第二話『森の中で再びお前と』
不安を胸に抱えながらも一夜を過ごした。待っていたのは、変わらない風景だけであったが。
固まってしまった体をほぐすようにストレッチをする。適度に温まったところで、構えを作り、足捌き、軽く殴りと蹴りの確認をし――そこで気付く。
「……癖って抜けないもんだな」
旅をしていた頃の習慣だった。毎朝誰よりも早く起き、見張りがてらに自主トレーニングをしていたのを思い出す。
いまも特に意識をせず、自然とやっていた。少し寝ぼけながら、というのはあるが。
状況が変わっても、変わらないことはあるということを実感する。
「でも、野外で一人で夜を過ごしたのは初めてか」
ユキトが憂いたのは、故郷にある愛用のベッドではなく、背中を預けられる仲間たちだった。
旅に出た時から【召喚の巫女】のアリスティ、そしてあの世界で初めて会い、一番世話になった『彼』と一緒だった。
ネックレスにぶら下がっている、小さな綺麗な石に触れる。アリスティが一番大切にしていて、彼女の魔力が篭められたものだ。いまは魔力を感じられないが、彼女の想いはいまでも感じることが出来る。
そして、村人であり、ユキトが恩人、親友ともいえる『彼』のことを思う。
ありがとう、と呟き、ユキトはしばらく目をつむった。黙祷。これもまた、毎朝していることだ。
記憶に思いを馳せながら、また身体を動かす。
そうすることで、少し余裕が出来た。
この先、どうするかについて考えを巡らせる。
(どんな世界であるのかを知るのが第一だ。……月が二つってことは、可能性がないわけじゃないよな)
僅かながら希望を胸に燈す。ずっと見続けた夜空にも月は二つあったのだ。また同じ世界、という可能性だってあるはずなのだ。
そうすれば、また彼らに会うことが出来る。恐らく一生の別れを告げたというのにまた会うというのは、少なからず気恥ずかしいものはあるが、それもまた人生とでも言えるのではないか。少し頬が緩む。
だけど、理由がわからない。たしかに魔王は倒した。各国の抗争も落ち着いた。『勇者祭』とかいうので起きた一時的な経済効果も収まりつつあったし、そこから急激な落下もそこまで心配ない。なによりそんなことに勇者は必要ない。
勇者であるユキトに求められたのは、魔物からの被害を畏れる人々への希望だった。ユキトの物語の舞台は、本能のまま行動する魔物が蔓延る戦場ばかり。彼らを操るのが魔王で、人間とは異なる価値観をもった正真正銘の化け物だった。異種族はいたが、人間との関係は良好であり、問題は起きなかった。だから、魔物を統べる王だけを討てばよかったのだ。――もっとも、最後まで謎が解けないままに舞台を降りていった、魔将を名乗り人語を扱うイレギュラーはいたが、それには手を焼いた思い出がある。そんな経緯を辿りながらも、彼は一つの世界を救ったのだ。
だが、そうであるからこそ、ここが同じ世界だとしたら、また迷い混んでいるこの状況が不思議でしかない。魔法の事故、とも考えたが、アリスティが失敗するなどよほどのことがないかぎりありえないし、なによりあの部屋は彼女が万全であるために作られた部屋なのだから、事故の線は薄い。
「考えたところで、答なんて出るはずもない、か」
ユキトは魔法について学を持ち合わせていない。魔力を感じることは出来るが、魔法というものの概念には馴染めなかったのだ。下手に地球で科学を習ってしまったからかもしれない。何もないところから、なにも使わず火を起こすのは理解しがたかった。
その代わりとでも言おうか、【気】というものに関しての順応性はあった。
自らを高める闘気が、スポーツで気合いを入れる時の感覚に少なからず似ていたからだ。それもあって、ユキトは拳による戦闘を好む。他にも理由はあるが、自分に合っているからというのが一番大きい。
身体に巡らせていた【気】を解き、呼吸を整えていく。落ち着いたところで、汗を流すために川に入ることにした。
着ているもの――着ていたのは、身体の動きを阻害しない麻布のズボンと絹の上着だった――を脱ぎ、下着だけの姿になり、まずはそれを洗って日当たりのいい岩に干す。乾くのに時間がかかりそうなので、適度に川の探索をすることにした。
水は綺麗で、生き生きとした水草が踊り、見たことのない形状や色をした魚が泳いでいる。
「綺麗だな……」
なにもする宛もないというのに……いや、宛もないからこそ、純粋な感想が口からこぼれ出ていた。よほど澄んだ川なのだろう。
そして川だけじゃなく、周りにある静寂な森。そこからは風の吹き抜ける音や、鳥の囀り、動物がいる微かな気配が伝わってくる。
