第三十七話・悪魔の子
「伝説の勇者が悪魔って……一体どうして?」
イスキアが語る言葉は、ジュード達に当然と言える疑問を与えた。
嘗てこの世界を救ったとされる伝説の勇者が、悪魔と呼ばれていた。その理由も何もかも、彼らには全く想像が出来なかったからである。
今や何より神聖な存在とされる勇者が、なぜそのような罵りを受けていたと言うのか。
マナが洩らした疑問の声に対しイスキアは暫し閉口してはいたものの、やがて改めて口を開いた。
「昔は魔法が当たり前のものじゃなかった、って言ったわよね?」
「は、はい。魔法を使える人は異端だったんですよね。もしかして……」
「……いいえ、あの子が魔法を扱えた訳じゃないのよ」
ジュードもカミラも、そしてマナ達も語られる言葉を一つたりとも逃すまいと、イスキアを見据えながら返答を待った。
――ジュード達の頭に浮かんだ疑問はこうだ。
魔法というものが当たり前ではない世界に生まれ落ちた勇者は、魔法を扱える能力者だったのではないか。それ故に異端とされ、悪魔などと罵りを受けたのではないかと。
だが、イスキアは変わらず穏やかな微笑を表情に滲ませながら静かに頭を左右に揺らした。そして視線は、先程と同様に馬車に取り付けられた窓へと再度向ける。過去を懐かしむような、そんな様子で。
「…………昔、ある小さな村に仲睦まじい夫婦がいたの」
「え?」
「夫は妻を何よりも愛し、妻もまた夫をとても深く愛していたわ。そんな二人の間には一人の可愛い男の子が産まれ、夫婦はたくさんの愛情を注いで大切に育てたものよ」
不意に語られ始めた話にジュード達は不思議そうに首を捻った。イスキアは一体何が言いたいのだろうか、そう言いたげに。
だが、誰も話の腰を折る気はないらしい。特別余計な口を挟むことはしないまま、その続きを待った。まるで絵本の読み聞かせを待つ子供のように。
ノームはシヴァの傍らに寄り添い、ライオットは何処か痛ましそうにそっと視線を下げていた。
「でも、ある日。妻の秘密が村の人間達にバレてしまったの。それは、妻が魔法を使える存在だったと言うこと。それを知った村人達は、すぐにでも彼女を殺そうとしたわ」
「……っ、同じ村に住む人なのにですか?」
「ええ、そうよ。……彼女は息子を連れて必死に家に逃げ帰ったの、夫だけは自分を守ってくれると信じてね」
風の国ミストラルにある麓の村では考えられないことだと、ジュードもマナも思った。
ジュードは幼い頃からあの村の人間達に暖かく迎えられたし、マナはあの村の出身だ。両親を喪ってからは色々と思うところもあったが、基本的には暖かい村なのである。同じ村に住む者を殺す光景など、想像も出来ない。
「――でも、現実は違った。妻が魔法を使えると知った夫は彼女を口汚い言葉で侮辱し、……あろうことかその手で妻の首を刎ねたのよ。泣き喚いて懇願する自分の妻をなんの躊躇いもなく、斧で斬り落としたの」
「な……ッ!?」
「ひ、ひどい……! お互いに深く愛し合っていたのに、ですか!?」
それも、やはりジュード達には想像出来ないことであった。
深く愛していた筈の人を、次の瞬間には手の平を返して自らの手で殺める――どれだけ考えても彼らにしてみれば『有り得ないこと』だ。
ウィルは眉根を寄せ、馬車の壁に背中を預けて凭れ掛かりながら吐き捨てるように呟いた。
「……それだけ、当時は魔法ってモンが異常な存在だったんだろうな」
「そうね、今とは全く違う時代だったんだわ」
そんなウィルの呟きに反応したのは、その傍らで話を聞いていたルルーナだ。口調こそ常と変わらぬあっさりとしたものだが、その表情には明らかな嫌悪が滲み出ている。普段美しいと称される風貌は、不愉快そうに歪んでいた。
ジュードにとって魔法は毒にしかならないが、当たり前のように魔法を扱うマナ達にとってはやはり考えられない時代である。
