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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

短編集

恋に堕ち 愛に狂い

作者: 山川四季
掲載日:2010/08/29

出来るだけ小説の作法に乗っ取って書こうとした作品。

なんとなく短編小説にしてしまいましたが、連載にした方が良かったかもしれません。長いです。

全体的に暗い話なので、ハッピーエンドが好きな方には不向きです。

「……あら。雨」

 ふと辺りが暗くなったので目を上げると、開け放した窓の外からポツポツと雨が吹き込んで来ていた。

 濡れた石畳から湿った匂いが立ち昇る。

 この匂いは嫌いじゃない。

 けれど窓の外に広がる黒雲はぶ厚く、どうやら激しい雷雨になりそうだ。

 石造りの塔は冷気が伝わるのも早い。

 目を閉じて、冷たく心地良い空気にうっとりと身を任せた。

 さきほど胸の中に生まれ、身を焦がさんばかりになっていた火が穏やかに冷えていく。

 やがて、平常通りの落ち着きを取り戻した時、再び目を開けた。

 雨は激しさを増している。

 この分ではまたしても豪雨になるのだろう。

 連日の雨で城下では水害もちらほらと起こっており、「神の怒り」と囁く民も居るらしい。

 窓の外に広がる闇を見つめながら、フッと笑う。

 

 たとえこの雨が神の怒りで、地上の全てを洗い流そうとも。

 私の肉体が滅びようとも。

 この心だけは永遠に生き続ける。

 私のあの人への愛は、何者にも負けないほど強い……!

 

 あの人のことを考えるだけで、静まった火が再び身体を燃え上がらせ、火照らせる。

 息を弾ませながら手の平を冷たいガラスに押しつけ、潤んだ瞳で窓の外を見上げた。

 その時、ドアのノックと共に控え目な声が聞こえてきた。

「リーチェ、私だ」

 雨音はこんなに激しいのに、どうしてこの人の声はハッキリと聞こえるのだろう。

 どうしてこんなに涼やかなのだろう。

 どうしてこんなに愛しいのだろう。

 自然と顔がほころんでしまう。

 薔薇の花のような微笑みを浮かべながら、ドアへと向かった。

「今、開けますわ」


***


 親父からの呼び出しは、いつものことだ。

 何か面倒なことが起こった時、汚れ仕事を任される人間。それが俺だ。

 しばらく前から呼び出しが来るだろうとは予想していた。

 この城に追放されて、黙って引っ込んでるような親父じゃない。

 手入れをしていた馬具を置くと、俺は召使部屋を後にした。


「お呼びですか、宰相閣下」

 部屋に入るとすぐに俺は脚を肩幅に開き、腕を後ろに回して姿勢を正した。

 「親父」とは呼ばずに「宰相閣下」と呼ぶ。

 たとえ2人きりの状況であっても、上司と部下という立場は崩さない。それが規則ルールだった。

 もはや肩書きは奪われ、刑の執行を待つだけの罪人だと言うのに。この男が権力に執着する様は、身内ながら見苦しい。

「お前にも伝わってきているだろう、グレン。ミカドが婚約した」

「はい」

 ミカド氏は我が国の軍務宰相だ。

 そして親父を王城から追放した張本人である。

「確かミカド宰相の」

 俺が口を開くと、親父がジロリとこちらを睨んだ。

 ミカド氏の、と言い直す。

「お相手の名前はベアトリーチェ、だったと思いますが」

 今回の任務は、その女官を殺すことだろうか。

 それともミカド宰相本人の暗殺だろうか、と思いながら俺は立っていた。

「そう。その娘なのだがな。実はワシの娘なのだ」

「は?」

 思わず声を上げてしまった。

「あのミカドの相手だ。当然のことながらワシは素性を調べた。

 母親の名に聞き覚えがあったので調査したら、ワシが一時期囲っていた女官であったと判明してな。

 しばらくしてその女は城を下がったので、それっきりであったのだが。

 どうやら別れた後に娘を産み、すぐ死んだらしい。娘は修道院で育てられ、城に奉公へ出たところをミカドに見初められた、と」

 俺は開いたままだった口を閉じた。

 元々、我が親父ながら女に対して節操の無い奴なのだ。女のことは使い捨ての性欲の捌け口、ぐらいにしか思っていない。

 どうせその女官のことも適当に弄んで捨てたのだろう。

 だが、子供が生まれたとなれば別だ。

 自分にとって有効活用できる存在は、たとえ幼子であろうと逃しはしない。

 

 この城では何人もの親父の子供が働いていた。

 俺も普段は馬屋番として働いている。ただ、他の弟妹たちと違うのは、裏の仕事も任されることだ。

 裏の仕事--すなわち暗殺術。

 親父は昔から暗殺と陰謀をくり返し、王城での地位と権力を高めることに余念が無かった。

 そのため殺し屋が側近として雇われており、そいつが俺の師匠だった。

 実の息子だからと言って情をかけるような親父では無い。

 暗殺術の教授を手加減するように、なんてことは言わなかった。

 おかげで俺は訓練中、何度も瀕死の重態に陥ったし、常に身体は傷だらけだった。

 親父はそんな俺に優しい言葉なんて一言もかけなかった。たまに出会っても完全に無関心だった。

 家庭教師から高度な教育も受けさせてもらったが、それも全て暗殺に伴う諜報活動に必要だったからに過ぎない。

 奴にとっては、俺を含め全ての子供が下僕でしか無かったのだ。

 そんな環境であっても、俺たちは親父の下で暮らしている。

 ここで暮らしている限り、母親は生活の保障が受けられる。自分自身の生活の保障を受けられる。

 事情はそれぞれ違っていたが、皆、城を出たら今日の暮らしにも困るということは共通していた。

 俺自身はと言えば、病弱な母親のためにここでの生活に耐えていた。

 

 たまに、そんな生活に耐えかねて城からの脱走を企てる子供も居る。

 しかし競争相手に城の内部事情が漏れることを警戒している親父は、殺し屋にその子を追撃させるのだ。

 俺の初任務も、そうした子の暗殺だった。

 同行した師匠は俺の目の前で、その子に致命傷を与えた。そして俺にとどめを刺させた。

 俺がとどめを刺さなくても、放置しておけばそのまま死ぬほどの傷を与え。

 その上で俺にとどめを刺させた。

 俺が逃げられないように。

 最初から俺にやらせていれば、きっと腕が鈍っただろう。

 同情して逃がしてすらいたかもしれない。

 だから師匠は俺を追い詰めて、殺させたのだ。

 「苦しみが長引かないように」もしかしたら、そんな理由がつけられる余地を残してくれたのかもしれないが。

 いずれにしろ、その師匠も数年前に任務に失敗し死んでいる。今さら確かめようがない。

 初任務の思い出はいつまでも俺の心の中に暗い影を落としている。

 人の弱みにつけこんで、身内であろうと容赦なく使い捨てる親父のやり方は陰湿だ。

 そして親父の下に入ったが最後、そこから抜け出す方法は無いのだ。

 だが、俺はいつの日か母親を親父の支配下から解放してやろうと、常に機会をうかがっていた。


「それで、俺の任務というのは?」

「考えてみろ。私の娘がミカドの妻になるのだ。これ以上の情報源はあるまい。

 すでに様々なことを掴んでいるであろうしな。

 問題はベアトリーチェ自身が、私が父親だという事実を知らないことなのだ」

「はい」

 この城で働いている親父の娘たちは、年頃になったら競争相手や権力のある貴族の妾として差し出される運命だ。

 もちろんミカド宰相に対してもそのつもりであったのだろうが、実の娘が正妻になるというのは親父にとって渡りに舟。実に好都合な出来事になったわけだ。

「私は今、この城から出ることができない」

 苦々しげに口をゆがめる親父。

「お前は王城に入り込み、ベアトリーチェに接触しろ。

 そして私が父親であることを伝え、こちら側に味方するよう懐柔するのだ」

「御意」

 現在の親父の立場を考えれば、それは到底難しい任務に思えた。

 大体において結婚前の二人というのは、お互いの欠点など見えていないものだ。

 そんな時に自分の夫を裏切れと言われ従う妻が居るだろうか。しかも、突然現れた父親という人間を容易に信じる気になるだろうか。

 しかし俺は黙って頭を下げるとそのまま親父の部屋を後にした。

 どんな不可能な任務であっても、やるしかないのだから。


***


 ここは海に囲まれた国、ハポル。

 国土の大きさこそ大したことは無いものの、資源も多く交易で潤う豊かな国だ。

 現在は第15代王、セグリカデス・ダ・リョーセルにより統治されている。

 この国の伝統として王の補佐は2名の宰相が行なうことになっていた。


 まつりごとにおいて、王に匹敵するほどの決定権を所有するのが宰相だ。

 権力を持つ者同士の癒着を避けるため、王に宰相の任命権は与えられていない。

 また、王位は血縁によって受け継がれるが、宰相は血縁関係での譲位が許されていない。

 宰相が引退する際は、自分の部下の中から後任を選ぶことになっていた。

 財務宰相ドゥル・E・オヲミ氏と、軍務宰相ミカド・ヲムーラ氏が宰相の任についていた。

 ほんの少し前までは。


 先王の時代から王城に勤めていたドゥル氏と違い、ミカド氏の出生は謎に包まれている。

 彼は、十数年前にハポルの港に漂着した遭難者であった。

 海上で事故にでもあったのか、自分の名前以外の記憶を全て失っていた。

 明らかにこの国の人間ではない風貌であり、密航者か流浪の刑に処された犯罪者か、などという噂も立ったけれど、元々ハポルは交易が盛んで外国人の出入りも多い国であったため多くの人々はすんなり彼を受け入れ、助け、世話をしてやった。

 徐々に体力を回復し、ハポル語にも慣れてくるにつれ、ミカド氏の人柄は周囲に知られるようになった。彼は穏やかで誠実でありながら、粘り強く物事にあたり、時に毅然とした態度で悪を突っぱねる。 そんな彼に地元の人間は強い信頼を預けていった。

 また、体格の良いミカド氏は戦闘能力も高く、気性の激しい船乗りや漁師達の喧嘩を何度も仲裁した。そればかりか彼は港町を巡回するための自警団を組織し、まとめ上げたのである。

 おかげでその町は他の港町に比べ治安が良くなり、交易も今まで以上に活性化した。

 彼を町長や政治の役職にと推す人間も少なくなかったが、ミカド氏はそういった申し出を全て断り、あくまで自警団としての役割を果たすことに専念した。

 けれど自治に携わる人間から助言を求められれば、いつでも応じ助力を惜しむことは無かったため、いつしか彼は町の政治に無くてはならない存在になって行ったのである。 


 転機が訪れたのは、ある嵐の晩であった。

 常駐していた海軍の監視艇が、救難信号を発信している難破船を発見したのである。

 すぐさま救助に向かった兵士達であったが、難破船に乗り移った直後、潜んでいた海賊達に捕らえられてしまった。

 海賊達の計画はこうだ。まず客船を襲い、乗っ取る。そして難破船を装い、救助に来た海軍兵士達を人質にする。客船の乗員と兵士達を人質にとられては、海軍も手出しが出来ない。その間に港町で略奪を行なう--。

