第二十九話・家族
その日は、清々しいほどに晴れた日だった。
風の国ミストラルの山奥にある自宅に戻るべく、ウィルはジュードを背負って山道を歩いていた。
背負われた当のジュードは、何処か眠たげな様子でウィルの後頭部をぼんやりと眺める。ゆったりとした歩調による揺れは、麗かな陽気と相俟って彼の眠気を誘っていた。
『まったく、お前は……もういい加減ガキじゃないんだから、木登りは卒業しろよ』
『はは……ごめん、でも放っておけなくてさ』
『巣から落ちてたヒナを戻してやる、ねぇ……それで親に突かれて木から落ちてりゃ世話ないだろ、オマケに足まで挫いちまって』
返るウィルの言葉に対し、ジュードは二の句を継げずに苦笑いを滲ませる程度に留めると一度彼の背中の上で空を仰いだ。
雲一つ存在しない晴れ渡った青空は、見る者に清々しさを与え、時に好奇心を刺激してくれる。しかし、こんなにも良い天気だと言うのにジュードの心には薄くだが靄のようなものが掛かっていた。
『……けどさ、自分がどれだけ鳴いても親が迎えに来てくれないなんて、……寂しいじゃないか』
『…………』
『親だって、自分を呼ぶ子供を助けたくても何も出来なかったら、きっと苦しいと思うんだ。やっぱり一緒がいいだろ、家族なんだからさ』
静かに紡がれるジュードの言葉に、ウィルは一度視線のみを横目に彼へ向けるが――特に何も言わずに、その視線はすぐに進行方向へと戻った。ウィル自身にも思うところがあった、と言うのはもちろんのことなのだが、ジュードの声色が何処か寂しそうに聞こえたからだ。
ジュードは、グラムに拾われていなければどうなっていたか分からない。ウィルとて彼が偶然通り掛っていなければこの場にはいなかっただろう。
幾つもの偶然が重なった結果、こうして家族のように過ごしている――それは一つの奇跡とも言えた。
『(家族、か……そんなの、あの時に失ったとばかり思ってたのにな……)』
言葉には出さなくとも、ウィルはそう思いながら自嘲気味に一つ笑いを洩らす。それでも彼の眦は優しく、表情は何処までも穏やかであった。
血の繋がった家族は、ウィルの傍らには既にいない。そして失ってしまった以上、暖かい家族などもう決して手に入らないものだとも思っていたのである。
しかし、グラムに拾われてから数年――気が付けば、グラム、ジュード、マナと言うかけがえのない新しい家族を手に入れていた。それが居心地の良いものか否か、それは彼の表情が全てを物語る。
ウィルはジュードを背負いながら、変わらず緩慢な歩調で家までの道のりを歩く。穏やかなその日――それは、ウィルが十五歳の春のことであった。
* * *
そんな過去の遠い日を思い出しながら、ウィルは痛む身にも構わず目の前の男――アグレアスを睨むように見据える。
容赦なく振られるアグレアスの大剣は、ウィルでも押さえるのは困難だ。先程までとは異なり、そのアグレアスの双眸にはギラギラと闘志が灯り、獲物を狙う狩人のようであった。
今度は手加減など全くしてくれない、本気で殺しにきている。それがアグレアスの表情と双眸から痛いほどに伝わってきた。太刀筋に迷いなどと言うものは一切なく、ただ相手を殺す為だけにその大剣は振るわれている。直撃こそしなくとも、その切っ先が触れた大地は破壊され、大小様々な破片がウィルのみならずアグレアス本人にさえも襲い掛かった。
しかし、これまでと同じように、アグレアスはその破片を全く物ともしていない。
だが、ウィル自身もまた――先程のまでのように、身の痛みは感じても『引き下がる』と言う選択肢は決して選べずにいた。
突如、改めて振り下ろされた大剣をウィルは両手で持つ槍の柄でしっかりと受け止める。その刹那、武器を握る手から肩に掛けて骨が軋むような鋭い痛みが走った。まるで内側から砕けるような。
