初雪
※これはフィクションです
十二月の残り日数も、片手で数えられるほどになった。赤道近くに位置するこの小さな島でも、涼やかな日を過ごせるようになっている。
『――――明、○×諸――で、――――――』
島の大通りの一角に、小さな店がある。カウンターに座っている青年は、目の前に置かれたグラスをあおると、口髭をたくわえた店主に抗議の声を上げた。
「親父さん、そいつどうにかしてくれよ」
カウンターの隅にある、所々銀の塗装が剥げたそれは、大人の手のひらほどの大きさがあるラジオだった。青年が店に入ってからしばらくたつが、ラジオのノイズはひどくなる一方で、自己主張するかのごとく甲高い音をしきりに出している。
親父さんと呼ばれた店主は青年を一瞥した。次に視線を右に移してラジオを見る。その間も、シンクに突っ込んだ両手を店主は止めず、食器を洗い続けている。
小さく鼻をすすり、店主が口を開いた。
「馬鹿言っちゃいけねえよ。まだこいつは使えるんだ」
「なんでさ。さっきからうるさいノイズしか聞いてないぞ。悪いことは言わないから、もう買い換えたらどうだ」
店主が右手でラジオを指さす。
「おいおい、こいつはモノ作らせたらとんでもねえ国の代物だぞ? そんなとこのモノが、そう簡単に壊れるなんてことはねえんだ、だろ?」
「けどこうも使えないんじゃもう諦めたほうがいいだろ。またその国のやつでもなんでも買ったらいいじゃねえか。それだけの話じゃないのか?」
青年の一言に店主は言いよどみ、バツの悪い表情が浮かぶ。店主の手は気づかないうちに止まっていた。
「……今は少し調子が悪いだけだろ。じきによくなる」
店主は吐き捨てるように言った。青年は苛立ちよりも、また別の何かを感じた。粗雑な口調のわりに、店主の目はどこか悲しそうであったのを、青年が見てしまったからだろう。
「なにか、こいつを使いたい理由でもあるのかよ」
「……それはもうよさそうだな」
そう言うと、店主は青年が使ったグラスを下げ、洗い始めた。青年の疑問に店主は答えない。もう触れてほしくないサインだと、青年は解釈した。
店主に背を向け、タバコをくわえる。片手で器用にマッチを擦り、火をつけた。煙がゆらりと立ち昇っていくのを、青年は手を仰いで掻き消した。轍の目立つ道を隔てた、向かいの店を見やると、子どもが幸せそうにご飯を頬張っていて、そばにいる父親がそれを見て笑顔になるのを、青年はぼんやりと眺めた。
しばらく二人は何も喋らなかった。店主は食器を磨き、青年は紫煙をくゆらせる。そうしてどのくらい経っただろうか。青年が三本目に手をかけた時、背中から独り言のような呟きを聞いた。
「息子が送ってくれたのさ」
振り返ると、店主は気恥ずかしそうな顔をしていて、青年は目を丸くした。場の雰囲気がいたたまれなくなったのか、店長は矢継ぎ早に言葉を重ねる。
「息子がそこの国に留学中なんだよ。顔は似てるが頭はあいつの方がよっぽど良い。そこの大学に行って、経済だか経営だかを勉強して、この店を大きくしたいんだと。これは、あいつが稼いだ金で買ったそうだ」
それを目にして、青年は理解した。
使い古されたこのラジオは、店主にとって、替えのきかない宝物だった。
青年の視線は店主から離れ、揺れながら地に落ちた。
「そうだったのか……悪かった。色々と言って」
「いや謝ることはねえんだよ。実際もう壊れかけだしな。正直なところ、買い換えた方がいいのかもしれん」
跳ねるように青年が顔を上げた。
「いや、それはずっと使うべきだ。その方が良い」
青年のせっぱ詰まったような口調に、店主が苦笑いを浮かべる。
「おいおい、さっきと言ってることが違うじゃねえか」
「それは俺が何も知らなかったからだ。親父さんが話してくれたから俺も言うがな、俺も昔、大事にしてたモノがあったんだ。本当に大事にしてたんだ。けど、さっきの俺みたいに捨てろなんて周りの声が多かった。そうしたらだんだんそれが大事じゃないような気がして、それで……」
青年の言葉が尻すぼみに消えていく。その日のことを思い起こすように、青年は天井をじっと見つめている。
店主がその横顔に投げかける。
「捨てたのか?」
「……ああ」
「後悔してるのか?」
数秒ほどの沈黙が流れる。
「もう十分過ぎるほどしたよ。これはこれでいいんだ。俺が流されて招いた結果かもしれないが……これでいいんだよ。納得してる」
くわえたままのタバコに、青年は火をつける。深く吸い、それを細く、長く、吐き出した。
「あーもう、だめだ。こんなのじゃタバコがまずくなる」
青年は頭をがしがしとかいた。大きく息を吐き出して、店主に向き直る。青年が薄く笑う。
「だから、そいつはずっと大事に持っときなよ。俺みたいに後悔してからじゃ遅いからさ」
青年のおどけた様子に、店主はかすかな笑みを浮かべ、調子を合わせた。
「そんな決まりきったこと、若造に言われんでもわかっとるわ」
青年が口を開いたとき、外から声が聞こえた。振り向くと、声の主はあの子どもだった。父親の袖を掴んで上を指さしている。二人は窓際に寄り空を見上げた。
「え」
「こりゃあ……」
そこにはあり得ない光景が広がっていた。
空から小さな白いものがゆっくりと舞い降りてきていた。
「ゆきだー!」
子供は大はしゃぎで通りに飛び出していた。
「よかったな。サンタさんがまたプレゼントをくれたんだね」
子供の父親が微笑むと、子供は満面の笑みを浮かべて、父親に抱きついた。
青年はタバコを揉み消し、顔を紅潮させて叫んだ。
「親父さん、雪だ! 初めて見るけど、綺麗なもんだな!」
「こいつはすげえ……。息子が帰ってきたときに話ができるな」
「ちょっと触ってくる!」
たまらず青年が出口に向かう。
「おい! せめて金を払ってから行け!」
店主が青年のあとを追う。扉の閉まる音が尾を引いて、消える。
○
誰もいない店内に、ノイズ混じりのラジオ放送が響く。
『――――返しお伝え――す。本――――――×諸島―――で行われ――――水爆実験ですが、―――していた危険水域を大幅に超え―――、△△△政府から―――――――。○×諸島の島民の皆様にお伝えします。水爆による放射性下降物が島に降灰する恐れがあり非常に危険です。くれぐれ―――――』
島に降る初雪の中で、青年が、店主が、子供が、父親が、笑っている。
皆楽しそうに、笑っている。
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