 計画は全て順調に進んでいるように思えた。人質を全員、船倉に閉じ込めた辺りまでは。

 彼等は知らなかった。その日、王城では王妃が2番目の姫君を出産した祝賀会が行なわれており、海軍の大多数が宴に参加していたことを。

 そのため港の警備には少数の兵士と地元の自警団があたっていた。

 救助に来た人間のほとんどが、ミカド氏を始めとする自警団の人間だったのである。

 もともと自警団の人間は、港で腕っ節の強い人間を集めたものであり、その素性はといえば海賊あがりであったりと胡散臭いものが多かった。

 船倉に閉じ込められた際、剣やナイフ等の武器は奪われたものの、元々ルール無しの無法喧嘩で腕を鳴らした猛者たちばかりだ。

 彼等は船倉の扉をぶち破ると、油断していた海賊達に一気に襲い掛かった。

 突然の攻撃に、なし崩しに倒されていく海賊達。だが船長が出てきたところで戦況は一気に緊張した。

 海賊たちを束ねていた船長は傭兵崩れで、昔は随分と名を馳せた剣豪であったのだ。

 その気迫と剣筋からただものではない、と感じ取った自警団たちは動きを止め、双方で睨み合いの膠着状態へと突入した。

 その時、すっと前に出たのがミカド氏であった。手に、倒れた海賊から回収した剣を握っている。

 船長とミカド氏の一対一。

 行き詰るような沈黙の中、一際大きな波に襲われ船体が大きく揺れた、その時。

 見ていた者達は何が起こったのか理解出来なかった。

 船長が気合とともに剣を振りかぶったと思った次の瞬間、ミカド氏は船長の背後に立っていた。

 そして--彼の剣が船長の腹から生えていたのである。

 自分の身体を信じられないといった顔で見下ろしていた船長だったが、やがてズルズルと崩れ落ちて、うつ伏せに倒れた。

 静寂の中、ミカド氏が船長の身体から剣を引き抜き、気品さえ感じさせる優雅な手つきで血糊を振り落とす。

 「次は誰だ?」

 海賊達に視線を向けるミカド氏。

 その足元に、次々と武器が投げ捨てられた。

 海軍と自警団側は一人の犠牲者も出さずに海賊達から降伏を勝ち取ったのだ。


 この襲撃事件のあらましが王都に届き、先の軍務宰相モノヴェ氏が直々にミカド氏の元を訪れた。

 モノヴェ氏はここ数年、次期宰相を託すべき後継者を探していた。

 彼は若い頃から豪傑で知られた将であり、老いてもその眼光に衰えは無かった。そんな彼の目にかなう後継者というのは、なかなか現れなかったのである。

 もはや部下の中から最も腕のたつ男を指名しようかと考えていた矢先、海賊による襲撃事件を治めた男の話を聞き、興味をひかれた。

 そして調べていくうちに、かの男が民からの信頼も厚く並々ならぬ戦闘能力を持っていること、地元の自治に対する貢献もなかなかであることを知ると、がぜん会ってみたくなったのである。

 今こうして宿屋の一室でミカド氏と対峙してみると、自分の描いていた人物像に間違いは無かったという気持ちが強くなった。

 けれどこのまま自分の後継者に指名するのかと問われれば、躊躇してしまう。目の前の男には何か--得体の知れない雰囲気があった。

 この男の器は、宰相という枠組みの中には納まりきらないのではないか。そんな考えを、馬鹿な、と首をふって打ち消す。

「先の襲撃事件による貴君の働きは、見事であった」

 ミカド氏は、モノヴェ氏からの褒賞にも軽く目を伏せるだけである。この男にとっては大したことでは無いかのように。

 もし彼が居なければ海軍はどのような対応をしていたか。

 恐らく、人質ごと船を撃破していたことであろう。

 そうすることで他の海賊達に軍の脅威を見せつけることが出来、次の犯罪の抑止力にもなる。そのためには、多少の犠牲は仕方が無い--。

 軍務宰相の任務の一つに、軍への恐怖と畏敬を民に植えつけるというものがある。そうすれば民は反乱を起こそうという気をそがれ、執政がやりやすくなるからだ。

 命の価値が偏っているこの国で、階級社会に対する不満を押さえ込むために、こうした事件は度々軍による宣伝に使われた。

 人質の存在にもためらわず、有事を強制鎮圧する軍隊というイメージを植えつけるために。

 密かにモノヴェ氏はこうした任務に心を痛めていた。

 このような傾向が強まったのは、先の大戦直後のことだ。当時は階級社会の存在に加え、戦後の経済の混乱期に陥っていた。

 民の不満は高騰し、毎週のように内乱や暴動が起こっていた。

 そのため時の軍務宰相は暴動の鎮圧に対し容赦ない手段に出たのである。

 それが民に軍への恐怖を植えつけ、不満分子の気力をそぎ、結果的に戦後の執政を進める上で重要な働きをした。

 しかし未だ問題は抱えているものの、今は経済も大分向上してきていると言って良い。

 階級社会が生み出す不公平も、それが原因で暴動が起こることは無くなってきている。

 そんな時代にこのようなやり方をする意義はあるのだろうか。

 モノヴェ氏は知らず知らずのうちに、胸のうちをミカド氏に打ち明けていた。

 そして自分がそうしていることに驚いた。

 ミカド氏の人物像を見極め、先の事件での活躍について表彰し、軍への入隊を薦める。将来的に宰相へ推薦したいというエサをちらつかせながら。

 それで相手は即座に自分の懐へ入ってくるはずだった。

 だが実際に彼を前にすると、そんな小細工は通用しない男だと分かった。

 この男を前にすると、胸のうちを告白せずには居られないような衝動を抱かせる。

 つまらない駆け引きなど、こちらの人間性を貶めるだけだ--。

 そう判断したモノヴェ氏は、単刀直入に、彼を後継者に指名したいということを申し出た。

 ミカド氏であれば、自分が悩んでいるこの国の現状について、もっと良い方向へと導いてくれることを確信してのことである。

 彼は宰相の地位に興味は無さそうであったが、モノヴェ氏の真剣な話を聞き、しばらく考え込んだあと口を開いた。

「民のために、引き受けましょう」


 どこの誰とも分からぬ素性の者が宰相に選ばれたことに、国中が騒然となった。

 どちらかと言えば民衆は喜びをもってこの発表を受け入れた。

 階級社会にしばられている彼等にとって、貴族階級でない人間が選ばれたことは希望の一筋に思えたのだ。

 能力さえあれば出世することも夢では無い--。

 加えてミカド氏の人柄は襲撃事件を発端として広く知れわたっており、民衆の支持は圧倒的だった。

 一方、激しく抵抗した貴族階級の否定的な意見はモノヴェ氏が頑として受け付けなかった。

 宰相が指名した後継者について拒否権を持つのは、その宰相が所属する省の部下たち、すなわちモノヴェ氏の場合は軍隊の兵士たちのみである。

 王も、もう一人の宰相も、他の貴族達の誰も、その決定を覆すことは出来ない。

 どちらかと言えば王は穏健派で、今回の決定についても特に反対するつもりは無いようだった。

 兵士達も、普段からモノヴェ氏に対する忠誠と信頼は厚く、彼が選んだ人間であればと大多数のものがその決定を支持した。

 一部、反対する兵士達も居たのだが、ミカド氏が入隊し共に過ごすうちに彼のことを認めるようになったのである。

 数年後、モノヴェ氏が崩御したのを機に、ミカド氏は軍務宰相「ヲムーラ」の名を継いだ。

 それが今から27年前の話である。


 ミカド氏がまず行なったのが、兵士達の戦闘能力の強化であった。

 戦術に優れた彼はそれまでの訓練メニューを見直し、より効果的なものに作り変えた。

 更に彼は、武力のみでなく兵士達の教養をも高めるように部隊の中で教育を行なった。

 一般兵のほとんどは民間からの志願者であったり、下町で腕のたつ人間を軍がスカウトしてきたような者であったため、字の読める兵隊というのは商人や貴族階級出身のごく一部であったのだ。