更に受け止めることは辛うじて出来ても、力の差は歴然。そのまま鍔迫り合いになど持ち込める筈もない。そのようなことになれば、あっという間に押し切られてしまう。賢いウィルのこと――それが分からないと言うことはなかった。
だからこそ、ウィルは素早く身を翻していなすと、力を込めていたことで軽く前につんのめったアグレアスが体勢を立て直す前に即座に攻撃を仕掛ける。ウィルが愛用の槍は突く以外にも、剣のように薙ぎ払うことでも充分なダメージを与えることが出来る――それ故に、ウィルは隙の出来たアグレアスの脇腹を目掛けて無遠慮にその槍を振るったのである。
「――! ほう、その身体でなかなか良い動きをするな! いいぞ、もっと俺を愉しませろ!」
「(全く堪えてねーのかよ! バケモンだ、コイツは……!)」
ウィルが振るった槍は、アグレアスの身に確かに直撃した。
だが、当のアグレアス本人は脇腹に裂傷が刻まれても、表情に苦痛を滲ませることはなかった。寧ろ己の脇腹から流れ出る血を見下ろした後に、その風貌に愉悦すら滲ませるほどだ。
逆に自らの身から血が流れるのを見て、興奮したようにさえ見える。
「(ジュードを連れて行かせる訳にはいかない、だが……どうする、こんな奴をどうやって倒せば……!)」
ウィルにとって、ジュードは既に大事な家族の一人だ。彼が魔族に連れて行かれれば世界が大変なことになる、ウィルにとってそんなことは別にどうでも良い。
ただ、大事な家族を魔族に渡す訳にはいかない――それだけだ。
しかし、この男をどのように撃退すれば良いのか。その手段や突破口が全く見えてこないのだ。
マナやリンファは既に戦える状態にはない、ジュードやちびも同じだ。かと言ってウィル自身は元気なのかと言うと、それもまたそうではない。ウィルとて既に身体はボロボロなのである、本来ならば立ち上がることさえ困難な筈――状況は依然として絶望的だ。
そんな最中、アグレアスが待っていてくれる筈もない。お返しだとばかりに、今度は片足を軸にしてそのがっしりとした身を翻し、思い切り回し蹴りを叩き込んできたのである。
鳩尾に見事に入ったその蹴りは、油断していたウィルの身を思い切り吹き飛ばした。込み上げて来る嘔吐感と腹部に走る鈍痛にウィルは双眸を見開き、激しく咳き込んだ。蹴り飛ばされた際に大地に背中を擦り、焼き付くような痛みを与えてくる。此処は平原ではない、足場の悪い岩場と言える場所なのだから。
その上で、アグレアスには容赦など微塵もない。ウィルが立ち上がるよりも先に、地面を強く蹴って跳躍した。そして愛用の大剣を構え、ウィルの身に突き立てようと――そのまま落下してきたのだ。
その思惑に瞬時に気付いたウィルは、頭で考えるよりも先に横に転がり寸前で剣の直撃を回避した。だが、代わりに大地に突き立てられた大剣は地中で爆発を起こし、ウィルもろともアグレアスの身を吹き飛ばす。
そんな最中でもアグレアスは攻撃の手を緩めることはしなかった。爆ぜた衝撃で吹き飛ばされながらも、大剣をウィル目掛けて何度も振るってきたのである。
「(こんな状況でも――ッ……! クソッ、どうすりゃいいんだ!)」
「オラオラオラァッ! 立ち上がった以上、もっと愉しませてくれよぉ! なあッ!?」
「――う、ぐうぅッ!」
吹き飛ばされる不安定な状態では、回避もままならない。謂わば空中戦のようなものだ。宙で思うように動き回れる筈もないのである。
その為、アグレアスが真横に薙ぎ払った剣はウィルの利き腕を深く抉った。それと共に痛みと言うよりは、強い熱感を覚えてウィルは小さく呻きにも似た声を洩らす。斬れた箇所からは鮮血が噴き出し、メンフィスから譲られた衣服をその血で染めていく。
アグレアスはそれで満足することもなく、即座に切り返し――今度はウィルの腹部目掛けてその刃を振るったのである。
「――ウィル! もうやめて、ウィルが死んじゃう!」
