第三十五話・入り組む思考
その日、メンフィスは昼頃から書類の整理に追われていた。
王都ガルディオンからも多くの兵や騎士が前線基地に派遣され、仕事が追いついていない部分があるのだ。書類の整理もその内の一つである。本来はメンフィスがやるような仕事ではないが、人手が足りていない以上は致し方ない。
書類に書かれた細かな文字を、眼鏡のレンズ越しに辿る。目の疲れは限界近くに達している、徐々に視界が霞み始めた。
「……ふう、もうこんな時間か。疲れる筈だな」
メンフィスは掛けていた眼鏡を外すと、小さく溜息を一つ。時刻は既に新しい日を迎えようとしていた。日付が変わるまで、あと数分。
所々寝こけていた時間もあったが、夕食もそこそこに没頭して随分と作業は進んだ気がする。今日はもう休んでも構わないだろう。
そう思い、メンフィスは書斎の椅子から静かに立ち上がった。
明日か明後日には、改めて前線基地の様子を見に行った方が良いだろう。あれから魔物の襲撃がないとは考えられない。防衛に残っているクリフも――幾ら武具が届けられたとは言え、苦戦を強いられている可能性が高い。
だが、明らかに兵力が足りていない。メンフィスの声掛けにより城の騎士が数名は名乗りを上げてくれはしたが、充分な数とは言えなかった。他国からの援軍ももうあまり期待は出来ないだろう。
どうすれば良いか。今のままでは、いずれ前線基地は魔物の侵攻により壊滅する。既に基地の建物はボロボロだ、あれでは防衛に出ている兵士達も満足に身体を休められそうにない。
無理せずに撤退の選択が賢いのか――しかし、前線基地で抑えられなければ魔物の群れは近隣の村へ侵攻し、この王都ガルディオンまでやってくることになる。そうなれば火の国は今以上の混乱に支配されてしまうだろう。
どうにも八方塞り状態だ。
メンフィスはランタンを片手に書斎を後にすると、屋敷の廊下へと足を踏み出す。今日は少し熱めの湯でも浴びて眠りたい。そう思った。
起きていれば、嫌でも今後の最悪な展開が頭を過ぎる。更に夜から降り始めた雨により、気分は必要以上に塞いでいた。眠ると言う行為自体が現実逃避であることは理解しているが。
絨毯の敷かれた階段をゆっくりと降りていきながら、また一つ小さく溜息が洩れる。折角武具が調達出来ても、兵力が足りていなければどうにもならない。やはり各国へ協力を呼び掛けた方が良いか、改めてそう思う。
しかし、思考回路の迷路に迷い込んでいたメンフィスの思考は、玄関から聞こえてきたノック音により強制的に現実に引き戻された。
「……来客? こんな時間にか……?」
時刻は既に深夜だ。日付が変わり数分は経過している。
風で小石が飛び、それが扉に当たったのかと思いはしたのだが、ノック音は今一度メンフィスの耳に届いた。小石でもなんでもない、本当に来客だと思われる。
一体このような夜更けに誰だろう。そう思いながらメンフィスは階段を降りると、幾分早足に扉の方へと足を向けた。
「……誰だ、何用か」
外からは、声が聞こえてこない。
否、正確には聞こえないのだ。天から降り注ぐ雨は容赦なく大地へと叩き付けられている。その音に阻害されて声が聞こえないのである。
しかし、声量さえ上げれば聞こえるだろうに。メンフィスはそう思いながらまた一つ溜息が洩れた。今日は、これで何度目になるか分からない。
仕方ない、と両開きの扉に片手を添えて静かにノブを回し押し開く。そして、メンフィスは思わず双眸を見開いた。
なぜなら、その先に立っていた姿が意外な人物であったからだ。
「……メンフィスさん」
「ジュード……! どうしたのだ、こんな時間に傘も差さずに……!」
扉の先にいたのは、隣の屋敷で寝ているだろうジュード本人だった。
毎日の慌しさに追われ、ジュードは日付が変わる一時間ほど前には既に就寝していることが多い。そして朝早くに起床して、また仕事に戻るのだ。
そのジュードが、こんな時間まで起きている。それも、このバケツをひっくり返したかのような土砂降りの雨の中、傘も差さずにメンフィスのいる屋敷を訪れた。更に言うのであれば、やや俯きがちに見えるその顔には全くと言って良い程に覇気がない。
確実に何かがあったのだ。どうしたのかと問いたかったが、それよりも先に心配になるのは彼の体調だ。
「とにかく中に入りなさい、風邪を引いてしまう」
