第十九話・浄化の輝き
――本当は、分かってた。
いつか、きっとこんな日が来るんじゃないか、って。
本当はとても怖い。
魔族が怖いんじゃなくて、みんなが怖い。
みんなの目が、怖い。
初めて外の世界に出て、心から大好きになれた人達に嫌われるのが――とても怖い。
でも、もっともっと怖いのは。
魔族に、また大切な人を奪われることだから。
嫌われるより、その方がずっと怖いことだから。
カミラは謁見の間を後にし、屋上へ続く階段を駆け上がると、もう間近まで迫ってきている黒の大群に眼を向ける。
両手を胸の前で合わせ、祈りを捧げるように静かに双眸を伏せた。胸中に湧くのは、ほんのりと感じる罪悪感。
カミラ様、よろしいですか?
ばあやとの約束、必ず守ってくださいね。
カミラ様が巫女であることは、決して知られてはいけません。
知られれば、どんな目に遭わされるか、どのようなことになるか分からないからです。
よろしいですか?
ばあやとの約束、必ず守ってくださいね。絶対ですよ。
「(おばあさま、ごめんなさい。わたしは、約束を破ります)」
故郷であるヴェリア大陸に――幻の里と呼ばれる聖地ヘイムダルに残り、自分の帰りを待っていてくれる最愛の存在へ一つ謝罪を向けて、カミラは意識を切り替えた。
目の前から迫り来る、黒の大群へと。
自分の大切なものを守るために。
ジュードは謁見の間を後にすると、軽く辺りを見回す。目の届くところにカミラの姿は見えない。
だが、肩に乗り必死にしがみつくライオットが短い手を挙げて「屋上だに!」と促した。それに対して小さく頷くと、ジュードは再び駆け出す。突き当たりの角を曲がり、螺旋状になって上へと続く階段を一段飛ばしで駆け上がっていく。
「マスター、カミラは寂しい子なんだに」
「……え?」
「みんなはきっと、カミラはそれなりに平和な場所で育ってきたと思ってるに。でも、違うによ」
ジュードとちびの後を追うように飛び出してきたウィルとマナは、先を駆けるジュードの背中を見遣り後を追い掛けようとはしたのだが、ふとテラスから見えた空の光景に足を止める。
謁見の間は直ぐ近くだ、カミラが何をする気なのかは分からないが、女王を守らなければならない。
ウィルとマナは互いに顔を見合わせると、カミラのことはジュードとちびに任せるつもりで共にテラスへと駆け出した。
あと二、三分もあればグレムリンの群れはこの城へ突撃してくる。それほどの距離だ。
「……ウィル、どうする?」
「どうするもこうするも、俺達がやることは一つだろ」
「ん、あたしは巫女じゃなくて――カミラのことを信じる。あの子なら、きっとなんとかしてくれるって……だから!」
互いに視線は魔族に合わせたまま、淡々と言葉を交わしマナは照準を合わせるように双眸を細める。
そして片手に持つ杖を振るうと、初級の火魔法をグレムリンの群れへと放った。ダメージなど当然期待していない、彼女の狙いは別にある。
すると、案の定グレムリン達は放たれた火球に意識を向けた。程なくして城のテラスに見えるマナとウィルの姿を捉え、躍起になって急降下してきた。その周辺にいた他のグレムリン達も敵を見つけたのだと判断して、その後に続く。
「よし、もっと来いよ!」
ウィルは愛用の槍を構えると、こちらを目掛けて急降下してくる複数のグレムリンを見据え、眉を顰めて目を細める。
彼らの狙いは魔族の撃退ではない、あくまでも時間稼ぎだ。
これまで魔族と言えば、吸血鬼やアグレアス、ヴィネアなど大物のような者としか交戦してこなかった。初めて相対するグレムリンがどのような強さを持っているかは定かではない。
あまり多くを相手にするのは極力避けるべきなのだが、目的が時間稼ぎである以上はそんなことも言っていられない。カミラの元へ行かせる訳にはいかないのだ。
キイイィッ! と甲高い声を上げながら降り注いできたグレムリンの群れを見据え、ウィルは駆け出した。
鼓膜を劈くような高い音を立てて、謁見の間の窓硝子が盛大に砕ける。それと共に謁見の間には様々な悲鳴が上がった。
メンフィスとシルヴァは腰元から剣を引き抜き、ほぼ同時に駆け出す。グレムリンの別部隊が窓を突き破り侵入してきたのである。
「ゆくぞ、シルヴァ! ワシに続け、陛下と民を守るのだ!」
「はい、メンフィス様!」
「ああほら、アンタ達も下がってなさい」
