第三十一話・一時の安息
王都ガルディオンにある、メンフィス邸の隣。
ここも正確にはメンフィスの屋敷ではあるのだが、今現在はジュード達が利用している。その屋敷の中庭に、ふと金属音が響き渡る。刃物と刃物がぶつかり合う、そんな音。
そこでは、右肩の怪我も随分癒えたジュードが、久方振りにメンフィスと手合わせをしていた。前回は風の国ミストラルで、ウィルがチャンバラごっこをやって遊んでいるようにしか見えないと感想を洩らしたが、今回は真剣を使っての手合わせである。
ジュードの具合、怪我の治療経過を見る為のものでもある。
「どうした、ジュード。もっと踏み込んで来い!」
「はい!」
ジュードがメンフィスとこのように手合わせ――元い、訓練をするのは本当に久方振りのことだ。
これまでは吸血鬼との戦いに於いて負った右肩の傷や痛みが原因で、満足に剣を振り回すことさえ出来なかった。未だに時折痛みは走るが、武器を振り回すのに支障がない程には回復している。
ジュードはしっかりとメンフィスを見据え、そして言われるまま彼に向けて突進していく。一気に間合いを詰めて、両手で剣を握り締めると自らの身を軸に水色の輝きを纏う剣、アクアブランドを振り回した。
しかし、メンフィスはそれを後方に軽く跳ぶことで回避してしまうと、即座に反撃に移る。ジュードの真横に跳び、そのまま剣を振り翳した。
次いだ瞬間、その剣は勢い良く振り下ろされる。ジュードは剣を両手で持ったまま、その一撃を下から斬り上げることで防いだ。刃と刃がぶつかり合う衝撃に思わず表情が歪む。その衝撃が腕を通して肩に伝わり、鈍痛が走った。やはり、まだ右肩は完治していない。
「――――っ!」
「……むう、痛むか?」
「だ、だいじょうぶ、です……!」
何処か心配そうなメンフィスからの問いに、ジュードは小さく頭を左右に揺らして返答を返す。だが、その翡翠色の双眸は多少なりとも涙目だ。口では大丈夫と言い張っていても、痛みは確かにあるのだと言うことが容易に伝わる。それも彼が涙目になると言うことは、その痛みは結構なものなのだろう。
大丈夫ではなくとも「大丈夫」だと言い張る、それはジュードの悪い癖だ。メンフィスは小さく溜息を零すと、鍔迫り合いとなったその状態から剣を退いた。
「……メンフィスさん?」
「痛いのならば痛いと言いなさい、涙目で大丈夫だと言われても不安になる」
「……すみません」
メンフィスの目から見て、ジュードは良い子だ。
亡くした息子と同じような年頃であり、親友のグラムの息子――と言うことを抜きにしても、彼の目から見れば充分に好意的な感情を抱ける。
根が素直で人並み以上に明るく、性格からか周囲にも好かれ易い。頭の出来が特に残念であったり、女性の気持ちに鈍感だったりと困るような部分も確かに存在はしているのだが、メンフィスにとってそれも可愛らしく映る。
しかし、苦しいことや不安なことなど、それらをひた隠しにするところ――自分を大切にしないところは、どうにも口喧しく言わねば気が済まない。自分を師と慕ってくれる可愛い存在であるからこそ、尚のことだ。心配になる。
向けられる言葉に、ジュードは軽く眉尻を下げると共に視線を足元に下ろして軽く頭を垂れた。
そんな彼を後目に、メンフィスは自らが生活する屋敷へと引き返していく。怒らせてしまったかと、心配になったのは当然ジュードの方だ。
だが、メンフィスは程なくして再び外へと出てきた。手には小振りの短刀が握られている。
「ジュード」
「は、はい!」
「まだ早いかと思っていたが……試してみるか」
そう言いながらメンフィスはジュードの元へ歩み寄ると、片手に持つ短刀を差し出した。
ジュードはと言えば不思議そうに疑問符を滲ませながら、そんな師の様子を見守る。しかし、その手は引かない。受け取れ、と言うことらしい。
取り敢えずと差し出される短刀を受け取ったジュードは、片手に持つ剣を一瞥して鞘へ収めようとする。――が、メンフィスはそれを許さなかった。
「ジュード、そうではない」
「え?」
「左手に短刀、右手に剣を持ちなさい」
その無茶と思われる要求に、思わずジュードは双眸を丸くさせてポカンと呆気に取られたように口を半開きにしてメンフィスを凝視する。
しかし、冗談でも無茶振りでもないらしい。メンフィスの表情は変わらない、何処か真剣味を帯びている。
「お前は器用な子だ、すぐには難しくとも練習すれば出来るようになる」
「……二刀流、ってことですか?」
「うむ」
通常、短刀は剣よりも軽い。
