第1話:大剣聖になった少年アルバはラッコにされ追放された(´・ω・`)
# 第一話 時代遅れの大剣聖
「――《大剣聖》です」
神官がそう告げた瞬間、広い応接間の空気が止まった。
「大剣聖……?」
「まさか、あの……」
家臣たちがざわめく中、神官は水晶に浮かんだ文字を信じられない様子で見つめていた。
《大剣聖》。
その3文字を、アルバも床に跪いたまま見上げていた。
「……それ、すごいやつなんですか?」
思わず尋ねる。
背後から、父の低い声が聞こえた。
「……大剣聖は、剣聖を超えた剣聖……」
「かつて魔王を討った勇者が持っていたとされる、伝説のスキルです」
神官が父の言葉を引き継ぐように説明した。
「記録が正しければ、歴史上、発現が確認されたのは一度だけ。およそ七百年前、魔王討伐を果たした勇者、その人です」
「一度だけ……」
アルバはもう一度、水晶を見た。
(もしかして、ボク……すごいんじゃ……)
勇者。
魔王を倒した英雄。
幼い頃、寝物語として何度も聞かされた存在だ。
そんな人物と同じスキルを、自分が授かったという。
胸の奥から、今まで感じたことのない期待が湧き上がってくる。
しかし。
「……ごみスキルではないか」
父が呟いた。
「…………え?」
それは、あまりにも予想外の言葉だった。
◇
――その日の朝。
「兄さん、まだ寝てるの?」
扉の向こうから聞こえてきた声に、アルバは薄く目を開けた。
窓から差し込む朝日が眩しい。
寝台の上で毛布を頭まで引き上げ、もう一度目を閉じる。
「……起きてるよ」
「嘘。今起きたでしょ」
「どうして分かるの?」
「声で分かるよ。もう朝食の時間だよ」
「ああ、そうだったね……」
アルバは毛布の中でもぞもぞと身体を動かした。
だが、起き上がるには至らない。
「兄さん?」
「……あと五分」
「駄目だよ!」
扉の向こうから呆れた声が響く。
「今日は大事な日なんだから!」
「分かってるってば……」
仕方なく身体を起こす。
寝台の脇に置かれた時計を見ると、普段より少し遅い時刻を指していた。
その時計の横には、小さな照明器具が置かれている。
内部に組み込まれた魔石が、柔らかな光を放っていた。
「……よいしょ」
アルバは照明器具へ手を伸ばす。
指先からほんの少し魔力を流すと、光がふっと消えた。
魔石に魔力を流すことで、点灯や消灯を切り替える仕組みだ。
子供でも扱える、どこにでもある生活魔導器。
もっとも、アルバは子供の頃、この程度の魔力操作すら苦手だった。
初めて照明を使ったときには、力加減を間違えて魔石の光を強くしすぎ、夜中に部屋中を真昼のように照らしてしまったこともある。
あのときは使用人たちが何事かと駆けつけ、大騒ぎになったものだ。
「……懐かしいな」
思わず笑みが漏れた。
それから着替えを始める。
今日は、十五歳の誕生日。
この国では十五歳をもって成人とされる。
そして成人を迎える者には、人生を大きく左右する特別な儀式が待っていた。
神託。
神より、一人につき一つの《スキル》を授かる儀式である。
火を操る魔術師。
優れた剣術を身につける剣士。
傷を癒やす治癒術師。
あるいは農業や鍛冶、工芸などに適した能力を授かる者もいる。
どのようなスキルを授かるかは、生まれた家柄や本人の希望とは関係がない。
農民の子供が強大な魔術師となることもあれば、名門貴族の子供が《農耕》のようなスキルを得ることもある。
そのため、神託は人生における最大の転機とも呼ばれていた。
そして今日、アルバもその神託を受ける。
「兄さん、本当に起きてる?」
「起きてるってば!」
慌てて上着を羽織ると、アルバは扉を開けた。
そこには自分とよく似た顔立ちの少年が立っていた。
双子の弟、オトウトだ。
生まれた時間は、わずか数分しか違わない。
だが、その性格は随分と異なっていた。
アルバがどちらかといえばのんびりしているのに対し、オトウトは何事にも真面目で几帳面だった。
今日も髪は綺麗に整えられ、服装にも乱れがない。
対してアルバは、まだ寝癖の残った髪を指先で押さえている。
「……兄さん」
「ん?」
「髪」
「ああ、これ?」
「今日くらいちゃんとしてよ」
「分かったよ」
アルバが指で髪を撫でつけると、弟はますます呆れた顔になった。
「そうじゃなくて……もういいよ」
「ありがとう」
「褒めてないからね?」
二人は並んで廊下を歩き始めた。
ここは王国北西部に位置する、とある辺境領。
アルバたちの父親は、この地方を治める領主である。
つまり二人は、領主の息子として生まれた。
そして双子とはいえ、先に生まれたアルバが長男だ。
将来は父親の跡を継ぎ、この領地を治めることが期待されていた。
「それにしても、いよいよ今日だね」
弟が言った。
「そうだね」
「……緊張しないの?」
「少しはしてるよ」
「そうは見えないけど」
「そう?」
「そうだよ。僕なんて昨日、なかなか眠れなかったのに」
「それは大変だったね」
「兄さんは?」
「ぐっすり」
「……だと思った」
弟がため息をついた。
「父上だって、ずっと今日を楽しみにしてたんだから」
「そうだね」
「兄さんに《魔導騎士》か《上級魔術師》が出れば、この領地も安泰だって」
「ああ、言ってたね」
父親は以前から、何度もその話をしていた。
現代の領主に求められるのは、強い魔力と優れた魔導技術への適性。
戦争が起きた際、自ら魔導鎧を操って領地を守ることができれば、領主としての権威も大きく高まる。
だからこそ、長男であるアルバには優秀な戦闘系スキルが期待されていた。
