第二十五話・大地の槍
「――ジュード!」
広く作られた空間に、悲鳴にも似たマナの声が響く。彼女の視線の先には、獣の突進を真正面から受けるジュードがいた。
両手に携える武器を交差させて獣の攻撃を受けはするのだが、その身の大きさは当然ながら比べ物にならない。地の精霊ノームと思われるこの獣は、ジュードの何倍の大きさかさえ定かではないのだから。
獣の突進で見事に吹き飛ばされたジュードは、背中を岩壁にぶつけながらも決して怯むことはない。吹き飛ばされるのは既にこれで何度目かは分からない、それ程に繰り返し、その影響で彼の両腕は徐々に力が入らなくなってきていた。ライオットと交信状態にあると言うのにこの状況だ、獣の突進力は生半可なものではない。
だが、ジュードは歯を食い縛り、すぐに体勢を立て直す。
「……っ、大丈夫だ!」
ちびはそんな彼の傍らに駆け寄ると、心配そうに一つか細い声を洩らす。しかし、この程度で怯む性格ではないと魔物であるちびも理解しているのか、ジュードが何か言うよりも先に早々に獣へと向き直った。
一方でウィルとリンファはと言うと、二人はそれぞれジュードとは反対の方向――つまり、獣の背中部分にいた。
ウィルが獣の右側、リンファが左側に分かれ、それぞれ攻撃を加えてはいるのだが、思っていたよりも重いダメージを与えることが出来ずにいる。全く無意味と言うことはないが、確かな打撃にもなっていないのだ。
「ったく、どうなってんだよ! こっちは思い切り叩き込んでるってのに!」
「はい、……無効化されていると言うことはないようですが……」
風の力を纏ったウィルの攻撃も、気功を左右して一時的に攻撃力を高めて加えるリンファの攻撃も、致命傷を負わせるには至らない。ウィルは小さく舌を打ちながら声を上げ、そんな彼の声にリンファも――表情にこそ出ないが、もどかしさを感じているようであった。
満足な傷を負わせられていないことは、魔法で攻撃を加えるマナにも理解出来ていることだ。彼女が操る魔法は、その魔力と合わせて半端なものではない。威力とて常人が扱うものに比べれば遥かに高いのである。
それだと言うのに、獣は全くと言って良い程に怯む様子を見せず暴れ回っている。動きを止めようと集中的に魔法を叩き込んだ足を引き摺るような様さえ見せないのだ、気付かない筈がない。
「けど、やるしかないわよ!」
しかし、ジュード同様に彼女自身もまた簡単に諦めるような性格はしていないのだ。杖を両手で持ち直して身構えると、即座に魔法の詠唱へと戻る。
自分達が早く片付ければ、その分ジュードの負担が減る。そう考えると「頑張ろう」と頭で思うよりも先に身体が動いたのだ。
マナのその声に、ウィルもリンファも小さく――だが、しっかりと頷いた。
そして、ジュード自身も。先程からウィル達が矢継ぎ早に攻撃を繰り返していると言うのに、ほとんど堪えていない獣の様子に気付いていた。
「(おかしい、さっきからウィルやリンファさん達が思いっ切りやってるのに……!)」
『マスター! この感覚には覚えがあるに!』
「感覚?」
ジュードが違和感を覚えるのと同時、彼の頭の中には交信状態にあるライオットの声が響いた。
当然その言葉に反応を示しはするのだが、目の前の獣が休む暇など与えてくれる筈もない。こうしている間にも、何度も飛び掛かってくるのだから。
それを受け止め、時に回避し、なんとかやり過ごしながら己の中にいるライオットに声を掛ける。
『ガルディオンで戦ったあの魔族のものと似てるに!』
「あの魔族って……悪魔みたいな奴か?」
『そうだに!』
王都ガルディオンで戦った魔族――そう言われて思い出せるのは、あの悪魔に酷似した姿の魔族しかジュードの頭には浮かばなかった。そして、それは間違いではなかったらしい。すぐに頭の中にはライオットからの肯定が返った。
あの魔族は、闇の領域と言う不可解な黒いオーラを纏っていたのをジュードは記憶している。それはルルーナの障害魔法によって打破することが出来たが、今はそのルルーナがこの場にいない。
「っとと! けど、あの時みたいにモヤモヤしたのが見えないぞ!」
そこまで考えた時、不意に獣が前足を凪ぐように振るってきたのである。ジュードは双眸を見開くと、半ば反射的に身を低く屈め直撃寸前で回避したが、空を切った獣の前足は彼の横の岩壁を見事に打ち砕いた。その破壊力を目の当たりにして、ジュードは口唇を噛み締めると即座に大地を蹴って横へと飛び退く。取り敢えず多少でも距離を取らなければ、直撃すればこちらが致命傷を負いかねない程だ。