 識字率が高くなれば命令伝達もよりスムーズに行なえる。そのための改革であった。

 こうして3ヶ月が経つ頃には、統率がとれた強力な軍隊が出来上がったのである。

 次にミカド氏は、兵士達の派遣を始めた。

 貴族や商人は外出の際、かならず護衛をつける。

 経済は向上しているとは言え、この国の治安はまだまだ良いとは言えない。

 加えて、一定の地位を有している人間が護衛もつけずに外出するなど恥である--という認識が世間一般に浸透していたためでもある。

 通常、こうした護衛に雇われるのは流れの傭兵であった。

 傭兵達は自分の腕を安売りするようなことはしない。そして他に金払いの良い雇い主を見つければ、さっさとそちらに移ってしまう。

 そんな彼等をつなぎとめておくための出費は、貴族達にとっても決して少ないものではなかったのだ。

 そこに、ミカド氏からの提案である。正式な訓練をつんだ兵士を、傭兵よりも安い賃金で貸し出す。

 彼等は喜んでこの制度を利用した。特に貴族とは名ばかりで、体裁を整えることに苦労している者達に広く支持された。

 もちろん、傭兵の失業率は上がってしまう。しかし彼等は元々腕っ節が強く、良い素材の持ち主なのだ。見込みのある人間であれば、ミカド氏は軍隊への入隊を推奨した。

 軍隊への入隊を拒まれた場合は、町の自警団への入団や民間の交易船の護衛などの仕事を仲介した。

 こうして優秀な人材の囲い込みに成功したのである。

 一方、兵士を護衛として派遣した先から支払われる賃金は、福祉へと回した。

 教会が行なっている奉仕活動に、配給物資や人手を援助する。

 公共事業の手伝いに兵士達を派遣する。

 兵士達は派遣された先で手伝いをしながら、地域の子供達を集め、字を教えた。


 こうした改革は当初、ほかの貴族達に白い目で見られることが多かった。

 けれど民衆からの支持も増え、富裕層から財政的な援助までとりつけるほどになると、徐々に貴族の中からも協力者が出現するようになった。

 いつしか王城におけるミカド氏の権力は、確固たるものとなっていったのである。

 それをこころよく思わなかったのが、もう一人の宰相であるドゥル氏であった。

 ミカド氏の政策が清廉潔白と称されるのに対し、彼は黒い噂の耐えない人物である。

 もしミカド氏の政策が国の財政で行なうようなものであれば、財務宰相の立場を使い、いくらでも反対することは出来ただろう。

 しかし彼は兵士達の派遣料と寄付金だけでこれら全ての取り組みを賄っていたため、口を挟む余地が無かったのである。

 こうなったら陛下に対する謀反の罪でもでっち上げて、王城から追放するしかない--ドゥル氏は自らの考えに同調する貴族達と手を組み、計略を練った。

 だが、それを実行に移す寸前で彼等の企みは暴かれ、協力者もろとも王城を追放されてしまったのである。

 貴族達の下へ派遣されていた兵士達は、表向きの護衛任務とは別に、不穏な動きをするものがいないか監視することも役目の一つだった。

 ドゥル氏と手を組んだ貴族達は、彼等によって密かに探られていた。そして兵士達は不穏分子一派の企みを証明するのに充分な証拠を集めていたのである。

 この事件は大々的に報道され、なおかつドゥル氏が過去に行なってきた様々な悪事までもが、兵士達が集めた証拠によってミカド氏の手で明るみに出されてしまったのだ。

 ドゥル氏の権力は失墜し、ミカド氏の支持は上昇した。

 現在、反乱者たちは郊外の城で謹慎処分を受けているが、正式な裁判が行なわれれば極刑は免れないであろう。

 裁判が行なわれずに延ばされている理由は、王妃がドゥル氏の姪であるということだけであった。

 しかし、それも時間の問題である。

 ドゥル氏は何とかしてこの事態を打破する必要があった。

 そんな折、ミカド氏の婚約が発表されたのである。

 相手が25歳年下であるということに加え、貴族階級出身でもなく、元は私生児である女性が宰相の正妻に迎え入れられるということが、更に民衆の人気を集めた。

 今や国中がこのニュースに沸き立っていた。

 グレンがドゥル氏からの密命を受けたのは、そんな時期である。


***


「お待ちしておりました、グレン殿」

 差し出された手は、俺の腰と同じぐらいの高さにあった。

「ご協力感謝します。イルクゥワ殿」

 でっぷりと太った、小柄な男。

 俺は新たに財務宰相に任命された彼に向かって、軽く一礼しながら手を握った。

 王城から追放された親父に、次期宰相の任命権は無い。

 イルクゥワ氏は通例に乗っ取り、財務省の役人全員の支持を受けて宰相の地位に就いた。

 しかし親父は、長年に渡り金と権力で自分にとって都合の良い人間が部下になるよう根回しをしてきたのだ。

 言うなれば、ここに居る役人全員が親父の腹心の部下と言っても良い。

 このイルクゥワ氏にしても、親父が復権することを心から信じきっている様子だった。

「ドゥル氏に言われたとおりこちらをご用意させていただきました」

 差し出されたのは王城への通行手形。財務省の役人専用のものだ。

「イェミシー……」

「それが貴方の名前です。もちろん本物の彼には、私の城で隠れてもらっています」

 俺は頷いて通行手形をたたむと懐にしまった。

「それで……宰相閣下からの手紙には、ただ貴方に全面的な協力を、とだけ書かれていたのですが。今回は一体、どのような任務なのですか?」

「申し訳ありません。それは閣下と私の間だけの内密な話なのです」

 一瞬、イルクゥワ氏の瞳に嫉妬と不満の色が浮かんだ。

 しかし彼は慌てて愛想の良い笑顔を取り繕うと

「いやそれはもちろんです! 出すぎた真似をして申し訳ありません。どうかご勘弁を」

 大げさなぐらいに謝りながら、詰め所の奥の小部屋を手で指し示す。

「王城に滞在される際はあの部屋をお使い下さい。それ以外の時は私の城に来てくださればいつでも歓迎します。あまり宰相閣下の居られる城に出入りするわけにはいかないでしょうから。人目もありますし」

「助かります。どうも。

 差し支えなければ、これから王城の散策に出ようと思っているのですが。

 構いませんか?」

「あ、ええ。では誰か案内あないの者を……」

「お気遣いなく。一人の方が何かと都合の良いこともありますので」

 わざと意味ありげに言葉尻をぼかすと、イルクゥワ氏は分かった、という顔で頷いた。

「お気をつけて」

 軽く頷き、執務室を後にする。

 その足で俺は客室の集まる塔へと向かった。この時間であれば、女官達が掃除をしているはずだ。

 案内など要らなかった。王城にはすでに何度も忍び込んだことがある。

 地図も間取りも頭の中に入っていた。


「あら。何か御用でいらっしゃいますか?」

 シーツを抱えた女官が、戸口に現れた俺に目を留めて声をかけてきた。

 廊下にまで漏れ聞こえるほど騒がしくおしゃべりをしていた女官達が、ぴたりと口も動きも止める。

 女数人による、招かれざる客に対する警戒の眼差しは、人をたじろがせるだけの威力を持つ。

 だが俺は平然とそれを受け止めると、女に効かなかったためしのない得意の笑顔を浮かべた。

「失礼いたします。私は新しく財務省に入りました、イェミシーと言います。

イルクゥワ宰相閣下に言われ、簿書保管庫へ資料を借りに行くつもりだったのですが、まだ王城に通えるようになってから日が浅いもので……どうやら道に迷ってしまったようです」

 女官達は明らかにホッとした表情を浮かべた。

 安心すると今度は俺に対する好奇心が沸いてきたらしい。

「簿書保管庫は西の塔の3階ですわ。分かりにくいですものね、あそこは」

 今や部屋の中にいた女官全員が、俺に熱っぽい視線を送ってきていた。

 一人一人に微笑み返しながらターゲットを絞った。どうやら先ほど、俺に声をかけてきた女官がここでは最も力がありそうだ。

 ついでに言うと、彼女は俺のタイプでもあるのだが。

 情報収集をするならば、女官に聞くのが一番だ。彼女達は王城のどんな小さな出来事であっても、決して聞き逃すことは無い。

 多少の誇張や、語り手の感情移入を我慢すればこれほど正確な情報源は無いだろう。しかも無料タダだ。

「ご親切にありがとうございます。

 きっと今の時期は、ミカド宰相閣下のご婚礼の準備でお忙しいでしょうに。そんな時にお仕事の手を止めてしまって申し訳ございません」

「あら、そんな。大したことではありませんわ」

「そうですわ。ご婚礼と言ってもミカド宰相閣下はご存知のとおり、控え目な方でいらっしゃいますから。ご結婚式も慎ましやかなものにするとおっしゃっていて」

「特に準備をすることもございませんの」

 女官達は、世紀のロマンスと騒がれているこの結婚に、すっかり酔いしれているようだった。

 少し水を差し向けただけで口々に語り出す。

「貴女方はミカド宰相閣下と親しくしていらっしゃるのですか?」

「まあ、いいえ。とんでもない」

「演習場にいらっしゃる時や、王城に来られた際にお見かけする程度ですわ」

「女官と宰相閣下だなんて、普通は接点などございませんもの」

「そうなのですか? ではミカド氏とベアトリーチェ様はどこで出会われたのでしょう」

 どうやらこの質問は、彼女達の乙女心を最もくすぐるものだったらしい。

 急に瞳を輝かせると興奮した様子で話し出した。

「それは、ある月夜の晩のことでしたの」

「ベアトリーチェ様は演習場の隅に咲く、珍しい花を摘みに行ったのです。満月の光を浴びた時にしか咲かない花でしたので、深夜に出かけたのですわ」

「同じ晩、ミカド宰相閣下は王城の巡回をされていらっしゃいました。そして演習場の隅にうずくまる怪しい影を見つけたのです」

「宰相閣下はそっとその背後に忍び寄ると、賊を押し倒したのです」

「その時、月を覆っていた雲が晴れ、宰相閣下は自分の目の前に月の女神が現れたのかと錯覚したそうですわ!」

「無理もありません。ベアトリーチェ様は白百合の精と言われるほど美しい方ですもの」

「二人はその場で恋に落ちたのです!」

 興奮も絶頂を極め、異様な盛り上がりを見せる女官達を尻目に俺は冷静に物事を考えていた。

 どうやらベアトリーチェはかなりの美人らしい。血のつながりが半分だけとは言え、自分の妹がそこまで美人と称せられていることに、嬉しいような気持ちの反面、少し複雑な気もする。

 親父の城にいた妹達も、まあ平均よりは少し上といった顔立ちだったけれど、そこまで言うほどのことではなかった。

 俺は、まだ会ったことの無い妹に対して興味が沸いてくるのを感じた。

 更に注目すべきは、女官達の口調から妹に対する妬みの感情が読み取れないことだろう。

 妬みや下卑た中傷の対象になっていないということは、ベアトリーチェは人間性においても良好で彼女達から好かれているのではないだろうか。

 今まで同じ女官という立場であった妹に、「様」をつけて呼ぶことに抵抗も無いようだ。

「その場に居合わせたのが貴女達であったとしても、ミカド氏は恋に落ちていらっしゃったと思いますよ」

 女官達がまあ、と頬を染めた。しかし嬉しそうな表情は隠しきれていない。

「そうそう。簿書保管庫と言えば、ベアトリーチェ様もそこにいらっしゃるはずです」

 リーダー格の女官の言葉に、思わず振り返ってじっと見つめる俺。

 彼女はまともに見つめられて動揺したようだ。視線を泳がせながらシーツを胸に抱きしめる。 

 その顔から視線を外さぬまま俺は質問を口にした。

「確か、宰相閣下の婚約者は婚礼の日まで北の塔に滞在されるのが伝統だったと記憶しておりますが」

「ええ……」

 女官はチラリとこちらを上目遣いで見上げ、俺の視線がまだ自分に注がれていることに気づくと慌てて目を逸らせた。そして早口で説明を始める。

「本来、北の塔に滞在されるのは花嫁修業のためです。けれどベアトリーチェ様は女官出身でございますから。

 普通の花嫁修業よりもむしろ、宰相閣下の伴侶として相応しい知識を身につけることが重要だと申されまして、自主的に簿書保管庫でお勉強をされているのです」

 なるほど、と頷いた。

 そろそろ情報収集はこの辺りにしておいた方が良いだろう。先ほどから他の女官達が、俺とドギマギしている女官を好奇の視線で見ながら、ひそひそと囁きあっている。

 俺は部屋の中に進み出ると、リーダー格の女官の手を取った。

 驚いてこちらを見上げた彼女の顔に、自分の顔を接近させる。

 相手が息を呑む音が聞こえた。

「お忙しいのに、私の相手で時間を取らせてしまって申し訳ありませんでした。

 ……貴女のお名前は?」

「…………ルクレッツィア、と申します」

「楽しい時間をありがとうございました。またお会いしましょう」

 そう言うと俺は、彼女の目を見つめたまま握った手の甲に接吻をした。

 そしてきびすを返すと客室を後にする。

 種は蒔いた--これから彼女は俺の役に立ってくれるだろう。

 客室を出てから数分後に、女官達の嬌声が廊下にまで響き渡った。


***


 狙い通り俺は、簿書保管庫でベアトリーチェに遭遇した。

 誰をも魅了する美しさとは、正にあのことだろう--俺はその姿を見た途端、身動きすることが出来なくなってしまった。

 

