第一話・『ありがとう』
久方振りに柔らかな寝台で眠れたウィルは、清々しい気分で朝を迎えた。
あの後、無事に地の国の王都グルゼフに到着した一行はだだっ広い王都の中を、ルルーナに案内される形で彼女の屋敷へと向かった。正直、彼女がいなければ完全に迷子になっていただろう。それだけグルゼフは広い。国の広大な土地に倣い、それはもう非常に広かった。そんな言葉では表現しきれないほどに。
更に人の往来も想像以上だ。火の国の王都ガルディオンとてかなりの人口の筈なのだが、グルゼフの人口はその倍以上だと思われる。宿も軽く見ただけで五軒は存在しており、酒場など何軒あるのか分からないほど。しかも、そのどれもが人でごった返しているのだ。
街中を歩けば辺りを行き交う人と肩や手がぶつかるのはほぼ必至。それでも特に文句などが上がらないのは、グルゼフの住民達にとってそれが日常茶飯事であるからだろう。
王都にどれだけの店が存在しているのか、それは未だ詳しく見回っていないウィルにも分からない。女王から仕事を任されている以上、浮かれてはいられないと思いはするのだが、ウィルとてまだ成人に満たない身。多少の期待や楽しみは確かに彼の胸に存在している。
兎にも角にも、ウィルは随分と心地好い朝を迎えていた。
が、今現在の彼の表情はと言えばなんとも言えないもの。不愉快でも不機嫌でもないのだが、彼自身が反応に困っているような――そんな表情を浮かべていた。
「……どうしたんだ、ジュード」
と言うのも、今ウィルの目の前にはジュードがいる。別にそれはおかしいことではない。ルルーナの屋敷も広いが、ここはジュードとウィルのために用意された客間だ。同じ部屋で休んだジュードが近くにいても別に不思議なことはないのである。
では、なぜウィルがそんな表情をしているのかと言うと。
当のジュードが微妙な表情をしているからだ。否、表情だけではない、今日のジュードは何かがおかしい――ウィルはそう思っていた。
朝には比較的弱く寝起きは頭が上手く働かないジュードが、今日はもう起きてしっかりと身支度をしてあるし、その顔は多少だが赤らんでいるように見える。オマケにウィルの寝台の傍らに佇み、何処か落ち着きなくそわそわとしているではないか。腹の前辺りで両手の指先同士を絡ませ、更には『あの』と繰り返してばかり。
女の子がやるなら可愛いけど、お前は男なんだからやめろと。ウィルは内心でそう毒吐きながら苦笑いを滲ませた。
何か言いたいことがあるのは一目瞭然である。
「い、いや、あの……あの、さ」
「うん」
「え、ええっと……」
やはり、今日のジュードは確実におかしい。密かに想いを寄せるカミラ相手にこうなるのなら分からないでもないのだが、今の相手はウィルだ。一体どうしたと言うのか。
まさか何処か調子でも悪いのだろうか。一瞬こそそんな不安がウィルの頭に浮かびはしたのだが、彼の肩に乗るやや呆れたような様子のライオットを見る限りは恐らくそういう訳でもない。
オマケに『早く言うに』と短い手でジュードの横髪を引っ張る始末。ライオットはジュードのこの態度の理由を知っているのだろう。
「……め、飯、作ったんだ」
「ん? お前がか?」
「あ、ああ、うん」
「うん、それで?」
ようやく出た言葉は、やはり別に不思議なものではなかった。
ジュードはこう見えても料理は結構上手い。普段はマナが料理の担当をすることがほとんどなのだが、彼女が疲れている時や仕事に追われている時などはジュードかウィルが代わりを務めることも多いのである。
それ故に彼が料理を作ったと言っても何もおかしくはないし、ウィルもその出来を不安に思ったりはしない。
ジュードが食事を作った、だからなんだと言うのだろうとウィルは緩く首を捻る。あの長旅だ、マナが疲れているからと彼が代わりを担当してもおかしいことはやはりない。屋敷の使用人達はどうしたのだろうと疑問は浮かぶが。
『いや、だから』と相変わらず歯切れの悪い単語を繰り返すジュードに、流石のウィルもお手上げだ。
そんな様子を見かねたライオットはジュードの肩の上で深い溜息を吐くと、その場に座り込んで代わりに口を開いた。
「マスターはこういう時はダメダメだに……ウィルにお礼がしたくてごはん作ったんだによ、炒飯とクリームシチューと……あとは木苺のパイもあるに!」
「は?」
「――ライオット、お前……ッ!」
「マスターに任せてたら陽が暮れちゃうに……ウィルの好きなもの作るって言っていつもより早起きまでしたんだによ」