真っ先に駆け出していく騎士二人の背中を確認してから、ルルーナは蒼褪めて震える住民達を肩越しに振り返ると短く一声向けた。傍らには先程ライオットと戯れていた少年の姿も見える。
年頃か、怖くないとでも言うように口を真一文字に引き結んで仁王立ちしているが、小柄なその身は確実に震えていて恐怖しているのは一目瞭然だ。なんとも微笑ましく感じられる姿ではあるのだが、ルルーナは一つ呆れたように吐息を洩らして再度口を開く。
「ボウヤ、アンタもよ。大丈夫だからママのところへ行ってなさい。アンタもママも、ちゃんと守ってあげるから」
そう告げると少年は不安そうにルルーナを見上げてくるが、ややあってから首が千切れてしまいそうな程に何度も頷き、母親の元へと駆け出して行った。
リンファは女王の手を掴んで後方へと促しながら、そんなルルーナを横目に見遣る。
「……あなたも、戦うのですか?」
「当たり前でしょ、こんな状況で指くわえて見てろとでも?」
「いえ……」
「心配してくれなくても大丈夫よ。マナ達も頑張ってんだろうし……後でサボってたのバレたら、また煩いもの」
女王が心配そうに何度もこちらを振り返りながら民に促されて後方に退くのを確認し、リンファは改めてルルーナに視線を向ける。手馴れた所作で腰裏の鞘から短刀を引き抜き、指先で軽く回して柄を握り締めると彼女に一声掛けてから駆け出した。
「分かりました。では、……怪我のないように」
「アンタもね」
一応は労わりと思われる言葉を向けて戦線へと駆けていくリンファの背中に、ルルーナは緩く眉尻を下げて小さく笑う。
リンファは地の国で闘技奴隷をしていた少女だ。あの国の貴族である自分が好かれているなどとルルーナは思っていなかったが、徐々にでも距離は縮まってきているらしい。
腰から提げる鞭を片手に取り、一度床を叩き打つと彼女もまた前線へと向かって飛び出した。
「カミラさんが寂しい子って、どういうことなんだ?」
一方でジュードは駆ける足を止めぬまま、視線のみを肩に乗るライオットに向けて問い掛けた。
ライオットは振り落とされないようにしっかりとジュードの衣服を小さい両手で握り締め、しがみつきながら一度言い澱む。
だが、ジュードは知っておいた方が良いと判断したのか、程なくして口を開いた。
「……カミラは、生まれた時から里で疎まれてきたんだに」
「なんで……だって、カミラさんは姫巫女なんだろ?」
「巫女は、もうずっと永い間この世に生まれてこなかったんだに。平和で、穏やかで、巫女なんて必要じゃなかったんだによ」
静かに語り始めるライオットから視線を外し、ジュードは真っ直ぐを見据えると上がる呼吸も気にせずに彼女の、カミラの姿を求めて石造りの廊下を駆ける。
ジュードの中では、姫巫女と言う存在は特別なものだ。
幼い頃から勇者の物語に憧れてきた彼にとって、伝説の勇者と同等に近い存在なのである。だからこそその姫巫女が疎まれて育った、と言う事実がどうにも信じられないし、理解が出来なかった。
姫巫女は魔族に対抗する力を持った尊い存在。何よりも大切にされ、崇められるべきものではないのか、ジュードはそう思っている。
「でも、そんな中でカミラは巫女の証を持って生まれたんだに。里の人間達は、ずっと生まれなかった筈の巫女が今になって誕生したことで、良くないことが起きる、って不安になったんだによ」
「……まさか」
ポツリポツリと紡がれていく言葉に、ジュードは胸がざわつくのを感じた。聞きたくない、聞かない方が良い。彼女が酷い目に遭っていた頃のことなんて、聞かない方が良い。
そうは思うのに、止める気にはなれなかった。知っておかなければならないと、そう思う部分も確かに強かったからだ。
「うに……里の人間達はカミラを巫女じゃなく、災厄を生む子として忌み嫌ったんだに。暗い家畜小屋に押し込められ、食事も満足に与えられず、毎日干草を食べ、泥水を啜り、外に出れば里の人間達に石を投げられて――」
「……っ!」
「カミラは自分を災厄を生む子だって思ってるに。だから……みんなに言えなかったんだによ、巫女だってバレたらマスター達にも嫌われちゃうと思って……」
ジュードは、何か言いたくとも言葉が全く出てこなかった。
確かに、カミラの口から彼女の過去や故郷の話を事細かに聞いたことはない。ジュード自身が聞き出そうとしなかったのもあるが、彼女もまた不必要に語ることをしなかった。