 つややかな髪の毛は、黒に近い茶色。

 長い睫毛に縁取られたすみれ色の瞳。

 桜色の小さな唇は、その顔にあどけなさと女の色気の両方を添えている。

 そして白百合の精と言われるのも頷けるほど、なめらかで美しい肌の色をしていた。

 

 言葉を無くし、ただ立ち尽くす俺。

 鼓動は早鐘を打ち、呼吸が浅くなる。

 生唾を飲み込んだ俺の前で、ベアトリーチェは人懐こい笑顔を浮かべて言った。

「すみません。そこの本を取らせていただけますか?」

 その声は耳に心地良いアルトだった。

「あ、ええ。これですか?」

 彼女の視線を追って俺は、身体のすぐ脇の書棚にあった分厚い本を手に取った。

 ずっしりと重い。ハポルの経済について書かれた資料だ。

 彼女から目を離したことで、冷静さを取り戻すきっかけを得た。

「女性の腕にこの重さはお辛いでしょう。お持ちしますよ」

「まあ。ご親切にありがとうございます」

 天使のような笑顔を浮かべたベアトリーチェを見て、再び俺の胸が高鳴る。

「こちらに運んでいただけますか?」

 彼女のあとについて歩きながらその身体つきを観察した。

 確か噂では18歳ということだったが、小柄ながら成熟した身体つきをしている。

 そしてこれまでに分かった所では、ベアトリーチェの声と表情は人の警戒心を薄れさせる。

 美声は訓練次第で手に入れることが出来る。腹筋と声帯の使い方のコツさえ掴んでしまえば、印象的かつ人に好意を抱かせる声を出すことが出来るのだ。

 またベアトリーチェほどの美貌の持ち主に、天真爛漫な笑みを浮かべられてはどんな人間も魅入らずには要られない。

 俺は諜報訓練を重ね、この声と表情という2つの技術を身につけた。初対面の相手にも警戒心を抱かせないために。だが彼女のそれは、生まれつきの才能のようだ。

 簿書保管庫の片隅にはテーブルが3つ、並べて置いてあった。どれも文官が仕事で使用しているもので、広々としている。だが今やその上はおびただしい数の本によって占領されていた。

「すごい量の本ですね」

 手に持った資料をどこに置いたら良いか迷う俺に、ベアトリーチェがいたずらっぽく笑った。

「修道院に居た頃から、お勉強する時は全ての資料を広げておかないと気がすまない性質たちでしたの」

「美術史、科学、民俗学、地理学……色々な本をお読みですね」

 俺から本を受け取りながら肩をすくめる彼女。

「正直、私もどんなことを勉強したら良いのか分からなくて。そうしたらミカド様からハポルについての見識を深めてはどうかと言われましたの。

 --そう言えばまだ、自己紹介をしておりませんでしたわね。私はベアトリーチェと申します」

「未来の宰相閣下夫人でいらっしゃいますね。私はイェミシーと言います。財務省に嘱しておりますが、簿書関係の整理が主な仕事です。何か経済に関することでご不明な点があれば、お力になりますよ」

 俺が軽い気持ちで言った言葉に、ベアトリーチェはパッと顔を輝かせた。

 一瞬、まずいことを言ったかなと思ったが、俺も人並み以上の教育を受けている自信はある。

 大抵のことには答えられるはずだ。

「ありがとうございます。専門家に教えていただけるなんて心強いですわ。

 早速なのですが、ここの所を教えていただけるでしょうか」

 彼女は開いたままになっていた美術史の本を持つと、俺の傍らに立った。

 ふわり、と微かな香水の香りが漂い、触れ合った腕から体温が伝わってくる。

 彼女の長い睫毛が作る影を見下ろしながら、俺は自分の顔がじんわりと赤くなるのを感じた。

「この時代の文化はムリョマ派と言って、金や銀をふんだんに使った豪華なものが主流だったようです。当時の王城の収支報告書などを読んでも、国全体が急激に豊かになったことが分かります。

 けれどこの文化は半世紀ほどで衰退し消えてしまいましたわ。民の生活水準も下がってしまいました。なぜそうなったのか因果関係を探しているのですが、どの文献を見ても分からなくて……戦争があったわけでもありませんのに」

 俺は胸の中で感嘆した。

 ベアトリーチェは美術なら美術、経済なら経済、と単一的に学ぶのではなく、全ての物事を関連付けて歴史を学ぼうとしている。

 この頭の良さは、他の妹達とは比べ物にならない。ただ美しいだけの女では無いようだ。

 恐らくミカド氏はこういう所にも惹かれているに違いない。

 何となくそのことを考えたら腹立たしい気分になってきた。なぜ、とは言えないのだが。

 すっと身体を彼女から離すと、俺は2冊の本を机の上に広げた。目当ての部分を求めてページを繰る。やがて目的の箇所が見つかり、彼女を手招きした。

「ご覧下さい。この年の輸出品の内訳を。金や銀、宝飾品の量が今までの3倍近くにまで上がっておりますでしょう。なぜ急に輸出量が増えたと思います?」

 俺が指先でトントンと紙面を叩きながら言うと、ベアトリーチェは愛らしい様子で小首を傾げた。

「それは、その時代の関税が最低水準にまで引き下げられたからだと思います。でもムリョマ派文化が衰退した後も、関税はそのままでした。それなのに輸出量は急に減っているのが不思議なのです」

「今度はこちらを……この地図の余白に、ごく小さな字で書かれているので見落とされるのも無理は無いと思いますが。ムリョマ派が始まる少し前、良質の鉱山が発見されたのです。稼動年数は--」

「約50年!」

 ベアトリーチェが瞳を輝かせ、俺はニッコリと笑った。

「その通りです。良質の鉱山から採れる良質の鉱石。最低水準の関税。ハポルは豊かになりました。けれど急激にもたらされた富は衰退も早いのです。

 ムリョマ派文化の後退期を調べてご覧なさい。インフレーションと、徐々に採掘量の減る鉱山。それが終焉のきっかけです」

 彼女は嬉しくて仕方の無いようだった。その笑顔を見ているだけで、俺まで不思議と気分が高揚してくる。

 気づいたときには自然とこんな言葉が口をついて出てきていた。

「実は私の所有している本の中に、いくつか貴女のお勉強の役に立つと思われるものがあります。

 よろしければお貸ししましょう」

「まあ! 嬉しいですわ。私はここに毎日おりますから……また来ていただけますか?」

「何でも無いことですよ。私の仕事場もここですから」

 そう答えると俺は、名残惜しく感じつつもベアトリーチェに別れを告げ、簿書保管庫をあとにした。

 イルクゥワ氏の執務室に戻り、これから毎日、簿書保管庫で調査を行なうことを伝える。

 そして財務省の保管する資料の持ち出し許可を得ると、ベアトリーチェに貸すものの物色に取り掛かった。

 彼女のために本を選ぶのは楽しかった。知らず知らずのうちに鼻唄まで漏れて来る。

 もっともっとベアトリーチェのことを知りたいと思った。

 親父のためでも、任務のためでもなく、俺自身のために。


***


 俺は毎日のように、簿書保管庫でベアトリーチェと会った。

 彼女は教え甲斐のある生徒だった。飲み込みも早く、質問も的確で、俺は誇らしく思うと同時にますます愛しく思うようになった。

 どんな質問をされても良いよう、こちらも準備や予習に熱心に取り組んだ。

 授業の合間にする、たわいのない雑談も楽しみだった。

「なぜ王城に勤めることになったのですか?」

「15歳になると、修道院には居られなくなるのです。出家して修道女になるか、働き口を求めて外の世界に出て行くかの選択を迫られます。私の母は以前、女官をしておりましたので私も女官になりたいと言うと、院長様が王城のお知り合いの方にお手紙を書いて下さったのです。幸いにも、王城の厨房では下働きの者が不足しておりました。私は料理が得意でしたのですぐに採用されたのです。

 運が良かったのですわ。もし王城で雇ってもらえなければ、修道女になるしかないと諦めておりましたし。おかげでミカド様にもお会いすることが出来ました」

 そう言って彼女はほんのりと桜色に頬を染めた。

 その幸せそうな笑顔は、俺の胸に激しい嫉妬を巻き起こした。

 俺が--任務のために何人もの女達をたらし込み、恋の駆け引きも完璧だったこの俺が--ベアトリーチェの前では、まるで十代の少年のように相手の仕草に一喜一憂している。

 実の妹を相手に何を、と自分の頭を冷やそうとするのだが、そんな想いは毎回、彼女の笑顔一つで吹き飛ばされてしまっていた。

 そう。俺はもう、取り返しがつかないほど深く、彼女に惚れこんでしまっていた。所詮、結ばれることの無い運命だ。この気持ちを打ち明けることすら出来るはずが無い。

 しかしそう思えば思うほど、俺は暗い情熱にかきたてられ、彼女について調べずには居られなかった。

 ベアトリーチェが居ない時間を見計らって、簿書保管庫で彼女の採用記録を調べた。

 出生は18年前の2月。母親の氏名欄にエカテェとあるが、父親の欄は空欄になっていた。

 修道院に3歳から15歳まで所属。その後、王城にて勤務と記されている。

 俺は手早くページをさかのぼると、エカテェの名前を探した。彼女は10歳から22歳までを王城で勤め、去っている。

 ざっと計算してみると、その7ヵ月後にベアトリーチェは生まれていた。

 たかが一女官の採用記録では、ここまで調べるのが限度だった。後はツテを使うしか無いだろう。


「ベアトリーチェ様ほどの美貌であれば、ミカド氏に見初められるよりも先に役人や下級貴族の目に留まっていてもおかしくないだろうに」

「……女官と言えど、身分の低い者は表向きの仕事を与えられないの。登城した上位の方々の目に入らないよう、厨房や洗濯係に回されるのよ。そんな所に顔を出す貴族なんて居ないわ」

 俺の腕の中でルクレッツィアがうっとりとしながら答えた。

 肩にもたれかかってきた頭を撫でてやる。

 あの日から何度もルクレッツィアに会いに行き、恋の駆け引きを重ねるうちに彼女はすっかり俺に陥落していた。

 今、俺達が居るのは庭の片隅。建物の影になった場所で、俺は壁を背にしながらにルクレッツィアを抱きしめていた。

「……ベアトリーチェ様はどこの修道院から来たのだったかな」

「サキタ・マミアン修道院よ」

 ルクレッツィアが頭を起こし、どこか険のある眼差しで見上げながら答えた。さきほどまでと違い、声質まで硬くなっている。

 どうやら他の女の話題を出されるのが、そろそろ不満になってきたようだ。

 俺は彼女を見下ろして笑うと、その顔を両手で挟んでやった。

「各省が、ミカド氏とベアトリーチェ様の結婚式に祝いの品を贈ることになっているのは知っているね?」

 こくん、と挟まれた手の中で頷いてみせるルクレッツィア。

「俺が、その祝いの品を贈る係に選ばれたんだよ。それで是非、君に頼みたいことがあるんだ」

「なぁに?」

「エカテェという女官について調べて欲しいんだよ」

「ベアトリーチェ様のお母様のこと?」

「そう。あの方は幼い頃にお母様と死別しているだろう?祝いの品を、お母様の好きだった料理とか花とかにして、その逸話と共にプレゼントしたら喜んでもらえるのではないかと思ってね」