予想だにしないその言葉にウィルは思わず双眸を丸くさせ、ジュードはと言えば肩を跳ねさせて弾かれたようにライオットを睨み付けた。
しかし、ライオットが言うことも尤もだ。このままジュードが自分で言うのを待っていては、どれだけ時間が掛かるか分かったものではない。
「お礼?」
「あ、いや……その、……トレゾール鉱山で、さ」
「……ああ」
相変わらず歯切れの悪いジュードの言葉に、ようやくウィルも理解した。
トレゾール鉱山に於いて命懸けでジュードを守ったお礼、と言うことなのだろう。ウィルは納得したように何度か小さく頷いて、そして思わず噴き出した。
「な、なに笑ってるんだよ!」
「いや、だってお前……くくっ、普段は臆面もなく歯が浮くようなこと言い放題のくせに、こういう時は本当に……っははは!」
そうなのだ。
普段のジュードはと言えば、聞いている方が恥ずかしくなるようなことを結構な頻度で言うことが多い。メネット達の旅館に泊まった際にも、リンファに向けて告げた言葉に噴き出した覚えがウィルにはある。
だと言うのに、現在目の前にいるジュードは一つの礼を言うにも顔を赤く染めてなんとも可愛いものだと――そう思った。
恐らく、それは相手がウィルだからなのだ。昔から兄弟のように育ったウィルが相手だからこそ、言葉にし難い気恥ずかしさがあるのだろう。オマケにまだ幼い頃、ジュードとウィルはよくケンカもしていた間柄なのだから。言い方を変えれば、これはジュードなりの甘えと言える。
片手で腹の辺りを押さえながら笑い続けるウィルを見下ろし、最初こそジュードも文句の一つや二つを言おうとしたようだが、軈て肩から力を抜いて軽く項垂れた。腹立たしさと気恥ずかしさ、そして安堵が複雑に混ざり合う様子に困り果てたように。
馬鹿にされているようで腹は立つけれど、このまま死んでしまうのではないかと思ったウィルがすっかり元気になったことは嬉しいし、安心した。今のジュードの胸にあるのはそれだ。
だが、やはり揶揄されているようで居心地が悪いらしい。次に頭を上げた彼の顔は未だ赤いものの、何処か不貞腐れたような表情であった。
そして早々に踵を返してしまうと、幾分かぶっきらぼうな口調で言葉を向ける。
「と、とにかく、冷めるから早く支度して降りてこいよ。……みんなも待ってるしさ」
「……」
「――う、わわッ!?」
ジュードはそのまま部屋を出て行こうとしたのだが、それは叶わなかった。
なぜって、真後ろから思い切りウィルに引っ張られたからだ。全く予測していなかった行動。無論身構えてもいなかったジュードは見事に後ろにひっくり返った。
――と言っても、彼の後ろにあったのはつい先程までウィルが就寝していた寝台だ。オマケにそこには今現在もウィルが腰掛けている。ひっくり返ったジュードはウィルに背中側から抱き留められる形で落ち着いた。
何をふざけているのかとジュードは抗議しようとしたのだが、グリグリと肩口に額を押し付けてくるウィルの様子に思わず押し黙る。
「……ありがとな、ジュード」
「な……お礼を言うのは、オレの方だろ。……ありがとな。けど、もうあんな無茶はするなよ」
「あーあー、分かってるって」
自分に向けられる色恋の感情には何処までも疎いジュードだが、それ以外のことでは勘が良い方だ。呟くように礼の言葉を向けてくるウィルの声が微かに震えているのに気付き、これまでの意地も何処へやら――彼の口からはすんなりと礼の言葉が零れ落ちる。
ウィルは、大切な家族を魔物によって奪われた身だ。二度と手に入ることはないと思っていた暖かい家族、今度は守れて良かった。恐らくそう思い、感極まっているのだろう。ウィルにとってジュードは、血の繋がりこそないものの大事な弟のような存在なのだから。
「(また同じようなことがあれば、やるけどな。家族ってのは俺にとって……自分の命よりも大事なんだよ、ジュード)」
無論、ウィルの内心を読むな出来る筈もない。彼のその心の声に気付くことなく、ジュードはそっと小さく一息洩らした。
家族と言うものを知らないジュードにとっても、ウィルは実の兄のように大切な存在だ。そんなウィルが自分の所為で死んでしまうかもしれない――そう思った時のあの絶望感。
あんなものは二度と味わいたくないと、ジュードは固く拳を握り締めて静かに目を伏せる。
互いが互いを大事に思っている筈なのに何処までも擦れ違う二人の内心を察しているのか、ライオットはジュードの肩にしがみついたままそんな様子を静かに見守っていた。