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旧・木花開耶物語  作者: crow
第一章
3/40

木花開耶物語3話

PROLOGUE

――二XX六年六月八日 朝

 常識的には何の変哲も無い事だが、少なくとも僕等にとっては信じ難い事が起きた。

「あー、神屋は……理由は知らんが欠席だ」

 そう、ハルが休んだ。

 人間、誰しも体調の優れない時や、気分の乗らない日が在っても全くおかしく無い。

 いや、むしろそんな気分屋な感じが彼のアイデンティティーと言っても過言ではない。

 しかし、そんな彼だからこそ誰にも迷惑をかけないように努めている。

 担任がHRの終了を告げ、教室を出ていくと、クッシーと玉ちゃんが僕の席にやって来た。

「サク、ハルからメール在った?」

「ううん、クッシーにも連絡無し?」

「うん、そうなの」

(もしかして、玉ちゃんに? いや、それは有り得ない……か)

 ふと、視線をクッシーに向けると、思い詰めた表情をしていた。

(何か、心当たりでもあるのかな?)

 しかし、僕の口から言葉は出なかった。

 それから僕等は各々に感情を抱き、それぞれの所へと静かに戻った。


 それにしても最近、珍しい事が頻繁に起きているような気がしてならない。

 何かの前触れか、それともただの偶然か。

 何にせよ、今まで退屈だった日常が変わりつつある、それだけは確かな事実だった。


 しかし、全てを納得している訳じゃない。

 むしろ、腑に落ちない事の方が多々ある。

 例えば、二日前に出会った夢の少女はどうして住宅街跡に居たのか、とか。

 昨日、クッシーはどうして宿題を忘れたのか、とか。

 同じく昨日、住宅街跡の野良猫達は一体どこに行ったのか、とか。

 そして今日、どうしてハルは何の連絡も無しに休んだのか、とか。

 この短期間中に数え出したら(きり)が無い程の、非日常を体験した。

 けれども、そのどれもが夢ではなく現実で、受け入れなければいけない真実。

 そう、あの出来事も……。

 正直、どうしてあんな事が起きてしまったのかは僕にも分からない。

 いや、僕如きに分かる筈も無かった。

 正確には人間如きに未来が分かる筈も無い、だ。

 三段論法的な表現で表すと……。

 人間に未来は分からない。

 僕は人間だ。

 だから僕に未来は分からない、と言った感じだ。


 確かに未来を知っていれば、何かと楽な点も多数あるだろう。

 しかしながら、未来を知らないからと言って不便な訳でも無い。

 現に僕らは今より先の未来を知らないに、生きていけている。

 そして、その生活は充分過ぎる程に充実している。

 それで充分では無いだろうか?

 むしろこれ以上、何を求めるのだろうか?

 自由?

 それとも、叡智?

 はたまた、信頼?

 どれも努力次第で勝ち取れそうなモノばかりだ。

 そこまで分かれば、答えは簡単。

 人間は未来を知らないのでは無い、知る必要が無いのだ。


 と、納得のいく答えが出たところで、そろそろあの不思議体験を解明していくべきだと思う。

 そう、昨日起きた不可解な事件の解明を……。

 そして何故、彼女が狙われたのかを僕はきっと知らなければならない。

 たとえ、僕が望まなくても。

 いや、おそらく知る事になるだろう。

 根拠は無いけれど、そんな気がしてならない。

 僕と彼女との接点はあまり無いのだが、彼女という存在を全く遠くに感じない。

 この不可思議な感覚が、僕が彼女に抱いている感情。

 即ち‘興味’だ。

 彼女は、今までに僕が出会った事の無い種の人間だ。

 しかし、それだけではこんなにも彼女に惹かれる理由としては動機不純だ。

 けれど、これ以外に抱いている感情と言われても……。

「――懐かしさ……」

 不意に出た言葉は、自分でも意外なモノだった。

 

 あの日、出会う以前に僕は彼女と会った事が在るのだろうか?

 記憶を辿り、過去を振り返るがそのような記憶は一切無い。

 彼女とはあの日、初めて出会った。

 それは間違いない。

 では、この懐かしさは一体どこから湧いてくるのだろうか?