「兄さんは、どんなスキルが欲しいの?」
「ボク?」
アルバは少し考えた。
「うーん……特には」
「特には?」
「便利なのがいいかな」
「便利って……」
「例えば、火を起こしたり、物を作ったり。そういうのでも面白そうじゃない?」
弟が信じられないという顔をする。
「兄さんは次期領主なんだよ?」
「うん」
「それなのに、そんなのでいいの?」
「だって、何が出るかなんて分からないし」
「……そういう問題じゃないと思うけど」
弟は小さくため息をついた。
アルバにとって、領主になるというのは昔から決められていた将来だった。
長男だから。
父がそう望んでいるから。
周囲の人間が、そのように準備を進めているから。
だから領主になる。
ただ、それだけのことだった。
もちろん、領主になれば精一杯務めるつもりではいる。
しかし、自分がどうしても領主になりたいのかと聞かれれば、答えに困ってしまう。
何しろ、領主にならなかった自分の将来など、今までほとんど考えたこともなかったのだ。
「まあ、もしボクが領主に向いてなかったら、君がやればいいんじゃない?」
アルバは何気なく言った。
弟の眉がぴくりと動く。
「……簡単に言うね」
「そう?」
「父上が何年もかけて兄さんを教育してきたの、知ってるでしょ?」
「もちろん」
「それをそんな簡単に……」
「でも、君だって一緒に勉強してきたじゃないか」
アルバは笑った。
「むしろ、君の方が優秀なところも多いしね」
「……っ」
弟は何かを言いかけた。
しかし、結局何も言わずに顔を背けた。
アルバは不思議そうに首を傾げる。
「どうしたの?」
「……何でもない」
「そう?」
「兄さんには分からないよ」
その言葉には、わずかな棘があった。
しかしアルバは、それ以上尋ねなかった。
◇
屋敷の応接間へ向かう途中、二人は中庭に差しかかった。
そのとき。
ゴォンッ!
腹の底に響くような重い音が聞こえた。
「おっ、今日もやってるね」
アルバが窓の外を覗き込む。
領主館に隣接する騎士団の訓練場。
その中央では、巨大な金属の人影が大剣を振るっていた。
魔導鎧。
全高四メートルにも及ぶ、人型の巨大兵器である。
頭部、胸部、四肢のすべてが厚い金属装甲に覆われ、その内部には数多くの魔導機構が組み込まれている。
搭乗者は胸部の操縦槽に乗り込み、自らの魔力を流し込むことで、その巨体を手足のように操るのだ。
剣を振り下ろした魔導鎧が、再び構えを取る。
装甲の隙間に刻まれた魔導紋が青白く輝いた。
次の瞬間。
ズンッ!
四メートルの巨体が地面を蹴った。
巨大な鎧とは思えない速度で前進し、訓練用の標的へ大剣を叩きつける。
ドガァンッ!
分厚い木製の標的が砕け散った。
破片が地面へ降り注ぎ、訓練場に砂煙が舞い上がる。
「おお……!」
アルバが目を輝かせた。
「やっぱり格好いいよね」
弟も窓の外を眺める。
「うん。僕も早く乗ってみたい」
「もう少しで乗れるようになるんじゃない?」
「そうだといいけど」
弟は訓練場の魔導鎧を見つめた。
「僕は絶対に、あれを動かしてみせる」
「君ならできそうだね」
「……兄さんは?」
「ボク?」
「兄さんも乗りたいんでしょ?」
「もちろん。一度くらいはね」
「一度くらいって……」
弟は呆れたように言った。
「領主になったら、あれを使って領地を守らなきゃいけないんだよ?」
「そうだね」
「もっと本気になったら?」
「本気?」
「兄さんはいつもそうだよ。剣術の訓練でも、勉強でも、何だって……」
弟は途中で言葉を切った。
「……いや、何でもない」
「?」
アルバは首を傾げる。
訓練場では、魔導鎧が次の演習を始めていた。
今度は左腕に取り付けられた魔導砲が展開され、離れた標的へ照準を合わせる。
青白い光が集まり――。
ドォンッ!
放たれた魔力の塊が標的へ命中し、大きな爆発を起こした。
「すごい威力だね」
アルバは素直に感心した。
かつて、この世界の戦場では剣や槍、弓矢が主力だったという。
しかし魔導技術が発展した現在、生身の人間が装備する武器では、魔導鎧の厚い装甲を破ることすら困難になっていた。
魔導鎧は、強大な魔獣とも正面から戦える。
剣で城壁を砕き、魔導砲で遠くの敵を撃破し、防御術式で魔法攻撃さえ防ぐ。
そのため、魔導鎧を扱える人間は各国から重宝されている。
特に強い魔力を持つ者は、騎士としてだけでなく、国家の重要な戦力として扱われていた。
「……あれを動かすには、やっぱり魔力が必要なんだよね?」
アルバが尋ねた。
「当たり前でしょ」
弟が答える。
「魔導鎧は普通の鎧じゃないんだから。魔力がなければ、ただの鉄の塊だよ」
「そうだよね」
「だからこそ、今日は大切なんだ」
弟は窓から離れた。
「僕は、兄さんには負けないから」
「え?」
「神託だって、きっと……」
そこまで言って、弟は口を閉じた。
「……行こう。父上を待たせちゃう」
「あ、うん」
アルバも窓から離れる。
その背後では、魔導鎧が重い足音を響かせながら訓練場を歩いていた。
◇
屋敷の応接間には、すでに父と数名の家臣、そして教会から招かれた神官が待っていた。
部屋の中央には祭壇が設けられ、その上に透明な水晶が置かれている。
十五歳になった者が神託を受ける際に用いられる、特別な魔導器だった。
本来、神託は各地の教会で行われる。
しかし貴族の子弟については、神官を屋敷に招き、家族や側近が見守る中で儀式を行うことも珍しくない。
特に領主家の子供ともなれば、授かるスキルによって領地の将来が大きく左右される。
