればどれだけアクセサリーとか色々造れるか……! 純金なんて高くてそうそう手に入るものじゃないんだぞ!」
「早く行くに!!」
そこはやはり鍛冶屋か、それとも趣味の細工か。純金で出来た甲冑や装飾を床に引き倒して傷を付けると言う行為にどうにも抵抗があるらしい。大切そうに甲冑の表面に触れ、嫌々するように頭を左右に揺らす。
だが、今はそんなことを言っていられるような状況ではないのだ。ライオットは今度はやや強めに彼の髪を引っ張り、早く行くよう促した。
「いたぞ!」
「逃がすな、捕まえろ!」
「ああくそッ! こんなに良いモンいっぱい持ってるクセにくだらないこと考えて! 王だの神だの言ってる暇があるなら、今あるモンに感謝しろよ!」
通路の突き当りから顔を出した追手の兵士達を振り返りジュードは一度舌を打つと、僅かな逡巡の末にやり切れない想いを吐き出し、道を塞ぐように傍らの甲冑を床へと引き倒した。派手な金属音を立てて床に転がる甲冑の数々にジュードは思わず表情を顰めるが、すぐに再び駆け出す。取り敢えず階下に降りる階段を見つけなくてはならないし、安否が分からない仲間達も探す必要がある。
長く広い廊下をひたすら道なりに駆けていくと、軈て彼の視界には求めていた階段が映り込んだ。それは望みの通り階下へと繋がっている。ジュードは思わず表情を安堵に綻ばせると手摺に片手を添えて早足で駆け下り始めた。
だが、そんな時だった。不意に彼の肩にしがみつくライオットが声を上げたのだ。
「――マスター! 壁の向こうから何か来るにッ!」
「え……!?」
その声にジュードは思わず足を止めて左手側の壁を見遣る。だが、その壁の先は城の中ではない。
――外だ。外から一体何が来ると言うのか。
「うわッ!?」
次の瞬間、ライオットが示したその壁――まさにジュードの真横が爆発でも起こしたように爆ぜたのだ。その衝撃でジュードの身はいとも容易く吹き飛ばされ、手摺を乗り越えて階下へと放り出された。唐突の出来事、それも空中では思うように体勢を整えることも出来ずにその身は思い切り階下に続く階段に叩き付けられ、ジュードは思わず表情を顰める。ライオットは彼の肩から転がり落ち、階段をバウンドしながら下の階へと落ちて行った。
派手に打ち付けた腰を片手で摩り、痛みに表情を歪めながらジュードは大きく破壊された壁を見上げる。一体何があったのだと。
「……!? だ、誰だ、あんたは……」
その視線の先には、青み掛かった銀髪を持つ一人の男性が佇んでいた。その髪は床についてしまいそうなほど長いが、結われてはいない。伸びたまま無造作に背中側に流している。
長い前髪の奥から覗く切れ長の双眸は冷たい色を宿し、表情には感情一つ見受けられなかった。完全なる無表情ではあるが、恐ろしいほどに整った美しい顔立ちだ。
男は自分を見上げてくるジュードを見下ろし、手にした三叉の槍――トライデントを片手で一度回した。
「……贄、貴様を迎えに来た」
ポツリと、そう一言呟いた男にジュードは思わず眉根を寄せて立ち上がる。
贄――己をそのように呼ぶ者の正体は他に考えられなかった。
「魔族か、こんな時に……!」
こうしている間にも追手は迫っている。今の爆発の音を聞いて階下からも兵士がやって来るだろう。オマケに今は武器も何もない丸腰状態、状況は最悪と言える。
冷たい眼差しを以て見据えてくる魔族を見上げながら、ジュードは奥歯を噛み締めて突破口を探った。どうしようもないから諦める、そんな選択を彼に出来る筈もなかったのだ。