 知らない、分からない、消えない。

 彼女について考えれば考える程、謎は深まっていく。

 そして僕が彼女について知っている事はとても少ない、という事を自覚させられる。

 でも、名前は知っている。

 しかし、歳は知らない。

 しかも、どこに住んでいて、何が好きなのかも知らない。

 それに誕生日も知らないし、メルアド(メールアドレス)も知らない。

 そう言えば、どこの学校の生徒かさえも知らない。

 思い返せば、彼女の顔を鮮明に理解したのは昨日の朝だ。

 言われてみれば、どうして彼女が僕に対して敬語なのかも知らない。

 そして、出会うまで彼女が電波さんだった事を知らなかった。

 けれど、僕は――彼女の温かさを知っている。


「非日常への参加」

――二XX六年六月七日

 夕暮れ時を過ぎ、辺りは一気に暗くなり出した。六月だというのに、日が沈むと未だに冬のような寒い風が吹いた。いや、きっとそんなに言う程、冷たくは無かったと思う。そう感じたのはおそらく……僕が淋しかったからだ。

 見渡す限り生物の生息を感じ得ない無機質な空間が、そこに在った。そして、その中心に僕は佇んで居た。何をするでも無く、何を見るでも無く、何を知るでも無く……。ただ立って居た。そうしている内に、猫達が帰って来てくれると、どこかで信じていたからだろう。

 しかし結果は、現実は厳しかった。

 五、六分待った――しかし誰も帰って来なかった。

 更に五、六分待ってみた――けれど誰も帰って来なかった。

 それから十分待ってみた――そして僕も帰る事にした。


 辺りはすっかり真っ暗になってしまい、電柱や街灯の無い住宅街跡を歩くのは随分と困難なものになった。

 それでも、僕は歩くしかなかった。待っていたのは僕の意思だし、帰って来なかった猫達が悪い訳では無いからだ。誰のせいでもない自分の責任を、僕はひたすら感じて歩いた。そんな自分に対して、慰めの言葉や前向きな発言は思い浮かばなかった。

 重く、辛い現実を見た後では、どんな言葉も薄っぺらな希望にしか聞こえないからだ。そんな言葉が何の役に立つ? 誰かがそんな言葉で変われるのか? 夢や希望を抱いて明日を生きようと頑張れるのか?

 答えは限りなくゼロに近いだろうけど、何人かは救える、救われるだろう。そして、その救われた人の半分は再び病むだろう。

 実際、人生というのはそんな事の繰り返しだと思う。人生の四分の一を掛けて様々な事を学び、次の四分の二は学んだ事を生かして国に貢献し、最後の四分の一は世間や若者から邪魔者として扱われ生きていく。この流れのどこに夢や希望が在ると言えるのか。

 おそらくそれは、最初の四分の一で決まる。ここで頑張らなければ、夢や希望は捨てる事になる。なぜなら社会に出れば嫌でも現実を知るからだ。理不尽や不条理なんて当たり前の低俗で陰湿な淀み切った世界に自分は居るのだ、と。


――ドスンッ

「ん? 何か落ちた……音?」

 自分の愚かさを棚に上げて、世界の不公平さを愚痴っていた頃、何か大きなモノの落下する音が住宅街跡に響いた。その音は不意打ちだったにせよ、植木鉢や洗濯物が落下した音で無い事は容易に分かった。もっと大きな何かが相当な高さから落ちた、そんな音だった。

(確かめるべき……かな?)

 好奇心と期待が込み上げた。何が落ちたのか知りたいという好奇心と、もしかしたら聞き間違いで猫達の発した音かもしれないという期待。その二つが生じて、消え、混ざり、一つと成り、気づけば僕は音のした方に走り出していた。


「はあっ、はあっ、はぁ……ふう。確か、この辺りのはず……なんだけど」

 真っ暗で何も見えない。場所はおそらく間違いない、と思う。なぜなら、僕の傍らには住宅街跡の中でも一際高い建造物が建っているからだ。

 もしこの建物の一番上から落ちたら……たぶん骨折じゃ済まないと思われる。しかし、それはあくまで人間が落ちた場合の話であり、まだ落下したモノが見つかっていない以上、何とも言えない。

(……いや、ちょっと待て)

 それ以前の問題で、もしも人間が落ちていたとしたらそれは自殺か? それとも殺人? どちらにせよ、ここは事件現場って事になるのか? そんな所に僕は居ていいのか?

 そんな仮定の自問自答をしている内に、この事態の打開策に気づいた。

「そうだ、携帯」

 持っていた通学鞄の中から、無断で持ち込んでいる某有名携帯会社のイノセントブルーでカラーリングされたスライド式携帯を取り出す。

 スライド式携帯の難点、画面が傷付くという誰もが持つ悩みに少なからず僕も悩まされていた。使い勝手は良いのだが、どうにも画面が傷付くのはあまり嬉しく無い。慎重に使っているはずなのだが、気づけば新しい傷が増えている一方だ。一体、何が悪いのやら?