そのため、今日の儀式には父の側近たちも立ち会っていた。
「来たか」
父が二人へ視線を向けた。
「はい、父上」
アルバが答える。
父は満足そうに頷き、それから二人を見比べた。
「今日という日を、私は長く待ち望んでいた」
重々しい声だった。
「お前たちも知っている通り、我が家は代々この領地を守ってきた。だが、周辺諸国では魔導技術が急速に発展している」
父は窓の外へ目を向けた。
先ほどまで二人が眺めていた訓練場の方角だった。
「今後、領地を守るためには、より強力な魔導鎧と、それを扱う優秀な術者が必要になる」
「はい」
「特にアルバ」
父の視線が、アルバを捉えた。
「お前は長男だ。いずれ私の跡を継ぎ、この領地を治めることになる」
「……はい」
「そのためにも、優秀なスキルを授かってもらわねば困る」
アルバは軽く頷いた。
「頑張ります」
「……神託は努力で結果が変わるものではないがな」
「あ、そうでした」
思わず答えると、家臣の一人が小さく笑った。
父は呆れたように息を吐く。
「まったく、お前というやつは……」
しかし、その表情には期待が満ちていた。
「まあよい。お前には幼い頃から相応の教育を施してきた。きっと女神も、それに相応しいスキルを授けてくださるだろう」
「だといいですね」
アルバは微笑んだ。
父が期待していることは分かっている。
できれば、その期待に応えたい。
ただ、もし期待したスキルが出なかったとしても。
それは仕方のないことだ。
何しろ、自分で選べるわけではないのだから。
「では、始めていただこう」
父が神官へ向き直った。
「承知いたしました」
神官が祭壇の前へ進む。
「まずは、ご長男のアルバ様からお願いいたします」
「はい」
アルバは一歩前へ出た。
祭壇の前で膝をつく。
神官が水晶へ手をかざすと、透明だったその内部に淡い光が灯り始めた。
「女神よ。この者が成人を迎えし今日、授けられたる才を我らに示したまえ――」
祈りの声が応接間に響く。
アルバは水晶を見つめていた。
どんなスキルが出るのだろう。
剣士だろうか。
魔術師だろうか。
それとも、まったく予想もしないようなものだろうか。
そんなことを考えているうちに、水晶の輝きが強くなった。
そして、その内部に四つの文字が浮かび上がる。
《大剣聖》。
「――《大剣聖》です」
神官の声が、応接間に響いた。
◇
「……ごみスキルではないか」
父の言葉に、アルバは思わず振り返った。
「えっ?」
たった今まで、伝説の勇者と同じスキルを授かったと聞いていた。
それなのに、ごみ。
あまりにも評価が極端ではないだろうか。
「父上……?」
「まさか、よりにもよって《大剣聖》とは……」
父は額を押さえた。
「……そんなに駄目なんですか?」
「駄目も何も……!」
父が声を荒らげかけたところで、神官が慌てて割って入った。
「あ、あの、領主様。まだ詳細の確認が済んでおりませんので……」
「……む」
「まずはお二人の神託を終え、その後で正式な能力の説明をさせていただければと」
父は不満そうに眉を寄せた。
しかし、やがて大きく息を吐いた。
「……そうだな」
そして、弟へ視線を移した。
「次はお前だ」
「はい!」
弟が勢いよく返事をする。
アルバと入れ替わり、祭壇の前へ進んだ。
すれ違うとき、弟はアルバをちらりと見た。
「……兄さん」
「ん?」
「残念だったね」
「そうみたいだね」
アルバが苦笑すると、弟は少し意外そうな表情を浮かべた。
しかし、何も言わずに祭壇の前へ跪いた。
神官が再び祈りを捧げる。
水晶が輝く。
今度は、先ほどとは比較にならないほど強い光が応接間を満たした。
「こ、これは……!」
神官が目を見開く。
水晶の内部で、文字が次々と浮かび上がった。
そして。
「《大賢者》……!」
神官の声が震えた。
「《大賢者》です!」
「な、何だと!?」
父が椅子から立ち上がった。
「間違いないのか!」
「はい! 間違いありません!」
神官は水晶を食い入るように見つめている。
「《大賢者》。過去に数多くの偉大な魔術師や英雄を輩出した、最高位の魔術系スキルです!」
応接間が一気に騒がしくなった。
「大賢者……!」
「なんということだ!」
「これは素晴らしい!」
家臣たちが口々に歓声を上げる。
アルバも驚いていた。
「へえ……すごいじゃないか!」
弟へ笑顔を向ける。
「おめでとう!」
「……」
弟はまだ水晶を見つめていた。
まるで、自分の目に映る文字を信じられないかのように。
やがて、その口元がわずかに緩んだ。
「……僕が?」
小さく呟く。
「僕が……《大賢者》?」
その声には、抑えきれない歓喜が滲んでいた。
神官は興奮を抑えきれない様子で説明を続ける。
「《大賢者》は、所有者の身体能力に一定の制限を課す代わりに、極めて巨大な魔力を授けるスキルです」
「具体的には?」
父が身を乗り出す。
「最大魔力量は、一般的な聖騎士およそ一万人分に相当します!」
「い、一万人分!?」
今度はアルバまで声を上げてしまった。
聖騎士とは、高い魔力と戦闘能力を持つ者に与えられる称号だ。
当然、一般人とは比較にならない魔力を持つ。
その聖騎士の、一万人分。
想像すらできない数字だった。
「さらに、主要十二属性すべてに極めて高い適性を持ち、複数の魔法を同時に行使することが可能です」
「複数の魔法を……?」
「はい。それだけではありません。高度な魔力制御能力を持ち、複数の魔導器を同時に操作することもできます」
神官は一度言葉を切った。
「過去の記録には、五機の魔導鎧を同時に操った《大賢者》も存在すると記されています」
