第十二話・衝突
昼食を終えたマナは食べ終えた食器を重ねて片付ける支度をしながら、眉尻を下げる。
食堂の中にはなんとも言い難い雰囲気が漂っていた。重苦しいと言う訳ではない、緊張感が走ると言う訳でもない。だが、居心地があまり良くないのは事実。
マナは食器を持ったまま、同じように複雑な表情を滲ませるウィルの傍らに歩み寄り、そっと小さく声を掛けた。
「ね、ねぇ、ウィル。ジュード……どうしちゃったの?」
「さ、さあ……」
彼らの視線の先には、席に座ったままテーブルに突っ伏すジュードの姿があった。その傍らには心配そうに彼に寄り添うちびもいる。
ウィルは静かにマナを一瞥するが、正直言って彼にも訳が分からない。説明を求めるように食堂に居合わせたルルーナやリンファも視線を投げ掛けてくるが、ウィルは小さく頭を横に振るしか出来なかった。
「俺にもさっぱり……昨日の夜に泊めてくれ、っていきなり部屋に来たんだよ。そのままちびと一緒に床に転がって寝ちまったから、事情も聞けてないっつーか……起きたらあの調子だったしな」
「完全に抜け殻ね、魂出ちゃってるんじゃないの?」
「ジュード様、しっかりしてください」
今朝から、ジュードは一言も言葉を発していない。
覇気はなく目も虚ろで、まるで人形のようだ。ルルーナの言うように本当に魂が抜け出てしまっているのではないかと思うほど。
リンファはそんなジュードの傍らに歩み寄ると、大丈夫だろうかとその肩にそっと手を置く。軽く揺すってみても、相変わらず反応は返らなかった。そんな様子には流石のリンファも戸惑ったように眉尻を下げる。
「おい、ジュード。何があったんだよ、部屋にゴキブリでも出たのか?」
「まさか、ジュードはゴキブリにだってフレンドリーじゃない。逆に困るくらいよ」
ウィルとマナもリンファに続いて彼の傍らに歩み寄ると、どうしたものかと小さく溜息を洩らす。
ジュードが此処まで落ち込むのは正直珍しい。昔から落ち込むと不貞寝するような癖はあったが、これほどまで抜け殻になったことは未だ嘗てなかった。
確かジュードはカミラを元気付けようとしていた筈だ、何があったのか彼の方からも聞いてみると。それが何をどうしたらこうなるのか、ウィル達の疑問はそれだ。
「カミラが元気なくて、それでジュードまでこれって……どうなるのよ……」
「ジュード、ねぇ、どうしたの? 何があったのよ」
マナは食器を一度テーブルの上に置くと胸の前でゆったりと腕を組み、ルルーナはそんな彼女の傍らでやはりジュードの肩に手を置いて、緩くその身を揺らした。
ちびならば何があったか知っているのだろうが、それを聞くのは難しい。ウィル達ではちびとは話せないのだから。
だが、そこへふと明るい声が飛び込んできた。
「あれ、みんな集まってどうしたの?」
食堂の出入り口からひょっこりと顔を出したのはローザだ。特徴的な猫眼は愉しそうな色を纏い、その場に居合わせる面々を見つめた。
それと同時に食堂に足を踏み入れると、双眸を瞬かせる。彼女が歩く度にふわふわと揺れる緋色の髪はなんとも柔らかそうだ。
しかし、マナやルルーナは彼女を歓迎している訳ではない。マナはそれを表情にこそ出さないが、ルルーナの方には遠慮などない。あからさまに嫌そうに紅の双眸を細めてみせた。
「……あら巫女サマ、何かご用?」
「ええ、おなかが空きましたの。マナ、昼食は?」
「……少々お待ちください、仲間の元気がなくて困ってるんです」
ルルーナの問い掛けを皮切りに業とらしい遣り取りを始める女性陣を見て、ウィルとリンファは複雑な表情で黙り込む。
水の国でも同じような経験をしたが、なぜジュードはこうまで女性に気に入られるのかとウィルは苦笑いを滲ませて、依然テーブルに突っ伏したままの弟分に視線を向けた。
だが、そこで不意にジュードの肩がピクリと小さく動く。そんな様子にウィルは不思議そうに首を捻ると、そっと小さく声を掛けた。
