第三十二話・脱獄犯
ジュードはメンフィスに言われたように右手に剣、左手に短刀を携えて中庭で素振りをしていた。
何かと器用なことからジュードは右手だろうが左手だろうが、常人よりは自由に使える。しかし、大体が右手を利き腕をしていた為に全く支障がない訳でもない。右手が使えなかった頃は左で戦ったこともあるが、慣れていると言うことではないのだ。
まだ右肩が本調子ではないことも考えて、特に左手側を重点的に鍛えることにした。
「ジュード、休憩中くらい休んだら?」
そこへ、ふと声が掛かる。
振り返ってみると、そこには呆れ顔のマナが立っていた。片腕にタオルを掛けているところを見ると、どうやら心配して様子を見に来てくれたようだ。
ジュードは武器を下ろすと、そんな彼女へと向き直る。
「メンフィスさん、心配してくれてるみたいだから練習しておきたくて」
「そりゃ分かるんだけどね、少しはあたし達のことも頼ってよ」
依然として何処か呆れたように返答を向けてくるマナの言葉に、ジュードは一度双眸を丸くさせる。数度瞬く頃には、彼女は一つ深い溜息を吐き出した。
だが、それ以上はとやかく言うことはせずに、片腕に掛けたままのタオルを差し出してくる。
「無理はしないでよ」
「ああ、うん。分かってる」
ジュードは「ありがと」と一言礼を向け、剣を鞘に戻してからタオルを受け取ると、休みなく身体を動かしていたことから頬を伝い滴る汗を拭っていく。真新しいふんわりとした、柔らかなタオル生地が肌に心地好い。
マナは余計な言葉を掛けることなく、そんな彼の様子を見守っていた。陽光が柔らかく大地を照らす。陽の光を受けるジュードの姿と言うのは、妙に絵になる。上品だとか気品があるだとか、残念ながらそのような要素は微塵も感じられないのだが。太陽が似合う男と言うに相応しいのかもしれない。
当然ながら、マナはまだジュードのことが好きだ。前向きに考えるにしても、長年抱いてきた想いをそう簡単に切り替えるのは非常に困難である。
「(ジュードって別にカッコイイ訳でもないのに、なんでかしら)」
纏う雰囲気こそ柔らかく人を安心させるようなものはあるが、別にジュードは特別顔立ちが整っていると言う訳ではない。
どちらかと言えば整っている方だとは思うが、誰もが振り返る美形と言うようなことはない。寧ろ子供っぽい、更に頭の出来も良くない。一言で言うならただのおバカだ。
なぜジュードが好きなのかと問われれば、首を捻ってしまうかもしれない。
確かなのは、初めて逢った時にマナを孤独から救ってくれた。それが一番の理由であり、原因と言える。
しかし、マナがジュードに対する気持ちを『恋』だと自覚する頃には、既に彼は何処か一歩退いた場所にいるように感じられた。以前、まだ風の国ミストラルにいた時とてそうだ。
一緒に村を見て回ろうかと思ったマナに対し、ジュードは彼女の相手をウィルに押し付けて自分はさっさと教会に行ってしまったのである。
「(思い出したら腹立ってきた、なんだってジュードはいつもいつも――)」
しかし、そこでマナは思った。
あの時、ジュードは去り際になんと言っていただろうか。
『前に来た時、マナに似合いそうなリボンが売ってたんだって』
ふと、そのジュードの言葉を思い出してマナはハッとなった。思わず双眸を丸くさせ、片手を口元の辺りに添える。ジュードに対して湧き上がってきた憤りなど瞬時に吹き飛んでしまっていた。
あの時の彼の言葉は、ウィルへ向けたものだ。マナと一緒に村を見て回ったらどうか、そんな会話。
「(ジュードがウィルに押し付けたんじゃなく、ジュードはウィルの気持ちを知ってて……? いや、でもこのニブちんが気付いていたかどうか……)」
「……なんだよマナ、目が据わってるぞ」
「ねぇ、ジュードは知ってたの? ウィルの……その、気持ち……とか」
朱色の双眸を細めて自分を眺めてくるマナを見て、ジュードは困ったように眉尻を下げ――僅かばかり警戒するように数歩退く。
しかし、続く問い掛けに翡翠色の双眸を丸くさせると、あからさまに彼女から視線を外してぎこちなく頭を左右に揺らし始めた。――なんと嘘の下手なことか。
「え……さ、さあ? オレには、あの……まったく……」
「……ごめん、ジュードって嘘吐くの苦手だもんね」
寧ろ態となのではないかと疑いたくなるレベルだ、ふざけているだけのようにしか見えない。ジュード本人は至って真面目に誤魔化そうとしているのだが。
マナは何処か生暖かい視線を彼に向けながら、力なく頭を左右に揺らした。そして、そこで改めて思い返す。