だが、ジュードはカミラの性格から「親や色々な人から多くの愛情を受けて育った女の子」だと勝手に認識していたのである。それだけカミラは心優しい性格をしているし、彼女自身が愛情深いからだ。きっとたくさんの愛情を受けたからこそ、周囲にそれを返せるのだと。そう思っていた。
しかし、現実は全く違っていたのだ。
「マスター、カミラのこと、支えてあげてほしいに……!」
見えてきた屋上に目線を合わせると、ジュードは緩く目を細める。そこには既にグレムリンの群れが到達しようとしていた。
気持ちばかりが急くのを感じながら数段の階段を上ろうとしたところで、不意に真横から黒い何かが飛び掛かってくる。胴を掴まれる感覚に何事かと意識を向けつつも、その勢いに思わずジュードは転倒した。
石造りの堅い壁に肩や腕を打ち付け、その痛みに表情を歪ませながら自分の身にしがみつく何者かを見れば、それはグレムリンだった。大きさは一メートル弱ほどしかないが、力は異様に強い。深紅の目をギョロリと光らせ、ジュードを見上げてくる。大きく裂けた口を開け、長い舌を覗かせて笑う様は現在の状況もあってか非常に忌々しい。
ツカマエタ、とやや高めの声色と片言で喋る様子からして、恐らくジュードがターゲットだと言うことは既にバレている。だが、ここで捕まるほどジュードは大人しい性格をしていない。
「ギャオオォッ!!」
それに、ジュードの傍らにはちびが同行している。突如として襲い掛かってきたグレムリンに対し、ちびは咆哮を上げると右の前脚に付いた爪型の武器で思い切りその背中を切り裂いた。
その刹那、腕の力が緩んだのに気付くとジュードはグレムリンの翼を片手で掴み引き剥がす。次いで宙に放り出し、転倒した状態のまま片足を振り上げて思い切り蹴り飛ばした。
「――退けよ!」
その蹴りは見事に首に入ったか、グレムリンは白目を剥くとそのまま動かなくなった。だが、それで終わりではない。
他のグレムリン達の中にもこちらを見つけた者がいるらしく「キキーッ!」と甲高い声を上げながら飛んで来たのである。ジュードは素早く身を起こして立ち上がると、表情を顰めて舌を打つ。
だが、そんな彼を守るようにちびはジュードの前に立つと、迫り来るグレムリンの群れと対峙する。そして、また一つ咆哮を上げた。
「……ちび」
――ここは任せて、行って。
と、ジュードの頭にはそう声が響く。ちびがグレムリンの群れを引き受けてくれると言うのだ。
ジュードは思わず止めようとはしたのだが、彼の反応を待つよりも先にちびは突撃してくる群れの中へと、勢い良く飛び込んでいく。
「ちび! ……っ、くそ!」
悔しそうに表情を顰めながら、それでもジュードは再び駆け出す。ここまでやってきたと言うことは、既に謁見の間にも襲撃が始まっているのは容易に想像出来る。
ならば、今はカミラの元に行くのが最優先だ。彼女がこの状況をなんとか出来るのであれば、そのサポートをするのが一番である。それが仲間を守る最良の道だと判断したのだ。
石段を駆け上がりようやく屋上に到達すると、そこにはカミラがいた。既にグレムリンも数匹到達していたが、彼女の身から溢れ出る白い光がバリアのようになり、近付けないでいるらしい。ジュードはそこで立ち止まると、傍らの石柱に片手を添えて上がった呼吸を整えた。
ライオットはジュードの肩から頭に飛び乗ると、静かにその身を消す。文字通り空気に溶けたように、影も形もなくなった。――接続したのだ。
『マスター! カミラのあの魔法は、この都全体を包む光の魔法だに! ライオットと交信して光耐性を付けるによ!』
「えっ、あ……ああ、そっか」
都全体を包み込む、と言うことは当然この場にいる全員が巻き込まれる程のものなのだろう。
どのようなものであれ、魔法であればジュードはそのままの状態で受ける訳にはいかない。また熱を出して倒れてしまう。
幸いにも、あと数分程度であれば交信可能な精神力は残っている。ジュードは一度静かに双眸を伏せて、意識を自分の中にいるだろうライオットへ向けた。すると、先程と同じように内側から力が溢れ出るのを感じる。シヴァと一体化した時とはまた違う――安心感のような感覚だ。
「……カミラさん!」
そしてジュードは改めて走り出す、今度は彼女の元へ。