『ライオットにもよく分からないに、でも身体から確かにあの時のイヤな気配を感じるに……』
「……分かった。けど、どうすれば良いんだ、ルルーナはいないし……」
横へと飛び退いたジュードに対し、獣は即座に前足を大地に張り体勢を立て直すと再び飛び掛かってくる。そんな様子を前にちびは威嚇するように吼えるのだが、当然ながらその程度でこの巨大な獣が怯む筈もなかった。
ジュードは利き手に携える水の剣――アクアブランドの柄を握り締め、半ば反射的に獣目掛けて振るう。防戦一方になってはウィル達に余計な負担ばかり掛かる、そう思う部分もあったからだ。
ジュードが剣を振るっても、決して獣は怯むことはない。まるで血の色のような紅の双眸を光らせながら、飛び掛かってくる。前足の鋭利な爪に引き裂かれぬようジュードは右半身を前に、左足を一歩退くことで左側を後ろへと下げ当たり判定を最小限に押さえて迎えた。
獣の右足はジュードの右頬すぐ真横を掠めはしたが、幸いにも彼の身に直撃はしなかった。しかし、彼が振るった剣もまた、獣の左足を掠めたのだが――それもやはり、致命傷を負わせるには至らない。
「……!」
だが、常人よりも遥かに優れた彼の目は僅かな変化を見逃すことはなかった。
ジュードが振るった剣の切っ先が獣の身を直撃した時――その矢先、獣の身に致命傷を負わせることは出来ずとも、確かに一瞬のみ――獣の身を覆う濃紺色の毛が揺らいだのである。そしてその先には白い皮膚のようなものが確認出来たのだ。
それを確認し理解するや否や、ジュードは双眸を見開いた。今のは何か――そう考えはするものの、彼の頭は即座に一つの可能性を導き出す。
「グオオオオオォッ!!」
「――くッ!」
しかし、その攻撃に憤慨したように獣は再び地鳴りのような雄叫びを上げると、巨大な身を反転させ後ろ足で蹴りを繰り出してきたのだ。ジュードは咄嗟に後方に跳ぶが、完全な回避にはならなかった。
直撃こそ免れたが獣の後ろ足は彼の鳩尾に叩き込まれ、その身はいとも容易く蹴り飛ばされた。
「ジュード!」
ウィルは紫紺色の双眸を見開くと、ちょうど近場に飛んできた彼の元へと駆け寄る。
ジュードの身は堅い岩壁に叩き付けられ、その表情は苦痛に歪んだ。幾らライオットと交信していると言っても、当然ながら無敵になると言う訳ではない。ウィル達よりも少しばかり能力が上になると言うだけだ。
ウィルは慌てて彼の身を助け起こすと、その具合を窺った。ジュードは先程から獣の攻撃をその身一つで受けている。大丈夫なのか、純粋に心配になったのだ。
だが、ウィルがジュードに言葉を掛けようとしたところで、リンファが声を上げた。
「ウィル様! 何か来ます!」
『マスター! ダウンしてる場合じゃないに!』
「っつつ……んなこと言ったって……!」
リンファの声にウィルは弾かれたようにそちらに視線を向ける。ジュードは頭に響くライオットの急かす声に半ば愚痴の如く零しながら、打ち付けた左肩を右手で押さえた。ダウンしている場合ではない、それは分かっているのだが蹴り飛ばされた際の衝撃は半端なものではなかった。脳が揺れるような軽い眩暈さえ感じつつ、数拍遅れて彼もまた獣へと視線を戻す。
だが、次いだ瞬間――不意に彼らの身を強い衝撃が襲ったのである。何が起きたのかさえ分からぬまま、ジュードのみならずウィルやリンファ、後方に控えていたマナさえも全身に引き裂かれるような痛みを覚えて吹き飛ばされた。まるで塵屑か何かのように。
「きゃあああぁッ!」
「う――ッ、く……!」
マナからは悲鳴が上がり、リンファからは押し殺したような苦悶が洩れた。
ジュードやウィルも無論例外ではなく、彼らも吹き飛ばされていた。ウィルは腕や肩を深く負傷し、ジュードは脇腹や右足に裂傷を負っている。
一体何が起きたのか、それは訳も分からず吹き飛ばされたジュード達にはやはり分からないことだった。
「う……ッう、なんだ、何が……!?」
『魔法を撃ってきたんだに! マスター、大丈夫に!?』
「ま、魔法……? ……!?」
ジュードは痛む全身に表情を歪めながらなんとか上体を起こしはするが、脇腹に走る激痛にすぐに小さく唸る。無意識に片手で押さえたそこには、己の血がべっとり滲んでいた。
取り敢えず生きていることを確認してジュードは獣へ視線を戻そうとはしたのだが、それより先に視界に飛び込んできた光景に流石の彼も言葉を失う。
「う……」
それまで多少の波はあれど、ある程度平坦に近かった筈の大地はまるで地中から槍でも突き出してきたかのように様々に盛り上がっていたのだ。