今現在も右肩に痛みを負うジュードにとっては、右手に短刀を持つ方が良いと思われる部分もある。だが、素早い切り返しによって手数が増えそうなことを考えると、肩に掛かる負担は尋常ではない。短刀は剣よりも威力は落ちる、何度も敵に攻撃を叩き込むことを考慮すれば、痛めていない左手に持つ方が良いと判断してのことだ。
ジュードは受け取った短刀と、利き手に持つ剣とを何度も交互に見つめる。二刀流など考えたこともない。
当然だ、彼は戦士でも騎士でもないのだから。戦闘はあくまでも護身程度、本業は鍛冶屋としての仕事である。
メンフィスもそれを理解しているからこそ薄く苦笑いを滲ませ、それでも片手をジュードの頭に置いた。自分の息子にでも言い聞かせるような、そんな仕種。
「今後も魔族が現れる可能性は高い、今よりも戦えるようになっておいた方が良いだろう」
「メンフィスさん……」
「ワシがいつも傍にいてやれれば良いのだが、前線基地の援護へ向かわねばならんこともあるからな」
メンフィスはこの国にとってなくてはならない存在だ、常にジュード達と共にいられる訳ではない。戦える以上は戦場に出る必要があった。女王が強要した、と言う訳ではないのだが――若い者が死と隣り合わせで戦う中、高みの見物を決め込める男ではないのだから。
ジュードは一度頷くと「休憩にしようか」と厳つい顔に笑みを浮かばせて踵を返すメンフィスの後に続いた。
中庭に設置された簡素な白い丸テーブル。その脇に置かれた椅子にそれぞれ腰を落ち着かせて、一息。それまで大人しく手合わせの様子を見守っていたちびも、舌を出して嬉しそうに駆け寄ってきた。
朝も早い時間、朝食とてまだである。火の国エンプレスと言えど朝は多少なりとも冷え込むようになってきていた。
それでも、火の国は冬であっても雪が降るようなことは滅多にない。多少風が冷たくなり、秋や冬でも気温が下がると言うだけである。
メンフィスは隣に腰掛けるジュードを見遣ると、剣を傍らに置いた。
「ジュード、肩を見せてみなさい」
「あ、はい」
やはり気になるのは、その怪我だ。水の国へ同行出来なかったメンフィスだからこそ、その傷がどれほどのもので、どのような傷であるのかが一番気に掛かる。ウィルやマナからは本当に酷かったと聞いた程度だ。
ジュードは寝巻きにしている黒い半袖のシャツの袖を軽く捲くった。
だが、メンフィスの視線は露になる肩の傷痕ではなく、動いた際に見えた彼のその左二の腕に向けられる。緩く目を丸くさせ、純粋な疑問を洩らした。
「……うん? ジュード、随分と綺麗な腕輪を付けているな。自分で造ったのか?」
「あ……いえ、これはオレが父さんに拾われた時に持ってたもので……」
それは、ジュードが幼い頃から持っている大層美しい金の腕輪だった。彼にとっては見ていると泣きたくなるような――不思議な錯覚を覚えるものではあるが、別に見られて困るようなこともない。ジュードは左腕から腕輪を外すと、メンフィスに差し出す。
聞いては不味かったかと一度こそメンフィスはバツが悪そうな表情を浮かべはするのだが、取り立てて隠すこともない彼の様子に内心で安堵しつつ、なんとも美しいその腕輪を受け取った。
表面部分には何らかの複雑な紋様が描かれており、中央部分には楕円型の――これまた美しい見事な蒼の宝珠が鎮座する。これでもかと言うほどに透き通る蒼は、非常に美しかった。
メンフィスは感嘆を洩らしながら、じっくりとその造りを見つめる。表面部分や側面、内側を。
「……ん、内側に文字が刻まれているな」
「ジュードって書いてあるんです、それで父さんが……」
「はっはっは、ジュードという名前はこれが理由か。グラムらしい安直なネーミングだが……実の親にはその方が分かり易いだろうな」
「父さんもそう言ってました、だから名前はそのままにしておきたいって。……これがオレの名前なのかは分からないんですが」
この腕輪は、ジュードの故郷や実の親を探す為の唯一の手掛かりだ。
彼の言うように『ジュード』と言うその綴りが本当の名前であるかどうかは定かではないが、可能性としては高い。
メンフィスは一頻り腕輪の美しさを堪能してから、彼へと返した。
「モチ男の話を聞く限りでは、ジュードは精霊の森とやらの出身なのだろうな」
「けど、そんな森があるなんて聞いたことありません。ウィルでさえ精霊族なんて一族がいることを知らなかったのに……」
精霊族などと言う存在が本当にいるのかどうか、確固たる証拠は何処にもない。
しかし、ジュードには全力で否定出来ない自らの癖がある。
それは、彼が異様に神護の森を好んでいると言うことだ。幾ら反対されようが色好い返事を貰えなかろうが、ジュードは幼い頃から神護の森に足繁く通っていた。
それは、自分が精霊の森の出身であり、その森と神護の森を重ねているのではないか。そう考えられるのだ。
