第二十三話・涙する獣
「ジュード、本当に大丈夫なの?」
トレゾール鉱山の地下道を目指していたジュード達は、魔物との度重なる戦闘により随分と疲弊していた。幾ら他の魔物と異なるとは言っても、遭遇する度に逃げ出す訳にもいかない。延々逃げ続けていてはいつか逃げ場を失い、これまでいなしてきた魔物に囲まれてしまう可能性があったからだ。
しかし、戦闘を繰り返した為に完全に疲れきってしまっていた。鉱山内部には満足に休めそうな場所もなく、本来休憩所として使われていただろう一角にも魔物が住み着いており、とても休憩など出来るような状態ではなかったのだ。
更に、地下へ続く道を進んでいく中でジュードが体調不良を訴えたものだから、状況は更に深刻と言えた。
マナは足を止めぬまま、そんな彼へと一言声を掛ける。
「あ、ああ……大丈夫……」
「……とても大丈夫って顔じゃないわよ、まったく……」
ジュードは彼女からの問いに薄い笑みさえ浮かべながら返答を向けはするのだが、その顔色は非常に悪い。顔面蒼白に近かった。
無論、長い付き合いであるマナが彼の不調に気付かない筈はなく、呆れたような溜息混じりの呟きが零れる。大丈夫でもないのに大丈夫だと虚勢を張る、何よりも悪いジュードの癖だ。
地下道へ続く道はやや坂道になっており、辺りにはほとんど明かりが灯っていない。しかし、空気が薄いと言うことはない。更に言うのならばジュードは薄暗い中を恐怖するような繊細な性格もしていないのだ。
ならば、何故このように調子を崩してしまったのか。
「なんか、こう……頭が痛い、耳鳴りもする……」
「……ただの疲れ、って訳じゃなさそうだな」
「多分、この奥の所為だに……ライオットも胸の辺りがぐるぐるするに……」
「ライオット様に胸なんてあったんですね……全て腹部かと思っておりました」
先頭を歩くウィルは時折気遣わしげに後方のジュードを肩越しに振り返り、ジュードの頭に乗るライオットは彼と同じように具合が悪そうな様子で腹這いになっていた。そんなライオットに冷静且つ辛辣なツッコミを入れるのは、最後尾を歩くリンファだ。ちびはジュードの傍らを歩きながら、心配そうに彼を見つめている。
本当に大丈夫なのかと、マナはちび同様に心配そうな表情を浮かべながらジュードの斜め後ろを歩いていた。
「この奥の所為って、やっぱり奥には精霊がいるの?」
「うに、精霊の気配がするに。ここまで来ればライオットにも分かるによ」
「上級精霊なんて言ってても使えないわね、近付かないと分からないなんて……」
「うにー!? 精霊にも相性ってものがあるんだに! ここの精霊は地の精霊だに、ライオットは光の精霊だから分からなくても仕方ないんだにー!」
「あんまり頭の上で騒がないでくれ、響く……」
マナから返る言葉にライオットは腹這いになっていた身を起こすと、短い手を必死に動かしながら抗議の声を上げる。しかし、己の足元からジュードの小さい訴えが聞こえてくると、すぐに勢いを失ったように改めて彼の頭の上に――今度は座り込んだ。
背中に届く声にウィルは苦笑いを滲ませると、片手は傍らの壁に添えたまま慎重に歩いていく。地下に向かっていくにつれて、足場は上よりも遥かに不安定だ。まるで瓦礫の山でも歩いているのでは、と思うほどに。道と言うよりはいっそ岩の山とも言える。
そんな道の先頭を歩きながら後方の会話に耳を傾け、幾つか浮かんだ疑問の一つを口に出した。
「ってことは、地の精霊は同じ地の精霊相手じゃないと遠くまで声が聴こえたりはしない訳か」
「そうだに」
「じゃあ、どうしてジュードには声が聴こえるの? やっぱりマスターってやつだから?」
「うに、そうだに。マスターは精霊と相性が良いんだに」
改めて、ウィルは後方から聞こえてくる会話に耳を傾け情報を整理していくものの、やがて前方に見えてきた光に一度足を止めると小さく吐息を洩らした。地下へ続くこの道は薄暗い、ようやく少しは明るい場所に出られるのかと思えば、口からは自然と安堵にも似た吐息が洩れたのだ。