「五機……!」
父が息を呑む。
魔導鎧は一機だけでも極めて高い魔力制御能力を必要とする。
それを五機。
しかも同時に。
現代の軍事常識から考えれば、まさしく規格外の能力だった。
「素晴らしい……!」
父は弟へ歩み寄ると、その両肩を力強く掴んだ。
「よくやった!」
「ち、父上……!」
「これならば我が領地の将来も安泰だ! いや、それどころか、周辺諸国に対して圧倒的な優位を築くことすらできる!」
父の顔には、先ほどまでの失望など微塵も残っていなかった。
弟はその顔を見上げている。
そして、ゆっくりと笑った。
「……ありがとうございます、父上」
その様子を、アルバは少し離れた場所から眺めていた。
(本当にすごいスキルなんだなぁ……)
父があれほど喜んでいる。
ということは、きっと領地にとっても良いことなのだろう。
それなら、自分も嬉しい。
少なくともアルバは、そう思った。
◇
「それでは、続いて《大剣聖》の詳細をご説明いたします」
弟の神託が終わると、神官が改めてアルバへ向き直った。
「はい、お願いします」
アルバは素直に頷く。
父はまだ不満そうだったが、神官は水晶へ手を置いて説明を始めた。
「《大剣聖》。これは、所有者の身体能力を常人のおよそ一万倍にまで引き上げるスキルです」
「一万倍……?」
家臣の一人が呟いた。
「それほどの身体能力があれば、魔導鎧など必要ないのでは?」
その言葉に、アルバも期待を抱いた。
常人の一万倍。
剣を振れば、どれほどの威力が出るのだろう。
どれほど速く走れるのだろう。
もしかすると、生身で魔導鎧と戦えるかもしれない。
そんなことを考えたときだった。
「ただし……」
神官の表情が曇った。
「《大剣聖》には、極めて重大な問題がございます」
父が腕を組む。
「……やはりな」
「所有者は、魔力に嫌われる、とされています」
「……魔力に?」
アルバは首を傾げた。
「嫌われる?」
「はい」
「魔力って、人を好き嫌いするんですか?」
「……分かりません」
神官は申し訳なさそうに答えた。
「現存する資料には、そのように記されているのです」
「でも、それってどういう意味なんでしょう?」
「具体的には、所有者の身体に魔力が定着しなくなるとされています」
神官は説明を続けた。
「本来、人間の身体には多少なりとも魔力が存在します。特別な才能がない者であっても、生活魔法程度なら扱えるのが普通です」
「そうですね」
「しかし《大剣聖》を授かった者は、その魔力を保持できなくなるのです」
「えっ」
アルバが瞬きをする。
「じゃあ……ボク、魔法が使えなくなるんですか?」
「恐らくは」
「火をつけたりするのも?」
「難しいでしょう」
「照明を点けたりするのも?」
「……それも、恐らくは」
「…………」
アルバは少し考えた。
「……ものすごく不便じゃないですか?」
「残念ながら」
神官は沈痛な面持ちで頷いた。
しかし、説明はまだ終わっていなかった。
「問題は、それだけではありません」
「まだあるんですか!?」
「はい。魔力を用いる道具にも、重大な障害が生じるとされています」
神官は祭壇の脇に置かれていた、小さな照明器具を指差した。
「例えば、こちらの魔石灯です」
照明器具の内部では、青白い魔石が淡く輝いている。
「この世界では、魔石に魔力を蓄えることで、さまざまな魔導器を使用しています」
魔石。
魔力を蓄積する性質を持つ特殊な鉱石。
照明、暖房、調理器具。
都市の水道設備や工場の機械にも、この魔石を動力源とした魔導器が使われている。
現代社会において、魔石は人々の生活に欠かせない存在だった。
「ですが、《大剣聖》の所有者が魔石に触れると、蓄えられた魔力が散ってしまうと記録されています」
「……触るだけで?」
「はい」
「……本当に?」
「それは、実際に確かめていただいた方がよいでしょう」
神官が照明器具を差し出した。
「こちらは十分な魔力が充填されております。どうぞ、魔石の部分に触れてみてください」
「分かりました」
アルバが手を伸ばす。
青白く輝く魔石へ指先を触れさせた。
その瞬間。
ふっ。
「……あれ?」
光が消えた。
神官が目を見開く。
「……!」
アルバは照明器具を持ち上げた。
軽く振ってみる。
当然、何も起こらない。
「……消えちゃいましたね」
神官が魔石を調べる。
そして、困惑した表情を浮かべた。
「魔力が……残っておりません」
「ええっ!?」
「完全に空になっています」
「でも、ボク、触っただけですよ?」
「そのようですね……」
神官は水晶と魔石を交互に見つめた。
「古い記録は、正しかったようです」
「……すごいですね」
アルバは自分の手を眺めた。
何となく、変な感じがする。
魔石へ触れた瞬間、指先から何かが離れていったような感覚があった。
まるで、水の中で握っていた砂が指の隙間から流れていくような。
そんな、頼りない感覚だった。
「……ということは」
アルバは顔を上げた。
「ボク、魔導鎧にも乗れないんですか?」
神官の表情が、さらに暗くなった。
「……極めて困難かと」
「…………」
「魔導鎧は、搭乗者の魔力を機体へ流し込むことで操作します。また、大型の魔石を補助動力として搭載している機体もございます」
神官は説明を続ける。
「しかし、《大剣聖》の所有者は魔力を保持できず、魔石に触れれば蓄積された魔力まで散らしてしまう……」
「つまり?」
「通常の方法では、魔導鎧を操作することはできません」
アルバは黙り込んだ。
