第三十八話・揺らぐ存在
翌日、屋敷の中にはけたたましい悲鳴が響き渡った。
その声で、ウィル達は各々部屋を飛び出す。一体何があったのか、気にならない方がおかしい。その声は間違いなくカミラのものだった。
あのリュートの一件――彼女の髪が切られて以来、ウィル達は満足にカミラと顔を合わせてもいなければ、当然話もしていない。
しかし、放っておける筈もない。普段彼女が上げる甲高い悲鳴とは異なる――悲鳴と称すよりは、泣き声に近いものであったからだ。
ウィルは作業場を飛び出し、朝食を作っていたマナは慌てて火を止め、声の出所を求めて駆け出す。屋敷の庭で朝の訓練をしていたリンファも怪訝そうな表情を滲ませて即座に室内へと戻っていく。自室で寛いでいたルルーナは隣室から聞こえてきた泣き声に弾かれたように飛び起き、そして早々に部屋を飛び出した。ルルーナの部屋は、カミラの部屋の隣だ。当然その声はよく通る。
「カミラちゃん、どうしたの!?」
位置的に誰よりも先にカミラの部屋に行き着いたルルーナは、ノックも忘れて部屋に駆け込む。
するとカミラは寝台の縁に座り込み、両手で自分の顔を覆って泣いていた。髪が短くなった姿はやはり見慣れないとルルーナは思うが、今はそんなことを言っている場合ではない。
一体どうしたのか。彼女の傍らへ早足に歩み寄ると、そっと肩に手を触れさせた。
そんなルルーナに気付いたか、カミラは顔を上げると傍らに立つ彼女を見上げる。目元や鼻頭が赤く染まっていて痛々しい。
「うう……」
「どうしたの、何があったの?」
「わたしの、わたしのカチューシャがないの……」
そう言って、カミラの双眸からは再び涙が溢れ始める。
ルルーナは不思議そうに小首を捻るが、今のカミラの頭には確かにいつもそこにある金色の装飾がない。
仲間にとってはただの飾りではあっても、カミラにとってはそうではない。
あのカチューシャは、ジュードにもらった大切なものなのだ。そんな大切な贈り物をなくした、カミラにとっては何より悲しいことである。
そこへ、ウィル達も合流を果たした。皆一様に心配そうな表情を浮かべている。ルルーナはそんな彼らに視線を遣ると、緩やかに双肩を疎ませた。
「ねぇ、カミラちゃんが頭に付けてたカチューシャ……誰か見なかった?」
「カチューシャって、あの……」
その問い掛けに真っ先に反応したのはウィルだ。
あのカチューシャは、ウィルがジュードに勧めたものである。カミラの機嫌が悪いならプレゼントしたらどうか、と。
マナやルルーナ達にとってはなんてことないものであったとしても、事情を知るウィルは聊か複雑だ。カミラがジュードに特別な想いを抱いていることも知っているからこそ、彼女の悲しみようはやはり理解出来る。
しかし、ウィルも彼女のカチューシャを見た覚えはない。ルルーナの問いに対し不思議そうに首を捻るマナやリンファに至っても同じらしい。
「昨日、寝るまではあったのか?」
「うん……昨日はずっと部屋に置いてて、寝るまでは確かこの棚の上に……」
ジュードほどではなくともウィルとて女性が、そして仲間が悲しんでいる姿は見たくない。とにかく、彼女の求めるカチューシャがいつなくなったのか。それを知ることが重要であった。
涙ながらに語るカミラに、ウィルは小さく頷く。片手を顎の辺りに添えて一度視線を下げた。それは、いつもウィルが考え込む時に決まって取るポーズだ。
「寝るまではあった、ってことは……カミラが寝てる間になくなったんだな」
「やだ、泥棒とかじゃないわよね……?」
「不審な影や気配は感じられませんでしたが……」
部屋の主が眠っている間に紛失した、と言うことは確かに泥棒などの可能性は高くなる。
だが、怪しい物音は誰も聞いていない。それは隣室にいたルルーナも同じらしい、小さく頷いてみせる。本当に何者かが侵入して盗んでいったのであれば大問題だ。
しかし、そこでウィルは軽く辺りを見回す。いつまでも駆け付けてこない弟分のことを思って。
想いを寄せているだろうカミラが悲鳴のような泣き声を上げれば、普段ならば間違いなく駆け付けて来る筈である。だが、未だにやって来る気配がない。
「……ジュードの奴、まだ寝てんのかな」
「魔族が侵入して持ってった、とかはない……わよね」
「ジュードを連れて行くついでにか? 何の為にだよ、大丈夫だって」
心配そうなマナの言葉に対し、ウィルはすぐに頭を左右に振ると安心させるように返答を連ねる。