随分長いこと雨に打たれていたのか、ジュードは全身びっしょりだ。青の衣服も水を吸い込んで濃紺へと染まってしまっている。彼の赤茶色の髪は頬に貼り付き、毛先からは止め処なく水滴が垂れていた。
ライオットも肩に乗っていない、ちびさえ傍らにいない。一体どうしてしまったと言うのか、メンフィスの表情は自然と心配の色に歪む。
「……メンフィスさん、オレ……殺せなかった」
「……なに?」
小さく呟かれた言葉に、メンフィスは思わず怪訝そうな眼差しを向ける。話が全く見えてこない、一体何があったと言うのか。
しかし、今は呑気に話をしている場合ではない。詳しく聞きたいところではあるのだが、今のままではジュードが風邪を引く。
「ジュード、取り敢えずシャワーを浴びてきなさい。それからゆっくり話そう」
「……」
「着替えも、出しておくからの」
メンフィスの言葉に、ジュードは言葉もなく小さく頷くと静かに奥へと足を向ける。何か返事はしたのかもしれないが、それはあまりにも小さなもの。メンフィスの耳には届かなかった。
* * *
ジュードと入れ替わりにメンフィスもシャワーを浴びてから、その足で客間を目指す。
廊下を挟み、寝室と向かい合う形に作られた客間は二人部屋の広々とした空間。寝台は二つ設置されており、普段使うような者もいない為か綺麗に設えられたままだ。
メンフィスは部屋の扉を数度ノックすると、静かに押し開く。室内には、ここで待つようにと告げた通りジュードがいた。ソファに腰を落ち着かせて、ぼんやりと窓へ視線を投じている。相変わらず覇気がない、普段のジュードからは全く考えられない姿だ。
しかし、扉が開いたのに気付くと、窓に向けていた彼の視線は静かにメンフィスに戻る。訪れた時よりは多少なりとも落ち着きはしたのか、表情には多少申し訳なさが滲んでいる。
そんな様子にメンフィスは相貌を和らげると室内に足を踏み入れ、後ろ手に扉を閉ざしてからソファへと歩み寄った。
一体何があったと言うのか。
静かに語り始めたジュードの言葉から理解出来たのは、リュートが脱走したと言うこと。
子供が誘拐されて、それを助けに行ったこと。自分が情けを掛けた所為で、カミラが髪を切られたと言うことだ。
先程言っていた『殺せなかった』とは、恐らくリュートのことを、だろう。
「……オレ、メンフィスさんに言われた覚悟の意味、全然分かってなかった」
「……」
「オレが、ちゃんと殺せていたら……カミラさんは……」
膝の上で拳を握り締め、俯きがちに呟くジュードの姿にメンフィスは双眸を細める。彼の目には、なんとも痛々しく映ったのだ。
確かに、ジュードに剣を教える際に覚悟云々の話はした。
しかし、それはジュードが魔物を殺すことを躊躇したからだ。何も人を殺すだけの覚悟を持て、と言ったつもりはメンフィスにはない。
時には自分や仲間を守る為に、そう言った覚悟が必要になることもあるかもしれない。だが、だからと言って彼一人が背負わなければならない訳ではないのだ。
ジュードは兵士でも騎士でもない、ただの鍛冶屋なのだから。
「……ジュード、ワシは人を殺す覚悟を持てと言った覚えはないぞ」
「……でも」
「お前さんの悪い癖だ、何もかも一人で背負おうとするんじゃない」
育ってきた環境の所為なのか、はたまた性格か。ジュードには何かと、自分だけで色々背負い込む悪癖がある。
メンフィスはジュードの隣に腰掛けると、緩慢な所作にて彼の赤茶色の頭へと片手を触れさせる。そうして大きな手の平で髪を掻き乱すように撫で付けた。
「よいか、ジュード。今のお前さんは、昔のワシと同じだ」
「……え?」
「後悔ばかりしておるだろう? あの時ああしていれば、こうしていればと。そればかり考えている」
「……はい」
ジュードはメンフィスの言葉に耳を傾ける。余計な口を挟むことなく、静かに小さく頷いてみせた。
ジュードの頭に浮かんでは消える後悔は、そればかりだ。自分が加減などせずに刃を突き立てていれば、もっと強く殴ってリュートを気絶させていたら。そんな後悔が押し寄せては引いて、また浮かんでくる。それの繰り返し。
「ワシもそうだったよ、前線基地を放り出してガルディオンに戻っていれば……妻も息子も守ってやれたのではないか、二人は死なずに済んだのではないか、と。後悔ばかりだった」
「……メンフィスさん」
メンフィスは、過去に家庭を持っていた男だ。