「……ジュード、大丈夫か?」
ウィルの声に反応したのか否か、それは定かではないがジュードは言葉もなく静かに席を立つと緩慢な動作のままウィルを振り返る。
やや俯き加減のその顔にはやはり覇気――と言うより、寧ろ生気がない。大丈夫なのかと本気で心配になるレベルだ。
だが、ウィルが問うよりも先にジュードは倒れ込むような勢いでがっしりとしがみ付いてきた。
「っとと、おいおいジュード……大丈夫なのか?」
「ジュード様、お具合が宜しくないのであればお部屋でお休みになられた方が……見張りならば、私が……」
リンファがそんな彼に心配そうに声を掛けるが、ウィルはふと既知感を覚えていた。
普段、ジュードはあまり人に甘えるようなことはしない。ましてや、他に誰か人がいるような状態では間違ってもこんな姿は見せない男だ。
だが、ウィルには覚えがある。
それは、水の王都シトゥルスに泊まった翌日のことだ。
オリヴィアに迫られ恐怖した際にも、ジュードはこのようにウィルにしがみついてきた。まるで助けでも求めるように。――尤も、あの時は偶然体当たりをかましたついでのようなものだったが。
あまり考えたくはない、考えたくはないのだが。ウィルは静かにローザに視線を向けた。
「……なあ、巫女さん。アンタ、ジュードに何かしたか?」
「キスしただけだけど?」
「――ぶッ!」
ローザは、ウィルが自分の興味のある分野を唯一語れる存在だ。出来ることならあまり口喧しいことは言いたくない。
しかし、何かあったのであれば注意しなければならない。このメンバーの中では年長者なのだから。
だが、ウィルの問い掛けに、ローザは至極当然のことのように返答を連ねた。そのあまりの『して当たり前』と言えるような声の調子に思わず反応が遅れたが、程なくしてウィルは吹き出した。
次いで、食堂内に漂う雰囲気は文字通り凍り付く。当然、マナとルルーナから醸し出される雰囲気の所為だ。聞くんじゃなかった――ウィルがそう後悔しても既に遅い。
「ジュードに……っ!」
「キスした、ですって……!?」
「それは、マウストゥマウスと解釈して宜しいのでしょうか」
「当然でしょ?」
リンファとしては、状況を知る為の言葉だったのだと思われる。
しかし、今は直球の質問はやめてほしい。ウィルは内心でそう思ったが、一度出た発言が戻ってくれる筈がない。
マナは気持ちを入れ替えようとしていると言っても彼女自身が言っていたように、そう簡単に整理がつく筈がない。ルルーナに至っては言わずもがなである。
マナもルルーナも、湧き上がる怒りそのままに表情を歪ませた。
「(ジュードと暮らし始めて約十年、あたしだってそんなの一度もしたことないってのに……!)」
「(まさかオリヴィア並みのアバズレがいるだなんて思わなかったわ、やってくれたわねぇ、この女アアァ……!)」
完全な嫉妬モードである、睨まれれば熊でさえ倒せるのではないかと思えてしまうほどの雰囲気。無論、実際には無理だろうが。
まさに鬼の形相と言ってもおかしくはない、そんな表情でマナもルルーナもローザを睨み付ける。
巫女にあまり無礼を働く訳にもいかない。彼女が本当に姫巫女であるのなら、ご機嫌を損ねて協力を断られる――などと言った事態になると困るのだ。
ウィルは不本意ながら二人を宥めようとしたのだが、不意に己にしがみ付いたままのジュードが腕に力を入れてくるものだから、何事かと思わず彼に視線が向く。
メンフィスとの訓練のお陰か、それとも日々の仕事の影響か。ジュードの腕力はこれまでよりも随分と高まった気がする。
つまり何が言いたいのかと言うと、背中に腕を回して更に思い切り力を入れられると苦しいのだ。とても痛い、呼吸が苦しい。
「……カミラさんに」
「うん?」
「カミラさんに、見られた……っ」
「(うわああああぁ!!)」
本日初めて聞くと思われるジュードの声は、非常に掠れていた。それが余計に悲愴感を漂わせる。