朝、弟と一緒に眺めた魔導鎧。
いつか自分も乗ってみたいと思っていた。
だが、その望みはどうやら叶わないらしい。
「……そっかぁ」
小さく呟く。
少し残念だった。
けれど、どうしようもない。
「まあ、仕方ないですね」
そう言って笑った。
神官は複雑な表情を浮かべた。
だが、さらに言葉を続ける。
「それと……もう一点」
「え?」
「《大剣聖》には、戦闘においても極めて危険な特性があるとされています」
「戦闘でも?」
「はい。魔法攻撃を受けた場合、その威力が通常の約二倍に増幅される、と」
「…………」
アルバは数秒間、言葉を失った。
「……ええっ!?」
思わず声が裏返る。
「ちょ、ちょっと待ってください! 魔力に嫌われるなら、魔法が効かなくなったりするんじゃないんですか!?」
「いいえ。残念ながら、そのような記録はありません」
「むしろ強くなるんですか!?」
「そのようです」
「なんで!?」
「……分かりません」
神官は再び頭を下げた。
「《大剣聖》の発現が確認されたのは、七百年前の勇者ただ一人。当時の資料もほとんど残っておらず、詳しい原理は分かっていないのです」
「……そうなんですか」
アルバは肩を落とした。
魔法が使えない。
魔導器も使えない。
魔導鎧にも乗れない。
おまけに、攻撃魔法を受ければ威力が倍になる。
なるほど。
確かに、かなり問題の多いスキルらしい。
「……まったく!」
父が苛立たしげに声を上げた。
「だから言ったのだ!」
家臣たちが一斉に父へ視線を向ける。
「《大剣聖》など、現代では何の役にも立たん!」
「父上……」
「魔導鎧を動かすことすらできん者が、どうやって領地を守るというのだ!」
父はアルバを睨みつけた。
「今は剣と槍で戦争をしていた時代ではない!」
アルバは何も言わなかった。
「一万倍の身体能力? それがどうした! 現代の戦争は魔導鎧で行うのだ!」
魔導鎧は、人間を遥かに超える巨大な兵器である。
装甲には防御術式が組み込まれ、巨大な魔獣の攻撃にも耐えられる。
搭載された魔導砲によって、数百メートル先の敵を撃破することも可能だった。
さらに、強力な機体なら飛行術式によって空中を移動することすらできる。
いくら身体能力が一万倍になろうと、魔法も魔導器も使えないのであれば、現代社会では致命的な弱点となる。
少なくとも、父はそう判断していた。
「七百年前なら、英雄になれたのかもしれんな」
父は吐き捨てるように言った。
「だが、今は違う」
応接間に沈黙が落ちる。
「……ごみスキルだ」
今度は、はっきりと断言した。
アルバは水晶を見つめた。
《大剣聖》。
かつて勇者が持っていた、伝説のスキル。
それを授かった自分は、きっとすごい存在なのだと思った。
ほんの一瞬だけ。
でも、違ったらしい。
(……そっか)
アルバは自分の手を見下ろした。
(父上がそう言うなら、きっとそうなんだろうな)
不思議と、それ以上の感情は湧いてこなかった。
◇
「……決めた」
しばらくの沈黙のあと、父が口を開いた。
その声は、先ほどまでとは違っていた。
怒りではなく、何かを決断した者の声だった。
「次期領主を変更する」
家臣たちが息を呑んだ。
父は弟へ向き直る。
「お前を、次期領主とする」
「……僕、ですか?」
弟が目を見開いた。
「そうだ。《大賢者》を授かったお前こそ、この領地を継ぐに相応しい」
「父上……!」
「今後はお前を中心に教育を進める。魔導鎧の訓練も、最高の教師を用意しよう」
父は満足そうに頷いた。
「お前ならば、この領地をさらに発展させることができるはずだ」
弟の表情が明るくなる。
その瞳には、喜びと興奮が満ちていた。
「ありがとうございます!」
弟は深々と頭を下げた。
家臣たちも口々に祝福の言葉を述べる。
「おめでとうございます!」
「素晴らしいことです!」
「これで我が領地も安泰ですな!」
そんな中。
「……ああ、そうなんだ」
アルバは小さく呟いた。
後継者が変更された。
つまり、自分はもう領主にならなくていいらしい。
「……ということは」
アルバは父へ尋ねた。
「ボクは、もう領主になるための勉強をしなくていいんですか?」
「……何?」
父が眉を寄せる。
「だから、その……」
アルバは少し考えた。
「今までみたいに、領地経営とか軍学とか、そういう勉強をしなくてもいいのかなって」
「……当たり前だ」
父が冷たく答えた。
「お前はもう後継者ではない。今後の教育はオトウトを優先する」
「そっか」
アルバは頷いた。
そして。
「じゃあ、自由なんですね」
そう言って、笑った。
「…………」
父が言葉を失う。
弟も、ゆっくりと顔を上げた。
「……兄さん?」
「ん?」
「……それだけ?」
「それだけって?」
弟はアルバを見つめた。
「後継者の座を取られたんだよ?」
「うん」
「今まで兄さんが受けていた教育も、父上からの期待も、全部僕のものになるんだよ?」
「そうだね」
「……悔しくないの?」
アルバは少し考えた。
悔しい。
そう感じるべきなのだろうか。
確かに、今まで自分は次期領主として育てられてきた。
剣術も、学問も、礼儀作法も、軍学も。
毎日のように教師がやってきて、休む暇もなく勉強を続けてきた。
それが今日、一瞬にして無意味になった。
普通なら、怒るのかもしれない。
悲しむのかもしれない。
しかし。
「……別に」
アルバは首を傾げた。
「君の方が向いてると思うし」
「……っ!」
「《大賢者》って、すごいスキルなんでしょ? それなら君が領主になった方が、みんなも安心するんじゃないかな」