そんなことを感じながら穏やかな時を過ごしつつ、日が良い感じに昇ってきたころだった。
そう遠くない川添いの辺りから、不意に物音がした。
自然の音ではない。明らかになにかが地面を踏んだ音だ。そこまで瞬時に考えを巡らせ、油断しきっていたことに叱咤しつつも振り返りながら臨戦体勢をとる。
振り返ったその先にいたものは――いや、人物はユキトに驚愕を与えるには充分すぎる人物だった。
ユキトの目が開かれ、驚愕の表情が浮かぶ。
「……………なんで……なんで、お前、が?」
思うように声が出ず、掠れた音が耳をうつ。いつの間にかユキトは目の前の人物を観察していた。そうすることで、違うということを確かめたかったのかもしれない。
青年だ。ユキトよりやや年上くらいで、髪は赤みがかった茶色。遠目でも分かるくらいに、陽気な雰囲気が出ている。
目をひくのは、腰に剣をぶら下げて、膨らんだ革袋を担いでいた。腰にあるその剣も、そしてその顔も見たことがある。
いや、見たことがあるレベルの顔じゃない。
ユキトが絶対に忘れないと誓い、そして忘れることも出来ないだろう相手。
その彼は、担いだ革袋を地面に降ろすと、ユキトに一言――
「久しぶりに来てみりゃ、珍しいこともあるじゃねぇか。よ、そこの野生児! いい魚でもとれてるかー?」
間違いなく『彼』の声、そしてあの親しみ易い口調で問い掛けてきた。
記憶にもあるその姿に思考が停止し、いつの間にかユキトは作っていた構えを解いていた。
まるで旧知の仲である友人へかけるような声の快活さに、可笑しいという思考以前に、まさかユキトのことを分かっているのかと疑う。もし知ってるのなら、彼は世界の理と神様にすら逆らったことになる。
「どうして、だよ……」
『彼』と会ったのは、もう、一年近く前。あのときも森の中だった。キラーベアーに襲われたユキトを助けた青年。
「なんで、お前が生きているんだ……アラム……っ!」
掠れた声が宙を震わせたが、どうやら彼には聞こえなかったらしい。
「ん? なんだ、そんなに驚くこともないだろ。いくら辺鄙な森だからって、誰とも会わないわけじゃねぇんだからよ」
少々的外れなことを言いながらも、ユキトの姿を不思議に思ったのかゆっくりと近寄ってくる。その姿が近くなればなるほど、疑惑は大きくなる。
近い川辺にまできて、彼の顔がしっかり見えた時、ユキトはもう疑うことを止めた。
どうみても彼はアラム。
かつてユキトと共に旅をし、そして彼を庇って世界をたった男。
彼は水際にくると水面をみて、
「あっれ、魚がいねぇな……」
ひとり落胆した。その呑気さに、毒気を抜かれたような気分になる。こっちは自分が頭でも打ったのかと本気で思ったというのに。もうただ驚いているのが馬鹿らしくなった。脳天気はアラムの代名詞のようなものだったじゃないか。
それに。
ユキトはもう色々なことを経験している。地球という星の中にある、日本という土地で生きていたころから比べてみれば、有り得ないこと、それも空想上のものでしかなかったものが現実となっている。初めて遭った時には困惑し、なにも出来なかった。魔王を倒さねば帰ることも叶わないという理不尽さに、涙を流したこともあったくらいだ。……これは誰にも言ったことはないが。
だが理不尽だといって喚くだけではどうにもならず、微かな希望を胸に一つの世界を救った。語り始めればキリがないそれを経て、ユキトは現実を認識して柔軟に受け入れるくらいのことは出来るようになった。
だったらいまもそうすればいい。
ここまで近くにきて、ユキトの顔を見てもアラムはなんの反応もしなかった。ユキトのことを覚えていないのか、わざとなのか、それとも知らないのか。
もし知らないとして、これが夢じゃないのなら、もしかしたら時間の移動でもしたのかしれない。そんな考えでも、無理矢理自分を納得させるくらいには、ユキトは非日常に慣れてしまっていた。
というより、非日常が、いつのまにか日常にすげ替わっていたのだけれど。
心を落ち着かせたところで、探るように声をかけた。
「あんた、誰だ?」
「俺か?」
答えはもう予想がついており、ほぼ間違いないのだけれど、それでも聞かずにはいられない。短く返事をして先を促す。
「俺はトータム村のアラム・ジトニコフだ。よろしくな」
にこやかな笑顔と共に返ってきたのは、いつの日にか聞いたことのある台詞だった。
知っている名。
かつて訪ねた地。
普通は初めて会う相手に言う言葉の『よろしく』を使ったこと。
ここまでくれば間違いない。いまユキトがいる世界は、時間をさかのぼった、ひとつ前と変わらぬ世界だった。