望まない相手との初めてだろう接吻を、想い人に見られた。ウィルの頭には意識しなくてもその絶望的な光景が浮かぶ。これを修羅場と呼ばず、なんと言えるだろうか。カミラの反応次第では修羅場とは言えないかもしれないが。
兎にも角にも、ジュードがこうまで落ち込むのもウィルには理解出来た。彼のカミラへのベタ惚れっぷりは半端ではないのだから。
「(て言うか、カミラもショックだっただろうな……そういや、今日は朝から顔を見てない気がする……だ、大丈夫かな……)」
更に言うのならジュードがカミラを想っているように、カミラはジュードを想っているのだ。好きな男が別の女となど、そんな光景を目撃した彼女の精神状態も心配になる。
だが、ローザはマナやルルーナの視線を物ともせず、一歩ウィルとジュードへ歩み寄った。
「アタシね、興味があるの。精霊族って言うものにさ」
「……で?」
「精霊族は膨大な魔力と精神力の宝庫よ、肉体的な繋がりを持てばその恩恵に肖れると思って」
猫眼を楽しそうに細めながら淡々と言葉を連ねるローザに、ウィルは思わず怪訝そうな表情を滲ませた。
彼女の言葉の意味は理解出来る。だが、その考え方がウィルには理解出来なかった。否、彼女の考えが理解出来ないのはウィルだけではない。リンファやマナ、ルルーナも同じことだ。
ローザのその言葉は、つまりジュードのことが好きなのではなく――彼を自分の為に利用する、そう言っているようなものなのだから。
「そんなことの為にジュードに迫ったっての!?」
「アタシにとっては、そんなこと、じゃないの。とっても大事なことなのよ。アンタ達には分からない苦労でしょうけどね。でもやっぱり凄いわ、ただのキスひとつで力が漲るような感じがしたもの、興味を持つなって方が無理な話よ」
マナは脇に下ろした手で固く拳を握り締める、彼女のその手は堪え切れない怒りで小刻みに震えた。しかし、ローザはと言えば双眸を細めたまま肩越しにマナを振り返ると、間髪入れずに返答を向ける。
だが、先程まではマナやルルーナを止めよう、宥めようと思っていたウィル自身が、今度は込み上げる怒りを抑え切れなかった。怒りにウィルの肩が震えるのに流石に気付いたジュードは、やや青褪めながらそっと身を離す。
「(じゃあ、何か? つまりこの巫女さんはジュードが好きなんじゃなく、魔力だとか精神力の供給源として認識しているのであって、だから護衛としてジュードを自分の隣に置いておこうってことか?)」
「ウィ、ウィル……オ、オレが悪かったから……お、おおお落ち着け……」
「(そんな自分勝手な理由でジュードをこんなにも落ち込ませて振り回して、更にはカミラにまで精神的なダメージを――)」
あわあわ、と青褪めながらジュードがウィルを宥めようとするが、既に彼の視界にジュードは入っていない。普段穏やかな性格をしている為かウィルが怒ると怖い。それはジュードもマナもよく知っている。
ジュードが我に返ったことを安堵する暇もなく、マナやリンファもウィルを落ち着かせようとするが、どう言葉を掛けるべきかも分からない。それだけ怖い。ルルーナだけは止める気もないのか、一歩退いて成り行きを見守っていた。寧ろ彼女の心境は「やってしまえ」だろう。
ローザはそれでも『巫女』と言う立場があるからか、はたまた性格か。双眸を細めたまま面々をつまらなさそうに眺め遣る。
しかし、怒声を張り上げようとウィルは顔を上げたのだが――それは言葉にならない。なる前に、静かに喉奥に引っ込んでいった。
なぜなら、ふと視界の片隅で控え目に藍色が揺れたからだ。
「……あ」
「え?」
不意にウィルが洩らした声に反応したのは、彼の真正面で青褪めていたジュードだ。自分の肩越しに向く視線を辿り、振り返ってみる。
すると、そこには食堂の出入り口からそっと此方を見つめるカミラがいた。彼女の姿を認識するなり、ジュードは双眸を見開いて軽く肩を跳ねさせる。そしてそれはカミラも同じであった。気まずそうに、慌てて視線を外す。