「意外とロマンチストなのね」

 ルクレッツィアがおかしそうに笑った。

 その目を覗き込んで

「エカテェ様の仕事内容や王城での評判など、分かったことは全て教えて欲しい。どこにヒントが隠れているか分からないからね」

 俺が言うと、ルクレッツィアがいぶかしげに眉を寄せた。そんなことまで知る必要があるのかと不審に思っているのだろう。

 だが疑問を口に出される前に、俺は彼女の両方の瞼に口づけをした。

「頼んだよ」

 すっかり上機嫌になったルクレッツィアは、弾むような足取りで走り去った。

 その後ろ姿を見ながら考える。王城の中の件は彼女に任せて、俺は修道院の記録を調べてみることにしよう。


***

 

 サキタ・マミアンの修道院長は、80代も半ばの人物であった。

 背骨も曲がり、顔には深いしわが刻まれていたが、会話の受け答えなどはまだまだしっかりしている。

「それで、本日はどのようなご用件でしょうか」

 院長室の重厚な机の上で、軽く手を組んだ院長が尋ねてきた。

 柔和な笑みを浮かべているが、こちらの聞きたいことが院長にとって都合の悪いことであれば、一切受付けないような雰囲気を浮かべていた。一筋縄ではいかない相手のようだ。

 俺は今回、市民新聞の記者という肩書きで修道院を訪れていた。

「ベアトリーチェ様について、教えていただきたいのです。今回のご婚礼に関して特集記事を組むことになりまして」

 院長の目元が緩んだ。

「あの娘のことは忘れられませんね。天使の心と顔を持ち、非常に頭の良い子でした。私としては修道女になってここに残って欲しかったのですよ」

「確か3歳の時に修道院に入ったということだったと思いますが……お母様が亡くなったのが3歳の時だったのでしょうか」

「いいえ。それは違います。確かに彼女は3歳の時に修道院の門をくぐりましたが、母親が亡くなったのは8歳の時ですよ」

 俺の片眉が持ち上がった。

「ということは、親が居るのに修道院に預けられたわけですか?」

「珍しいことではありませんよ。経済的に苦しい親が、子供を預けて行くことは多いのです。ベアトリーチェの場合、母親の身体が病弱だったこともありましたから……」

 母親の身体が病弱だったこと「も」、か。

 言葉を濁した院長の様子から、他にも何か隠していることにピンと来た。

「他に身内は居なかったのですか?」

 俺が尋ねると、院長は口をつぐんだ。

 そのまま沈黙の時間が続く。

 だが院長の顔には、きっかけさえあれば口を開くような、思わせぶりな表情が浮かんでいた。

 なるほど。この人物は老獪ろうかいで世情に通じているようだ。どちらかというと聖職者よりも商人に向いている。

「これは修道院への寄進です。預けられている子供達のためにお使い下さい」

 懐から札束を取り出し、机の上に置く。

 院長の視線はそちらに注がれたが、相変わらず無表情のままだ。

「ではこれも」

 俺は更に札束を取り出すと、その上に重ねる。

 やっと院長の顔がほころぶと、俺に向かって祈りの手をかざした。

「ご奇特なことです。貴方に神のご加護がありますように」

 おざなりに頭を下げると俺は再び質問を開始した。

「ベアトリーチェ様には、ご親類がなかったのですか?」

「あれの母親であるエカテェが子供だった頃から、私はこの修道院におります。王城から戻ってきてすぐ、エカテェは親の決めた相手と結婚しました。嫁ぎ先は裕福な商人の家だったのですが……結婚して7ヶ月後にリーチェが生まれたのですよ」

 院長はいったん言葉を切ると、紅茶のポットに手を伸ばした。

 2人分の茶を入れると、1つを俺に薦めて自分の分を一口飲む。

 カップの中に視線を落としていた院長だったが、しばらくするとまた口を開いた。

「当然、エカテェは嫁ぎ先から離縁されました。両親は何度もエカテェに、リーチェの父親は誰だと問い詰めました。けれど彼女は頑として答えなかったのです。

 どこの誰とも分からぬ男の子供を孕み、嫁ぎ先を騙して結婚した娘--そんな周囲からの非難に耐えかねて、両親は自殺してしまいました」

 痛ましそうな顔をして、溜め息をつく院長。

「エカテェはそんな世間の非難にも負けませんでした。年の離れた叔母の家に身を寄せ、働きながら子育てを続けたのです。実際には遠い親類だったのですが、エカテェはただ叔母さん、とだけ呼んでいましたね。

 そこでの生活は楽では無かったようです。元々身体が丈夫では無かったエカテェは、ある日、勤め先で倒れてしまいました。その日からほとんど寝たきりの状態になり、意識も朦朧としている状態であることの方が多くなってしまったのです。

 叔母は献身的な看病を行ないました。けれど彼女には、ベアトリーチェを育てるまでの余裕はありませんでした。それで修道院にリーチェを預けることにしたのです」

 俺はすっかり冷めた紅茶を口に含んだ。

「その叔母さんは今、どうされていらっしゃるのですか」

「リーチェの母親が亡くなった3年後に、病気で亡くなりました。私がエカテェと叔母の、両方の葬儀を執り行いましたが、墓標を立てる余裕すらない貧しさの中で亡くなったのです。

 女官として初めてもらった給料で、リーチェは真っ先に母親と叔母の分の墓標を買ったのですよ」

 当時のことを思い出し浮かんできた涙を、院長はそっと指で拭き取った。

「エカテェ様が一度は嫁がれた先と言うのは?」

「去年、取扱が禁止されている品物の売買に関わった罪で取り潰しに遭い、一族全員が国外追放されたと聞いております」

 俺は心の中で舌打ちをした。

 その後は取材のためと称して、ベアトリーチェの子供時代の思い出など当たり障りのないことをいくつか質問をし、修道院を後にした。

 すでに日も暮れ、夕闇の中に街並みが浮かんでいる。

 エカテェが身を寄せていたという親類の家の住所は聞いていたが、訪れるのは別の日にした方が良さそうだ。

 明日はベアトリーチェの授業と、ルクレッツィアに会って彼女の機嫌をとっておかないとな、と考えながら通りに向かって右腕を上げる。

 すぐに駆け寄ってきた貸し馬車に乗り込むと、イルクゥワ氏の館に向かった。


***

 

 次の日、簿書保管庫で俺を待ち構えていたのは、ベアトリーチェだけではなかった。

「君がイェミシー君かね」

 椅子に座ったベアトリーチェの肩に手をかけ、たたずんでいる男。

 立ち襟についた徽章きしょうが、その人物が誰かを語っていた。

「お初にお目にかかります、ミカド宰相閣下」

 俺は深々と頭を下げた。

 浅黒い肌に、鋭い眼光。長身でしなやかな筋肉に覆われた姿は、黒豹を連想させる。

 黒い髪にちらほらと混じる白髪が唯一、彼が40代だと言うことを思い出させた。

 そうでなければ、とてもじゃないがベアトリーチェと親子ほどに歳が離れているとは思えない外見だった。

「感謝しているんだよ。リーチェから、君が良く面倒を見てくれていると聞いてね」

 嬉しそうに頷くベアトリーチェを、一瞬、愛情に満ちた眼差しで見下ろすミカド氏。

 リーチェ。彼が口にした愛称が、俺の心を波立たせる。

 俺は内心の憎悪を押し隠し「滅相も無いことでございます」と頭を下げた。

「ベアトリーチェ様は聡明な方でございます。私のような者がお役に立てるなら、これに勝る喜びはございません」

「イェミシー様こそ、とても明晰な方でいらっしゃいますのよ。あんなに面白くて分かりやすいお話をして下さる方は他におりませんの」

 ベアトリーチェが熱心にミカド氏に説明する。

 そんな彼女を微笑みながら見下ろしていたミカド氏は、俺を振り返ると

「この通り、リーチェはすっかり君に夢中になっているようなのだよ。他の誰よりも、君に教えてもらいたいとね。それで引き続き、家庭教師役を引き受けてもらえないかと思ってね。私もなかなか仕事が忙しくて勉強を見てやれないし。もっとも」

 からかうような瞳でチラリ、とベアトリーチェを見た。

「私では、彼女が気に入るほど面白い話は出来ないと思うがね」

「ミカド様ったら、私、そんなつもりじゃ--」

 慌てるベアトリーチェを笑いながら見つめるミカド氏。その瞳からは深い慈愛が溢れている。

 本来、微笑ましさを感じさせる情景のはずだったが、俺の胸にはどす黒い感情が渦巻いていた。

 見せつけられる仲睦なかむつまじさ。ベアトリーチェが若い男と2人きりで勉強することなど、ミカド氏は……ミカドは何とも思っていないようだ。それどころか、自ら教育係を頼みに来るなど……自信の現れなのか。俺にとっては嫌味でしかない。

 俺は、あんたの知らないベアトリーチェの出生の秘密を知っている--彼女は俺の妹で、あんたに追放されたドゥルの娘だ。婚約者面して余裕なんか見せつけるな!

 胸のうちを言葉にしてミカド氏にぶつけてやりたかった。

 必死で憎悪の気持ちを押し隠していると、ドアをノックする音と共に「閣下、お時間でございます」という声が聞こえてきた。

「もうそんな時間かね」

 顔を上げたミカドは、再び俺に向き直ると言った。

「すまないが、これで行かなければならないようだ。くれぐれも、リーチェのことを宜しく頼むよ」

 無言で頭を下げた俺の横を、すり抜けていくミカド。頭を下げたまま、俺は奴の姿を横目で追い続けた。

 奴が出て行き、ドアが閉じた後もそちらを見続けていた俺に、ベアトリーチェが不思議そうな声をかける。

「どうかされましたか?」

「……いえ。では、本日の勉強を始めましょうか」

 俺は上の空で答えると、やっとのことで視線をドアから外し、無理矢理笑顔を浮かべると彼女に向きなおった。


***


「イェミシー、ここに居たの」

 背後から聞こえた声に振り返ると、ルクレッツィアがこちらに向かって駆け寄ってくる所だった。

 俺と目が合った瞬間、彼女の顔に浮かんでいた嬉しそうな表情が一転し、怯えたように足を止めた。

 先ほどのミカドとリーチェのやり取りを思い出していたのだが、どうやら俺は無意識のうちに内心の苛立ちを顔に出してしまっていたらしい。

 笑顔を取り繕うと、ルクレッツィアに語りかけた。

「どうしたんだい? レツィ」

 そんな俺の変わりように、どこか疑わしそうな、まだ少し怯えているような様子を見せながら彼女はおずおずと近づいてきた。

「あのね、エカテェ様のことなんだけど。昔、一緒に働いてた人がまだここに居ることが分かったの。

 興味あるんじゃないかと思って」

 思いがけない知らせに、俺の目がキラリと光った。

 しかし平静を装うと、ルクレッツィアにとびきりの笑顔を向け、あくまでさりげない調子で答える。

「それは嬉しいね。その人はどこに居るんだい?」

「厨房の魔女様よ」

 少し蔑んだような口調で彼女が答えた。

 厨房という場所で働く女官は、身分の低い者ばかりであることは知っている。

 その中でも「魔女」と呼ばれる職についているものは、少々異例な立場なのだ。

 彼女たちは王侯貴族の毒見役として、罪人の中から選ばれる。牢の中から出されることと引き換えに命がけの仕事に就くのだ。

 正式な毒見役として任命される前に、毒と薬に対してのありとあらゆる知識を教え込まれる。その知識量は下手な医者よりも豊富であるため、人々は畏敬の念をこめて彼女たちを「魔女様」と呼ぶのだ。