 そんな事を考えながら、携帯を辺りにかざすが視界は全く良くならなかった。

「あれ、おかしいな? ……あっ、そうだ。電源入れて無かった」

 校内で鳴るのは流石にマズイのと、校内では全く使用する機会が無い為、いつも電源をオフにしているのだった。

(それにしても、こんな所で役立つとは……思いもしなかった)

 携帯の画面に待ち受けが表示されたのを確認し、僕は目の前にかざした。すると、照らし出された空間には想像していた様なモノは一切無かった。在るのは、そこに当然のように置かれ、寂れた住宅街跡の風景だった。

(おかしいな……確か、この辺だったはずなのに……)

 納得のいかない現実(こたえ)に対し、憤りを感じながらも冷静な判断を怠る訳にはいかなかった。もしかしたら、そんな考えが僕の頭の中をグルグルと駆け回った。

(僕は一体、何を期待しているのだろうか……?)

 感慨に(ふけ)込んでいると、何処からとも無く声が聞こえてきた。

――死体?

 それは注意深く聴くと、以前にも聞いた事のある声だった。

(確かあれは……クッシーが宿題を忘れた日の朝の事だったような……)

 声の主は僕の解答を待っているようだったので、少し考えてから口を開いた。

「いや、縁起でも無いし、不謹慎過ぎるし、常識的に考えて有り得ないし、何よりも見つかっても何も嬉しく無い」

 と、一気に告げると、次の質問がきた。

――じゃあ、宝物?

「そもそも、そんな分類(カテゴリー)の物がこの世に存在しているとしたら確実に博物館行きだし、仮に在ったとしても僕の物には決してならないだろうし、何よりも僕が持って居たとしても宝の持ち腐れだ」

――それなら、名誉や地位?

「えーっと、あれ? そういうのって、あんな大きな音をたてて落ちて来る物だったっけ?」

 すると声はもうしなくなってしまった。それは声の主が僕の返事に納得した、という風に受け取っていいのだろうかと内心、複雑な心境のまま打ち切る事にした。

 さてと、本題に戻ろう。

「たぶん、この辺りに落ちたのは間違い無い。だとすれば、後は(しらみ)潰しに探すしかない」

 考えを声に出す事で使命感を持たせ、ヤル気を上げる。

(まあ、そんな事をしなくても、この問題を解決(納得)するまで帰る気は無いけど……)


 落下物探しを始め、数分が経過した頃、日は完全に沈み住宅街跡に深い闇をもたらした。

 しかし、捜索を中断する事は無かった。むしろ一層、捜索意欲が湧いた。その辺りが普通の人の感覚と異なっているのは重々承知の上だ。それでもこの気持ちを抑える事は出来なかった。

 胸騒ぎにも似た焦燥感が、僕を捜索へと駆り立てた。

 そう、決して僕を駆り立てた感情は好奇心では無い。自分でもよく分からない焦り、早く見つけなければいけない、そうしないと……。

 そんな根拠の欠片も無い感情が、僕を突き動かしているのだ。

(……それにしても、おかしい)

 もう随分と長い間、探しているのだが一向に見つかる兆しが見えてこない。確かに落下の音は大きかったが、そんなに遠くで聞こえた訳でも無かった。それに、いくら建物が密集して建っているからと言って、音が乱反射して聞こえてきたとも思えない。そして、気掛かりな点はもう一つ在った。

 住宅街跡は、その名の通り住宅が街のようにたくさん並んだ所だ。しかし、勘違いしてはいけない事が在る。それは……大きさだ。いくら田舎の古風な街の寂れた住宅街だったとしても、精々百数十メートルも在れば大きい方だろう。そしてここは大きさでも有名だが、それでも高が知れている。

 つまるところ、僕が言いたい事とは……一体どこまで住宅街跡は続くのか、という事だ。

(……一度、引き返すべきかもしれない)

 しかし、決断できなかった。

 妙な焦燥感が僕を後押しし、足を前に進ませる。まるで自分のしている行為を正当化するかの如く、ただひたすらに歩み、探し続けた。

 在るとも、無いとも言い難い幻のようなモノを……。


――二XX六年六月七日 午後七時三十分(住宅街跡に入っておよそ一時間の経過)

 どれだけの距離を歩いただろうか……?