「カ、カミラ……どうしたの?」
「お、おなか……すいて……」
「そっ、そうよね! 待ってて、すぐに用意するから!」
胸の前辺りで指先同士を絡ませながら呟くカミラに対し、マナは助かったと言わんばかりに笑みを浮かべて大きく頷いた。
だが、マナがカミラに駆け寄る前にローザが動く。片足を軸に身を反転させてカミラに向き直ると、距離はあるものの昨日と同じように挑発すべく言葉を向けた。
「あらぁ、昨晩はごめんなさいね、見せ付けちゃって。すぐに逃げてっちゃったけど、何か用だったー?」
「……」
その言葉に、カミラは眉を寄せて口唇を噛み締める。だが、その肩に乗るライオットは言葉もなくカミラの頭を横から軽く突いた、まるで応援でもするかの如く。
すると、カミラは両手でしっかりとスカートを握り締め、顔を上げる。眉を寄せたまま、瞳はしっかりと射抜くようにローザを見つめて。
「……っ、ジュードに」
「……え?」
「ジュードにっ、話があったんだもん! 話したいことがあったんだもん!」
その言葉に反応するのは、当然ジュードだ。一度は聞き間違いかと思ったが、それでも直ぐに上がった声に間違いではないのだと理解する。
これまでは物言いたげな視線ばかりしか向けてこなかったカミラの思わぬ反応と言葉に、挑発を向けた張本人であるローザは呆気に取られたように口を半開きにしてカミラを見つめた。
そんな彼女に構うことなくカミラは大股でローザに歩み寄ると、その肩を両手で掴み更に言葉を連ねる。
「わたしは、あなたを見てると自分がとても惨めになるわ。物凄くバカらしくて、何もかも嫌になるの!」
「はあ? なによ、それ。バッカみたい、八つ当たりとかしないでくれない?」
「わたしは、わたしは――!」
一体どうしたのかと、その場にいた誰もが呆然とした。カミラはどうしたのか、ローザと何があったのだろうかと。
ジュードやマナは慌てて彼女達の元へ歩み寄ろうとしたが、それは遠くから聞こえてきた物騒な物音に妨害される。何かが爆発するような音、それと共に聞こえてくる人々の悲鳴。何かがあったのは明白だ。
それには流石に、カミラやローザも言い合いを止めて意識をそちらに向けた。距離があって方角も定かではないが、屋敷の外――都の中で何か騒ぎがあったのは確かだろう。程なくしてけたたましい足音が屋敷の外に幾つも響く。恐らくは逃げ惑う人々のものだ。
ウィルは逸早く思考を引き戻すと、仲間達に視線を向けた。
「……何かあったみたいだな、ちょっと見てくる」
「私も行きます、……ただの喧嘩ではないようですから」
ウィルの言葉に、リンファは直ぐに彼に向き直り小さく頷きながら言葉を向けた。彼女の言うように、ただの喧嘩や騒ぎの類ではない。外から聞こえてくる悲鳴や足音の数は、瞬く間に増えていく。窓からも王城の方へ逃げていく住民達の姿が見えた。
「ジュード、取り敢えずお前達も城に避難しろ、俺達も状況を確認したらすぐに行くから」
「あ、ああ、……気を付けろよ」
「分かってる、大丈夫だって」
目の前の問題は山積みだ。だが、今は取り敢えずウィルの言うように状況の把握と避難が優先である。
ジュードがカミラやローザに目を向けると、カミラは複雑な表情を浮かべながら静かに彼女の肩から手を離す。ローザはと言うと、非常に不愉快そうな面持ちでカミラを睨み付けた後、その脇をすり抜けて早々に食堂を後にした。
「カミラちゃん、今は私達も城に行きましょ。話なら後でちゃんと出来るから」
「……うん……」
ルルーナの言葉にカミラは小さく頷くと、そっとジュードに眼を向けた。だが、その視線がかち合うと直ぐにどちらともなく逸らす。昨夜の気まずさは依然として尾を引いているらしい。
取り敢えず、とジュードは思考を無理矢理に引き戻すと今やるべきことへと半ば強引に意識を向けた。