アルバは笑った。
「よかったね。おめでとう!」
心からの言葉だった。
少なくとも、アルバ自身はそう思っていた。
自分が領主になったところで、何か特別なことができるとは思えない。
弟の方が優秀なら、弟がやればいい。
何もおかしなことではない。
それに、領主にならなくていいのであれば、今までより自由な時間が増える。
これから何をしようか。
そんなことを考えていた。
けれど弟は、笑わなかった。
「……なんで」
「ん?」
「なんで、そんな顔ができるんだよ……」
弟の声が震えていた。
「そんな顔?」
「僕が……僕がようやく兄さんより上になったのに……!」
アルバは困惑した。
「……上?」
「ずっとそうだった!」
弟が突然声を荒らげた。
「何をやっても兄さんだった! 剣術も、学問も、乗馬も!」
「……」
「僕がどれだけ頑張っても、みんな兄さんを見てた!」
弟の拳が震えている。
「僕はずっと、兄さんの弟だった!」
アルバは何も言えなかった。
弟がそこまで思い詰めていたことなど、知らなかったからだ。
「でも、今日からは違う!」
弟が顔を上げる。
「僕が《大賢者》なんだ! 僕が後継者なんだ!」
「……うん」
「兄さんはもう、何も持ってないんだよ!」
アルバは弟を見つめた。
何も持っていない。
その言葉を、頭の中で繰り返す。
(……そうなのかな)
少し考える。
領主の地位は弟のものになった。
父の期待も弟へ移った。
《大剣聖》は、現代では役に立たないらしい。
ならば。
(……まあ、そうなのかもしれない)
そう思った。
そして、弟へ微笑んだ。
「うん。だから、君が頑張ってね」
「…………!」
弟の顔が歪んだ。
まるで、何かを必死に堪えているようだった。
「……兄さん」
「ん?」
「……僕は」
そこで、弟の言葉が途切れた。
アルバは首を傾げた。
そのときだった。
ふわり。
弟の瞳の奥で、何かが揺らめいた。
「……?」
アルバは瞬きをした。
紫色。
ほんの一瞬だけ、弟の瞳に薄い紫色の靄が浮かんだように見えた。
(……今の、何だろう?)
不思議に思う。
だが、もう一度見たときには消えていた。
「……兄さん」
弟が呟いた。
その声は、先ほどまでとはまるで違っていた。
怒りも、悔しさも感じられない。
不自然なほど穏やかな声だった。
「……そうだね」
「え?」
「兄さんは、自由になりたいんだよね?」
「……まあ、そうだね」
アルバは頷いた。
「領主にならなくていいなら、好きなことをしてみたいかな」
「……そう」
弟がゆっくりと微笑んだ。
その笑顔を見た瞬間、アルバは何となく違和感を覚えた。
つい先ほどまで、あれほど怒っていたのに。
どうして急に、こんなに落ち着いたのだろう。
それに。
(……何だか、いつものオトウトと違うような……)
アルバがそう思ったとき。
「じゃあ」
弟が片手を持ち上げた。
「もっと自由にしてあげるよ」
「……え?」
◇
いつ取り出したのだろう。
弟の手には、小さな瓶が握られていた。
先ほどまで、そんなものは持っていなかったはずだ。
透明な瓶の中では、紫がかった液体がゆっくりと揺れている。
「……それ、何?」
アルバが尋ねた。
弟は答えなかった。
ただ、楽しそうに瓶を眺めている。
「兄さん」
「ん?」
「今まで、ありがとう」
「……え?」
突然の言葉に、アルバは戸惑った。
「な、何? 急にどうしたの?」
「いろいろと教えてくれて」
「……?」
「いつも僕より先にいてくれて」
弟は微笑んだ。
「でも、もう必要ないんだ」
その瞳の奥で、再び紫色の靄が揺らめいた。
「……オトウト?」
アルバが一歩近づこうとした。
その瞬間。
ぱしゃっ!
「うわっ!?」
弟が瓶の中身をアルバへ浴びせた。
紫色の液体が宙を飛び、アルバの顔や服へ降りかかる。
「な、何するんだよ!」
反射的に顔を拭う。
液体は妙に冷たかった。
しかし、その冷たさは一瞬で消えた。
代わりに。
「……あれ?」
身体の奥から、奇妙な熱が湧き上がってきた。
胸が熱い。
手足がむずむずする。
そして何より。
「……何だ、これ……?」
視界が揺れた。
いや。
揺れたのではない。
低くなっている。
「……え?」
目の前にいた弟の顔が、急に遠ざかっていく。
いや、違う。
弟が大きくなっているのではない。
自分が。
縮んでいる。
「ちょ、ちょっと待って……!」
アルバは自分の手を見た。
指が短くなっていく。
五本あった指の形が変わり、手のひらが丸く、平たくなっていく。
皮膚の表面に、細かな茶色い毛が生え始めた。
「な、何これ!?」
驚いて腕を振る。
すると今度は、上着の袖が急激に余り始めた。
身体が小さくなっている。
腕が縮み、脚が短くなり、服がぶかぶかになっていく。
「え、え、ええっ!?」
慌てて服を押さえようとするが、今度は上着の襟が頭まで落ちてきた。
視界が布に覆われる。
「うわっ!」
ばさり。
衣服が床へ落ちた。
その中で、アルバの身体はさらに小さくなっていく。
耳の位置が変わり、丸みを帯びる。
鼻先が前へ伸び、頬に細い髭が生える。
胴体が細長くなり、背後には太い尾が伸びた。
全身を覆う茶色い毛。
短い手足。
そして、丸い耳。
数秒後。
床に落ちた衣服の山が、もぞもぞと動いた。
「……うう」
その中から、小さな顔が覗いた。
「……何が起きたの……?」
声は出た。
だが、妙に高い。
アルバは自分の前脚を見つめた。
茶色い毛。
小さな爪。
ぷにぷにとした肉球。
「…………」
もう一度見る。
「…………」
首を傾げる。
「……あれ?」
