第十一話・すれ違い
メンフィスは、ジュードが語る話の内容に静かに耳を傾けていた。
思うことは様々にある。お前がそれを言うのか、とツッコミを入れたい部分もあったが、取り敢えずは彼の話を聞くのが最優先だ。
ジュードは話が分からない男ではない、説得するのも諭すのも後からで良い。
「……ふむ。つまり、カミラの様子がおかしいのに何も話してくれない、それに腹を立てたのだな?」
「はい、本当に最近おかしいんです。ご飯もほとんど食べてないみたいだし、元気もないし……」
「それで、ワシはジュードに八つ当たりされた訳か」
顎の辺りに片手を添えて納得したようにメンフィスが呟くと、ジュードは途端に噎せて激しく咳き込んだ。
大丈夫かと背中を摩ってやれば、慌てたようにメンフィスを見上げてくる。
「や、八つ当たりした訳じゃ……!」
「冗談じゃ、お前さんは本当に真面目だのう」
「……今よりもっと強くなれば、カミラさんに……少しは頼りにしてもらえるかと思って」
慌てて見上げるその双眸は、直ぐに空気が抜ける風船のように勢いを失い、そして程なくしてしょんぼりと下を向く。どうやら余程堪えているようだ。
好きにしたら良い。そう言っておきながら結局は彼女の為なのかとメンフィスは吹き出してしまいそうになるのを抑えつつ、笑みを浮かべて何度も小さく頷いた。
「カミラさんは、戦うだけの力が強くても頼ってくれないとは思います、……けど、どうしたら良いのかもう分からなくて……」
「うむ……今はまだ彼女に時間をあげなさい。倒れないかどうかは心配だが、お前が冷たくしてどうするのだ。余計に元気をなくしてしまうぞ」
「う……」
メンフィスの言うことは尤もである。
ただでさえ何かしらの悩みを抱えているところに余計な問題や心配を増やしては、悪化する可能性の方が高い。
それに、メンフィスが思うことはもう一つ。
「それとな、ジュード」
「は、はい」
「お前がカミラに言ったこと――お前自身にも当て嵌まっていると気付いておるか?」
その言葉は予想だにしていないものだったらしい。ジュードは翡翠色の双眸を丸くさせて、暫し瞬きさえ忘れたようにメンフィスの顔を凝視した。
分かっていたことではあるが、やはり気付いていなかったのだと思うとメンフィスの口からは自然と溜息が零れる。
大丈夫かと問えば、大丈夫だと強がる。何かあったのかと問えば、なんでもないと言う。それはこれまで、何度もジュードが繰り返してきたことでもあるのだ。
実際に二刀流を試してみるかとメンフィスが思った時もそうだ。剣撃を受け止めた際に表情を顰めたジュードに、傷が痛むのかと問うたが、ジュードは「大丈夫」と強がりを口にしていた。
本人も、メンフィスに言われてようやく気付いた――と言うよりは思い出したのか、途端に顔面から血の気が引いたように蒼褪めていく。
「あ、え……オレ……」
「カミラにはちゃんと謝っておきなさい、どっちもどっちなのだからな」
「は、はい……」
今度は自らの失態、そして発言に対して落ち込んでしまったジュードに、メンフィスは微笑ましそうに双眸を笑みに細める。
幼い子供でも慰めるようにその背中を撫で叩いて遣りながら、改めて口を開いた。
「ジュード、ワシはな、お前さんの真っ直ぐな性格を好ましく思っておるよ」
「……え?」
「お前は嘘が吐けないとても優しい子だ。あのグラムの奴が育てて、よくこうまで素直な子に育ったものだと思う」
ふと掛かる過剰な称賛にジュードは反応に困ったように眉尻を下げて、頻りに首を捻る。
メンフィスから見て、ジュードは非常に好ましい性格をしている。親友であるグラムの義理の息子と言うことを抜かしても、だ。
捻くれたような部分もなく、やや天然な面こそあれど根は真面目。その上に努力家で、困っている人を放っておけない性格。女性に対してハッキリしない態度は如何なものかと思うことはあるが、自分を師と慕ってくれる素直な部分もメンフィスにとっては嬉しいことであり、非常に好ましい。
「しかしな、ただ真っ直ぐなだけでは知らぬ内に誰かを傷付けてしまうこともある。ワシが言うまでもないかもしれんが……相手の立場に立ち、物事を考えられるだけの心の余裕を持ちなさい。……お前になら、きっと出来る筈だ」
