第十四話・前途多難
ルルーナは朝の湯浴みを終えて、脱衣所を後にした。朝のシャワーや湯浴みは彼女の日課だ。故郷である地の国の王都グルゼフにいた頃から、ほとんど毎日欠かしたことがない。
自慢の薄紅色の髪は湯を受けて湿り、備え付けのタオルで水気を取りながら割り当てられた部屋へと足を向ける。昨夜の湯浴みの後は就寝以外に予定がなかった為にラフな姿ではいられたが、今日はこれから再び旅になる。彼女の身を包むのはいつもの――男を挑発するような露出度の高いドレスだ。
常であれば湯浴みの後、彼女の機嫌はいつも良い。鼻歌など交えることも日常茶飯事だったと言える。しかし地の国に戻っている今、その表情は何処か真剣だ。
ルルーナは別に、自分の生まれ故郷が嫌いな訳ではない。寧ろ安心出来る場所だ。ならば、何故彼女がこのような表情をしているのかと言うと。
『――ルルーナ、お願いね』
それは、彼女の母ネレイナのことだ。
そもそもルルーナが地の国を出てジュード達と接触したのは、母に頼まれたからである。接触する口実としたのは『グラム・アルフィアの身の周りの世話』だったのだが、ジュードに助けてもらったことで彼に惚れ込んだフリをして、強引にその隣を得ることにしたのである。
火の国に引っ越す際に煙たがられはしても、今となっては誰もルルーナを邪険にしたりはしなくなった。当初は犬猿の仲としか言えなかったマナとも、今では良い関係を築けているとルルーナ自身思っている。
しかし、ジュード達と親睦を深めれば深めていくだけ、彼女の中では葛藤が生まれるようになっていた。
母は、ジュードを自分の元に連れてきて欲しいとルルーナに頼んだ。そうすれば、彼女が幼い頃に出て行ってしまった父が戻ってくると言ったのである。
当初は別に彼女自身、ジュード達のことなどどうとも思っていなかった。父のことが大好きなルルーナにとって、ジュードはただの道具も同然。母の為に、そして父を取り戻す為に必要なだけだった。だが、彼らと親しくなっていけばいくだけ、母の言葉に疑問が募っていくのだ。
母ネレイナは、ルルーナがジュードを連れてくれば父が帰ってくると言う。しかし、父とジュードにどのような関係があると言うのか。ルルーナには全く覚えもなければ、見当もつかない。
それに地上げ屋が言っていたこと――母は最近、公の場にほとんど姿を現していないらしい。彼女の心配は次々に募っていく。
ジュードを連れて戻れば、何故父が戻ってくるのか。母は何故、最近屋敷に篭っているのか。ルルーナの胸にはそんな疑問がいつだって燻っている。
それも、王都グルゼフまで帰り着けば分かること。母の言葉の謎も、今の母の様子も王都にある屋敷に戻れば分かる筈だ。
「(考えるだけ無駄ね……答えなんてお母様しか持っていないのだから……)」
どれだけ考えようと、結局は憶測の域を出ない。母でなければ確かな答えなど分からないのだから。
小さく溜息を吐いたルルーナが部屋に戻るべく廊下の突き当たりを曲がろうとした時、ふと彼女の足が止まる。髪を拭いていた手も意識するよりも先に止まった。
「……あ、あの」
何故なら、彼女が戻ろうとしていた部屋の近くにトリスタンが立っていたからだ。壁に寄り掛かっていた身を、ルルーナの姿を確認するや否や離して向き合うところを見れば、彼女を待っていたのだろう。
ルルーナは紅の双眸を緩く細めると、一度は止めた歩みを再開させながら彼の元へと緩慢な足取りで歩み寄った。
「……何か用なの?」
そのままトリスタンの横をすり抜けるように通り過ぎると、彼は慌ててルルーナを振り返り、まだ朝も早い時間だと言うのにやや大きめの声で口を開いた。
「――わ、悪かった!」
不意に向けられた謝罪に、そこでルルーナは改めて歩みを止めると常と変わらないゆっくりとした動作で肩越しに彼を振り返る。トリスタンは両手を足の横に添え深々と頭を下げていた。
旅館を手放す気はないと先走るようにシルヴァに喰って掛かったトリスタンは、ルルーナから見れば己に負けず劣らずプライドが高い男だと思っていたからこそ、その様子は彼女に幾分かの驚きを与える。
「……あんたはただ、俺達を馬鹿にしてああ言ったんだと思ってたんだ」
「そんなくっだらない真似をする暇があったら無視するわね、時間の無駄だもの。馬鹿にするのはマナの胸だけで充分だわ」
そうなのだ。
ルルーナは、何かと誤解されることも多いのだが、彼女は自らの意思で他人を本気で馬鹿にしようなどと思ってはいない。そのようなことに割く労力が勿体ない、そう思うタイプである。率先して他人を嘲笑するような性格はしていないのだ。
気に入ればそれなりに構う、気に入らないものは完全に意識外に追い出す。そんな性格だ。好き嫌いがハッキリし過ぎているとも言えるだろう。