「(そう言えば、ウィルって……)」
これまでのことを考えれば、思い当たる節は幾つかある。ウィルがマナを好きでいてくれたのだと思い当たる節が。
水の国に向かう途中に寄った、風の王都フェンベル。水祭りに参加することになった時のことだ。
着替えたマナに対して、ウィルはなんと言っていただろうか。
吸血鬼と対峙して、カミラとルルーナが連れ去られた時もそうだ。
『よく似合ってる。たまにはいいんじゃないか、そういう服も』
『……マナは、連れて行かれなくてよかったと……思って』
今更ながら思い返してみて、マナは顔面に火が点くような錯覚を覚えた。一気に顔に朱が募り、ひたすら熱い。
いつも、ウィルはさり気なく――そして控え目に、その好意を伝えていてくれたのだ。ただ、マナがそれに気付けなかったと言うだけで。
――否。気付けてはいたのかもしれない。
だが、それが異性としての好意だとは思っていなかった。小さい頃から共に育ってきたことに加え、ウィルは何かと仲間想いだ。いつも労わってくれるのも、彼が亡くした妹のように大切にしてくれているのだと――そう思っていたのである。
マナが料理をしている時、いつも率先して手伝ってくれたのもウィルだ。
ジュードは比較的外へ出ていることが多かった為に必然的にそうなっていたのだが、マナが疲れているようであれば、どれだけ仕事が忙しくともウィルは彼女を手伝ってくれた。
「(うわ、うわっ……! ほんと、ルルーナの言う通りあたしってどうしようもないバカ……!)」
唐突に顔を赤く染め始めたマナを見て、当然ジュードは不思議そうな表情を滲ませてはいるのだが、今の彼女に彼を気にするだけの余裕はない。
壁や木に頭でも打ち付けてしまいたい気分だ。罪悪感と羞恥心でどうにかなってしまいそうな、そんな心境であった。
そこへ、マナにとっては今は一番聞きたくない声が届く。
「こらジュード、どこ行った! さっさと続き始めるぞ、戻って来い!」
「あ、うん。今行くよ!」
その声を聞くなり、マナは大きく肩を跳ねさせた。
他でもないウィルのものだ。休憩時間は既に終わっていたらしい、いつまでも戻ってこないジュードを探しに来たのだと思われる。
マナは慌てて意識を引き戻すと、そちらを振り返ることなく早々に駆け出した。
「じゃ、じゃあ! あたし、お昼になる前にカミラを呼びに行ってくるわね!」
「え、あ……マナ?」
そんな突然の反応に困惑したのは、当然ジュードだ。
彼が声を掛けた頃には、既にマナは駆け出して屋敷に入って行ってしまった。立ち止まるような気配もない。
数拍遅れてウィルがのんびりと歩いてきたが、ジュードは彼女が走り去った方向と彼とを何度か心配そうに見つめた。もしかしたらまだちゃんと話せていないのではないか、仲直り出来ていないのではないか。そんな不安を抱いて。
ジュードにとって、マナとウィルは妹と兄のようなものだ。家族であり、大切な存在である。その大切な二人がくっついてくれれば良い、そう思ってきた。だからこそ二人がぎこちないままであるのは何よりも寂しいし、心配にもなる。
今にも泣き出しそうな、なんとも複雑な表情で自分を見つめるジュードにウィルは何事かと双眸を細めて緩く首を捻った。何か言え、無言でそんな顔されても困る。そう言いたげに。
「どうしたジュード、腹でも痛いのか?」
「……」
「あー、よしよし」
ウィルが向けた問いに対し、ジュードは言葉もなく双眸を細めて眉を寄せる。「違う」と言う意思表示なのだとは容易に分かった。
口を開かない様子から、言い難いことを足りない頭で考えているのだとも理解出来る。ウィルは深くは聞かず、幼い子供でもあやすように――しかし棒読みで間延びした声を洩らしながら、ジュードの頭をやや乱雑に撫で付けた。
マナは、屋敷の中からそんな二人の様子をそっと見守る。見つからないよう壁に身を半分以上隠して。
普段ならば隠れるようなこともない。だが、今はまだウィルと顔を合わせるのは気まずい。これまで気付かなかった彼の純粋な気持ちを理解して、どのような顔をすれば良いか分からなくなってしまっていた。
これまでならば彼女の視線は迷うことなくジュードへと向けられていたが、今日ばかりは違う。その視線の先には、当然のようにウィルがいた。
「(……こうやってよく見てみると、ウィルって結構カッコイイのよね……)」
水祭りに参加した際、店屋の店長や女性店員達にジュード共々無理矢理に着せ替えられていたが、黒で統一して着飾った姿はまるでモデルか何かのような出で立ちであった。