 仮に秒速一メートルで歩いていたとして、彼是(かれこれ)……と、不意に遠くの方で、何かの割れる音が聞こえた。しかし、歩みを止める事は無かった。振り返りもしなかった。どうせ老朽化した装飾が落ちて壊れた音だろうから。そんな事でいちいち止まっていたら、振り向いていたら、とっくに引き返している。

 そして、どれだけのモノを見ただろうか……?

 ゴーストタウンのような誰も居ない寂れた通りに置かれた、旧式の家具用品や使用済みの消耗品、使い古された生活用品の数々。そのどれもが今、探しているモノでは無い為、ただのゴミという風に脳内で処理する。

 最後に、どれだけの時間を無駄にしただろうか……?

 普段の今頃は……きっと夕飯を終えて、部屋に戻って一人で居る時間帯だろう。特に何かする訳でも無く、ただ上の空に虚空を眺めている時間。いや、きっとその短い時間で、その日に起きた事を整理しているのだろう。

 しかしよくよく考えてみると、どれも質問の答えとしては不充分極まりない解答だった。

(まあ、自問自答である以上、納得=答え、でいいのではないだろうか?)

――自分に甘く、人に優しく。

 信条、というよりは無意識下で行っている事なのでこの場合はプライド、という表現が一番良いのかもしれない。

 と、感慨に(ふけ)込んで、不意打ちの様に置かれた何かに(つまず)き、豪快に転んだ。それだけならまあ、少なくともまだ良かった。最悪だったのは転んだ事では無く、転んだ先に水溜まりが在った事だ。それも何故か妙に温かく、暗いせいか(この液体自体に色が有るのか)は知らないけれど、この水溜り……色がドス黒い。

 気分駄々下がりのまま、何とか身体を起こし、地面に座る。

「はあ、痛いなぁ……」

 誰に言うでも無く、溜め息と愚痴を漏らしながら身体を(ひね)り、転ぶ原因となったモノの方を見ると、そこには……。

「――って……えっ?」

 今まで歩いた距離も、今まで見てきたモノも、今まで費やした膨大で無駄な時間も、答えになっていない答えも、信条の様なプライドも、先程の転倒も、そのせいで、どこからとも無く現れていた不思議で黒い水溜りに突っ込んで制服が汚れた事も、全てどうでもよくなるくらい、頭の中が真っ白になった。

 しかし強いて言えば、今はそんな事どうでもいい、それが答えだった。

 そう、僕は出遭ってしまった。ひたすら一生懸命になって探していた、モノに……。

 しかし、出遭ってはいけなかった。もしかしたら、あの不可解な焦燥感はこの事を予期していたのかもしれなかった。

 そして改めて、見る。しかし、何も変わっていない。それから、自分の目を疑うように瞬きを繰り返した。けれど、景色は一ミリも変わらない。いや、正確には黒い液体が絶える事無く、溢れている。それだけが見て取れる変化だった。水溜りはどんどん大きくなり、直ぐに足元まで来た。液体が地面に付いていた左手を浸した時、僕はやっと我に帰り、現状を理解する。

「えーっと、君、大丈夫? ……冗談だろ……?」

 僕は黒い液体の中に居る彼女に、急いで駆け寄った。

 そう、惨劇の中心に居たのは夢に出てきた少女に間違い無かった。


 小さい頃に転んで膝を擦り剥き、泣いた経験は誰にでも一回くらいは在るだろう。例に零れず、僕にも在る。そして、そんな時の為にいつだって母は絆創膏(ばんそうこう)を持って僕の傍に居た。それでも泣き止まない僕に、母がよく言った魔法の言葉が在る。

――イタイノイタイノドコカニトンデケ。

 当時の幼い僕は、その言葉の意味は分かっていなかっただろうけど、母が笑顔でそう言うと何故か元気になり、痛みも忘れて、また遊びに駆けて行っていた気がする。

 そんな誰にでも在るような、他愛も無い記憶。それを今、思い出したのは、きっと止血作業という応急行為への逃避の念に駆られていたからだろう。

「くそっ、どこから血が! 傷ばっかりで分からない! 全部止血……そんな時間あるのか? どうする? どうすればいい?」

 状況は最悪だった。彼女の四肢には無数の擦り傷、身体には右腕の付け根から脇腹の辺りまである大きな斬り傷、おまけに意識は薄弱、というか無いに等しい。しかも悲しい事に彼女の状態が悪化した原因は、僕に在るかもしれない。

 そう、あの転倒だ。あの転倒時、僕は間違い無く彼女に足を引っ掛け転んだ。もっと言えば、あの時、僕は彼女を蹴ってしまった。

 その結果が現状だ。彼女から流れ出る赤黒い液体が辺り一帯を染めていく。もう迷っている時間さえも惜しい。

(僕に出来る事から、やっていくしかない……。一先(ひとま)ず……手足の方から消毒、止血の順に応急処置をして……それから身体の方を……する?)