何を言えば良いのかは全く分からないし、ただでさえ難しく考えることが苦手なジュードの頭では上手く言葉だって纏まっていない。それでも、このまま眺めているなんて出来る筈もなかった。出来ることがなくても、ただ彼女の傍にいたい、それだけだ。
両手を伸ばしてカミラの身を背後から抱き締めると、泣きたくなった。
「――っ!? ジュ……ジュード!?」
カミラは不意に包み込まれるような温もりに、思わず双眸を見開いて肩越しに彼を振り返る。当然だ、詠唱中に突然真後ろから抱き締められたのだから。
一体どうしたのか、何事か。半ば混乱しつつある彼女の声を聞きながら、ジュードは一度静かに双眸を伏せた。
「……オレには、出来ることないけど……カミラさんが倒れないように支えるくらいなら出来るよ」
「……ジュード」
「ウィルもマナも、ルルーナもリンファさんも、メンフィスさんやクリフさんも……もちろんオレだって、みんなカミラさんのこと大好きだよ。嫌いになんて――なるわけないじゃないか……!」
何処か泣き出してしまいそうな調子で紡がれる言葉に、カミラは瑠璃色の双眸を見開いたまま瞬きさえ忘れて暫し呆然としていた。
だが、その言葉が頭に浸透すると意識せずとも涙が滲み始める。
しかし、今はこの状況の打破が先だ。カミラはそっと目を伏せると、改めて両手を合わせる。
「……我らに慈悲を、穢れし者へ裁きを与えん。聖なる審判を今此処に――――アンビバレンス!!」
カミラがそう声を上げると、次いだ瞬間――彼女の身を中心に勢い良く巨大な光の柱が立ち上る。その柱は瞬く間に広がり、文字通り王都ガルディオン全体を包み込んでしまった。
そして白く輝く光の柱は、王都の空を支配していたグレムリンの群れを次々と消滅させていく。四方八方から、グレムリン達の何処までも苦しそうな断末魔の叫びが聞こえてきた。
しかし、なんとも凄まじい魔法だ。謁見の間にいる住民達や仲間は果たして大丈夫なのかとジュードは不安さえ抱いたが、直ぐに頭の中にライオットの声が響く。
『マスター、大丈夫だに! アンビバレンスは魔族だけを攻撃する魔法だによ! 魔族以外には慈悲を――癒しを起こす魔法だから、みんなが怪我をしてても治ってると思うに!』
つまり魔族には攻撃、それ以外には回復効果と言ったところだ。その説明と思わしき言葉にジュードは人知れず安堵を洩らす。
そして改めて空に視線を投じた時、そこには先程までの黒い大群は一匹たりとも残っていなかった。完全に消滅してしまったのだ。ライオットと交信状態にあるお陰で、ジュードの身にも特別異変は感じられない。
ジュードは呆けたように暫し空を見つめていたが、耳慣れた鳴き声が鼓膜を揺らすのに気付いて意識を引き戻す。来た道を振り返ってみれば、舌を出して大層嬉しそうにしながら駆けて来るちびの姿が見えた。わうわうっ、とご機嫌そうである。
そんな相棒の姿にジュードは表情を綻ばせて安心したように吐息を洩らすが、ふと抱き締めたままのカミラの身が崩れ落ちるのに気付き、慌ててその身を抱き留めた。
「カミラさん!」
「だ、……だいじょうぶ……ちょっと、疲れちゃった、だけ……」
頭や身を床に打ち付けてしまわないようにと、ジュードは彼女の身を支えながらゆっくりとその場に屈む。片腕を首裏に通して抱き起こしつつ、その様子を窺った。ジュードの傍らに辿り着いたちびも、何処か心配そうにカミラの顔を覗き込む。
当のカミラはと言えば、片手をゆっくりと引き上げて眠たげに目元を擦りながら表情を笑みに破顔させた。
「……ありがとう、ジュード。わたし、すごく嬉しかった」
「お礼を言うのはこっちだよ」
ライオットもジュードの中から抜け出るとその頭に腹這いになって乗り、カミラの様子を窺う。今にも夢の中の住人になってしまいそうだ、非常に眠そうである。あれだけの規模の魔法。精神力の消耗も半端なものではない。
カミラは破顔したまま、静かに双眸を細めてゆっくりと口を開いた。
「えへへ……ねむい……」
「うん、ゆっくりおやすみ。起きたら話したいこと……いっぱいある。今は何も考えないで、身体を休めて」
「うん、……ありがとう、ジュード……」
ふわりと幸せそうに微笑みながら呟き、カミラはそっと双眸を伏せた。余程の疲労感だったのだろう、程なくして小さく寝息が聞こえ始める。
少しでも、彼女の見る夢が楽しく幸せなものになるように。そう願いを込めて、ジュードは逆手でそっとカミラの髪を撫で付けた。