第三十三話・奴隷商人再び
カミラは、住民から聞いた情報を頼りに王都ガルディオンから続く道を南下していた。
駆ける足は決して止めない。本当にこちらなのかは分からないが、それでも立ち止まる訳にはいかなかった。こうしている今も、幼い子供は凶悪な犯罪者の傍で怯えているのだろうから。
「子供を人質にするだなんて、卑劣な……!」
手にした剣を固く握り締め、カミラは奥歯を噛み締める。
脱獄犯と言うくらいだ、恐らくは凶悪で狂暴だろう。絶対に気は抜けない。カミラは怪我をしても治療することは可能だが、治療にばかりかまけて防戦一方になってしまうことは避けたかった。それでは勝ち目があまりない。ジュード達の援護を期待するより、自分に出来る精一杯をしたい、そう思ったのだ。
辺りの気配を窺いながら、カミラは先へ先へと足を進めていく。幸いにも周囲には林や森などの障害物はない、何処までも緑の平坦な草原が続いている。時間帯も、まだ昼を回ろうとする頃であった。経過していたとしてもちょうど昼時だろう、陽が沈むまで時間はまだまだある。
万が一があった際に身を隠すことは出来ないが、これならば敵も隠れるのは困難だ。
「……あれは、まさか……!」
カミラは用心深く辺りに視線を巡らせながら、先へと駆けていく。脱獄犯が途中で道を変更している可能性もあったが、今は情報を頼りに進むしかないのだ。
その矢先だ。彼女の視界に、一つの人影が映ったのは。
しかし、遠目に見えるその姿にカミラは確かな覚えがある。その姿、そして平原の草と同化しそうな髪色。慌てたようにそちらに駆けて、やはり見間違いでも人違いでもないと理解する。すると向こうもカミラの存在に気付いたのか、片手で子供を脇に抱えながら振り返った。表情には見下すような笑みを携えて。
「よう、カミラ。奇遇だねぇ、こんなところで」
「やっぱり、あなた……! 脱獄犯って、あなたのことだったんだ……!」
それは、ジュード達から奴隷商人だと聞かされたリュートだった。既にカミラの前でも取り繕う気はないらしく、素のままである。
だが、剣を持つ逆手を小脇に抱える少年の頭辺りに翳すと、彼のその視線はカミラの手にある剣へと向けられた。口元に笑みを滲ませながら顎で示してみせる。剣を捨てろ、そう言いたいのだろう。
カミラは暫しそんな彼の様子を見つめていたが、引く気はないのだと判断して言葉もなく静かに足元に剣を捨てた。少年の表情は完全に恐怖に染まっている、泣き腫らして目元は真っ赤に腫れ上がり、顔など涙と鼻水でグシャグシャだ。それでいて顔色が蒼白に近いのは恐怖の所為だろう。
あまりリュートを刺激して、これ以上少年を怖がらせたくはなかった。
素直に剣を手放すカミラを見て、リュートは浮かべる笑みを上機嫌そうに深める。ニヤニヤと下品ささえ漂う笑みを表情に貼り付けながら、緩慢な足取りにてカミラの元へと歩み寄った。
「よ~しよし、イイコちゃんだなぁ」
「その子を離してあげてください、逃亡に必要な人質ならわたしがなります」
「ああん?」
静かに要求を告げる彼女を見下ろし、リュートは小脇に抱える少年を一瞥する。小刻みに身を震わせ、喉を引き攣らせながら嗚咽を洩らす姿はカミラから見れば非常に痛々しいものだが、リュートの目には汚らしく映る。
嘲るように鼻で笑い飛ばし、その小さな身を乱暴に地面へと放り投げた。
少年は平原に転がり、痛みに声を洩らす。だが辺りに無数に生える草がクッションになり、多少なりとも衝撃を和らげてくれたらしい。大事に至ったような様子もなく、すぐに慌てて起き上がる。
カミラはそんな少年の安否を確認しようとしたが、駆け寄ろうとしたところで不意に片手を掴まれ、引き寄せられた。遠慮の欠片もない強い力に思わず彼女の表情が歪む。
「おおっと、どこに行くんだよ? カミラが人質になってくれるんだろ?」
「痛っ……!」
リュートはその手を引き寄せてカミラの身を自分の身体へと引き寄せた、後ろから片手で羽交い絞めにでもするかのように。
そうして耳元に口を寄せて、舌なめずりを一つ。