 彼女達の多くは勤めている間に、毒にやられることが何度もある。命をとりとめたとしても、容姿を損なうものが少なくない。長く勤めている毒見役ほどその傾向は強くなる。「魔女様」の言葉の中には、そんな彼女たちの外見を揶揄していることも含まれている。

 エカテェの居た時代から毒見役を務めているというならば、その魔女はかなり長く王城に居るということだ。どんな容姿になっていることだろう。

 だが、レツィに案内されて面会した魔女は、恐れていたほど酷い様子はしていなかった。

 ボサボサの白髪に、曲がった腰。毒に侵されたのか片目が無くなっていたが、黒いフードを深く被って上手く隠していた。

 部屋の中にいる他の魔女たちを見ると、自分の力では立てなくなっていたり、隻腕せきわんであったり皮膚がただれていたりと、皆、問題の魔女よりも若いにも関わらず毒の後遺症はずっと酷い。

「アタシが軽症であることが不思議なんだろう?」

 例の魔女が、俺の思考を読み取ったかのように話しかけてきた。その口調はどことなく愉快そうだ。

 俺が頷くよりも早く、レツィが彼女に噛みついた。

「ちょっとウィナス、この人は財務省に所属している貴族なのよ。あんたごときが、そんな口をきける相手じゃないんですからね」

 魔女は軽蔑したような目でレツィを見た後、フンと鼻を鳴らして顔を背けてしまった。

 ここで機嫌を損ねられたら厄介だ。俺はウィナスの前に進み出ると柔らかな姿勢で下手に出た。

「構いませんよ。たとえ相手がどなたであろうと、経験をつんだ方の話というのは勉強になります。

 どうか私のためにエカテェ様の思い出をお聞かせ願えませんか?」

 俺が頭を下げるとレツィは憤慨した様子であったが、ウィナスは満足したらしい。

 ニヤリと笑うと、若い魔女に命令して俺達3人分の茶を持ってこさせた。

「軽症で済んでるのはね、アタシが優秀だからだよ。匂いと色で食べ物に毒が入っているか分かる。だから食べない。食べなければ毒にはやられない」

 そう言うと茶を一口飲み、軽く息をついた。

「……エカテェは、商人の家の出身でね。そこそこ財力のあった家だったから、厨房じゃなくて針子はりことして働いていたんだよ。手先が器用だったしね」

 当時のことを思い出しているのか、ゆっくりとした口調で語り始めるウィナス。

 レツィはその語りの遅さにイライラしているようだったが、そんな彼女を片手で諌めつつ、俺はウィナスが話を続けるのを黙って待っていた。

「あれは、身分の違いとか気にしない娘でねぇ」

 チラリ、とレツィを横目で見る。

「熱を出したとき、怪我をしたとき……しょっちゅうここに来てはアタシから薬をもらってた。ただおしゃべりをするためだけに来ることもあったね。

 --寂しかったんだよ。あの娘は王城で勤めるような性格じゃなかった。ただ単に親から奉公に出されただけで。同年代の女たちはお高くとまったようなのばかりで、下の身分の者たちはかしこまって話もしてくれない。だからアタシに懐いたんだろうね」

 ウィナスは遠くを見つめ、幸せそうな笑みを浮かべた。

「そのエカテェの娘が厨房に来たときは驚いたね。でも、すぐに分かったよ。顔は母親よりも美人だが、あの身のこなしと目はそっくりだね」

「そのベアトリーチェ様の父親については、何かご存知ありませんか?」

 唐突な俺の問いに、ウィナスは驚いたように口をつぐんだ。隣でレツィも同じような表情をしている。

「ウィナスさん、貴女はエカテェ様が王城に勤め始めてから去るまでの間、随分と親しくされていたようですね。きっとエカテェ様も貴女のことを最も信頼されていたのではないでしょうか」

 そう言うとウィナスの目元が少し緩んだ。

「噂によると、エカテェ様と財務宰相だったドゥル氏が一時期付き合っていたとか」

 レツィが驚きで目を丸くする。しかしウィナスの目つきは逆に鋭くなった。

「随分調べたんだね。そのことを知っている人間はごく僅かしか居ないはずだよ。どこで噂になってるんだか」

 疑いの眼差しでこちらを見据えてきたが、俺は平然とした顔をして見返した。

 しばらく睨み合いを続けた後、先に目をそらしたのはウィナスだった。

 フンと再び鼻を鳴らすと、吐き捨てるように言う。

「あの男が父親であるはずが無いさ」

「どうしてそう言い切れるのですか?」

 ウィナスは窓の外を見つめた。

 ここのところ、連日で雨が降っている。今日は朝から曇り空だったが、いつ降ってきてもおかしくない空模様だった。

 その降り始めの瞬間を見届けようとでもするかのように、ウィナスは窓を睨みつけていた。

 長い長い沈黙の後、彼女は視線を窓に据えたまま口を開いた。

「あの男の子供を堕ろすのを手伝ったのがアタシだからさ」


***


「エカテェの刺繍の腕前が評判になってね。貴族連中からも直々に注文が来るようになった。

 あの娘が21歳の時、そうした注文の品を財務省の役人に届けに行った。そこでドゥルに目をつけられたのさ」

 ウィナスの表情は苦々しいものに変わっていた。

「可哀想に、あの娘は恋愛に対して経験がなかった。上辺だけのドゥルの優しさに騙されて、すっかり惚れこんじまったんだよ。正妻は無理だと分かっているが、いつか妾にしてもらえるに違いないと本気で信じていた。

 アタシはあの娘に、あんたは騙されてるって教えてあげたんだけどね。聞く耳持たないのさ。そのうちにドゥルに捨てられて……その後で妊娠してることが分かってね。

 堕ろしたいって言ってきたあの娘を、アタシが助けてやったのさ」

 俺は呆然としながら聞いていた。

 では……では俺とリーチェは兄妹では無かったのだ! しかも親父ですらその事実を知らない。リーチェを実の娘だと信じ込んでいる。

 もし俺が親父にこのことを報告したら……と、ふと考えた。親父はどういう行動に出るだろう。

 父親であると偽って、リーチェを意のままに動かそうとするか。

 あるいはリーチェの美貌に惹かれて、自分のものにしようと画策するか。

 最悪の場合、リーチェを亡き者にして血のつながった実の娘をその後釜に据えようとするかもしれない。

 そこまで考えて身震いした俺は、しばらくこの事実は胸にしまっておこうと決めた。いざという時のための切り札だ。

「なぜエカテェ様は子供を堕ろしたのかしら。産めばドゥル氏だって、また関心を持ってくれたのに。あの方は子供が生まれると、必ず母子とも自分の家に迎え入れるでしょう?」

 物思いにふけっていた俺は、隣でレツィが不思議そうに呟いた言葉にハッとした。

 そんな彼女を、汚いものでも見るような眼で睨むウィナス。

「言っただろう? あの子は王城で生きていくような娘じゃなかったんだ。玉の輿に乗ることを夢見るような女では……ね。自分を裏切った男の子供を産み、自分を愛してもいない男の下で暮らす……そんなことに耐えられるわけが無かったんだよ」

 玉の輿目当て、と非難されたレツィは不満そうに頬を膨らませている。

 親父の妾になったからと言って、玉の輿だと女たちが夢見るほど幸せな生活が送れるわけではない。むしろ悲惨な生活を送ることになると知っている俺は、黙って話しを聞きながらエカテェの選択は正しかったと考えていた。

 追憶、思索、不満。それぞれの思いを胸に、しばし沈黙の空気が場を支配する。

 しばらく経った後、俺はある事実に気がついた。

「ベアトリーチェ様のお年から考えると、エカテェ様が再び妊娠されたのは堕胎されてから間もなくですね」

 レツィはあっと小さく声を上げ、ウィナスの顔には影がさした。

「お相手が誰か御存知なのですか?」

 静かに尋ねる。

 ウィナスは窓に向き直ると、またしても外を見つめた。

 いつの間にか降り出した雨がガラスを叩いている。

 レツィがテーブルの下で俺の袖を引っ張っているが無視した。彼女の言いたいことは分かっている。こんなことは、俺が用意した建前の動機--ベアトリーチェへのプレゼントのため--には何の関係もないことだ。

 けれど俺は、この魔女がそういって回答を拒否するとは思っていなかった。こうして待っていれば、そのうち話すに決まっている。

 ウィナスと会話しているうちに気づいていた。彼女は寂しいのだ。

 誰かと話しをしたくてたまらない。誰かとエカテェの思い出を共有したくて仕方が無い。

 厨房の片隅で孤独に人生を過ごす魔女と会話をしてくれる人間など、多くは無いのだ。

「……知らないんだよ」

 寂しさと、どこか悔しそうな声でポツリとウィナスが呟いた。

「堕胎してから間もなく、エカテェの両親から手紙が来たんだ。

 見合い相手が決まった。半年後に城を下りて帰ってこいって……。

 それからあの娘は思いつめた表情で過ごすことが多くなった。アタシが何を聞いても上の空で、黙り込みがちになった。

 あと3ヶ月で王城を去るっていう晩のことだった。エカテェはこっそりとアタシの所にやってきた」

 ウィナスは長いため息をつき、机の上に置いた自分の両手を見下ろした。

「ある人を愛してしまった。けれど結ばれるはずのない相手だと。

 城を去る前に一晩だけ……一晩だけ思いを遂げたい。

 またドゥルの時のように傷つくのは嫌だ。力を貸して欲しい。

 ……どんなに聞いてもあの娘は、相手が誰だか言わなかった。アタシは根負けして、渡したんだよ」

「渡したって何を?」

 先ほどから身を乗り出すようにして聞いていたレツィが、勢い込んで聞いた。

「催淫剤……ですね」

 俺が呟くと、ウィナスは静かに頷いた。

「アタシが作る薬は特製でね。薬が効いている間に何が起こったとしても、相手は何も覚えちゃいないのさ。

 あまりにも効き目が強いから、今はもう作ってないんだ。昔に作ったのが1、2本あったんだけど。

 何かの折にその話をしたことを、あの娘は覚えていたんだね」

「なんて馬鹿なことを……」

 呆然とレツィが呟くと、ウィナスは弾かれたように顔を上げ睨みつけた。

「エカテェは本気でその男のことを愛していた! 