なんとか立ち上がろうと、マナは必死に両手を動かしてうつ伏せの状態から身を起こしはしたのだが――そんな彼女の視界にはウィルが腹部を斬られ、大量の血が噴き出している光景が映った。
それを認識すると同時に彼女は全身から血の気が引いていくのを感じて、思わず叫ぶような声を上げていた。
当然、腹部を斬られるのは致命傷だ。そんな箇所を抉られて、無事に着地出来る筈がなかった。アグレアスは一足先に大地に着地を果たすと、トドメとばかりに両手で剣の柄を握り締め――剣の腹でウィルの身を殴り払ったのである。
その一撃により、既に力の入っていなかったウィルの身は容易に殴り飛ばされ、硬い岩壁に背中を強打し、力なくうつ伏せに倒れ込んだ。
「……フン、終わったか。所詮人間など脆弱な生き物、若い命を無駄に散らしたな」
アグレアスは笑い混じりにそう吐き捨てると血で濡れた大剣を軽々と片手で振るい、鮮血を振り払う。血痕は荒れた大地に幾つも散り、言葉にし難い生々しさを醸し出していた。
そして彼はマナやリンファには見向きもせず、その足を再びジュードの元へ向けようと踏み出す。
――だが、それは叶わなかった。
「……待てよ、……まだ……終わってないぞ……」
「なに……?」
その声に、思わずアグレアスは足を止めて肩越しに振り返った。鼓膜を揺らした声、それはウィルのものだったからだ。
まさか、と言うような表情で彼を振り返ったアグレアスは、視線の先で静かに立ち上がるウィルを見て軽く瞠目した。それには流石に驚いたようだ。
「……ほう……? その傷で、よくも立ち上がるものだ」
「死ぬまで、相手……してくれるんだろ、……まだ、俺は死んでないぞ……」
「ククッ、面白い奴だ……」
ウィルの手に、既に力は入っていない。槍だけは決して手放すことはしないが、構えるだけの気力とて残っていなかった。逆手は鮮血が溢れる腹部に添えるが、その程度で血が止まる訳もない。四肢は辛うじて無事には見えても、他の部位は――骨の一本や二本、平気で折れているだろう。
「(意識を飛ばしちまえるなら楽なんだろうな……けど、次に起きた時にはジュードはいなくなってる……)」
そう思えば、意識など飛ばせる筈もなかったのだ。
だが、仲間はそんな彼を見て力なく言葉を向ける。アグレアスの力は圧倒的だ、今の自分達では敵わない――誰もがそれを理解していた。
「ウィル様……っ」
「もう、やめて……それ以上は、死んじゃう……」
「ウィル……もう、いい……」
リンファ、マナ、ジュードは全身ボロボロのウィルを見て力なく――だが、しっかりとそう言葉を発する。皆、意識を失うまでには至らなかったが、彼のように立ち上がることは出来ずにいた。
アグレアスは愉快そうに表情に笑みを滲ませると、再びウィルへと向き直り――そして先のように駆け出した。アグレアスには、ボロボロだからと見逃すと言う気は毛頭なかったのだ。立ち上がったのなら、それは戦う意志とし、本格的に嬲るべく襲い掛かる。今度こそ殺す、そう言わんばかりに。
「(無理なんてことは、俺が一番よく分かってるさ……コイツとの力の差は明らかだって……)」
猛獣のように駆けて来るアグレアスを前にしても、ウィルの心は不思議と落ち着いていた。真っ直ぐに見据え、上手く力の入らない手で槍を握り直し、眉を寄せる。
そして、吼えた。腹の底から、その覚悟を吐き出すかの如く。
「――けど、諦めるくらいなら死んだ方がマシだ! 足掻いて、抗って、それで死んだら潔く負けを認めてやるよ! 立ってる内はまだ負けじゃない!」
「ハッハッハ! 本当に面白い奴だ! いいだろう、ならばその首を落とし、完全に勝利してやろうではないか!」
ウィルの言葉にアグレアスは至極愉快そうに笑い声を上げると、再び双眸に闘志を抱き、飛び掛かった。
ウィルは改めて槍を構え直し、襲い掛かってくるアグレアス目掛けて得物を突き出す。最早回避など、彼は考えていなかったのだ。