「は、はい。……頑張ります」
数度双眸を瞬かせながら、それでもしっかりと頷いて応えるジュードにメンフィスはやはり優しく笑う。
片手を伸ばして彼の赤茶色の頭に触れると、大きな手の平で掻き乱すように撫で付けた。
その一方、カミラは屋敷の二階から中庭をぼんやりと覗いていた。彼女の視線の先には、メンフィスと言葉を交わし戯れるジュードの姿。距離がある為に当然会話の内容までは聞こえてこないが。
その肩には、やはり心配そうにカミラを見つめるライオットが鎮座していた。
昨夜ジュードと喧嘩してからと言うもの、カミラはこれでもかと言う程に元気を失っている。このままでは彼女が倒れてしまう、そう思うからこそライオットはタイミングを見て何度も声を掛け続けていた。
「カミラ、やっぱりマスターに言った方がいいに!」
「……」
「カミラは怖いかもしれないけど、マスターのこと信じてみるに!」
「……でも」
ジュードの姿を目の当たりにして、カミラの心も次第に揺らぎ始めているのか否か――相変わらず覇気のない声でポツリと呟く。
「……嫌われたくないもん」
「うに……カミラは、マスターやみんなに信じてもらいたくないに?」
ふとライオットが掛けた問いに、カミラはゆっくり静かに双眸を瞬かせる。どういうことだろうかと、興味と言うよりは疑問を抱いたのだろう。それまで窓越しに中庭を見つめていた瞳は、肩に乗るライオットに顔ごと向いた。
不思議そうな彼女の様子を見て、ライオットもようやく自分の言葉に興味を持ってくれたと素直に嬉々を表す。
「誰かに信じてほしいって思うなら、まずは自分が誰かを信じてあげなきゃダメだに! じゃないと、誰も信じてくれなくなるによ!」
「…………」
「怖くても、マスターのこと信じてぶつかってみるに!」
「ライオット……」
肩に乗り小さな手をしっかりと挙手するライオットに、カミラは緩く眉尻を下げる。瑠璃色の双眸が微かに揺れるところを見れば、彼女自身の気持ちが揺れつつあると言うことは容易に分かる。
カミラとてジュードと喧嘩したままで良い、このままでいたい、などとは当然思っていないのだから。
もう一押し、とライオットは瞳孔が開いているように見える眼を輝かせた。
「不安だったらライオットも一緒に行くに! だから頑張るに!」
カミラが今現在抱えている悩みをジュードにだけでも打ち明けることが出来れば、目の前の問題は大体解決するのだ。
素直に話せばジュードも機嫌を直してくれるだろうし、受け入れてさえもらえればカミラの悩みも消える。
これまでと変わらず元通り――否、これまで以上に絆が深まってくれる筈だ。ライオットはそう思うからこそ、カミラの背中を押す為の言葉を向ける。
視線を下げて悩んでいるような素振りを見せる彼女を観察しながら、気長に反応を待った。
「――まるで、この世の終わりって感じの雰囲気ね」
だが、そこへ予想外の声が響く。
弾かれたようにカミラが後方を振り返れば、そこは廊下の曲がり角。次いだ瞬間、その角からローザが姿を現した。
にこり、と微笑みながらヒラヒラと軽く片手を揺らしてみせる。相変わらず修道女を思わせる淡い桃色の服が印象的だ。
ローザは両手を腰の後ろ辺りで組みながら、やや大股でカミラの元へと歩み寄った。そして彼女の目の下にある隈を確認すると、片手の人差し指を立てて軽く上体を前に倒す。彼女の顔を覗き込むように。
「あらら? 目の下にクマが出来ちゃってるけど?」
「……」
「ふふぅ、何か言いたいことあるんでしょ? い~っつも暗い顔しちゃってさ。聞いたげるから言えば?」
特徴的な猫眼を笑みに細めながら言葉を連ねるローザに対し、カミラは何処か痛むように表情を顰めて口を噤む。
そんな彼女の様子を見て、ローザは緩く双肩を疎めてみせると倒した上体を静かに起こした。そして直ぐにつまらなさそうに両手を腰の後ろで組み直し、片足を軸にして身を反転させる。
「ま、言いたくないなら無理にとは言わないけど、空気暗くしてんのくらい気付けば? そう言う顔、鬱陶しいのよねぇ」
「だっ、誰の所為でカミラが落ち込んでると思ってるに!?」
「なぁに、アタシの所為だって言うの? まっ、そりゃそっかあ。アンタ、ジュードのこと好きなんでしょ。それでアタシがベタベタするのが気に入らないのよね?」