カミラのカチューシャが何か特別な力を秘めたものであればその可能性も否定は出来ない。しかし、ウィルはその出所を知っている。あれは王都シトゥルスに売っていた、ただのヘアアクセサリーだ。魔族にとって特別な意味合いなどある筈がない。
「そう言えば、昨日眠る前にジュードとお話ししたけど……」
「……それだ」
ふと思い出したように呟いたカミラに、ウィルは軽く眉を寄せる。彼が盗んだなどと思いはしないが、何かしら知っている可能性はある。ウィルは小さく呟くと、早々に踵を返した。未だに姿を見せないことも考えると余計に怪しい。
もし何も知らなかったとしても、ジュードの部屋にはちびがいる筈だ。匂いを辿ってちびに探してもらう方が早い。
カミラは慌てて立ち上がると、片手で涙を拭って足早にウィルの後に続く。自分にとっての大切なものだ、全て他人任せと言うのは気が引けたのである。
そして、一度首を突っ込んでしまったからには解決まで付き合わないと気が済まないらしい。マナ達もその後に続いて部屋を後にした。
万が一、本当に泥棒が侵入していた可能性を考えるとどうにも気になるのだ。
程なくして行き着いたジュードの部屋の前で、ウィルは足を止める。すると、こちらの気配に気付いたのか室内からはちびの吠える声が聞こえてきた。
ウィルは片手を緩く上げると、手の甲を扉へと数度打ち付けてノックとする。しかし、中からの応答はない。部屋の主であるジュードの代わりにちびが吠えているだけだ。
「ったく、仕方ないな……ジュード、入るぞ」
まだ眠っているのならば起こすのは気が引けるが、今回は仕方ない。ウィルは小さく溜息を零すと、ドアノブを捻ってそっと扉を開けた。
開いた隙間からは尾を揺らしてこちらを見上げるちびの姿が見える。「わう」とやや控え目に吠える様子から察するに、ジュードはまだ眠っているのだろう。彼に何かがあったのだとすれば、ちびがこうまで落ち着いている筈がない。
そして、出入り口に駆け寄ったちびの頭に真横から白い物体が飛び乗った。もっちりとしたその身は、間違えるのも難しい――ライオットだ。
「うに? さっきカミラの声が聞こえたけどどうしたに?」
「モチ男、ジュードは?」
「ラ、ライオットだに、いつになったら覚えてくれるにー……マスターならまだ寝てるによ、昨日は遅くまで起きて作業してたに」
既にモチ男呼ばわりも慣れてきたらしい、以前のような強めの訂正は返らない。それとも、まだジュードが寝ているからこその配慮か。
ライオットの言葉に「作業?」とウィルは軽く小首を捻る。そして部屋の外にいるカミラ達を振り返ると、入室を促した。
ジュードの部屋も、カミラに負けず劣らず何もない。窓際の寝台はやはり最初から設置されていたし、他に部屋にあるとすれば壁際の机と着替えなどを入れる引き出し棚くらいだ。なんとも殺風景な部屋である。
しかし、そこで気付く。寝台の上にジュードの姿がない。「あれ?」とウィルは瞬き、軽く室内を見回した。
すると、壁際の机にその姿を捉える。机に突っ伏す形で爆睡しているらしい。
「はあ……寝るならベッドで寝ろっての、ったく……」
「ほんと、風邪引くわよ」
火の国エンプレスは特に暖かい国ではあるが、やはり秋から冬にかけての季節ともなると朝夕は冷え込むことが多い。魔法で拒絶反応を起こさない限りは何かと頑丈なのがジュードだが、だからと言って体調を崩さないと言う訳ではない。
ウィルの呟きに対し、マナは呆れたように吐息混じりに呟く。仕方ないな、と洩らしながらもウィルはそちらに足を向けた。寝台に運んでやろうと言うのだ。
だが、そちらに歩み寄ってウィルは思わず双眸を丸くさせた。そして静かにカミラを振り返ると、片手で彼女を招く。
カミラはそんな彼の様子を見て、不思議そうに双眸を瞬かせるとジュードを起こさないようにとそっと近付く。尤も、爆睡している様子から多少のことでは起きそうにないのだが。
「……カチューシャって、コレか?」
「……!」
コレ、とウィルが指し示す先を視線で辿ると、そこには確かにカミラが探していた金のカチューシャがあった。ジュードの机の上に。
しかし、これまで彼女の頭を飾っていたそれとは、多少異なる形をしていた。
ウィルはジュードの肩を掴み、彼を起こすべく軽く揺さぶる。深く寝入っている様子から起きるかどうかは定かではなかったが、幸いにも程なくして間延びした声が洩れ始める。まるで幼い子供が駄々でも捏ねるような――憤るような声だ。
「起きろ、ジュード。ったく、犯人はお前かよ」