しかし、そこは賢いウィルのこと。すぐにその光に違和感を覚えて眉を顰めた。
「……おい、あの光……なんか、おかしくないか?」
そんなウィルの言葉に反応したのは当然ジュード達だ。足を止めた彼に倣い立ち止まると、ウィルの背中から前方を覗き込む。
すると、彼らの視界にはなんとも禍々しく感じられる紫色の輝きが映り込んできた。これまでの道の脇にあったぼんやりとした灯りとはまるで違う、見る者を嫌な気分にさせるような――そんな輝きだ。
そして、それと共にまるで獣の雄叫びとも思える轟音が轟く。
「――グオオオオオオォッ!!」
これまでの魔物とは異なる、その地鳴りのような雄叫びにマナは肩を跳ねさせて身を強張らせると、体調不良も忘れたように傍らのジュードの片腕にしっかりとしがみついた。獣型であるちびでさえも、四足をしっかりと大地に張り毛を逆立てて警戒している。牙など剥き出しで、完全に臨戦態勢だ。
紫色の輝きを放つ獣、ウィル達は誰もがそんな想像を巡らせた。だが、ジュードは自由な逆手で頭を押さえると口唇を噛み締めてから呟く。
「……あれだ、たぶん。助けてって、言ってる」
「この気配はノームだに!」
「ノームって、精霊なの?」
「そうだに、ノームは地の上級精霊だに! 一体どうしちゃったんだに!?」
――地の上級精霊。
つまり、光の上級精霊であるライオットと同等の力を持つ精霊だ。そんな精霊がこのような獣に似た声を出しているらしい。穏やかな話ではない。
ジュードは目の前のウィルの肩を掴むと『早く』と先へ進むよう促しを向ける。雰囲気的にも決して穏やかとは言えないが、地震の原因を解明しに来た以上はここで逃げ出す訳にもいかない。もしも本当に精霊が原因となっているのであれば、恐らく普通の者では解決出来ないことなのだから。
ウィルは肩越しに彼らを振り返ると、余計な言葉を発することなく一度だけしっかりと頷いた。
片手を傍らの岩壁についたまま、先へ先へと慎重に進み――やがて愕然とする。
「……なんだよ、これは……!」
何故なら、その先に見えた姿は彼らの想像を遥かに上回る怪物であったからだ。
行き着いた空間は非常に広い場所であった。恐らくは鉱石の採掘が行われていた場所なのだろう。辺りには使い古されたトロッコや採掘道具が散らばっていた。岩壁からは淡く黄色に色付いた鉱石が顔を出し、作業の途中であったことが窺える。
しかし、その空間には今や濃紺色の剛毛に覆われた巨大な生き物が鎮座していた。四足で立つその生き物は鼻と思われる箇所が長く、耳がピンと立っている。目は真紅に光り輝き、鼻の下にある口からは鋭利な牙が覗く。全身から禍々しいオーラを醸し出し、低い唸り声が洩れていた。
その大きさは、嘗て水の国の鉱山で遭遇したアイスゴーレムと同等と言える。
「な……なんなの、この生き物は……!?」
「グオアアアアアアァッ!!」
「……っ! 雄叫び一つで身が竦んじまう、どうなってんだよ!」
「わ、分からないに……もしかして、ノームはコイツに喰われたんだに……!?」
ウィルの言うように、獣が上げる雄叫び一つで彼らの身は思わず竦み上がっていた。聴く者の恐怖心を煽るような、腹の底に響く声に生き物の生存本能が恐怖を感じているのだ。――コイツはヤバイ、と。
ジュードは眉を寄せて表情を顰めると、ゆっくりとそんな獣の前へと歩み出た。
「ジュード、ちょっと待って……! コイツはダメよ、無理だわ!」
やはり、こんな状況でも臆することがない。それがジュードだ。太い前足で殴り飛ばされようものなら平気で骨の一本や二本は折れてしまいそうだと言うのに、それでも彼は獣の正面に立つと真っ赤な瞳を見上げる。