「ワシも耳にしたことはないが……ふむ、こちらで少し調べてみよう」
「え、でも……」
「ワシが気になるのだ、構わんだろう?」
メンフィスは、ただでさえ前線基地のことで忙しい。そんな彼に面倒を掛ける訳にはいかない。
そう思ってジュードは止めようとするが、メンフィスが譲らない。本心が半分は含まれているのだろうが、あくまでも自分の興味でありジュードは関係ない――そう告げるような返答に、それ以上は何も言えなくなってしまった。
その代わりに、「ありがとうございます」と礼を告げると、やはりメンフィスはそっと優しく微笑んだ。
「(しかし、ジュードか。よくある名前ではあるが、確かヴェリアにもジュードと言う名の王子がいたな)」
何とはなしにそんなことを考えながら、メンフィスは空を仰いだ。
* * *
「……おっと」
風の国ミストラルにあるジュードの自宅――つまりグラムの家では、家主であるグラム・アルフィアが部屋の掃除をしていた。
怪我により仕事から遠ざかってしまった身ではあるが、こうした日常の動作は支障なく行えるようになってきている。掃除の動作もリハビリの一つだ。
自室の机を整理していた際、ふとノートや本の隙間から一枚の紙が床へと落ちる。グラムは片手に持つハタキを机に置くと、床に屈んでその紙を拾い上げた。何の紙かと表面を見て――そしてその風貌に笑みを滲ませる。
「はっはっは、そうか、こんなところに紛れていたのか」
その紙に描かれていたのは、花だ。
淡いピンク色の花。お世辞にも上手であるとは言えない。だが、グラムはその花の絵を目を細めて幸せそうに見つめる。
それは、ジュードがグラムと共に生活するようになって一ヶ月ほど経った時の贈り物だ。
当時、仕事漬けの日々を送っていたグラムは、ジュードと遊ぶだけの時間も精神的な余裕もなかった。幼いジュードはちびと言う存在もあってか、駄々を並べ立てることもなく遊びに出ていたのである。
そんなある日「パパにあげる」とジュードが満面の笑みで差し出してきたのが――この花の絵だ。
『本当はお花を摘んでこようと思ったんだけど、摘んじゃうとお花さんがかわいそうだから絵を描いたの』
何処か照れたように、ほんのりと頬を朱に染めて。
幼いジュードなりに、グラムが仕事漬けの日々に疲れていることは分かっていたのだろう。少しでも父の気分が和らぐように。恐らくは、そう考えてのことだ。
決して上手とは言えないが、幼い子供が描いたにしては上手い部類に入ると思われる。当時のグラムは本当に心が癒されるような、そんな感覚を覚えたものだ。
「懐かしいな、久々に色々見返してみるか」
ジュードがグラムの為に、と子供ながらにプレゼントしてくれたものは他にもたくさんある。何処に仕舞っただろうかと、グラムは表情を緩めながら机の引き出しへと視線を投じた。
しかしその直後。ふと背筋が凍るような言い知れぬ感覚を覚えて、そんな表情もすぐに引き締まる。
何者かの気配を感じて振り返ってみれば、いつ何処から入ったのか、ロリータ系の――フリルをふんだんにあしらった衣服を着込む幼い少女が、一人佇んでいた。表情には嘲りに近い笑みを滲ませて。
「こんにちはぁ、はじめましてぇ」
「……何者かな、お嬢さん」
グラムには、その少女は見覚えがない。
肌は病的なまでに蒼白く、瞳はその白さを際立たせるような真紅。まるで血の色のようだとグラムは思う。
少女は一歩だけちょこんと歩み寄ると、片手の人差し指を自らの口唇前に添えてにっこりと、今度は嫌味なく笑った。
「あなたがグラム・アルフィア――ジュードくんのお父さんね?」
「なに?」
「うふふっ、わたくしはヴィネアと申します。ジュードくんが聞き分けのない子で困ってますの、でも……お父さんの言うことは聞いてくれるでしょう? ジュードくんは優しい子だもの、……ねぇ?」
そう告げると、ヴィネアは双眸を細めて薄く笑った。
ジュードにやられた怪我は既に完治しており、身動き一つにも無理は感じられない。次いで右手を突き出し、凝縮した風の塊をグラムへと叩き付けて彼の身を容易に吹き飛ばす。
突然のことにグラムは満足に受身一つ取ることも叶わず、背中と共に後頭部を壁に強打した。波に揺られるように意識が薄くなっていく。
アグレアスと――ヴィネア。間違いない、ジュード達から聞いた、水の国で遭遇した魔族の名前である。
「(この女、ウィル達が言っていた魔族の女か……! まさかワシを使って、ジュードを……!)」
なんとかしなければ。
そうは思うのだが、意志に反して意識は遠退いていく。
薄れていく意識の中、最後に彼の視界に映ったのは――不敵に微笑むヴィネアの姿であった。