日頃、鍛冶屋として奮闘している為に着飾らないからこそ分からないのであって、意識して見てみれば文句なしの美形だ。ジュードよりも顔立ちは整っている。背も高く博識で、面倒見も良い。
「(……あれ? ウィルって思った以上に色々な意味でイイ男……? 嘘でしょ~……)」
欠点と言えば結構なレベルのブラコンであることと、興味のないものに対しては非常に冷めていると言うことくらいだ。あとは貧乏くじを引き易いところか。とにかくジュードのことになると、普段はバカにしてばかりだと言うのに何かと喧しい。
マナは暫し二人を無言のまま眺めていたが、程なくして作業場の方へ歩いていくのを確認すると、その背中を見送った。そして彼女自身も先程口にした通り、神殿にいるカミラを迎えにいく為に屋敷の出入り口へと足を向ける。
異常な程に高鳴る胸を片手で押さえながら、街へと飛び出していった。無理矢理に意識を引き離すかのように。
* * *
カミラは、ちょうど時間が昼に近付いてきたこともあり、一度休憩に戻るべく神殿を後にしていた。彼女の腹部は、既にいつものように空腹を訴えている。
賑わう王都の街の中を、屋敷に戻るべく歩いていく。危険と隣り合わせの国ながら火の国エンプレスの者達は皆、随分と元気がある。水の国アクアリーでは何かと不安そうな者も多かったが、この国は違った。凶悪な魔物が外を徘徊していようと、住民達の目には活力が漲っている。誰も死んだ目をしていない。
そんな彼らに確かな強さを感じて、カミラはそっと表情を和らげる。戦う力を持っていなくとも、この国の住民達は決して気持ちで負けてはいないのだ。『生きる』と言うことを諦めていない。
「(わたしも頑張らなきゃ……!)」
あとは地の国グランヴェルに行って地の神殿で許可を貰うだけだ。しかし、それが一番の問題である。
地の国は未だ完全鎖国の状態が続いていて、旅人はもちろんのこと、行商人さえ通行が許可されていない。許可を得ているのは人身売買などを生業とする悪徳商人ばかり。普通の行商人ではなく、そのような商人だけを受け入れると言うこと自体、彼の国が内部から腐敗している証拠と言える。
一体、地の国はどのような状態になっているのか。ヴェリア大陸のことも心配ではあるが、カミラは純粋に地の国が心配でもあった。
しかし、考え事をしながら歩く彼女の耳に、突如として鼓膜を劈くような高い悲鳴が届いた。
「きゃああああぁっ!」
「……え?」
カミラが思わず振り返った先。人だかりで何があったのかは見えないが、幼い子供の泣き声が聞こえてくる。それと共に母親と思われる女性の悲痛な声も。恐らく、悲鳴を上げたのはこの母らしき女性だ。
何があったのかと、カミラは人の波を掻き分けてそちらに足を向ける。すると、まだ歳若い一人の女性が地面に力なく座り込みながら、震える手を必死に外へ続く門の方へと向けていた。その周囲には彼女を心配するような男性や女性の姿がある。
「どうしたんですか、何があったんですか!?」
「あ、あんたは神殿の……それが、この人の子供が脱獄犯に連れて行かれちまったんだ! 取り押さえようとしたら、子供を人質にして……」
「脱獄犯?」
カミラが声を掛けると、近くにいた一人の男性が慌てたように状況説明を始めた。なんとも穏やかではない話だ。
とにかく、犯罪者に連れて行かれたのならばのんびりはしていられない。酷い目に――最悪の展開になる前に助けなくては。カミラはそう思い、腰に据える細身の剣へ確認するように片手を触れさせた。
「どちらに向かったかは、分かりますか?」
「南の方に走って行ったみたいだけど、確かなことは……」
「いえ、それだけでも充分です。ありがとうございます!」
申し訳なさそうに頭を掻く男性にカミラは緩やかに頭を横に揺らすと、顔面蒼白の状態で震えながら涙をしとどに溢れさせる母親へと視線を向けた。
「大丈夫です、わたしが必ずお子さんを連れて戻りますから!」
「けど、あんた一人じゃ……」
「メンフィス様のお屋敷の隣に、わたしの友達がいるんです。その人達に伝えてください、きっと力になってくれる筈ですから。わたしは先にその脱獄犯を追います!」
ジュードの傍には、ちびと言う頼もしい相棒がいる。カミラが先に出ていても、ちびがいれば間違いなく見つけてくれる筈だ。寧ろ先に出て先導した方が良い、その方が仲間が迷うことなく追跡に出れる。
分かった、と何度も頷く住民達を確認してカミラは剣を引き抜き、王都の外へと駆け出して行った。
生きることを諦めない彼らから大切なものを奪い取る、そのような行いを為す者を許せなかった。