 頭の中で工程を確認し、作業に取り掛かる。もう事態は、やるのかやらないのかでは無く、やるしか無かった。誰でも無い僕自身が。

 作業は思いの(ほか)、難しかった。頭の中で思い浮かべた通りに作業は進まず、当然の如く焦った。しかし、ミスは許されなかった。

 どう見ても、彼女の出血量は尋常じゃなかった。一刻も早い止血と輸血が必要不可欠なのは明白だった。けれど、此処にそんな高等器具が在る筈も無かった。と、なれば残された道は病院への搬送が最優先事項なのだが、生憎な事に携帯の電池が底を尽きかけた挙句、此処は圏外だった。そういう訳で止血を優先し、その後、急いで救急車を呼ぶ事にした。

(だから……この止血、ミスは出来ない)

 記憶の片隅に眠っていた震災時の応急処置講座を思い出しながら、出来るだけ手際良く行う努力をした。

 消毒液? そんな物は無い。包帯? それも無い。でも、お茶で湿らせたハンカチを代用した。そして幸いな事に手足の傷は身体程、深刻なものでは無かった。

 そう、問題なのは身体の方だった。

 見るのも避けたくなる様な、紅い直線的な傷と黒ずんだ染み。そして今も彼女の内から外へと(とど)まる事を知らない液体は溢れ、地面を染め続けていた。

「よしっ……やろう」

 決断。そうだ、彼女を救う為にこの一時間、歩き続け、好きでもない物を見続け、君と出会う為に転んだのだ。

 そう思うと、何だか気分が楽になってきた。

 人間とは実に不思議な生き物で、窮地に逆転の発想をすると、何だか何でも出来るような気になるのだ。これは一種の錯乱状態なのかもしれないが、これで救える命が在るのならば、僕はいくらでも壊れ、狂い、乱れ、酔い()れよう。

(それが他ならぬ彼女の為ならば勿論、喜んで……)


 僕の奮戦は十数分に渡り続いた。

 かくして、素人の応急処置がどれ程通用するかはさて置き、僕に出来る応急処置は終わった。

 しかし問題は山積みだった。例えば、地面に散らかった(彼女から出た液体の)後始末だとか、携帯に残った電気量(バッテリー)であとどれくらいの通話が出来るのかとか、この付け焼き刃同然の応急処置が、電話を掛けに行って戻って来るまで持つのかどうかとか、様々な不安が僕には在った。判断を楽観的にするのもいけないが、悲観的に成り過ぎるのも返って事態を悪化させ兼ねない。つまり今必要なのは、冷静で現実的な判断だ。

 しかし時間的な猶予は無い。試行錯誤をして失敗したら次の手、という訳にもいかない。正しく僕は、一発本番の本気(ガチ)の決断を迫られていた。

 緊張に包まれる中、静かにけれど迅速に答えを、より良い答えを模索する。模索開始から数秒後、始めに浮かんだ七つの手段から答えを二択にまで絞った。

 一、彼女を此処に安置し、圏外の外まで僕は走り救急車を呼ぶ。

 二、大声で助けを呼び、協力して彼女を此処から出し、近くの病院まで運ぶ。

 どちらにもメリットとデメリットが同じように在り、当然リスクも在る。

 因みに一のメリットは、彼女を無理に動かさない様にする事で怪我の悪化が防げる事。デメリットは電話を掛けに行っている間、彼女の身に何が遭っても(そば)に人が居ない事。それに加えて問題も在る。それは圏外の外を探す為に携帯を点けていないといけない事と、此処がどこかという事だ。

 参考までに二のメリットは、この場から僕が動かなくていいという事。デメリットは彼女を動かすという事。そして問題はこの近くに徒歩で行ける病院が在るかという事と、そもそもこの周辺に人が居るのかという事だ。

 リスクはどちらも五分(ごぶ)と言ったところだが、果たして此処から目を離すのと、彼女を無理矢理動かすのは、どちらがより危険なのだろうか? そんなものは専門的な知識を持った人か、医者ぐらいしか分からないだろう。むしろ此処で、僕が在りもしない危険を恐れてどちらの選択もしない、という事の方が余程問題だ。

(選ばなければいけない、どちらかを……)