 アタシの所へ来たとき、もうすでに心が固く決まってるのが分かっちまったんだ。

 他人にどう言われようとあの娘の決心は変わらなかったよ。だからアタシも折れたんだ……」

 徐々に口調が弱々しくなり、最後の方はほとんど囁き声になっていった。

 王城を去ってからのエカテェが幸せでは無かったこと、不幸な死を迎えたという事実に、責任と後悔を感じ続けているのだろう。この魔女は。

「もう何年も昔の話です。今更、貴女の責任を問う者はおりませんよ」

 俺の言葉に、ウィナスは放心したような表情のまま頷いた。

 隣でレツィが居心地の悪そうな顔で所在無さげにしている。

 しかし、どうもその目には好奇心のようなものが浮かんでいるようだ。

 元々俗な噂話が好きな女だから、先ほど聞いた催淫剤について色々と聞いてみたいのだろう。

 けれどここで口をつぐんでいるだけの分別は持ち合わせているようだ。

 もっとも、それがいつまで持つか分からないが。

 彼女が余計なことを言い出さないうちに早いこと退散しようか、と腰を浮かせかけた俺は、部屋の片隅に置かれている花に目を止めた。

「あの花は?」

 ぼんやりと顔を向けたウィナスが、俺の視線を追ってその花の方を見た。

「ああ……毎日、煎じて王の食卓にお出しするんだよ。

 王の健康のためにとミカド氏が持ってきて下さるんだ」

 俺はもはや、彼女の言葉を聞いていなかった。

 床に膝をつき、その花を目の高さまで持ち上げる。

「心配ないさ。あらゆる毒と薬を知ってる私だ。そいつは危ないもんじゃない。

 この国の植物じゃなくて、ミカド氏がわざわざ外国から取り寄せてるもんらしいけどね。

 私も毎日毒見しているけど、この通りぴんぴんしてる」

 外国の植物……満月の晩……そして、演習場。

 俺の頭の中で、閃光のようにある事実が浮かび上がった。

 まさかミカドが……いや、これは確かめなければならない。

 勢いよく立ち上がると、呆気に取られているウィナスとレツィを残し、俺は厨房から飛び出して行った。


***


「こんな夜中にお散歩ですか、ミカド宰相」

 俺が声をかけると、その人影は一瞬動きを止めた。

 ランタンの明かりに浮かぶその表情が、怪訝なものに変わる。

「君は--イェミシー君か。どうしたのかね、こんな時間に」

「その言葉、そっくり貴方にお返しします」

 ミカドはすでに落ち着きを取り戻し、いつもの無表情に戻っていた。

 俺の反抗的な態度も気にしていないようだ。

「私は日課の見回りだよ」

「宰相という立場になっても、ですか」

「どうもデスクワークというのは肌に合わなくてね。これが息抜きにもなっているのだよ。

 それで、君は?」

 俺は腕を組み、ちらりと足元を見下ろした。

 この演習場の端に作られた花壇には、隙間無く花が植えられている。

 リーチェとミカドの出会いのきっかけにもなった、満月の晩にだけ咲く花。

 今は蕾を下に向け、次の満月の晩を待っている。

「このオウの花が気になりまして」

 そう言ってミカドの顔を見据えた。

 俺がこの花の名前を知っていることを見せることで、どんな反応をするか見極めてやろうと思ったのだが。

 その表情からは何の感情も読み取ることが出来なかった。

 喰えない男だ、と心の中で舌打ちをする。

 視線をミカドの顔に固定したまま、俺は先を続けた。

「この花は本来、ハポルには存在しない。ずっと東にあるヒーズルという国に生息している。

 厨房の魔女でさえ知らなくて当然だ」

 相変わらず無表情のまま、ミカドは黙って俺の話を聞いていた。

「毒性は無い。ただし、この花を煎じた汁には精神安定作用がある。

 本来は気鬱などの治療に用いるもので、スプーン1杯ほどの少量を短期間に服用するなら問題ない。

 しかしカップ1杯ほどの量を長期的に摂取し続けると……一種の催眠状態に陥り、非常に暗示にかかりやすくなる」

 いつ戦闘が始まっても良いよう、身体全体に緊張感をみなぎらせながら、俺はミカドを睨みつけた。

「何を企んでいるんですか」

 しばらくの間、静かに俺の視線を受け止めていたミカドだったが、ふいにその視線を足元に視線を落とす。

 そのまま俺に近づいてきたので思わず身構えたが、俺の隣まで来ると彼は足を止め、夜空の月を見上げた。

「そう。君の予想通り、私はヒーズルの出身だよ。

 しかもただの人間じゃない。これでも元はヒーズルの王だったのだ」

 ミカドの顔に皮肉そうな笑みが浮かぶ。口調も自虐的なものになっていた。

「記憶を失っているというのは嘘なのですね」

「ああ。その方がやりやすかったのでね」

 口を歪めたミカドの顔は、この国の誰も見たことがないものに違いなかった。

「かつて私がヒーズルの王になった時、私は熱意に燃えていた。

 この知識と権力を持って、民が幸せになるためのまつりごとを行なおうと。それが王としての使命だと。

 だがその理想はすぐに打ち砕かれた。私がいくら政策を唱えようと、臣下である貴族連中が反対すればそれは実現しない。

 逆に貴族連中が決めた、奴等にとってだけ都合の良い政策は、いくら私が反対しようと結局は実現してしまうのだ。

 その時、悟ったのだよ。王の権力など飾り物にすぎないと」

 俺は黙って話を聞きながら、いつか親父が話していたことを思い出していた。


「一見、王が最高権力を有しているように見えるだろう。だが、その王でさえ臣下われわれに従うしかないのが本当なのだ。

 そもそも王座に就く時から、貴族の賛同と後ろ盾がなければならない。そして我々は自分にとって有利な人間でなければ王座には就かせない。

 臣下全員の権力と財力、軍事力は王一人で太刀打ちできるものではない。

 反乱を恐れ、王座から引きずり落とされたくなければ貴族の言うことを聞くしか無いのだ。

 王城は王のものではない。我々が支配する場なのだ」


 ミカドは軽いため息をつき、先を続けた。

「貴族に支配された宮廷であろうと、私は王としての使命を果たすべく突き進んだ。

 当然、奴等にとっては目障りな存在であったのだろう。ある日、クーデターが起きた。

 私を殺し、もっと御しやすい弟を王座に据えるためのな。

 奴等に殺されるよりも先に、私は船で国外へ脱出した。そしてハポルに流れついたのだ」

 俺の方へと向き直ったミカドの目は、暗い情熱の光を宿していた。

「思いもよらずこの国のまつりごとに携わることになった時、心に誓ったのだよ。

 名では無く実をとろうと。今度こそ真の意味での執政者になると。

 王の威を借り、私の思うままにこの国を動かすには、王に黙っていていただかなければならない。

 そのために故郷から持ち出したオウの花を植えたのだ」

 睨みつけた俺の視線を、彼は笑って受け止めた。

「事実、私が宰相になってからの方が国政は安定してきただろう?

 今の王よりも私の方が執政者として有能だという自信はあるよ」

 確かにミカドが宰相になってから、この国は進歩を遂げてきている。

 腐敗と堕落の象徴のような存在の親父を追放してからというもの、王城内部の改革も進んできており、彼が有能であることは疑いようが無い。

 そもそもミカドが国政を意のままにしようとしていることなど、俺が口出しをするつもりは無い。

 俺が気になっていることは、ただ一つ。

「アンタ、ベアトリーチェにもオウの汁を飲ませてるんじゃないのか」

 食いしばった歯の隙間から問いかけると、ミカドは目を見開いた。

 そして俺をイライラさせる、あの余裕たっぷりの笑顔を浮かべた。

「そんなことを考えていたのかね? 心配しなくて良い。王にしか飲ませていないよ」

 容易には信じられないという俺の表情を見て、彼は穏やかな声で続けた。

「私の彼女に対する愛は本物だよ。リーチェの方でも私を愛してくれていると知った時は幸せだった」

 その声に含まれる彼女への愛情が、またしても俺の神経を逆撫でする。

「アンタがオウの花を使って何をしているかを知ったら、リーチェはどう思うだろうな」

「そんなことはしない方が良いよ、グレン君」

 ミカドの言葉に凍りついた。

 彼の目には、この事態を面白がっているような表情が浮かんでいた。

 けれど、そこに潜んでいる別の何かが俺に本能的な恐怖を与えている。

「そう。私は君の正体を知っている。今の王城でこのことがバレたら、即座に追放だろうね。

 --もっとも、私はそんなことをするつもりは無い。ドゥルが何を考えているか知らないが。

 彼の仕掛けてくる策略など簡単にかわす自信もある。

 いい教師がいなくなってしまってはリーチェも悲しがるし、私としてはこのまま黙って過ごしてもらいたい。

 結婚間近の恋人同士に水を差すようなことはしないで」

 腹の奥からじわじわと悔しさと怒りが湧き上がってきたが、ヘビに睨まれた蛙のように身動きが取れなかった。

 俺を見据えるミカドの視線が、身体だけでなく内臓すら冷たくさせる。

 この穏やかな笑顔の中に存在する殺気が告げる。奴は俺よりも強いと。

「……夜風は身体に悪い。早く帰りたまえ」

 すれ違いざまに、俺の肩に手を置くとミカドは帰って行った。

 彼の気配が消えてもしばらくの間、俺は動くことが出来ずに立ちすくんでいた。


***


 次の日、俺はベアトリーチェの家であったはずの場所を訪れていた。

 郊外の森の中にある、小さな家。その建物はすでに焼け崩れ、黒こげとなった壁や柱がところどころに残っているだけだった。

 少し離れたところにある隣家を訪ね聞いてみると、数ヶ月前に火事にあったという。放火であったらしい。

 その隣人は火事のあった晩に薪を拾いに外へ出て、犯人らしき姿を見ていた。

「灰色のフードを頭まで被ってたんで、顔は見てないんですがね。

 小柄できゃしゃな身体つきと、フードから巻き髪が一房垂れていたんで女だと分かったんですよ。

 実を言えばそのせいで覚えていたんでさ。この辺りで若い女を見ることなんか滅多にないもんで」

 俺は礼を言って立ち去ると、再び焼け跡に戻ってきた。

 家の中央に立ち、周囲を見回す。

 胸の中では、昨夜の自分への腹立たしさと屈辱が渦巻いていた。

 ミカドは完全に俺を下に見ていた。自分にかなうはずがないと見くびっていた。

 事実、権力でも頭の回転においても俺は奴に勝てる気がしない。

 こうしてここまで来てしまったのも、もはや意地のようなものだ。

 ただ、愛した女についてミカドよりも深く知りたいという。彼の知らないことを知ることで優越感を得たいという歪んだ欲望だ。

 ……しかし、建物がこの状態では調べようがない。

 俺は落胆と悔しさに唇を噛んだ。その時、落とした視線の先に違和感を感じた。

 その場に近づき、地面に膝をつく。周囲に落ちている破片から推察するに、ここにはベッドがあったらしい。

 黒こげの木片や焼け焦げた布をそっとどけていくと、石畳が顔を出す。

 注意深く眺めていると先ほどの違和感の正体が分かった。周辺の石よりも縁が高い。

 上から軽く押さえると、ぐらぐらと動く。

 石の縁に指をかけ、ゆっくりと持ち上げた。

 その下から現れたのは、1冊の薄い帳面だった。

 注意深く帳面を持ち上げると、そのくすんだ表紙に手をかけた。


***


「いそいでくれ!」

 貸し馬車の御者を怒鳴りつけながら、俺は先ほど読んだ帳面の内容を思い起こしていた。

 石畳の下から出てきたそれは、ベアトリーチェの母、エカテェの日記だった。

 病に伏せってからは書くことが出来なかったのだろう。

 宮廷を去る少し前から、あの家に越すまでの短い間だけのものだった。

 ドゥルと関係を持った頃の幸せに満ち溢れた少女らしい文章から、彼に捨てられた頃の恨みと悲しみと後悔に満ちた内容へと変わって行き、やがて新しい恋と、ある決意に及ぶ彼女の心の動きが綿々と綴られていた。

