第十一話・夢
水を張った洗面器にタオルを浸し、滴り落ちない程度に水気を絞ってからカミラはそのタオルをジュードの額の上へ乗せた。
現在、ジュードは寝台の上で苦しげな呼吸を繰り返している。意識は既になく、頬はその高熱のせいで上気していた。
「ジュード……」
カミラは寝台の横へ簡素な椅子を置き、眠るジュードをそこに腰かけて切なげに見つめる。なにもできない歯痒さに打ちのめされてしまいそうであった。
彼女はなぜジュードがこうして倒れてしまったのか、その理由を知らない。だが、カミラが彼のケガを治そうとした時、ジュードは確かに止めようとしていたのだ。もしかしたら自分のせいなのではないか――そう考えれば考えるほど、カミラの心は重く沈んでいく。
先ほどまでジュードを診てくれていた医者は、ケガの他には異常らしい異常もないと首を捻っていた。ただの風邪かなにかではないかと片付けられてしまったのである。
だが、突然これほどまでの高熱を出すなど、どう考えてもおかしい。最初こそ毒でも受けたのだろうかと思いはしたが、毒の症状ともやや異なる。完全にお手上げだ。
苦しそうな呼吸を繰り返すジュードを見て、カミラは指先が白くなるほどにスカートを握り締める。
そんな中、ふと部屋の扉が開きクリフが入ってきた。
「お嬢ちゃん、少し休みな。看病なら俺がするから」
その言葉にカミラは彼を振り返るが、すぐに頭を横へと揺らす。
そう返るだろうとある程度の予想をしていたらしいクリフは、それ以上口喧しくは言わず軽く眉尻を下げる程度に留め、寝台に歩み寄った。
「医者は、異常ないって?」
「はい……腕のケガの他には特に異常はないって……」
「毒とも違うんだよなぁ、レッドウルフは狂暴だが毒なんて持ってないはずだし……まぁ、アメリア様も今日はお忙しいからゆっくり休ませてやりな」
「あめりあさま?」
――現在、ジュードとカミラがいるのは王都ガルディオンの王城にある一室だ。クリフが走らせた馬車は関所から大体半日ほどで王都まで行き着くことができたのである。
クリフが関係者に話を通してくれたお陰でジュードは早々に王城の客間に運ばれ、こうして休んでいるという訳だ。医者の手によりケガの治療も既に済み、その右腕には真新しい包帯が巻かれていた。
カミラは疑問符を浮かべながら首を捻ると、クリフの次の言葉を待つ。
「……お嬢ちゃんは箱入り娘かなにか? アメリア様はこの火の国エンプレスを治める女王様だよ、女王陛下。坊主はその陛下に呼ばれてんのさ、けど今日はお忙しくて時間が取れなくてな。だからゆっくり休ませてやれってこと」
火の国エンプレスの女王といえば、よくも悪くも世界的に有名だ。
女王アメリアは八年ほど前に王位につき、狂暴化を続ける魔物たちを鎮圧すべく特に魔物の出現が多い国の東に前線基地を設けた。
火の国には血気盛んな者が非常に多く、当初は魔物とも互角に渡り合える者が多かったが、それも数年に及び長引くと状況は変わってしまうものである。
それから間もなく一年後には兵力が衰え、アメリアは他国に協力を要請したが、隣国である地の国グランヴェルは巻き込まれることを拒否し完全鎖国状態にしてしまい――それは現在に至るまで続いている。
風の国ミストラルの王族はアメリアを全面的に支援すべく兵を送ったが、争いを好まぬ水の国アクアリーは半ば強引に徴用されることとなった。それゆえに現在、火の国と水の国の関係は非常に危うい状態にある。
水の国の民は同胞を無理矢理戦いに巻き込んだ悪として、アメリアを敵視しているのだ。
そのように有名なアメリアをカミラ知らない――クリフはそのことに純粋な疑問を抱いた。
「陛下は魔物との戦いを少しでも楽にするために武具がほしいのさ、それもとびきり優秀なモンがな」
「武具……それだ、ジュードは鍛冶屋さんだって……」
