第十八話・奇妙な声の導き
※改めて、地震の表現があります。
空が闇夜から解放され、太陽が顔を出そうとしていた頃。
ジュードはアレナの街の宿――その一室で、ライオットと共に心地好い微睡みを堪能していた。夢と現の狭間、ふわりふわりと波間を漂うような感覚。小鳥の囀りが挨拶でも交わすかの如く、彼の耳に届く。
その心地好い声に徐々にジュードの意識は覚醒を果たし、ゆっくりと静かに翡翠色の双眸が開いた。何度かゆっくりと瞬きを繰り返すことでやがて焦点が定まり、眠たげに欠伸を零しながら寝台の上で静かに上体を起こす。隣の寝台を見れば、ウィルが未だ眠りに就いたまま規則正しい寝息を洩らしていた。
とは言っても、元々早起きな傾向のある彼のこと、もう直に目を覚ますことだろう。
ジュードは寝癖の付いた自分の髪を片手で押さえるように撫で付けながら、彼を起こさないように静かに寝台を降りると、何処となく寂しそうに寝台の傍らを見遣る。常ならば必ずそこに在る相棒――ちびは、今は彼の傍にいない。
街中を連れて歩く訳にはいかないからだ。魔物であるちびを受け容れてくれる者はほとんどいないだろう。そもそも、人間が魔物を連れていること自体がおかしいこと。それ故に、今もまだ馬車の馬と共に厩舎に預けたままである。
「(ちび、大丈夫かな……)」
結局あの後、カミラと共に馬とちびの様子を見に厩舎には向かったのだが、ちびは馬と共に確かに怯えていた。
当然だ、魔物や動物は災害などを予知出来る力があるのではないかと言われてはいるが、危険が迫っているからと逃げ出そうにも厩舎に繋がれたままでは逃げようもない。それで怖がるなと言う方が無理な話。
だが、やはり厩舎から出す訳にもいかず、ジュードの心配は増す一方だった。お陰で昨夜の夕飯は、普段の四分の一程度しか喉を通らなかったのである。
そこまで考えて、ジュードは小さく溜息を零すとウィルとライオットを起こさないように静かに部屋を後にした。――ちびと馬の様子を見に行きたい、彼の気持ちはそれだけだ。
ジュードにとって、ちびは大切な存在と言える。
昔ながらの付き合いであるウィルやマナ、他にもカミラ達なども例外なく大切なのだが――ちびは、右も左も分からないジュードの心を開いてくれた存在であった。
グラムに拾われた時、何の記憶も持っていなかったジュードは自分を純粋に頼ってくれるちびに救われたのだ。グラムと共に親探しをしている間も、幼いながらに彼は何処か宙ぶらりんな状態だった。自分の肉体はここにあるのに、心は宙を漂っているような。
しかし、ちびと触れ合うようになって、彼の心はしっかりと安定したのだ。
そんな大切な存在であるちびが恐ろしい想いをしているのに、自分が傍にいてやれない。その現実はジュードに歯痒さを感じさせた。
* * *
ジュードは宿を後にすると、真っ直ぐに街の東側出入り口へと足を向けた。急く気持ちを反映するかのように、その歩調は歩くものと言うよりは駆けるものに近い。
朝も早い時間帯だと言うのに、街には既に結構な数の街人の姿が窺えた。彼らに衝突しない程度の速さで歩きながら、ジュードは厩舎へと急ぐ。
「(……そういえば、昨日のあの声……なんだったんだろう)」
そんな彼の頭に浮かぶのは、昨日の出来事だ。
店で色々な武器を見ている時、彼は確かに何者かの声を聞いていた。『苦しい、助けて』という、何者かが助けを求める声を。
だが、その場に居合わせた仲間――肩に乗っていたライオットでさえも、ジュード以外は誰もその声を聞いてはいなかった。
ただ仲間には聞こえなかっただけか、それとも自分が疲れているのか。どちらとも言えない為に、どうしようもない。大体、聞き間違えでなかったとしても声の主は何処にいたと言うのか。
アレナの街は一晩明けても、昨日の地震の痕跡が確かに残っていた。
建物の倒壊こそなかったものの、木箱や樽が転がっている箇所が多い。あの地震が起きた時間帯は夜に差し掛かろうとしていた頃だ、恐らくは片付けも満足には行えなかったのだろう。この時間帯でそれなりに多くの人が出歩いているのは、その影響もあるかもしれない。街中はともかく、昨日の店を始めとした多くの家屋は大変な惨状になっているのだろうから。
「ちび、大丈夫か?」
そんなことを考えながら歩いていたジュードは、やがて行き着いた厩舎の中を覗き込み相棒に一声掛けた。厩舎と言っても、誰でも使用出来るものだ。まさか魔物そのもののちびを放して繋いでおく訳にはいかない。他の利用者がちびを目撃して惨事になってしまう可能性が高いからだ。
ジュードの声に反応したように、厩舎の中に預けた馬車の中からは嬉しそうな鳴き声が一つ。――どうやら、ちびは落ち着いているらしい。見たところ馬にも怪我などは見受けられなかった。
ジュードは小さく安堵を洩らして馬車に歩み寄ると、そっとその扉を開ける。すると、待ってましたと言わんばかりにその先には大きく口を開けて舌を出すちびの姿。尾など千切れそうなほどに左右に振られていた。
「ちび、今日は鉱山に行くことになったんだ」
「わう?」
「東の鉱山で凶悪な魔物が出たんだってさ、昨日の地震に関係あるかもしれないってことで」
ジュードはそんなちびの頬を包み込むように両手で撫で摩りながら、昨夜決まった今日の予定を告げる。彼にとっては、ちびも仲間だ。自分達だけで今後の予定を決めるのは少々抵抗があったのである。
――あの後、夕飯の席でジュードとカミラの話を聞いたウィル達は最初こそ複雑な表情を滲ませてはいたものの、結局はお人好しの集まり。そんな子供達を冷静に諭さなければならないシルヴァ自身もジュード達に負けず劣らず正義感が強いのか、はたまた彼女も純粋に気になったのか強い反対は返してこなかった。
その結果、ジュード達は東にあると言うトレゾール鉱山へと向かうことになったのである。
「鉱山ってからには鉱石も採れるんだろうなあ……」
「わうっ!」
「あはは、そうだな。あんまり荷物にならない程度なら採ってきても……いや、荷物にならないのは無理か、重いからなあ……」
ジュードの頭には依然として、ちびの声がダイレクトに『言葉』として伝わってくる。だが、傍から見れば魔物に話し掛けて独り言を呟く危ない人だ。尤も、本人は全く気にしていないが。
とにかく、ちびにも馬にも被害がなくて良かった、落ち着かずに暴れ回って怪我でもしていたら、と。そう思っていたのである。ジュードは確かにそう安堵を感じて、文字通り胸を撫で下ろそうとしたのだが――そんな時だった。
――苦しい、助けて。
「……!」
また、あの声がジュードの耳に届いたのである。否、耳と言うよりは『頭』と称す方が相応しいかもしれない声。
それも、今回はそれだけに留まらなかった。
助けて、助けて、誰か助けて! 苦しい!