「お前は本当に可愛いよなァ、初めて見た時からこうしたいと思ってたんだ」
剣を持つ片手をカミラの腹部辺りへ回すと、その身が斬れないよう器用に自分の身へと抱き寄せる。彼女の長い髪に鼻先を埋め、至極上機嫌そうに笑ってみせた。逃れようと足掻く身さえ、リュートの機嫌を上昇させていく。
「そう嫌がることないだろ、ジュードの野郎とはもう寝たのか? ……って、んなワケないか。あいつはヘタレだもんなぁ」
カミラは世間知らずとは言え「寝る」の意味が分からないほどではない。込み上げる嫌悪感を堪えるでもなく表情を歪ませながら、唇を噛み締めた。怖気が走る。ジュードのことを、リュートやその他の――女をそう言う対象としか見ない男連中と一緒にされることは我慢ならない。
初めて逢った時、彼はそう言った目的の輩からカミラを助けてくれた。ジュードがただの男であれば、そのまま襲うことも出来た筈だ。
ジュードは女性の――正確にはカミラの、普段は隠れていて見えない肌を見るだけで大慌てするほどだ。確かにヘタレではあるのだが、カミラにしてみればジュードをリュートのような男と一緒にされたくない、それだけだ。
ジュードもウィルも、女性を大切にしてくれる男性なのだから。
「(気持ち悪い、気持ち悪い――気持ち悪い! やっぱりジュードやウィルとは全然違う、気持ち悪い!)」
その瞬間、不意にリュートの背中に何かが突き刺さった。
あまりにも唐突なことにリュートは思わず苦悶の声を洩らし、カミラを拘束していた力が緩む。それを彼女が見逃す筈がない。
リュートの腹部を思い切り片肘で叩き、咄嗟に身を離すと地面に落としたままだった剣を拾い上げる。そしてすぐに彼へと向き直った。
「ぐ――ッ……な、んだ……光の、矢……?」
リュートの背中に刺さったのは、白い光の矢だった。三つほど彼の背中に突き刺さっている。そう大きなものではない為に、致命傷とまではいかないが。
それはカミラが使った初級程度の光属性攻撃魔法であった。力や身体での抵抗は難しくとも、彼女には魔法がある。マナは火属性を最も得意としているが、カミラは光属性に於いてのエキスパートだ。初級程度ならばほんの僅かな詠唱であろうと、問題なく発動することも可能である。
だが、今回の攻撃はリュートの逆鱗に触れたらしい。表情には依然として笑みを湛えてはいるが、目が笑っていない。背中に突き刺さっていた矢が空気に溶けるように消えると、痛む身にも気を向けずに地を蹴って駆け出した。――当然、カミラに向かって。
「ふざけやがって、このクソ女がぁッ! ズタズタにして、思う存分辱めてやるよ!」
「穢らわしい……っ、あなたみたいな、女をそんな風にしか見れない男――大っ嫌い!」
しかし、問答無用に斬り掛かって来るリュートとは異なり、カミラには躊躇いがあった。
別にリュートを攻撃することに対しては、今の彼女に躊躇はない。だが、カミラの近くでは解放された少年が腰を抜かしたように座り込んだまま、未だそこにいるのだ。
幼い子供に人間同士の斬り合いなど――更に言うのであれば、血など見せたくはなかった。
容赦なく真横に振られる剣を、カミラは拾い上げた剣で咄嗟に防ぐ。刃物と刃物が衝突する音に少年が身を縮める、その姿がカミラの視界の片隅に映った。
少年を逃がす方がいいか、それとも自分が少年を抱えてこの場を離れる方がいいか。カミラは頭の中で、幾つもの選択肢を思い浮かべる。
「何をヨソごと考えてやがる!」
「――っ!」
だが、それはリュートの神経を更に逆撫でしてしまったらしい。
何処か心此処に在らずと言った様子の彼女に対し、リュートは舌を打つと片手で拳を握り、思い切りカミラの頬に叩き込んだ。
予想だにしていなかった攻撃に、彼女の身はいとも容易く吹き飛ぶ。だが、その程度で怯むほど柔な道を辿ってきてはいない。カミラはヴェリア大陸で魔族相手に戦っていたこともある身だ、ジュードは彼女を守ろうとするが、ある程度であれば護衛などなくとも戦える。――ましてや、相手は人間。中身はともかく、魔族よりも可愛い存在と言える。