 そして、ここでもやはりミスは許されない。一瞬の判断ミスや、戸惑いさえも彼女の命に関わる。そう考えれば考える程、迷い、時間がただ流れていく。

 例えどんな結末が待っていようが、僕は選ばなければいけない。二つの選択肢から選ぶのか、それともどちらとも選ばないのかを、選ばなければならない。そして、その先の未来を受け入れなければならない。大切な事だから二回言おう。

――例えどんな結末が待っていようが、僕は選ばなければいけない。


 しかし、意外な形でシンキングタイムは中断させられた。

 異変に気づいたのは、選択の中心に居る彼女の真上に暗い影がかかってからだった。不思議に思った僕は上空を見上げると、信じられない物が目に映った。

 僕が見た物、それは――何の前触れも無く倒壊を始めた、大量の家屋達だった!


 彼の有名な大震災を体験した人でも真っ青な、そんな倒壊をしている目の前の家屋その一。大きさから察するに、全盛期はマンションかアパートだったのかを想像させる大きさの家屋その一は、下敷きになるこちらの事情などお構い無しで崩れていった。

 一番手は規則的に造られた窓から降る、破片の雨。その次を落ちてくるのは、その窓を突き破って出てきた貸し屋の電化製品(オプション)。それに続くのは(どこが壊れたのか)学校の机(だい)のコンクリートの塊が五、六個。そして最後は建物自体がこちら側にゆっくりと、穏やかに傾いて来ている。

 ()も当然の様に起きた倒壊は、誰かによって仕組まれたものとは、考えつかない規模だった。正に大震災のリプレイとも言えるその光景に唖然となり、言葉は出てこなかった。そして悲嘆や驚愕も無く、ただひたすらに思考は止まり、空回りしていた。

(えーっと、あれ? こういう時はまず……どうするのでしたっけ?)

 目に映るのは、数秒先の未来。自分と彼女が潰れる未来(げんじつ)のみ。それはまるで、暗い闇に閉ざされた住宅街跡(ここ)のようだった。

 彼是(かれこれ)此処には、もう随分と前から希望だとか救いだとかいう類のモノが訪れていない。その代わり、と言っては何だが絶望やら、失望やら、孤独と言ったモノは腐る程に集まっている。そんな中での希望の光とは風前の灯に等しく、頭に浮かんだ打開策は一瞬で塵となる。

 しかし、考え直す時間も秒単位しか残っていなかった。

(どうする? どうすればいい? 何を優先する? 自分? それとも……)

――迫り来る物体、逃げ場の無い状況、自分よりも大切な彼女の命

 不意に浮かんだ単語は、僕の行動を決定付けた。何よりも大切な彼女を守るにはどうしたらいいか? その答えは現状一つしか無い。きっと、この答えが正解に違い無い。そう信じて、疑わなかった。

 僕は彼女の上に覆い被さり、しっかりと頭を抱えた。

 そうだ、何も僕が助かる必要は無い。むしろ、僕だけが助かるなんて想像できなかった。今まで誰かの為に自分を犠牲にしようなんて思った事は無かったが、案外それも悪くないと今は思える。他ならぬ彼女の為ならば……。

 そう、僕は捨て身の覚悟だった。助かる気なんて毛頭も無かった。それでも、彼女だけは守り抜くつもりだった。その結果、僕が死に彼女が助かるのなら、僕の死は大いに意味の在る死だ。ただ惰性に満ちた日常を送り寿命で死ぬ、有り触れた受け身だけの死よりも幾分かマシだった。(もっと)も、死を美化するのは余り良くない。でも今回だけは見逃してもらいたい。洒落に成らない一生のお願いだ。

 そうして僕は静かに‘その時’を待った。


 しかし、いくら待っても‘その時’はやって来なかった。それどころか、落ちて来ていた筈の様々な物体が地面に届く事さえも無かった。

 あのガラスの破片達は? 電化製品のオンパレードは? コンクリートの塊(ども)は? あの穏やかに傾いてきた、マンションもどきは一体どこに? そして僕の決死の覚悟は?

 数秒前の惨劇からは予想もつかない静寂の中、僕は当然の如く不思議に思い空を見上げた。

「そんな、まさか……!」

 眼前には、先程まで僕を襲おうとしていた多種多様な物体など一切存在しない、ただの闇が拡がっていた。

(もしかして……夢だったのか? もしくは幻覚か妄想の類だったとか……?)