尤も、トリスタンやメネットが彼女のそんな性格を知っている筈もない。それ故の衝突だったのだが。
「言っておくけど、私は謝らないわよ」
「……あ、ああ」
そこでトリスタンは下げていた頭を静かに上げると、そっと視線のみで彼女の様子を窺った。彼の目に映るルルーナは、初めて見た時とほとんど変わらない。何処までも自信満々で、性格が少しキツそうで。プライドが高そうな印象を受けるが、とびきりの美人。
更には地の国の最高貴族。そんな彼女からの謝罪など、トリスタンは欠片ほども期待していない。
だが、ルルーナは片手を上げてヒラヒラと揺らすと、部屋へと向かいながら再度言葉を向けた。
「アンタ達の手でこの旅館を素晴らしいものにしてみなさい、そうすれば私も非礼を詫びてあげるわ。商売ってのは難しいんだから、こんなことに時間使ってる暇があるなら、客をより良くもてなす方法でも考えるのね」
「え……」
その言葉にトリスタンは双眸を丸くさせ、呆気に取られたように口を半開きにさせた。しかし、ルルーナはそれ以上余計な口を挟むことも、視線を寄越してくることもなく早々に部屋の中へと消えていく。
トリスタンは暫し呆然とその場に佇んで彼女の言葉を反芻していたが、程なくして何処か照れたように笑った。
* * *
「ジュード、大丈夫?」
「ああ、うん。ちょっとまだダルいけど、大丈夫だ」
その後、一行は目を覚ましたジュードを含めて食堂で朝食を摂っていた。
昨夜はあれだけ高熱を出して苦しんでいたと言うのに、ジュードは普段同様、夜が明けると共に目を覚ました。すっかり熱は下がっており、彼の言葉通り気だるさは残るようだが、不調には見えない。
異常な体温もなく、食欲も通常通り、顔色も悪くはない。完全にいつもの彼だ。
「昨晩、ジュードさんがお倒れになったって聞いてビックリしました。夕飯に何か変なものでも入っていたのかとばかり……」
「ああ、ジュードのは結構いつものことだから気にしないでよ」
グラスに水を注ぎながら安心したような表情を滲ませるメネットに、マナは余計な心配をさせまいと明るい声で返答を向ける。すると、メネットはふわりと柔らかく笑って「ありがとうございます」と礼を紡いだ。
旅館の問題もある程度は片付いた為か、彼女の表情はこれまでと異なり何処までも穏やかだ。不安も焦りも見受けられない。
広まってしまった悪評ばかりはどうにもならないが、これからは彼らの努力で旅館を切り盛りしていくだろう。
「それで、みなさんはこれからどちらへ?」
「我々は王都へ向かう途中なんだ、南の関所を通ってきたばかりでな。それで、近くに村や街があるかも分からず、こちらで一晩泊めてもらえないかと思って来たんだが」
「そうだったんですか、そうとも知らず面倒に巻き込んでしまって……」
「いいっていいって、これも人助けだもんね」
食事を終えたシルヴァがナフキンで己の口元を拭いながら彼女からの問いに答えると、メネットは眉尻を下げて申し訳なさそうに呟く。しかし、すぐにマナが明るく笑いながら頭を左右に振ってみせた。場を和ませるのも盛り上げるのも、いつも彼女の役目だ。
しかし、リンファはナイフとフォークを置くと、シルヴァ同様に口元を拭いながら心配そうに軽く眉を寄せる。
「……ですが、困りましたね」
「ん? 何がだ?」
「私、ジュード様がヘビ嫌いだとは知りませんでした。地の国には爬虫類型の魔物はもちろんなのですが、その中でもヘビ型の魔物は特に多く生息しているんです」
「ああ、そう言えば……そうね」
完全に和やかムードの中、不意に口を開いたリンファの言葉にジュードは思わず食事の手を止めた。
否、手だけではない。まるで表情を含め彼の全てが凍り付いてしまったかのように、ピクリとも動かなくなったのだ。
まさか、とウィルは苦笑いを滲ませるが、リンファは冗談を言うような性格はしていない。更にそんな彼女の言葉をルルーナが肯定までしたではないか。これは、紛れもない事実だ。
「地の国って水の国と火の国に挟まれてるでしょ、程好くジメジメしてるのよ。だから爬虫類にとっては最高の住処になってるのよね。風の国は同じ環境でも、風の加護があるのかさっぱりしてたけど」
「……なるほどな」
「グランヴェルじゃ、ジュードには期待しない方が良さそうね」
「大丈夫だよジュード、代わりにわたしが頑張るから!」
五指でグラスを持ち円を描くように回すルルーナの手元からは、氷とグラスが当たる小気味好い音が奏でられる。
しかし、そんな耳に心地好い音を聞いてもジュードの気持ちは全く晴れない。それどころか、どんどん落ちていく一方だ。
ウィルやマナは苦笑いを滲ませながら横目に彼を見遣り、カミラはそんなジュードを元気付けるように必死に声を掛けていた。
一難去って、また一難。何かと前途多難である。