即座に片手を平原に添えて体勢を立て直し、追撃に飛び掛かってきたリュートを見据える。
「(どうしよう、あの子に血なんて見せる訳には……やっぱり魔法で吹き飛ばす方が――)」
殴られた頬が熱を伝えてくる。痛みは確かにあるが、気にしていてもどうにもならないことを彼女は知っていた。
痛い痛いと泣くくらいならば、打開策を考える方が余程充実するのだ。
どうしよう。
カミラは改めて頭の中でそう繰り返し、振られる剣を再度防ごうとした。
だが、それは真横から飛んできた何かによって必要ではなくなる。――それは、短剣であった。
「――ぐッ! なんだ!?」
リュートは短剣が飛んできた方へと咄嗟に目を向けるが、それはあまりにも遅い行動だった。
そちらに目を向けた時には既に、彼に何かの影が掛かる。空から大地を照らす陽光が、彼の頭上に何かがいることを報せているのだ。
カミラが慌ててそちらを仰ぐと、そこには黒いウルフの姿。恐らくは駆けてきた勢いそのままに跳び上がったのだろう。
「ちびちゃん!」
それは、火の国エンプレス地方に生息するウルフではない。となると、その正体は当然ちびである。
そして、ちびがいると言うことはやはり当然ながら、その背には相棒であるジュードの存在も。
ジュードは上空でちびの上から飛び降りると鞘に収めたままの剣を両手で持ち、落下の勢いを加えてリュートの肩へ思い切り叩き込んだ。
流石に肩が砕けると言うことはなかったようだが、脳天にまで突き抜けるような激痛が走り、リュートは双眸を見開くと剣を落としてその場に蹲った。強打された箇所を片手で押さえ、頭を垂れる。
ジュードは難なく着地を果たすと、前脚を大地にしっかりと張って唸るちびを一瞥。しかし、すぐにリュートを見下ろして剣を固く握り締めた。その肩には、落ちないようにと必死にライオットがしがみついている。
「お前……っ、カミラさんに手を上げたな!」
「くっ、くくく……! フェミニストのつもりか? 俺はお前みたいな偽善者、反吐が出るほど嫌いなんだよ!」
「にっ! マスターに失礼なこと言うなに!」
山育ちであるジュードの目の良さは半端なものではない。
ちびに乗って駆けて来る最中に、その現場を――リュートがカミラを殴り付ける様を見てしまったのだろう。そうでなければ、到着して早々にこうまで激昂している筈がない。例え相手がマナを誘拐し、更にこうして子供を人質にして逃亡した男だとしても。普段は単純おバカに見えても冷静な部分はあるのだから。
リュートは痛みで熱を持ち始める肩を押さえたまま、常の如く嘲るような笑みを滲ませてジュードを見上げた。
「マスターだぁ? はっ、お前はやっぱりバケモノなんだな、ウルフを従えてる時から怪しいと思ってたんだ。その気味の悪い生き物だって魔物か何かなんだろ? バケモノが人間のツラしやがって、気に入らねぇんだよ!」
「バ、バケモノとはなんだに!」
「バケモノだろうが、魔物なんざ従えてやがるんだからな! そんな奴をマスターだのなんだの崇めるテメェも、気味が悪ィんだよ!」
怯えていた少年の傍らへ駆け寄ったカミラも、流石にその言葉には黙っていられない。「おねえちゃん」と不安そうにしがみついてくる少年の身を抱き寄せながら、嫌悪感に表情を顰めた。
だが、カミラが何か言葉を発する前にジュードが静かに口を開く。表情は依然として怒りに満ちており、自分を見上げてくるリュートを睨み下ろしていた。
「好きに思えばいいだろ、バケモノでもなんでも」
「……なんだと?」
「人を貶すことでしか優位に立てないような奴に、何言われたって痛くも痒くもない」
「テメェ……ッ!」
ちびは、鋭い牙を剥き出しにしてリュートを睨み付けたまま低い唸り声を洩らす。そんな様子さえ、今のリュートには神経を逆撫でする要因となるようだ。
痛む肩さえも気にならなくなったか、落としてしまった剣を握り直すと表情を怒りと憎悪に染め上げる。
「ガキが……! ふざけやがって、ぶっ殺してやるッ!!」
リュートは忌々しそうに剣を握り締め、こちらを見下ろしてくるジュードへ襲い掛かった。