第八話・破壊と創造の力
ジュードは、顔に触れる柔らかい感触に気付き薄らと目を開けた。
目蓋が重い、全身に錘でも付けられているような倦怠感を感じる。目を開けることさえ億劫だ、出来ることならこのまま眠っていたいと思うほど。
だが、顔を叩く何者かはそれを許してくれないらしい。依然として頬を叩き続けている。
「……ライオット?」
「に! マスター起きたに!?」
定まらない焦点の中、そんな彼の視界に飛び込んできたのはすっかり見慣れた純白だ。仰向けに寝転がったジュードの首元に立ち、短い手で必死に彼の頬を叩いて覚醒を促していたらしい。ジュードの声にライオットは瞳孔が開いたようにしか見えない双眸を潤ませて、枕の上に降り立った。
何があったんだったか――寝起きで上手く働かない頭のまま、ジュードはぼんやりと天井を見つめる。
だが、ややあってから弾かれたように飛び起きた。
「……!? ライオット、どうなったんだ!?」
「う、うに! いきなり起きたらダメに!」
慌てて飛び起きたジュードは世界がゆうるりと回転するような錯覚を覚えて、思わず利き手で己の額辺りを押さえる。魔法の直撃を受けた時のいつもの強烈な眩暈ではないが、何処か浮遊感がある不快なもの。だが、我慢出来ないものでもない。
ジュードは暫し目を伏せてその感覚をやり過ごすと、傍らのライオットに声を掛けた。
「……ライオット、オレどうしたんだっけ……みんなは?」
「うに……あのおばさんの雷魔法でみんなやられちゃったんだに、ライオットは慌ててマスターの服の中に紛れたけど、みんなどこに連れて行かれたか分からないんだに……」
「なんだって!?」
「で、でも、ノームがついてるからきっと大丈夫だに! ノームは地の精霊だからおばさんの雷の魔法も効いてない筈だに!」
聞き捨てならぬライオットの言葉に、ジュードは押さえていた額から手を離すと身体ごとそちらに向き直る。魔法でやられたと言うことは、あの謁見から既に一日は経過している筈だ。半日程度でジュードのいつもの症状が落ち着く筈がないのだから。
ここは、恐らく王城にある部屋の一つだ。室内は綺麗に整えられているし、ジュードが今の今まで横になっていた寝台も非常に綺麗で、シーツなど真新しい。壁にも美しい装飾が成されており、一見普通の客間のようにも見える。窓から見える景色から察するに、三階ほどの高さだろう。ただ一つ客間と思えないのは、部屋の出入り口に頑丈に施された鍵だ。脱走は困難と思われる。
意識を飛ばしてしまうまでのやり取りを頭の中に思い起こし始めるものの、その記憶は途中で途切れてしまっている。一体どうなったのか、ネレイナの言葉はどういう意味だったのか――何も分からない。
「ルルーナのお母さんが、なんで……」
「分からないに、でも王様と繋がってるのは確かみたいだに!」
「……あの人、オレを知ってるみたいだった。それにオレも、あのおばさんの声はどっかで聞いたことあるような……」
ジュードは当然ながら、ネレイナのことを知らない。実際に彼女を目の当たりにしても、その姿に覚えはなかった。
だが、彼女の声を聞いた時のあの感覚。既知感と共に感じた全身が粟立つような錯覚。まるで全身が拒絶反応を起こすかのような。
ライオットはジュードの膝の上に飛び乗ると、心配そうに彼を見上げた。
しかし、そんな時。ふとジュードとライオットの耳に開錠の音が届いたのである。
「――ふふ、それは当然ね。わたくし達には面識があるんだもの」
そして、そんな声も。
ジュードとライオットは反射的に部屋の扉へと視線を投じた。ジュードは座していた寝台から立ち上がるとライオットを片腕に抱き、咄嗟に身構える。逆手を腰元の剣に触れさせたつもりではあったのだが――常にそこにあった筈の剣は今は存在しない。どうやらこの部屋に運ばれた際に武器を奪われたようだ。