何度も何度も、その声は悲痛な声を上げていたのだ。その声質からするに、恐らくは男性だと思われる。
ジュードは弾かれたように辺りを見回した。だが、彼の双眸は誰の姿も捉えることはない。今この場にいるのは、確かに自分とちびと――複数の馬達だけだ。
今度は聞き間違いなどと言うものではない、確かにハッキリと聞こえた。しかし、肝心の姿は何処にも見えなかった。
「――誰だ! どこにいる!」
ジュードは馬車から離れると、改めて辺りを見回した。助けが必要なら、自分で良ければここにいると――そう伝える為に声を張り上げて。
その奇妙な声はちびにも聞こえていないのか、不思議そうな様子でジュードを見つめてくる。
しかし、次いだ瞬間――不意にちびがジュードに飛び掛かってきたのだ。大口を開けて、勢い良く。突然のことに反応も出来なかったジュードはそんな相棒の様子に思わず双眸を見開くが、すぐにその意味を理解した。
近くに積まれていた藁の中にちびもろとも突っ込んだジュードはその刹那、昨日と同じ――否、昨日よりも遥かに大きな衝撃を感じたのである。
下から、思い切り突き上げるような衝撃を。
「うわッ、わっ!」
――地震だ、それも昨日のものよりも遥かに大きな。
ちびはそれを瞬時に察知し、ジュードを守ろうと咄嗟に飛び掛かったのだ。確かに藁の中に突っ込んで、オマケにちびのふわふわの毛に覆われていれば厩舎が倒壊しても致命傷を負うことはないかもしれないが。
辺りからは馬の嘶きと、街人達の悲鳴が休みなく聞こえてくる。それと共に何かが倒れるような轟音も。それは想像したくないが、恐らくは建物が崩れるようなものだと思われる。
「(あの声が聞こえた後に地震が起きるのか……!? それともただの偶然……)」
ジュードはその大混乱の中、そんなことを考えていた。
昨日も、あの地震があったのは何者かの助けを求める声が聞こえた直後だった。そして、それは今回も同じなのである。ただの偶然か否か、それは分からないがジュードは声を上げずにはいられなかった。
「誰かは分からないけど、やめろ! 助けが必要ならなんとかするから!」
本当に、あの声はこの地震と何か関係があるのか。無論確固たる証拠はない、ただの憶測だ。
だが、ジュードのその声が届いたのかどうか――それは定かではないが、やがて地震はゆっくりと収まっていき、代わりに彼の頭には重苦しく響くような声が届いた。
「……え……?」
その声はあまりにも低く、そして小さく苦しそうなものであった。
それ故に、ジュードは思わずか細く疑問の声を洩らしたが、それ以上声が聞こえることはない。あれだけの大きな――大地がひっくり返ってしまうのではと思うほどの地震も、すぐに鎮まっていったのである。
ジュードはちびと共に身を起こすと、藁の中から頭を出す。厩舎からは街の一角しか窺えないが、倒壊してしまった家屋が幾つか見える。昨日の大きな地震にも耐えた建造物が、更に大きい今の地震には耐えられなかったようだ。これでは、一体どれだけの怪我人がいることか。仲間達も無事かどうか定かではない。
――鉱山、地下、奥。
途切れ途切れの苦しげな声ではあったが、確かにあの声の主はそう告げた。考えられることは色々とあるのだが、取り敢えず――今のジュードが何より気懸かりなのは仲間のことである。
「ちび、ごめん。みんなの様子を見てくるから、ここで待っててくれ」
「わうっ!」
恐らく、街の中は大混乱だ。だが、そのような中にあってもやはりちびを連れて行くことは憚られた。
混乱の中であれば人々も気にしないかもしれないが、大地震と言う不安と直面する中で魔物が街の中にいれば更なるパニックに陥りかねない。恐らく街人達は恐怖と不安に包まれているだろう、下手に刺激はしたくなかったのだ。
そんなジュードの気持ちは伝わっているのか、ちびはしっかりと返事をして馬の傍らへと戻った。まるで寄り添うように。――ちびなりに、馬を励ましているのだろう。
その相棒の様子を見守ったジュードは、仲間達の安否確認をすべく街中へと駆け出していった。