床に落ちていた銀製の盆へ視線を向けた。
磨き上げられた表面には、小さな生き物が映っている。
丸い顔。
黒くつぶらな瞳。
小さな耳。
茶色く、ふわふわとした毛並み。
全長は、およそ六十センチ。
「…………」
アルバは盆に映る自分を見つめた。
そして。
「……ラッコ?」
小さく呟いた。
もう一度、前脚を見る。
尾を動かしてみる。
ぴこり。
ちゃんと動いた。
「…………」
アルバは弟へ顔を向けた。
「……ボク、ラッコになってない?」
弟は口元を押さえていた。
肩が小刻みに震えている。
「……ふっ」
「……?」
「ふふっ……」
「……オトウト?」
次の瞬間。
「あははははははっ!」
弟が声を上げて笑い始めた。
「に、兄さん……! あははっ! 何それ!」
「いや、何それって……!」
「すごい! 本当にラッコになった!」
「……えっ?」
アルバは目を見開いた。
「本当にって……もしかして、これ、君がやったの!?」
「そうだよ!」
弟は楽しそうに答えた。
「魔獣変化薬。珍しい薬なんだって」
「ま、魔獣変化薬!?」
アルバは聞き覚えのある名前に驚いた。
魔獣変化薬。
人間を魔獣の姿へ変えてしまうという、危険な薬。
その危険性から、王国では製造も所持も厳しく制限されていると聞いたことがある。
「な、何でそんなもの持ってるの!?」
「さあ?」
「さあって!」
弟は笑みを浮かべた。
「兄さんに似合うと思ったから」
「似合うとかそういう問題じゃないよ!」
アルバは必死に抗議した。
しかし、短くなった前脚をばたばたと動かすその姿は、どう見ても小さなラッコだった。
「戻してよ!」
「無理」
「……え?」
「元に戻す薬は持ってないから」
「…………」
アルバは数秒間、固まった。
「……持ってない?」
「うん」
「じゃあ、ボクはどうなるの?」
「さあ?」
「さあってば!」
アルバは思わず飛び上がった。
その瞬間。
ひゅんっ!
「……え?」
視界が一気に上昇した。
次の瞬間、アルバは応接間の天井近くにいた。
「うわあああっ!?」
驚いて手足をばたつかせる。
身体が妙に軽い。
いや、軽いどころではない。
ほんの少し床を蹴っただけなのに、数メートルも跳び上がってしまったのだ。
慌てて身体を丸める。
そして。
とすっ。
床へ着地した。
「…………」
アルバは自分の前脚を見つめた。
奇妙な感覚だった。
身体はラッコになっている。
だが、先ほどまでの力は残っている。
むしろ小さな身体になったことで、力の加減が難しくなっているようだった。
(……これって)
アルバは気づいた。
(《大剣聖》の力……?)
身体が変わっても、スキルは失われていない。
常人の一万倍という、途方もない身体能力。
それはラッコになった今も、確かに存在していた。
「……へえ」
弟が小さく呟いた。
「変身しても、スキルは残るんだ」
その声には、奇妙な感心が混じっていた。
アルバは顔を上げた。
「オトウト! とにかく元に戻してよ!」
「……兄さん」
弟は静かに微笑んだ。
「そんなに怒らないでよ」
「怒るに決まってるでしょ!」
「だって、自由になりたかったんでしょ?」
「そういう意味じゃないよ!」
「……そう」
弟は少し考えるような仕草をした。
そして。
「じゃあ、仕方ないね」
そう呟いた。
◇
「誰か!」
突然、弟が大声を上げた。
「衛兵! 早く来て!」
「……え?」
アルバは目を瞬かせた。
「何してるの?」
弟は答えない。
代わりに、応接間の扉へ向かって叫んだ。
「魔獣だ! 屋敷の中に魔獣が入り込んだ!」
「……ええっ!?」
アルバは思わず声を上げた。
「ちょ、ちょっと待って!」
廊下の向こうから、慌ただしい足音が聞こえてきた。
ガチャッ!
応接間の扉が開く。
槍や剣を持った衛兵たちが駆け込んできた。
「何事ですか!?」
「魔獣が侵入したと!?」
「そこだ!」
弟が床を指差す。
「そいつを捕まえろ!」
衛兵たちの視線が一斉にアルバへ集まった。
「……ラッコ?」
「いや、魔獣だ!」
「人間の屋敷に、何故こんなものが……!」
アルバは慌てて前脚を振った。
「違う違う! ボクだよ!」
「……っ!?」
衛兵たちが一歩後ずさった。
「し、喋った!?」
「人語を操る魔獣だと!?」
「危険な個体かもしれん!」
「だから違うってば!」
アルバは必死に訴える。
「ボク! アルバだよ!」
しかし、衛兵たちは困惑するばかりだった。
無理もない。
ほんの少し前まで、アルバは十五歳の少年だった。
それが今では、全身茶色い毛に覆われた小さなラッコである。
声も高くなっている。
とても領主の息子には見えない。
「ほ、本当にアルバ様なのか……?」
一人の衛兵が戸惑ったように呟いた。
「そうだよ!」
アルバは勢いよく頷いた。
「オトウトに変な薬をかけられて、こんな姿になっちゃったんだ!」
「薬……?」
衛兵が弟を見る。
その視線を受けた弟は、ゆっくりと首を振った。
「何を言っているんだい?」
「……え?」
「僕の兄さんは人間だよ」
弟は穏やかに言った。
「そんな魔獣が兄さんのはずないじゃないか」
「…………」
アルバは言葉を失った。
「……何言ってるの?」
弟は答えなかった。
代わりに父へ向き直る。
「父上」
その声は、先ほどまでとは違っていた。
「この魔獣、どういたしましょう?」
父は黙っていた。
目の前にいる小さなラッコ。
床に散らばった衣服。
割れた薬瓶。
そして、異様に落ち着いた表情の弟。
そのすべてを見れば、何が起こったのか理解できるはずだった。