程なくして開かれた扉の先――そこにはルルーナの母であるネレイナが立っていた。薄く微笑みながら、何処か嬉しそうな表情を浮かべて。
しかし、そんな様子には構っていられない。先の彼女の言葉がそれをさせなかった。
「面識が、ある……?」
「ええ、そうよ。だって――」
逢ったことがある。
そう言われても、やはりジュードには覚えがない。
娘にその美貌が受け継がれたのか、ネレイナ自身も大層美しい顔立ちをしている。幾ら幼い頃と言えど、これほどの美女――一度逢ったらそうそう忘れたりはしないだろう。
しかし、彼女の声には覚えがあれど、その姿までは知らない。一体どういうことなのか。
ネレイナは依然として表情に薄笑みを浮かべたまま、緩慢な足取りでジュードの真正面へと歩み寄った。警戒を露に睨み付けてくる彼に優越感さえ抱きながら。
「――あなたにその呪いをかけたのは、このわたくしですもの」
その言葉にジュードは思わず――否、彼が頭で考えるよりも先に一瞬呼吸が止まった。この人は一体何を言っているのか、そう思ったのである。
簡単に言うのであれば、彼女の言葉を頭が瞬時に理解出来なかったのだ。
「ふふ……信じられないって顔をしてるわね。いいわ、教えてあげる。この国が……そして私が何を求めているのかを」
当然だ、信じられる筈がない。何故ルルーナの――仲間の母親が自分に呪いをかけたなど信じられると言うのか。
ライオットはジュードの片腕に抱かれたまま、それでも彼の身を守れるようにとネレイナの一挙一動から決して視線を外さない。そんな様子を見て、更にネレイナは浮かべる笑みを深いものへと変えた。それはそれは、何処までも上機嫌そうに。
「国王はあなたを使って、この世界の人間全てを脅すつもりよ。自分に従わない者を精霊の力で捻じ伏せ、服従させるの」
「そんな単純なやり方で……」
「ええ、単純ね。でも人間は弱い生き物よ、最初は反抗したとしても実際に命の危険に晒されれば、例え服従と言う形であっても従うでしょうね。そしてあなたも、大事な仲間を盾に取られればファイゲに従わない訳にはいかないわよね?」
「……まさか、そのためにみんなを……」
国王が考えていることはなんとも単純な力業だ。
ジュードに精霊を使役させ、その圧倒的な力で世界中の人間を脅し服従させようと言うもの。確かにネレイナの言うように、命の危機に晒されれば助かりたい一心でファイゲのやり方を受け入れる者は大勢出てくるだろう。
ジュードがそれを拒んだところで、仲間の命を盾にされてしまえば逆らうのは困難だ。この地の国の王族は、他国の人間と異なり利益が最優先らしい。ジュードが協力を断れば、恐らくなんの躊躇いもなく仲間を殺す筈である。
「でもね、わたくしはファイゲのやり方には反対なの。あなたをあの男の思い通りにはさせないわ」
「……え?」
「どういうことだに?」
「この世界の王などと言うくだらない肩書はあの男にくれてやるわ、わたくしは世界の王だなんてちっぽけな枠に収まるつもりはないもの。――わたくしはあなたと共に、この世界の神になるの。今の世界を一掃し、新たな世界を創り上げるのよ」
その言葉を、ジュードには理解が出来なかった。
突然目の前で『神になる』などと言われてそれを即座に理解出来る方がおかしいのである。この人は一体何を言っているのか――ジュードは言葉にこそ出せなかったが、純粋にそう思った。ネレイナの言葉は先程から理解し難いものばかりだ。
それに引っ掛かるのは『あなたと共に』と言う言葉。ファイゲが考えているように、人々を脅すためにと言うのなら間違っても協力はしたくないが、それならばやり方が分からないでもない。しかし、新たな世界を創り上げるとは何をどうすると言うのか。
だが、ライオットは違ったらしい。ジュードの手から飛び降りて床に立つと懸命に声を上げた。
「――お前っ、まさか魔族と通じてるに!?」
「……ライオット?」
「可哀想に……精霊達はあなたに本当のことを話していないのね? 魔族がなぜあなたを執拗に付け狙うのかを……」