「ん…………はん、にん……?」
「はあ……ダメだこりゃ」
いつものことではあるのだが、寝起きのジュードには全く期待が出来ない。頭が覚醒を果たすまでに多少なりとも時間が必要らしい。単語の一部を復唱して、また黙る。
取り敢えず、カミラが探し求めていたカチューシャは見つかった。しかし、気になるのはそのカチューシャがこれまでとは多少異なっていると言うことだ。
いつもカミラが付けていたカチューシャと言えば、ただ金色にコーティングされた単純なものである。
だが、今ジュードの机の上にあるものには、両端に白い造花が付けられていた。どういうことなのか、聞きたくともジュードの頭が起きないことにはどうしようもない。
「……あれ?」
「……お目覚めか? ったく、お前カミラのカチューシャ持って来ただろ」
「ああ、うん。朝までに仕上げる予定だったんだけど……い、いたっ、いたたた……」
徐々に頭も起き始めたらしい。それまで机に突っ伏していたジュードが眠たげに目元を擦りながら身を起こす。だが、その表情はすぐに歪み、片手を首裏へと添えた。ずっと同じ姿勢で眠っていた為に、身が固まってしまったようだ。
そんなジュードに対し、カミラが慌てて彼の背や首へ労わるように手を添えた。そこでジュードは自分の部屋に仲間が集まっていることを理解する。軽く室内を見回して、ようやく完全に覚醒を果たしたらしい。
「あ、あれ? なんでみんな……」
「ジュードがカミラちゃんのカチューシャを持って来ちゃったから、さっきまで大騒ぎだったのよ」
「え、ご、ごめん!」
ルルーナの言葉に、ジュードは思わず双眸を丸くさせる。そしてすぐにカミラに向き直ると一つ謝罪を向けた。
一方でカミラはと言えば、探していたものが見つかって一先ず安心はしたらしい。だが、その視線は物言いたげに机の上のカチューシャに向けられた。確認などせずとも、気になっていると言うことは一目瞭然だ。
そんな彼女の視線に気付いたジュードは、それを手に取りカミラに差し出す。逆手で後頭部を掻きながら、多少なりとも気恥ずかしそうに。
「あ、あの……これ。ごめん、勝手に持ってきちゃって」
「飾り、付けたのか?」
「あ……ああ、その……少しでも気晴らしになればと言うか、元気になってくれたら良いな、って……」
ジュードにとっての、自分に出来る精一杯。それは、手先の器用さと趣味を活かしての細工だった。
カミラは差し出されたカチューシャを受け取り、瑠璃色の双眸を輝かせた。その表情は見る見る内に嬉々に染まり、そして程なくして大層嬉しそうに笑う。それは、随分久方振りに見る気さえする彼女の心からの笑顔だ。
「かわいい!」
「き、気に入ってくれた?」
「うん。ありがとう、ジュード……」
その返答に、ジュードは安心したように表情を和らげた。
マナとルルーナはカミラの傍らに駆け寄ると、彼女の手にあるカチューシャを見つめる。そこはやはり女性か、その表情は羨望と好奇心に満ちていた。
「いいな~。ねぇ、ジュード。あたしにも何か造ってよ」
「いいわね、ジュードの腕がどのくらいのものなのかチェックしてあげるわ」
「なんで……いいけど、前線基地が落ち着いてからな」
「なによ! カミラにはすぐに造ってあげるクセに!」
わざとらしく声を上げるマナに対し、そっとカミラは微笑む。それにつられるようにして、ルルーナも揶揄するように声を立てて笑った。マナの表情も言葉とは裏腹に随分と楽しそうだ。
そんな様子を見守ってウィルは表情を和らげると、軽く何度か両手を叩いてみせた。
「ほらほら、解決したなら朝飯にしようぜ。リンファもシャワー浴びて来い」
「はい、そうします」
「カミラも腹減ってるだろ。マナ、今朝は少し豪華にしてくれよ」
「うん、任せといてよ!」
小さく頷いて一度会釈をし、リンファは早々に踵を返す。ウィルもその後に続きながらマナへ一言向けた。いつものことだが、食事の支度はマナの仕事である。
それを理解しているからこそ、彼女自身も特別文句を連ねることなくウィルやリンファの後に続いた。未だ口論と言う名の戯れが尽きないルルーナも、ふと表情を和らげ彼女の背を追って部屋を出て行く。今となってはマナを手伝うことさえあるくらいだ。
まるで嵐のようだとさえ思いながら、徐々に遠くなっていく話し声を聞いてジュードは一つ吐息を洩らした。ライオットはちびの頭の上に乗ったまま、短い手を挙げて彼らを見送っている。
「あ、あの。ありがとう、ジュード」