妻がいて、息子もいた。当時から騎士だったメンフィスに憧れて、息子も騎士になる道を選んだのだ。
しかし、王都ガルディオンに魔物が攻めてきた時に、息子は王都と民を守る為に特攻をかけて亡くなった。妻もその時の襲撃で命を落としている。
当時メンフィスは前線基地の防衛に出ていて、王都に戻れずにいた。しかし、何もかもを捨てる覚悟で戻っていれば、家族を失わずに済んでいたかもしれない。
その事情を知っているからこそ、ジュードは申し訳なさそうに視線を下げた。
「しかしな、前線基地を放って王都に戻っても……妻も息子も喜ばんかっただろう。そんなことをすればワシは罪に問われ、騎士の資格を失っていた。二人とも、騎士としてカッコ良く戦っとるワシが好きだと言っておったからのう」
「……」
「それと同じようなものだよ、ジュード。カミラとは話をしたのか? 彼女はお前の所為で髪が切れた、などと言ったか? ……お前を恨んでいると思うのか?」
その問い掛けに、ジュードは静かに目を伏せて小さく頭を左右に振った。カミラは、ジュードに責任を擦り付けるような性格はしていないのだ。
結局あの後、王都に戻ってからカミラは自室に閉じ篭ってしまい、ジュードはそれ以降彼女の顔を見ていない。心配は募るが、やはりカミラがジュードを恨むなど考えられることではなかった。
メンフィスはそっと眦を和らげると、改めて口を開く。
「起きてしまったことは、どう足掻いても決して変わらん。時には立ち止まることも必要だが、大切なのは……起きてしまったことに対して後悔ばかりするのではなく、それとどう向き合い、対処していくかだ」
「……はい」
「苦しい時は泣きなさい、ジュード。そして一頻り泣いたら、また前を向きなさい」
そう優しく語り掛けると、ジュードは静かに俯いた。その頬を伝い一つ雫が落ちるのを見てメンフィスは薄く微笑む。そして逆手を彼の肩に添え、そっと抱き寄せた。
するとジュードは肩を小さく震わせて、声を押し殺して泣く。凝り固まっていたものが取れて、抑えが利かなくなった。そんな様子だ。
「(色々言い過ぎたか。この子は騎士ではないのだ、覚悟云々は……重圧でしかなかったのかもしれんな……)」
しかし、いざと言う時の為の覚悟を持っていてほしいのは事実だ。そんな瞬間が訪れないことを願うが、いつ何処で何があるかは誰にも予想出来ない。
他でもない自分の身を守る為に、その覚悟が必要になることもあるのだから。
だが、メンフィスは思う。今の彼にこれ以上の言葉を掛ける必要はないと。
「カミラのことは、お前に出来る精一杯のことをしてやると良い。……彼女が苦しい時にお前が傍にいてやらんでどうするのだ、まったく……」
「だ、だって、マナ達もショック受けてて、なんて声掛けたら良いのか分からなかったみたいで……オレ、頭の中メチャクチャで、どうするべきなのか分からなくて」
「髪は女の命と言うからのう。こんな時、男はオロオロするしかないが……傍についててやりなさい。それだけでも、きっと慰めになる」
頭上から降る言葉にジュードは小さく頷く。もう大丈夫だろう、そう思いメンフィスはそっと小さく安堵を吐き出した。
と、そこでジュードは一つクシャミを洩らす。雨に打たれたところへ、シャワーを浴びたとは言えバスローブ一枚では流石に寒かったのだと思われる。
ジュードが普段就寝に使っている寝巻きは隣の屋敷だ。当然、この屋敷にはない。用意出来る着替えと言えばバスローブだけだった。
「む、湯冷めしたか? どれ、そろそろ休むとしようか、本格的に風邪を引く」
「あ、じゃあオレ……」
「服もまだ乾かん、今夜は泊まっていきなさい。まだ目元も鼻も赤いぞ」
「!!」
その言葉に、ジュードは慌てて片腕で自らの目元を乱雑に擦った。複雑な年頃の少年だ、泣いた、と言うのは情けないことだと認識しているのだろう。自分のことは色々と無頓着な割にそんな部分だけは気にするようだ。
メンフィスは愉快そうに声を立てて笑うと、座していたソファから立ち上がる。ジュードはそんな彼の背中に慌てて声を掛けた。
「あ、あの」
「うん?」
「……ごめんなさい。それと、ありがとうございます」
「ふふ、構わんよ。お前が頼ってきてくれたことが、ワシは嬉しい。……あまり一人であれこれ背負い込まんようにな」
そう告げると、ジュードは緩く眉尻を下げる。しかし、程なくして何処か照れたように笑った。