「や、やめるに!」
ネレイナはそう呟くと、己を睨むように見上げてくるライオットを見下ろして片手を伸べる。そしてもっちりとしたその身を片手で鷲掴みにすると、邪魔者でも追い払うかの如く窓辺に放り投げた。
潰れた蛙のような声を洩らして床を何度かバウンドするライオットにジュードは咄嗟に駆け出そうとしたが、それよりも先に彼女の手が彼の顎を捉えた。そのまま――到底女性とは思えない強い力で顔を上げさせられたジュードは思わず眉を寄せて表情を歪める。
しかし、ネレイナはそんな彼の様子に益々上機嫌そうに双眸を細めてみせた。
「あなたはその気になれば、この世界を破壊することも――創り変えることも出来るのよ。魔族はその力が欲しいの、だからあなたを狙うのよ」
ネレイナの言葉にジュードは瞬きも忘れたように双眸を軽く見開き、そして怪訝そうな視線を彼女に向ける。一体どういうことか、何を言っているのかと――そう意味を込めて。
世界を破壊することも、創り変えることも出来る。それはどういう意味なのか。
「ふふ……だってあなたは精霊だけじゃない、この世界を形作る四神柱とも心を通わせ、使役することが出来るんですもの」
「え……」
「地の神柱は大地を、風の神柱は空気や酸素を、水の神柱はあらゆる水に関するものを、そして火の神柱は世界の気候や火に関するものを司っている。……分かるわね? あなたはその四神柱を使役し、この世界そのものを創り変えられるのよ。例えば――大地を破壊して生き物全てを海に叩き落とすこともね」
つまり、四神柱を使役することでこの世界の仕組みそのものを変えることも出来ると言うことだ。風の神柱を操り世界中から酸素を奪うことも、水の神柱を操り水全てを奪うことも。
そんな話、到底受け止めることなど出来る筈がない。自分がこの世界そのものを破壊することが出来るなどと。
「ジュード君、わたくしと共に新世界の神となりましょう。わたくしに協力するのであれば、その呪いを解いてあげる。この世界の生き物を一掃して、新しい世界を創りましょう?」
ライオットは必死に立ち上がると、慌ててジュードの足元に駆け寄った。片足にしがみつき、なんとかネレイナと引き離そうと脹脛部分を短い手で何度も叩く。
だが当のジュードはと言うと、先程までの怪訝そうな様子も何処へやら――今は嫌悪を表情にありありと滲ませてネレイナの手を強引に叩き払った。
「――ふざけるな! 人が神になんてなれるもんか! 誰が認めたって、そんなの絶対にオレが認めない!」
「あら、そう……」
「あんた一人の勝手な考えで、世界の人達を一掃するなんて間違ってる! あんたやオレと同じようにみんな生きてるんだぞ!」
そう怒声を張り上げたジュードに対し、ネレイナはそれまで浮かべていた笑みを瞬時に消すと代わりに何処までも冷たい双眸を以て彼を睨み返す。ライオットはジュードの足にしがみついたまま、嬉しそうに眼を輝かせていた。――とは言え、相変わらず瞳孔が開いているようにしか見えないのだが。
「可愛い子――あなたは変わらないわね、小さい頃と同じだわ。そうやってわたくしを睨み付けてくるのも……」
「昔のことなんか知らない、あんたはどうかしてる! オレは、王様にもあんたにも従うもんか!」
ネレイナが自分に呪いをかけた、解いてほしければ自分に従えと言う。
だが、ジュードは間違ってもその誘いに乗る気にはなれなかった。ネレイナは自分の力を使って世界を創り変え、そして神になるつもりなのだ。
しかし、人間は結局人間のままだ。人間が一方的に世界を、生き物を支配して自由に創り変えてしまうなんて許されて良い筈がない。この世界には確かにジュードにとって好ましくない者も数多く存在するが。
それでも、逆に彼が愛する者達もたくさん生きているのだ。そんなことを、決して許す訳にはいかない――ジュードは確かにそう思った。