淡々と言葉を連ねながらローザが改めてカミラを振り返ると、彼女の代わりにその肩に乗るライオットが憤慨し、抗議するかの如く必死に声を上げる。
しかし、その言葉はローザには堪えないらしい。寧ろ何処か不愉快そうに眉を寄せて双眸を細めた。
カミラは暫し無言のままでいたが、程なくして静かに踵を返す。その背中に『逃げるの?』と声が掛かったが、振り向くことはしない。寝不足の頭であっても、挑発であることはすぐに分かった。
「……あなたを見てると、自分が分からなくなるの。それが……苦しいだけ」
「はあぁ?」
それだけを告げると、カミラは直ぐに閉口してローザの元を去って行く。一方で、彼女のその一言にローザは怪訝そうな表情を浮かべはするが、それも長くは続かず早々に階下へと降りていった。
* * *
その日の夜、ジュードは湯浴みを終えてちびと共に自室に戻ると、首から提げたタオルで髪を拭きながら机の上に置きっぱなしにしていたメモに視線を落とす。そこには調達しなければならない材料が殴り書き状態で記されていた。
一通り頭に叩き込んでから机の引き出しを開けると、中には以前風の国で購入したブラシが鎮座している。それはちび専用にと買ったブラッシング用のものだ。
「ちび、おいで」
「わうっ!」
「最近忙しくてなかなか一緒に遊べないからなあ……」
ジュードはちびに一声掛けて寝台の縁に腰を下ろすと、嬉しそうに尾を揺らしながら目の前で背中を向ける相棒の背中を撫でた。湯上りと言うこともあって、その毛はしんなりとしている。普段はふわふわの毛だが、今は全体的にほっそり状態だ。
背中部分をブラシで梳いてやると、ちびは気持ち良さそうに眼を細める。余程嬉しいのだろう、尾は千切れんばかりに振られていた。
「こら、ちび。水滴が飛んじゃうだろ」
「わううぅ」
「まあ、良いんだけどさ」
笑い混じりに向けた咎めだったこともあってか、ちびは一度ジュードを振り返るが、どうにも悪びれた様子は見受けられない。構ってくれるのが嬉しい、と言わんばかりにその黒目は嬉々として輝いている。
ジュード自身も、水滴が飛んだりすることを深く気にするような性格はしていない。比較的大雑把なのだ。
しかし、そんな時。
不意に部屋の扉をノックする音が聞こえてきた。
そうなると、ちびの上機嫌は終わりを迎える。耳を垂れてしょんぼりと床に腹這いになってしまった。
「あ……ち、ちび、ごめんな。また後でちゃんとブラッシングしような」
見るからに寂しそうな様子に加え、小さく消え入りそうな声で「きゅーん」などと洩らすものだから、ジュードの胸には罪悪感が広がっていく。出来ることならもっと構いたい、だが来客を放置する訳にもいかない。
ちびがこのような反応を見せると言うことは、扉の先にいるのは長い付き合いになるウィルでもマナでもないだろう。あの二人にはちび自身よく懐いている。
「(カミラさん……な、訳ないか……明日にでもちゃんと謝らないとな……)」
ジュードはちびの頭を改めて撫で付けてから寝台を降りると、扉の方へと足を向けた。時刻はあと一時間ほどで新しい日を迎えようと言う頃だ。こんな時間に一体誰だろう、そう思いながら。
「やっほー、ジュード」
「……ローザさん、こんな時間にどうしたの?」
「いいからいいから、ジュードに聞きたいことがあってさ」
ジュードは、ちびが見るからに落ち込んだ理由が分かる気がした。ローザがジュードに構うと長い、とにかく長い。なかなか解放してくれないのだ。ちびは魔物だ、鼻も利くし独特の感覚を持っている。扉越しにでも誰なのか理解出来たのだろう。
ローザは半ば強引にジュードを押して室内に入り込むと、両手を腰に添えて胸を張った。
「それで、聞きたいことって?」
「もうっ、レディが来たって言うのにせっかちね!」
お茶くらい出せないの? と憤慨してみせるローザではあるのだが、正直ジュードとしてはあまり長居してもらいたくない。明日も仕事が待っているし――更に言うのなら、ジュードは何かと古臭い考えの持ち主だ。このような夜も遅い時間に部屋に女性を入れる、と言うこと自体あまり好ましいと思っていないのだ。