 日記を読み終えた俺は、急いで街中に戻ると貸し馬車に飛び乗った。

 早くベアトリーチェに知らせなければ……!

 馬車が王城につくと衛兵に通行証を投げつけるようにして飛び込み、リーチェのいる北塔へと向かった。

 俺を押しとどめようとした北塔の警備兵を殴り倒し、階段を駆け上がる。

 焦るあまりもつれそうになる足を必死に動かし、ただただ一刻も早くリーチェに会うことのみを考えていた。

「リーチェ!」

 ドアを蹴破るような勢いで飛び込み床に倒れこんだ俺を見て、リーチェは度肝を抜かれたらしい。

 目を見開き、左手で心臓を押さえるようにして立っている。

「イェミシー様! 一体どうされたのですか?

 それに警備兵は……ここはミカド様以外の男性は入れないはずでは……」

 俺の側に来てひざまずきながら、リーチェはオロオロしている。

 その両肩をつかむと、俺は彼女の顔を間近から覗き込んだ。

 リーチェが息を呑む。

「よく聞くんだリーチェ。君はミカドと結婚してはいけない。いや、できないんだ」

 彼女の美しい瞳が動揺して揺れる。

「な……なぜそんなことをおっしゃいますの?」

 リーチェが囁くと、吐息が俺の頬をくすぐった。

 ふいに欲望が沸き起こった。けれど、今はもっと大事なことがある。

 俺は彼女から身体を離すと、懐に入れていた帳面を取り出した。

「これは君のお母さんの日記だよ」

 リーチェが目を見開いて、俺の手の中の帳面をじっと見つめる。

「この中にはある事実が書いてある。

 --ミカド氏は君の父親なんだよ。血の繋がった、実の父親だ」

 ドゥルに捨てられ絶望に沈んでいたエカテェはある晩、自らの命を絶とうとした所をミカドに助けられた。

 彼はエカテェの話を聞き、慰め、彼女が立ち直るまでの心の支えとなった。

 いかにもミカドらしい善行だ。自決しようとしたのがエカテェでなかったとしても、彼は同じことをしただろう。

 彼女にもそれは分かっていた。だからこそ、ミカドへの恋心を胸にしまいこむことにしたのだ。

 ただ一度だけ彼に抱かれ、その思い出を胸に王城を去るつもりだった。

 ウィナスの薬の力を借りて思いを遂げた後はもう、何も未練は無いはずだった。

 しかし、すぐに彼女は自分が妊娠したことに気がついた。

 父親の名など明かせるわけがない。家族も死んでしまった。

 誰の力も借りず、一人で子供を産み育ててみせる。

 エカテェの日記はそこまでで終わっていた。

 ベアトリーチェは震える手で母親の日記を受け取ると、じっとその表紙を見つめた。

 浅い呼吸を落ち着かせるためか、飲み込んだ唾液で白い喉が上下する。

 ふいに彼女は立ち上がると、俺に背を向けた。

 それにつられたように俺も立ち上がる。

「これは、どこに?」

 背中を向けたままベアトリーチェが聞いてきた。

「ベッドの下の石畳を外すと、その下に隠されていたよ」

「……そう。そんなところに残っていたの」

 聞こえてきた彼女の声は奇妙に落ち着いていた。

 その台詞と声色に違和感を受け、俺は眉間にしわを寄せた。

「リーチェ?」

「どこを探しても見つからなかったの。だから家ごと火をつけたのに。

 まだ残っていたなんて」

 驚く俺に向き直ったベアトリーチェは、今までに見たことがない顔をしていた。

 いつもの天真爛漫で無邪気な表情は影を潜め、そこに浮かんでいたのは妖艶で美しく、残酷な女の顔だった。

 数ヶ月前、ベアトリーチェの生家に放火したのは若い女だったという話を俺は思い出していた。

「火をつけたのは……君だったのか、リーチェ」

 美しすぎる彼女の顔から目をそらすことすら出来ず、喉の奥から搾り出すようにして声を発する。

 彼女は上品に口元だけで微笑んで見せた。目には冷たい光を宿したまま。

「この日記が見つかってしまったら……ミカド様と結婚できなくなりますもの」

 そう言って手に持った日記を蜀台のロウソクの火にかざす。

 あっという間に火に包まれたそれは、炎の蝶のように揺らめき燃え尽きた。

「見つけてくださって感謝しておりますわ、イェミシー様」

 混乱する俺に向かい、にっこり笑うベアトリーチェの顔は今まで以上に美しく、身動きひとつ出来ないまま魅入ってしまう。

 彼女が右手を俺にさしのべ、自分の方へと引き寄せた時も、ただ従うだけしかできなかった。

 今や俺と彼女の身体はほぼ密着していた。

「君は……知っていたのか?」

 やっとのことで疑問を口にすると、ベアトリーチェは上目遣いで俺を見上げたまま頷いた。

「修道院に入っている間も、休暇のたびに実家に帰っておりました。

 その度に母の目を盗みながら読んでおりましたの。幼い私には理解できないことがほとんどでしたが……徐々に父親に対する関心が高まってきたのです。

 思えば実際に会う前から私は、父に恋をしていたのですわ。

 そして……」

 ベアトリーチェは再び俺に背を向けると、ベッドの近くまで歩いていって振り返った。

「初めて男として愛した相手が父だと分かった時、私の胸は喜びでいっぱいでした。

 父は、私が思い描いていた通り、いえ、それ以上に気高く立派で素晴らしい人でした。

 ミカド様から求婚された時、母の日記のことを思い出したのです。

 誰かに見つかりでもしたら私の夢は壊れてしまいます。

 密かに城を抜け出し、実家に戻ったのですが……母がどこに隠したのか、いくら探しても見つからなかったのです。

 ですから家ごと燃やしてしまおうと思ったのですわ」

 そういう彼女の顔は満足感に溢れていた。

「しかし、許されるはずがない! 父親と娘の結婚なんて……」

「昔から王族の血族結婚は、世界的に見て珍しい話ではありませんでしたわ。

 王族に許されるなら私たちも許されるはずです」

 ベアトリーチェは不気味なまでに冷静だった。

 それゆえ彼女の狂気が一層強く感じられた。

「リーチェ、考え直してくれ。こんなことは正気の沙汰じゃない」

「ええ。自分でも分かっています。

 けれど私のミカド様への愛は、それほどまでに深い。

 狂ってしまうほどに」

 そういうとベアトリーチェは、ベッドの陰から紐のようなものを取り出した。

「ご存知でしたかしら、イェミシー様。

 ここは歴代の宰相夫人が婚約期間中に滞在する塔。

 宰相以外の男性は立ち入り禁止となっております。

 不審な人間が入り込んだ時のために、代々の宰相夫人に受け継がれる秘密の仕掛けもありますのよ」

 リーチェの微笑には俺の背筋を粟立たせるような冷気が潜んでいた。

「待っ……」

「ごきげんよう」

 俺が手を伸ばしたのと、リーチェの指が紐を引くのは同時だった。


***


 グレンの足下に現れた穴は、悲鳴と共に彼の身体を飲み込んでいった。

 塔の最上階から最下層に落とすだけの、単純な仕掛け。この穴は今まで何人の命を吸い込んできたのだろう。

 穴の縁に立って下を見下ろしたベアトリーチェは呟いた。

「残念ですわ。良い先生を失うなんて。

 ……けれど私とミカド様の秘密を知ってしまった方が居ては困るのです。

 私たちの結婚は、誰にも邪魔させませんわ」

 再び紐を引き、石畳を元に戻したベアトリーチェの瞳には強い想いが宿っていた。

 ふいに辺りが暗くなり、彼女の意識は現実へと引き戻された。

「……あら。雨」


***


 翌日、北の塔の下で財務官僚イェミシーの変死体が見つかった。

 調査の結果、彼は本物のイェミシーではなく前財務宰相ドゥル氏の息子であったことが判明し、王城は大騒ぎとなる。

 ドゥル氏はあくまで関与を否定したが、何らかの策略によって彼の息子--グレンが王城に潜入していたことは疑う余地がないとされた。

 結果、ドゥル氏の処刑は早められることになり、グレンの潜入に協力していたとされる財務省も大規模な組織改革が行なわれ、今やその権威は地に落ちた。

 この一連の騒動の間、ミカド氏の政治的手腕はいかんなく発揮され王城は見事に混乱を乗り切った。

 財務省が弱体化した今となっては、実質ミカド氏が王城の支配者と言って差し支えなかったが、誰もそれに異を唱えるものは無く、むしろ好意的に受け入れる人間ばかりであった。

 そしてその2ヵ月後。

 ミカド氏とベアトリーチェの婚礼は、予定通り執り行われた。

 かつてないほど清らかで美しい、この似合いの夫婦が結婚式を挙げたのは、雲ひとつない澄み渡った空の下であったという。

最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

この話も夢で見た内容を小説に起こしたものです。

相変わらず暗い夢ばかり見ています。

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[良い点] これは面白かった! 僕的には十分ハッピーエンド、というか、いいオチでした。文章といい内容といい、ケチのつけようがないし、何より登場人物がしっかり描けていました。主人公が小悪党ぶりも含めて。…
[良い点] 読み応えがありました。 話の展開・テンポもよく、次にくる展開が楽しみな文でした。 物語ので出しにからむ、締め方がうまいな。と感じました。 ぜひ長編が読みたいと思わせる短編でした。
2010/10/21 19:31 チョコダッチョ
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