 しかし、推測を覆す光景(げんじつ)が目の前に在った。

――不自然な形に空いた空間

 丁度、倒れて来たマンションもどきと同じくらいの大きさの何も無い空間がそこに在った。それは住宅街跡の中で不自然、極まりない(又は異常とも言える)空間だった。

 住宅街跡の名称の由来は、住宅が街の様に立ち並んでいるからその名で呼ばれていたので在り、決してこのような隙間を含んでいたとは到底、考えられなかった。

 例えるのなら、物質消失マジックの様な事が其処(そこ)にだけ起きていた。それもテレビに出るような、著名マジシャンも顔負けの物質消失マジックが、だ。しかしただのマジックとは全く異なる点が在った。それはこのマジックには、タネも仕掛けも無い事だ。正真正銘のそこに在った物をただ消し去る奇怪(マジック)

 残されたそこには破片やゴミ、塵一つとして無い綺麗な空間が在った。それはまるで、其処には初めから何も無かったかのようにひっそりと不気味に在った。

 それから立ち尽くす事、数十秒。有り得ない事実(げんじつ)に少しずつ頭が慣れ出した頃、目の前の異常(くうかん)を照らしていた星々の光や月の明かりを遮るように影がかかった。

(まさか……時間差!)

 次の瞬間、予想に反した第二の異常(じんぶつ)が降ってきた。

 因みに僕が予想した最悪は、落下物は健在で今になって降ってきたという悪夢の様なものだった。その時は最悪の悪夢が現実に成らなかった事に胸を撫で下ろしたが、それも束の間の休息に過ぎなかった。そう、まだ異常は続く。


「はぁ~、間に合って良かったです」

 降ってきた異常(ソレ)の第一声は、意外にも日本語だった。しかしもっと驚いたのは異常(ソレ)の格好だった。現在の日本では絶滅危惧種(てんねんきねんぶつ)、と言っても過言では無い‘着物’姿の女性が毅然と立って居た。それも(後姿だが)凄く様になって、だ。

(いや、それ以前の問題でこの人はどこから降ってきたのだ……?)

 左右に(そび)え建つ家屋を一瞥するが、どこの窓も開いていない。それどころか、左右のどちらも優に五メートルはある建物だった。しかし目の前に君臨する異常(ソレ)は確実に落ちてきたのだ。

 いやいや、ちょっと待て。仮に落ちてきたのが正しかったとして、無傷でいられるのか? もしもこの人の体が丈夫ならば、もしかしたら無傷でいれるのかも知れない。それでも、地面が凹まないなんて事が在るのか?

 仮定の話、約五メートルの高さから質量(見積)四十キログラムの物体が自由落下しました。さて、問題です。この物体が地面に着く時、どれくらいのエネルギーを持っているでしょう?

 考え方:物体の質量×落下距離×重力加速度(一般的には九点八メートルパーセカンド)=落下エネルギー

 答え:一九六〇ジュール。このエネルギー量がどれくらいのものか分かりづらいと思うので、分かりやすい比較を一つ。地球上で一〇〇キログラムの物体を一メートル持ち上げる時に必要なエネルギーの約二倍のエネルギーと同等。

 前言撤回しよう。この人の身体がいくら丈夫だったとしても、無傷などあり得ない。

 と、当たり前過ぎる結論に至った頃、目の前の異常(ソレ)は僕という存在をやっと視界に入れた。

「えーっと、木花(このはな) 佐久夜(さくや)……様ですか?」

「えっ? はい、まあ、僕は木花(このはな) 開耶(さくや)です……けど――って……」

 腑に落ちない。目の前の彼女が僕の名前を知っている事も、様を付けて呼ぶ事も、話しかけてきたのに僕をスルーする事も。

 しかし、僕は何となく分かっていた。だから特に咎める事も無く道を譲った。僕の名前を尋ねてきた時から、既に彼女の目が僕の後ろ、即ち横たわって居る彼女の方に降り注いでいたのは、何となくだが分かっていた。そして分かっていたのだ。彼女が重症の彼女を何とかしてくれると……。


 僕の横を素通りして行った異常(ソレ)は、重体患者の横に膝を突いた。ここから先は、もう僕にはどうしようも出来ない領域だと悟り、離れた場所からこの治療の行方を見守る事にした。