「え、あ……いや、少しでも喜んでくれたなら、よかったよ。ごめんね、勝手に持ってきちゃって」
後に残されたカミラは彼らが出て行った部屋の出入り口を暫し見つめていたが、改めてジュードに向き直ると幾分気恥ずかしそうに、はにかみながら彼へと礼を向ける。白い頬にほんのりと赤みが差しているところを見ると、お世辞などの類でないことは容易に理解出来た。
その言葉にジュードは安心したようにそっと眦を和らげて、緩く頭を左右に揺らす。だが、すぐに彼女から視線を外すと軽く眉尻を下げ、片手の人差し指で己の頬を掻きながら再度口を開いた。
「……あ、あのさ」
「どうしたの?」
「うん、あの…………か、髪、短くても可愛いよ。……よく、似合ってる」
ゆっくりとした口調で呟かれた言葉に、カミラは双眸を丸くさせる。ジュードの顔には見る見る内に朱が募り、程なくして耳までもを赤く染め上げながら固く目を閉じて顔を俯かせた。恥ずかしい、言うんじゃなかった。そんな後悔の念に苛まれながら。
しかし、赤くなったのは何も彼だけではない。カミラも同じであった。火が点いたように顔を真っ赤に染めて、そして瞳を潤ませる。嬉しい、恥ずかしい。どうしよう。でも嬉しい。そんな様々な感想が彼女の頭の中で入り乱れ、そして程なく――
「キャ――――――ッ!!」
いつものように甲高い悲鳴を上げて、脱兎の如く駆け出した。悲鳴を上げながら慌ててジュードの部屋を飛び出していく。
まさかこのタイミングで悲鳴を上げられると思わなかったジュードは、俯かせた顔を上げて呆然としていた。
「う……失敗だった、かな……」
逃げられた。
当然ながらそう解釈したジュードは、深い溜息を吐き出して項垂れた。
* * *
火の国エンプレスにある、とある平原。
障害物もない何処までも平らな中、イスキアは緩やかに吹き付ける風を全身に受けて心地好さに浸っていた。
草の香りが鼻腔を擽る。なんとも気分が和らぐ瞬間である。しかし、ややあってから後方を振り返った。
「シヴァ、気分はどう?」
その視線は、地面に座り込む相棒を捉える。だが、彼からの返事は返らない。
シヴァは静かに顔を俯かせて黙り込んでいた。表情こそ窺えないが、多少忙しなく上下する肩から調子が良くないことは容易に分かる。
イスキアは身体ごと彼に向き直ると、緩やかに双眸を細めた。
「良いとは言えないみたいね、大丈夫?」
「……問題ない」
「はあ。強がりは自分の足を見てから言いなさいよ」
足、と指し示すイスキアの様子に、シヴァは静かに自らの両足に視線を落とす。
すると、彼の足は爪先から足首辺りまでが透けていた。その部分から上は肉体がしっかりと残っているが、足のその部分だけは実体がない。完全に消滅こそしてはいなくとも、透き通っていて触れられるものではなかった。
シヴァはそんな自分自身の両足に眉を寄せると、緩く口唇を噛み締める。
「まさか、こんなに早いとは思わなかったわ。一度、北に戻りましょう」
「断る。戻ったところで何も変わらん、無駄な時間を過ごす気はない」
そう呟く相棒の様子に、流石のイスキアも何も言えなかった。暫しぼんやりと彼の様子を眺めてから、風に揺らされる横髪を片手で押さえて空を仰ぐ。
普段浮かべる笑みは何処へやら、その顔には表情がなく――完全な無だ。
「ねぇ、シヴァ。こう思う時って、ない?」
「……なんだ」
「あの時、運命の子が自分の使命を放棄していなかったら……世界はこんなことにはならなかったんじゃないか、って」
「もしもの話には興味がない、今更過去に戻れる筈もないだろう」
身も蓋もない返答にイスキアは双眸を半眼に細めながら、言葉もなく双肩を疎めた。シヴァの言葉は確かにその通りなのだが、夢も希望もない返答である。
そんな相棒の心情を知ってか知らずか、暫し黙り込んだ後にシヴァは改めて口を開いた。
「……どちらにしろ、いつかはこうなっていた筈だ。全てが運命の子の所為だとは思わない」
「……そう。そうね、遅かれ早かれ、世界はこう言った危機に直面することになっていたのかもしれないわね」
続いた言葉に対しイスキアは小さく溜息を洩らすと、一度静かに目を伏せる。
しかし、すぐに思考を止めると改めて相棒へ一声掛けた。
「とにかく、無理は禁物よ。シヴァが消えちゃったら、ジュードちゃんだって悲しむでしょうから」
「どうだかな」
その言葉にシヴァは微かに――本当に微々たる変化ながら苦笑いを滲ませる。イスキアはそんな彼の様子を眺めて、ふと小さく笑った。