頭の上に乗るライオットもジュードの髪を引っ張って止めようと必死だったが、それは抵抗の内にも入らなかったらしい。
「……オレはお前に呼ばれてここまで来たんだ、……助けてほしいって、何をどうすれば良いんだ?」
「う、うに……マスター、何言ってるに? これがノームなんだに?」
「だって、さっきから助けてくれってずっと吠えてるじゃないか。……ほら」
「……に?」
ジュードの言葉にライオットは瞳孔が開いた目を何度も瞬かせた。彼の言葉から察するに、この濃紺色の生き物が精霊――ノームらしい。しかし、ライオットの記憶にある姿とは全く異なるのか、何度も彼と獣とを交互に見遣り目を白黒させていた。
だが、獣を示すように見上げるジュードにウィルやマナ、リンファも改めてその視線を獣の――その眼に向ける。すると、そこには一つ光るものが存在していた。
「……泣いてる……?」
「苦しい、助けてくれって。……さっきからずっと言ってるんだ」
「じゃあ、本当にコイツがノーム……精霊なのか……!?」
真紅に染まったノームの眼は、確かに涙で潤んでいた。そこから溢れる涙が目元の毛を湿らせ、唸る度にボロボロと地面へ落ちていく。
これが精霊――俄かには信じられない話だが、そもそも精霊がどのような形をしているのかを知らないジュード達にとって理解すれば別段不思議なことではなかった。ライオットのような何の生き物か分からない者もいれば、シヴァやイスキア、サラマンダーのような人型もいるのだから。
だが、次の瞬間ノームが動いた。突然後ろ足のみで立ち上がり天を仰ぐ形で雄叫びを上げた後、再び四つん這いになると――長い鼻先でジュードの身を横から殴り付けたのだ。
「――ジュード様!!」
突然の攻撃に流石のジュードも何の反応も出来ず、いとも簡単にその身は吹き飛ばされ、固い岩壁に背を打ち付けた。低くくぐもった声を洩らす彼にリンファは咄嗟に声を上げ、腰裏から愛用の得物を引き抜く。
ウィルは槍を手に取ると彼女と共に臨戦態勢を取りながら小さく舌を打ち、マナとちびは慌ててジュードの元へと駆け寄った。
「もうっ、言わんこっちゃない! ジュード、大丈夫!?」
「う……、っつつ……だ、大丈夫……」
「やっぱり、あんなの精霊じゃないわよ!」
精霊にしては非常に禍々しい雰囲気を醸し出している、この生き物が精霊であるなどと、マナには到底信じられるものではなかった。ましてや、このようにいきなり襲い掛かってくるのだから。
だが、ジュードは打ち付けた背中から腰にかけての部分を片手で摩りつつ、痛みに表情を歪ませながらも小さく頭を左右に振った。
「ち、違う……身体が言うことを利かない、止めてくれって……」
「え……?」
恐らくは獣の声を代弁したと思われるジュードの言葉に、マナは一度怪訝そうな表情を滲ませると、ウィルとリンファを振り返った。彼の言葉は二人にも確かに届いていたらしい、複雑そうな表情を滲ませながら、それでも武器を構えて獣――ノームと真正面から対峙する。
この生き物がただの魔物でも精霊でも、地震の原因になっていると言うのであればなんとかしなければならないのだ。
ジュードは肩を押さえながら、壁伝いに立ち上がると腰から武器を引き抜く。そんな彼を見上げて、マナは不安そうに声を掛けた。
「……ジュード、やるの?」
「ああ、……苦しんでるんだ。止めろって言うなら止めるさ、なんとしても」
ジュードからしっかりとした声が返ると、マナも屈んでいたそこから静かに立ち上がり一度だけ頷く。そして愛用の杖を手に取ると、彼と共にノームへ向き直った。
殴り飛ばされた拍子にジュードの頭から転げ落ちたライオットは、飛び跳ねるようにして彼の傍らへ戻る。ジュードはそんなライオットを片手で拾い上げると、ノームへと目を向けた。
「――やるぞ、ノームを止めるんだ!」
ジュードがそう声を上げるとライオットは彼の頭の上に改めて飛び乗り、ウィル達はそれぞれ了承の声を上げた。