 しかし異常(ソレ)は僕の予期していた医学的な処置とは、全く異なる事を始めた。

「ちょ、ちょっと、待ったー!」

「はい?」

 異常(ソレ)はまるで‘何か御用でも?’と、でも言いたそうな顔をしていた。むしろ‘何か間違っているの?’という訝しげな表情をしていた。

「えっ? えーっと……いえ、何でも無いです」

 そんな堂々と振舞われたら、何故かこちらが間違っている気がし、引き下がってしまった。自分にはきっと見間違いだ、と言い聞かせ再び行方を見守った。

 しかし、異常(ソレ)は先程と寸分(たが)わぬ動作をして見せた。やはり見間違いでは無かったと確信するも、彼女達の美しさに見惚れ、ツッコミを入れるタイミングを失ってしまった。

 異常(ソレ)は倒れた彼女を抱き上げ、唇に唇を重ねた。傍から見ればキスでしか無いのだが、それを平然と異常(ソレ)はやった。そして、その瞳には何か確信めいたモノが見受けられた。まるでこれが最善の策の様に二人はずっとそのままだった。


――二XX六年六月八日 朝

 今思えば、どうして僕はあの崩壊から奇跡的に助かったのに、彼女を助ける選択を放棄していたのだろうか? それどころか、消えた建物の方に気を取られて、彼女の事など軽く忘れかけていた。自らの無力さを嘆くのは同情の余地が在る。しかし、こればかりは自分で自分が嫌になる程、自分を恨む。何が、自分の命よりも大切な彼女の命だ? あの時の誓いは、助かった途端に忘れてしまう様な軽い考え(おもい)だったのか?

 違う。絶対に違う。それだけは自信を持って言える。そして誰にも否定させない。それに、これだけは確実に言える。彼女は僕の大切な……。


「佐久夜様……佐久夜様!」

 夢現(ゆめうつつ)の僕を起こすのは、昨日、知り合った……‘着物’の彼女。

「ん? ああ、えーっと……ウ、ウズ」

鈿女(うずめ)です。佐久夜様」

「そうだった、ごめん。ウズメさん」

「いえ、お気に為さらず。それよりも……瓊瓊杵(ににぎ)様の事ですが」

 ニニギとは、夢に出てくる少女の方で通称(いろんな意味で)‘重症’の彼女、だ。

「ニニギ……あっ、そうだ! あの後、一体どうなったのですか?」

「大変、危ないところでしたが……一命は取り留めました」

「……はぁ、良かった」

 あの前触れも無い倒壊事故から一晩が明け、彼女達は僕の家に泊まった。流石に時間も時間だったのと、ウズメさんにはニニギについて積もる話が在ったので丁度、良かった。しかし、疲れていたせいか僕は家に着くなり寝てしまったようだ。そして今、ウズメさんに起こされた、と言う訳だ。

 ニニギと言えば、かなりの重症だったのだが驚異的治癒能力と、ウズメさんの百パーセント医学的では無い治療のおかげで、今は睡眠中だが安定しているらしい。それと言うのも‘面会謝絶’と書かれた紙が、彼女の寝ている部屋の扉に貼り付けられていたからだ。しかもその部屋の前を通る度に、ウズメさんから‘ダメですよ’オーラを(まと)った微笑みをされる始末だ。

(これじゃ事情を聞くのは当分、先だな……)

 大方の見当は付いているのだが、やはり本人の話を聞く方が何倍も信憑性が在る。それに、これはもう彼女だけの問題では無い。見て、知って、関わってしまった以上、もう知らない振りなんて出来ない。それが仲間だから、だ。

 そう、僕はニニギを傷付けた犯人を探す。それが途方も無い事だって分かっているし、危険だって事も重々承知の上だ。それに、もしかしたら彼女にとっては有難迷惑(ありがためいわく)かも知れないし、母さんやハル、クッシー、玉ちゃん達は反対するかもしれない。

――けれど、それが彼女を放って置く理由には成らない。

 きっと、みんなも分かってくれるはずだ。

 大切(ニニギ)を傷付ける罪深さ、大切(ニニギ)を守りたいと思う気持ち、大切(ニニギ)の傍に居たいという願い。

 そう言えば、未だに分からない彼女との関係。でもきっと、無意識で優先するくらいだから、普通以上に親しい仲だったのは間違いない。それを忘れてしまう僕は相当のバカ野郎だが、分からないからと言って見捨てるクズ野郎よりは余程マシだろう。

 それにしても、今週は妙に不可解な事ばかり起こっている。以前は一週間に一回単位で、三週ほど続けば良い方で、今週の様な事は(まれ)を通り越して異常だ。一体全体これからどうなるのだか、さっぱり見当もつかない。ただ、嫌な予感だけが常に消えなかった。

 僕はまだ知らなかった。この時、既に僕は非日常へと踏み込んでいて、もう引き返せない所まで進んでしまっていた事に……。

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