「そういうこと、アルフィアって名前から察するに坊主は剣の名匠グラム・アルフィアの血縁だろう。詳しい話は坊主が起きてからになるが、まあ協力を頼みたいってワケよ。彼氏を取って喰ったりしないから心配しなさんな」
「彼氏? ……! ち、違います!!」
思わぬ言葉にカミラは顔を真っ赤に染めて否定を返したが、それが彼の本気か冗談かは定かではない。「ははは」と愉快そうに笑いながら踵を返すと、クリフはそのまま部屋を出て行ってしまった。
あとに残された彼女は再び沈黙の落ちた室内で一つ深い溜息を吐き、そっとジュードを見遣る。その頬は未だ熱に支配されているらしく、赤いままだ。薄く開かれた口からは苦しそうな荒い呼吸が洩れていた。
カミラは胸が痛むのを感じながら静かに立ち上がると部屋の出入り口へと足を向ける、そこで一度改めて寝台を振り返り唇を噛み締めた。
「(……やっぱり似てる、あの人に。それにジュードって名前……あの人はもういないはずなのにね……)」
内心でそう思いながら、しかしカミラは静かに頭を振る。余計な考えを振り払うように。
「(――いけない、またウジウジしちゃう。ジュードが目を覚ます前に行ってこなくちゃ)」
熱が下がらないジュードを心配する気持ちはもちろん彼女の中にある、できることなら彼が目を覚ますまで傍にいたい、とも。
しかし、カミラにもこの王都ガルディオンでやらなければならないことがあった。
ジュードが起きる前に戻っていよう――そう考えて、カミラは足早に部屋を出て行った。
* * *
ふわふわと安定しない、まるで無重力地帯に放り出されたかのような浮遊感の中で、ジュードは静かに双眸を開く。目の前は薄暗く、なにも見えなかった。
だが、すぐ近くに誰かの気配だけは感じる。
『……ジュード……』
その気配は思ったよりも近いことが、すぐ傍らに聞こえる声から理解できた。父グラムとは違う、まるで頭の中に直接響くような落ち着いた声。
聞き慣れないものではあるが、ジュードはどこか既知感を覚えた。
『誰だ……?』
しかし、彼が洩らしたもっともな疑問に対する答えは返らない。
程なくして、目の前に光が広がっていく。それと共に傍らに在る何者かの気配が遠ざかり始めた。ジュードは手を伸ばそうとしたが身体は全く動いてくれない。
光に照らされて黒い影となる何者か。眩い輝きに阻害されて正体は窺えない。代わりに残されたのは、頭に響く心地好い声がもたらす言葉だけであった。
ジュード、守れ。
破邪の力を持つ、ヘイムダルの姫巫女を守れ――――
「――!」
ジュードが次に目を開けると、その視界には高い天井が映った。到底寝起きがよいとは言えないながらも、不思議なほどに頭の中がスッキリとしている。
暫し瞬きも忘れたようにただただ天井を眺めてはいたが、やがて傍らにある窓から聞こえてくる鳥の鳴き声に徐々に意識を引き戻し始めた。
「夢……」
そこでようやく、今見ていたものが夢なのだと理解した。
だが、ただの夢と呼ぶには妙に引っかかるものを感じながら、ジュードは寝台の上に静かに身を起こす。ヘイムダルの姫巫女、それは彼が愛する伝説の勇者の物語に出てくる女性を指すものだ。
かつて伝説の勇者と共に戦った女性、それが姫巫女である。
ジュードは何度も何度も、耳にタコができるほど繰り返しジス神父に教えてもらった。しかし、結局は伝説の中の存在――それを守るなどできるはずもない、やはりただの夢だ。
「あ……カミラさん」
そこでジュードは自分の左手に一つ温もりを感じた。
なんだと見てみれば、なんてことはない。カミラだ。彼女がジュードの左手を優しく握ったまま寝台の縁に伏せって眠っていたのである。恐らく看病をしながら、そのまま眠ってしまったのだろう。
彼女も疲れているだろうに、と。申し訳なく思いながらも、ジュードはそんな彼女の気持ちに純粋な喜びを抱く。
彼女を起こしてしまわないようにゆったりと、優しい動作でジュードはカミラの頭を暫し撫でつけていた。