第五話・負の感情
王都グルゼフの東側区画の端、そこは中央通りや他の区画とは異なり何処までも寂れた雰囲気が漂っていた。煌びやかな装飾とは全くの無縁で、廃屋と化している建物ばかりが建ち並ぶ。道端には雑草が無造作に生え、整備された痕跡は全くない。何を入れていたものなのか、木箱や樽だったと思われる木片や残骸が周囲に散乱し、進路を塞いでいる箇所さえある。
だが、そんな場所にも人の気配は確かに存在しているところを見ると、所謂貧民街と言える地区なのだろう。
イスキアはそんな貧民街を一通り眺めた後に、ふうと小さく溜息を吐いた。緩やかに吹き付ける風も、この寂れた雰囲気を象徴するかの如く随分と冷たいように感じる。結い上げる髪を片手で押さえながら、イスキアは後方のシヴァを振り返った。
「グランヴェルは他の場所も結構そうだったけど、このグルゼフだけは特別ね。イヤ~な雰囲気が漂ってるわ、腹の辺りを殴られてるような感じよ」
「……それだけ負の感情が渦を巻いてるんだろう、これだけの規模で多くの人口だ。生み出される感情も他とは比べ物にならん」
「タイタニアが眠ったのは成功なのか失敗なのか微妙なところねぇ……まあ、起きててもノームみたいに負の感情にやられてもっと大変なことになってたかもしれないけど」
彼ら精霊は、その地に渦巻く感情には非常に敏感だ。この王都グルゼフにどれだけの負の感情が存在しているのか、二人はそれを確認するために単独で動いていたのである。
シヴァは疲れ切ったように腹の底から深い溜息を吐き出すと、何処までも荒れ果てた周囲の様子に視線を向ける。人道的に見れば貧民は『可哀想な者』だ。満足な衣食住を与えられることもなく、辛うじて生きている哀れな人間達。
だが、彼ら精霊達にとってはそう言った人物達こそが負の感情を生み出す一番の原因とも言えるのである。虐げられる側の者達は、力や権力を持ち自分達を虐げる側の者を深く恨み、怒りを抱くことがほとんどだからだ。そうして、負の感情が次々に生み出されていくのである。
尤も、以前ライオットがジュード達に説明したように感情は人間からは切っても切り離せないもの。普通に生きている中で生み出される負の感情は別に害にはならないのだ。
しかし、その量が一定以上を超えて土地に根付いてしまえば、それはあらゆる現象を引き起こし、災いとなって生き物へと襲い掛かってしまう。普段は穏やかな精霊であるノームが狂暴な生物に変貌してしまったのも、長い年月をかけて地の国の大地に蓄積した負の感情の影響によるものだ。
この地の国グランヴェルは他の国に比べて人口が多い。そのために生み出される感情は非常に多く――更に言うのであれば、貴族と言う存在がいるからこそ貧しい者も生まれる。その格差社会が余計に怒りや恨みを生み出す助けとなってしまっていた。
「でも、それだけじゃなさそうね。この国には欲望ばかりが渦巻いてる気がするわ」
「……蒼竜が戻れば多少は改善されるんだろうがな」
「そうねぇ……負の感情を浄化しようにも蒼竜がいない訳だし……」
イスキアの言葉にシヴァは小さく頷くと、力なく頭を左右に振って来た道を振り返る。この王都グルゼフにどれだけの負の感情が渦巻いているのか、既に確認は済んだ。これ以上の長居は無用と判断したのだろう。
尤も、ジュード達が出発しないことには彼らもこの都を離れる訳にはいかないのだが。嘗て勇者が使っていた技を教える――そう言っておきながら以前のように勝手にいなくなれば、ジュードがどれだけ怒るか分かったものではない。
「……とにかく、マスターの元へ戻るぞ。国王との謁見とやらがどうも気になる」
「あら意外、ジュードちゃんのことマスターって認めてるのね?」
「…………うるさい」
「うふふ、シヴァったら照れちゃって。でもまぁ、そうね……な~んかイヤな感じがするわ。何もないと良いんだけど……」
先に歩き出したシヴァの傍らに並び、イスキアは軽く上体を前に倒して横から彼の顔を覗き込んだ。その口から紡がれる揶揄の色を濃く孕んだ言葉にシヴァは一度眉を寄せて表情を歪ませ、イスキアは何処か愉快そうに笑う。
互いに軽口を交えながら、その足先は都の中央区画へと向けて行った。
* * *
「船は別の国から乗った方がいい?」
一方で、仲間と合流を果たしたジュード達は予定の時間よりも早く王城へと向かっていた。国王が住まう王城はガルディオンと同じように都の北側区画に存在している。
だが、北側区画には王城に行き着く手前に貴族達が住まう貴族街が存在しており、王城に近い場所にある屋敷ほど金と権力を持った貴族が住んでいるのだ。ルルーナの実家であるノーリアン家は、城とほとんど目と鼻の先と言っても過言ではない場所に建っていた。
そんな貴族街を歩きながら、ウィルとルルーナは揃って声を洩らす。
「うん、司祭さまにそう言われたの」
「そりゃあ……」
「ねぇ……」
それは、先程カミラが神殿で司祭に言われた言葉だ。地の国に詳しいルルーナや聡明であるウィルならば何か分かるのではないか――そう思ってジュードが投げ掛けた疑問だった。司祭の言葉は一体何を意味しているのかと。
するとウィルもルルーナも幾分困ったような表情を滲ませながら歯切れ悪く呟き、互いに顔を見合わせる。
「……カミラ様、この地の国グランヴェルはその多くが権力と欲望、金で動いているような場所です。男性ならば足元を見られて終わりだとは思いますが、カミラ様の場合は……」
「……ああ、そうか。そういうことか」
ウィルやルルーナが明らかに困っているのを見ると、数拍の沈黙を挟んだ末にリンファが静かに口を開いた。ハッキリとした説明ではなかったものの、彼女のその言葉にようやくジュードも意味を察したようだ。――カミラは依然として不思議そうに首を捻ってはいたが。
船に乗りたければ、金か身体を差し出せ。つまり司祭はそう要求される可能性を考えて言ったのだろう。他でもないカミラの身を案じて。
その意味を理解するなり、ジュードの中には司祭への感謝が湧くと共に、地の国の在り方に対する嫌悪感も同時に湧き上がった。
「……そういうこと?」
「あ、ああ、うん。大丈夫、司祭様は間違ったこと言ってないよ。他の国から乗ろうね」
「……? うん、分かった」
やはりカミラには何のことか伝わっていないようだったが。それどころか、彼女の後ろではマナも不思議そうな表情を浮かべていた。
マナは色恋に関することはともかく他の分野ではそう鈍くはないのだが、これまでの恋愛経験の乏しさ故にかカミラ同様に大人の事情にはあまり聡くはないらしい。
そんな彼らの様子を最後尾から見つめながら、シルヴァは何処か呆れたような面持ちで一つ溜息を洩らす。先が思いやられる、とばかりに。とは言っても、ジュード達はまだ子供なのだ。大人のように色々なことを即座に察しろなどとは言えないのも事実。
火の国を発ってそれなりの時間が経過したが、これでようやく一つ書状を渡せると思うとシルヴァの心にもほんのりと安堵は滲む。だが、行かなければならない国は他に二つ。まだまだ先は長いと思案しながら、彼らの後に続いて王城へと足を進めた。
今はとにかく、この謁見が滞りなく過ぎることを願うだけだ。