ただ地面が盛り上がってると言う訳ではない、大地が鋭利な刃物の如く様々に突き出ていたのである。それは広範囲を巻き込む地属性の中級攻撃魔法『アースグレイブ』だった。ジュード達はこの魔法に巻き込まれたのだ。
大地は抉れ、幾つもの岩の槍が突き出ている。運が悪ければ身を貫かれて命を落としていた可能性さえある。実際ジュード達はそれぞれ深い傷を負ってしまっていた、状況は決して良いとは言えない。
この負傷で獣と戦闘を続けるのは難しい、それはこの場にいる誰もが理解していることだ。
「グルルル……」
その間にも、獣は低く唸りながらジュードやウィルの元へと歩み寄ってくる。ゆっくりゆっくりと、獲物でも狙うかのように。
マナやリンファはそれぞれ武器を支えになんとか立ち上がり、再び獣へ攻撃を仕掛けるべく向き直った。だが彼女達の身にもそれぞれ、決して浅いとは言えない傷が幾つも刻まれている。思い通りに動かぬ身体にマナは表情を顰め、リンファは小さくだが舌を打った。
突破口さえ見えていない現在の状況で、この負傷は痛過ぎる。ウィルはそう思いながら必死に四肢を動かして身を起こした。
「ウィ、ウィル……ッ!」
「っ……どうした……?」
そんな中、斜め前で身を起こしていたジュードから声が掛かり、ウィルは彼へと視線を向ける。先程の魔法がその身にも直撃したのだと言うことは、ジュードの負傷具合から容易に窺える。それと同時に、ウィルは軽い眩暈を覚えた。
彼は、ジュードは大丈夫なのかと。そう思ったのだ。だが、当のジュード本人はそんな自分の身にも今は気を向けず、言葉を続けた。
「オレが攻撃した後に、みんなで一斉に攻撃してくれ。……同じ箇所に」
「……え?」
「さっき見えたんだ。あの紫色の毛が、光を嫌がるように動いたのが……」
ライオットと交信状態にある今のジュードの攻撃は、それら全てが光の属性を纏っている。先程攻撃を仕掛けた際に見えたあの現象とライオットの言葉が確かであれば、一瞬だけ――ほんの一瞬だけ、光の力であの強固な守りを打破出来るのではないか。ジュードはそう考えたのである。
しかし、その彼の顔色は悪い。片手で額の辺りを押さえているところを見ると、恐らくいつもの眩暈が起きつつあるのだろう。そんなジュードに無理をさせる訳にはいかないと、ウィルは慌てて立ち上がった。
「バカ、お前なに言ってるんだ! そんな身体でまだ……!」
「やらなきゃこっちがやられる! ……早く片付ければ、問題ないだろ……!」
まだやる気なのか。ウィルはそう言葉を続けようとはしたのだが、それよりも先にジュードが声を上げたのだ。
前足を負傷したちびは心配そうに鳴きながら彼の傍らに寄り添うが、それでもジュードの心は変わらなかった。だが、魔法を受け付けない彼の身はその決意に反して猛威を振るい始める。
徐々に上がり始める体温と共に、世界がひっくり返るような錯覚さえ感じる強烈な眩暈がジュードを襲っていた。
「(くそ……ッ! こんな時くらい、静かにしてくれ!)」
今のままでは立ち上がることさえ出来なくなる、そう思ったジュードは負傷した己の脇腹に片手を当て、傷口を思い切り爪で抉った。当然だが、それと共に激痛を覚えて表情が自然と歪む。
「ジュード、お前なにやって……!」
ウィルは彼の傍らに駆け寄るとやめさせようと声を掛けはするのだが、ジュードは頭を左右に振ったかと思いきや、震える身を支えながら静かに立ち上がった。
「……ッ、こうでもしないと、意識が飛ぶだろ……! いいから、やるんだ。こんなところで……やられて堪るかよ!」
「……分かった、分かったよ」
強烈な眩暈と共に飛びそうになる意識を、激痛で繋ぎ止めようと言うのだ。それを理解したウィルは、他に解決策を見出せなかった。
幾ら言ったところで、ジュードは止まらないだろう。ならば、彼を少しでも早く休ませる為に出来ることは――この状況を打破することだけだ。
ジュードの言う通りにして本当に何とか出来るかどうかは分からない。それでもウィルの頭にも解決策がない今、多少の可能性があるのならそれに賭けてみる他になかった。
「けど、無理はするなよ……」
「……ああ、ッ……サンキュ、ウィル……」
恐らく、そう言っても無駄なのだろうけど。ウィルはそう思いはしても、口には出さなかった。
紅の瞳を輝かせて低く唸る獣を見据えて、ジュードとウィルはそれぞれ武器を構える。時間的猶予はもうほとんどない。盛り上がり荒れた大地に立ちながら、ウィルは複雑な心境のままに槍の切っ先を獣へと向けた。