困ったような顔をしながらジュードは踵を返すと、寝台の方へと足を向けた。手にしていたブラシをシーツの上に置き、腹這いになるちびの頭をやんわりと撫で付ける。
「まあ、いいわ。あのさ、ジュードってカミラのこと好きなの?」
「――ぶッ!」
だが、予想だにしない唐突な問いに思わず吹き出した。なんとも直球な質問だ。
ローザはジュードのそんな反応を目の当たりにすると、やはり面白くなさそうに眉を寄せて双眸を細めながら静かに彼の元へと歩み寄る。
「その反応、やっぱりそうなのね。でも、やめておきなさいよ」
「……別に、いいじゃないか。幾ら護衛って言っても好きな人まで――」
制限される覚えはない、と。ジュードはそう言おうとしたが、言葉にならなかった。
言い終わる前に、ローザに思い切り突き飛ばされたからだ。
突然のことに満足に反応さえ出来なかったジュードは背中から寝台の上に倒れ込む、スプリングが軽く跳ねた。幾ら寝台がある程度柔らかいとは言え、未だ完治していない傷は悲鳴を上げるように痛む。
「い――……っつつ……!」
「ね、ジュードってまだ女を知らないんでしょ?」
「は……?」
ジュードから苦悶が洩れると、ちびは耳をピンと立てて身を起こした。相棒が痛がっている、と判断したのだろう。
ローザはにっこり笑うと、双眸を瞬かせながら自らの頭頂部付近を摩るジュードを見下ろす。そして彼の肩に両手を添えると、状況を理解していないと思われるその身に跨るように乗り上げた。
「興味あるの、精霊族って言うものに」
「……それで」
「アタシが全部教えたげるわ。女への触れ方も、キスの仕方も、愛撫の仕方も――抱き方もね」
そう言いながらローザは利き手を肩から離し、緩慢な所作でその手をジュードの身に触れさせた。肩から胸元、脇腹へと指先で辿っていく。
流石にそこで状況と意味を理解したジュードは、なんとか彼女を引き剥がすべく身を捩り始めた。だが、ローザはそれを許さない。上から肩を押さえつつ、上体を倒す。
「ちょ……っ、なに考えてるんだ!」
「お子ちゃまじゃあるまいし、この状況で考えることもやることも他にないでしょ?」
「冗談じゃ……!」
「ああもう、ほら、暴れないで大人しくして! レディに失礼よ!」
レディなら男に迫るな、と怒声を張り上げたかったのだが――やはり、それは先程のように叶うことではなかった。
ジュードは、翡翠色の双眸を見開く。零れ落ちてしまうのではないかと思う程に。頬には手の平が触れ、鼻腔を花の香水が擽る。ローザの顔が視界全てを支配していた。口唇には暖かいものが触れている。
――キス、されている。
やや暫くの時間を要したが、ジュードはそれを理解すると力任せに利き腕を動かして彼女の身を押し返した。相手が女性などと、気遣うような余裕は既にない。
「っもう、照れなくてもいいでしょ」
「照れてない! 何するんだ、こんな……!」
相手が女性であることも忘れ、ジュードは咄嗟に怒声を張り上げようとしたが、それは『ガウッ』と吼えるちびによって制される。なんだ、と相棒を見てみれば、その黒目は此方を捉えていない。部屋の出入り口へと向いていた。
そしてちびはジュードを振り返り、また直ぐに出入り口に向き直る。しゅんと耳が照れている様はなんとなく可愛いが、何処か気まずそうだ。
それもその筈である、ちびの視線を辿った先。つまり部屋の出入り口なのだが、そこに人の姿があったからだ。
「――!?」
開けっ放しになっていた扉が気になったのか、はたまた話をしに来たのか。そこには蒼褪めて此方を見つめるカミラが立っていた。双眸を見開き、小刻みに震える両手で口元を覆っている。彼女の肩に乗るライオットも、あんぐりと口を開けたまま言葉が出てこない様子だ。
ジュードが口を開こうとした矢先、カミラは早口に謝罪を向けると、早々に踵を返して脱兎の如く駆け出した。
「……っ、ごめんなさい……!」
「カ、カミラさん! 待って、違――……っ!」
ジュードのその声が聞こえたか否かは定かではないが、駆けていく彼女のけたたましい足音は無情にも遠ざかっていった。
顔面から血の気が引いていく、それと共に目の前が真っ暗になるような感覚も。
ジュードは片手で己の目元を覆い、状況も忘れて深く項垂れた。