「……大好きな母が、同じく大好きな父の手で首を落とされる瞬間を、息子は目の当たりにしてしまったの。それだけじゃない、父は次に自分の息子を殺そうとしたのよ」
「……!」
「深い愛情を注いで育てた息子のことを、異端から生まれた悪魔の子と罵り、殺そうとした。息子はそんな父や村人達から必死で逃げて、なんとか命だけは助かったのよ。……その子が後の勇者。当時、まだ八歳か九歳程度だったわ」
その話に、誰もが言葉を失っていた。
ジュードは暫し何の言葉も接げないままイスキアを凝視してはいたが、やがて静かに視線を落とした。何とはなしに己の手の平を見下ろしてみながら、緩く口唇を噛み締める。
正式な年齢こそ定かではないものの、ジュードがグラムに拾われたのもちょうど八歳ほどの頃だ。もしも自分がそんな経験をしたら――そう考えたのである。
どのようなことからも守ってくれたグラムが、突然自分を殺そうとしたらどうなるか。
「(……きっと、耐えられない……)」
その答えは、深く考えずとも容易に導き出された。
勇者は、そんな幼い頃に体験したのだ。実の父親に殺されそうになる、と言うことを。それは幼い勇者の心にどれだけの深い傷を負わせただろうか。
カミラは今にも泣き出してしまいそうに表情を歪めながら、両手でそっと己の胸を押さえた。
「勇者さまにそんな過去があったなんて……」
「そのくらいの小さい子供が誰に守られることもなく生きていくのは何より厳しいことよ。野草や虫を食べたり、動物の死骸を漁ったり……色々なことをして命を繋いだって聞いたわ」
「そんな……」
「幼い頃のその経験で、あの子はすっかり心を閉ざしてしまったの。人間を信用せず、誰かと深く関わるということを避け続けた。女性を遠ざけ、愛情を向けられることを何よりも嫌悪するような子に成長したわ。……愛情なんてものはまやかしだ、そんなものは必要ない、ってね」
それは、ジュード達がこれまで思ってきた『勇者』とは真逆と言えるものであった。
世界を救った勇者ともなれば恐らくは清廉潔白、公明正大な青年だったのだろうと――勝手ながら誰もがそう思っていた為である。
だが、ジュード達にもそれぞれ過去があるように、勇者にも当然ながら過去があったのだ。それも、決して幸せとは言えない過去が。
「でもね、そんなあの子の心に常にあったのは母親の存在だったの。魔法を扱える者が普通に生きられる世界がほしい――ずっと願い続けた理想よ」
「……お母さんの無念を晴らしたかったのかな……」
「多分、そうだろうな……」
もしも自分だったらどうするか、ジュードもウィルも頭の片隅で考えはするものの――すぐに思考を止めた。考えようにも、そのような現実を想像出来なかったのである。
だが、これで大体のことはハッキリとした。勇者は亡き母親の為、そして当時の魔法使い達の為に『魔法』というものをこの世界に根付かせたのだ。恐らくそこに、イスキアやシヴァのような精霊達も関わっていたのだろう。今現在の、魔法を当たり前のように使える世界は勇者が齎したものと言える。
魔法という存在が正しいものなのかどうかは定かではない。魔法を使い、無闇に人を傷付ける者もこの世界には存在するのだから。
だが、カミラのように誰かの傷を癒すという使い方も出来るのだ。全ては、使い手の心次第なのだろう。
――それに、魔法を使えるというだけで愛する者に殺された勇者の母には、何の罪もなかった筈だ。それを考えると、やはり勇者のしたことが間違いだとは言い難い。
深く考え込んでしまったジュード達を見てイスキアは小さく微笑むと、片手の人差し指を己の口唇前へと添え、そっと呟いた。軽くウインクなどしてみせながら。
「……あなた達は、精霊というものを嫌いにならないでほしいわね……」
それが彼らに届いたかどうかは定かではないが、その呟きは何処か寂しそうな響きを含んでいた。