実際、父はアルバが変身する瞬間を見ていた。
アルバも、それを知っている。
だからこそ。
「父上!」
必死に呼びかけた。
「父上なら分かりますよね!? ボクです! アルバです!」
父の眉がわずかに動いた。
しかし、返事はない。
「……黙れ」
父が低い声で言った。
「……え?」
「黙れと言っている」
アルバの身体が固まった。
父はしばらく、アルバを見つめていた。
その顔には怒りとも、困惑ともつかない表情が浮かんでいる。
だが、やがて。
「……衛兵」
静かに命じた。
「その魔獣を屋敷から追い出せ」
「……え?」
アルバは耳を疑った。
「ちょっと……父上?」
「聞こえなかったのか」
父は衛兵へ向き直った。
「屋敷の中に魔獣を置いておくわけにはいかん。直ちに外へ追い出せ」
「は、はい!」
衛兵たちが武器を構え直した。
だが、一人が戸惑ったように尋ねる。
「あの……本当に、追い出してよろしいのでしょうか?」
「何だ?」
「いえ、その……先ほどから、この魔獣はアルバ様だと……」
「アルバは、もうこの家の後継者ではない」
父の言葉が、冷たく響いた。
それは質問への答えになっていなかった。
しかし、衛兵はそれ以上何も言えなくなった。
「……承知しました」
アルバは父を見上げた。
「……父上?」
呼びかけても、父は答えない。
代わりに、弟が笑った。
「ほら、兄さん」
その瞳の奥で、紫色の靄が揺らめいた。
「自由になれるよ」
「…………」
アルバは弟を見つめた。
何を言えばいいのか分からなかった。
さっきまで、普通に話していた。
一緒に朝食を食べるはずだった。
今日は二人の誕生日で、神託を受けて。
弟が《大賢者》を授かって。
父が喜んで。
自分は後継者ではなくなった。
それだけのはずだった。
なのに。
どうして、こんなことになっているのだろう。
「……捕まえろ!」
衛兵の声が響いた。
アルバは我に返った。
「わっ!?」
大きな手が伸びてくる。
反射的に身を屈めると、手が頭上を通過した。
「なっ!?」
衛兵が驚く。
別の衛兵が背後から回り込む。
「こっちだ!」
「だから待ってってば!」
アルバは慌てて横へ跳んだ。
ひゅんっ!
視界が横へ流れる。
気づけば数メートル先にいた。
「……え?」
自分でも驚いた。
だが、衛兵たちはもっと驚いていた。
「速い!?」
「何だ、この魔獣は!」
槍が向けられる。
剣が抜かれる。
アルバは思わず身体を縮めた。
「ちょ、ちょっと! 危ないよ!」
「逃がすな!」
衛兵が駆け寄ってくる。
アルバは反射的に床を蹴った。
ドンッ!
「うわっ!?」
あまりの勢いに、身体が弾丸のように飛び出した。
衛兵の足元をすり抜け、開いた扉から廊下へ飛び出す。
背後で、怒鳴り声が上がった。
「逃げたぞ!」
「追え!」
「屋敷の外へ追い出せ!」
「だからボクだってばぁぁぁっ!」
アルバは叫びながら走った。
短い脚が、恐ろしい速度で床を蹴る。
廊下の絨毯が後方へ流れ、柱や扉が次々と視界を通り過ぎる。
あまりの速さに、景色が一瞬で変わっていく。
「うわわわっ!」
角が近づく。
慌てて身体を傾ける。
つるっ!
小さな脚が床を滑った。
「うひゃっ!?」
アルバの身体が横向きに滑り、壁へ向かって突っ込んでいく。
慌てて前脚を突き出した。
ドンッ!
壁が小さくへこんだ。
「…………」
アルバは壁を見た。
自分の前脚を見る。
「……やっちゃった」
だが、そんなことを気にしている場合ではない。
背後から衛兵たちが迫ってくる。
「いたぞ!」
「そっちへ行った!」
「うわっ、来た!」
アルバは再び走り出した。
廊下を駆け抜け、階段を飛び降り、中庭へ飛び出す。
外の空気が毛並みを撫でた。
朝の陽光が眩しい。
庭にいた使用人たちが、突然現れた小さな生き物を見て悲鳴を上げた。
「きゃあっ!?」
「何!?」
「魔獣だ!」
「違うってば!」
アルバはその間を駆け抜けた。
庭の先には、大きな門がある。
その向こうは領都へ続く街道だ。
「……あっち!」
アルバは門へ向かって走った。
だが、門は閉じられていた。
「……えっ」
慌てて足を止める。
背後から衛兵たちが迫る。
「追い詰めたぞ!」
「もう逃げられん!」
アルバは門を見上げた。
高さは数メートル。
普通のラッコなら、到底越えられない。
だが。
「……えいっ!」
アルバは地面を蹴った。
ひゅんっ!
身体が宙へ舞い上がる。
門が足元へ沈んでいく。
そのまま、ひらりと門を飛び越えた。
「な、何だと!?」
衛兵たちの驚く声が聞こえる。
アルバは門の外へ着地した。
とすっ。
「……おお」
思わず感心する。
「跳べた……」
しかし。
「門を開けろ!」
「追い出せ! 二度と屋敷に近づけるな!」
背後から怒鳴り声が響いた。
アルバは振り返った。
大きな門。
その向こうにある、見慣れた屋敷。
生まれてから十五年間、ずっと暮らしてきた場所。
そして。
つい先ほどまで、自分の家だった場所。
「…………」
アルバはしばらく門を見つめていた。
だが、やがて。
「……まあ、いいか」
小さく呟いた。
戻ったところで、どうなるのだろう。
弟は自分を魔獣だと言った。
父も、自分を追い出せと命じた。
ならば。
もう、あそこに自分の居場所はないのだろう。
そう考えると、不思議と納得できてしまった。
「……うん」
アルバは頷いた。
「仕方ないよね」
そして、ゆっくりと屋敷に背を向けた。
◇
領都の外れ。
人通りの少ない街道まで来たところで、アルバはようやく足を止めた。
「……ふぅ」
道端に座り込む。
小さな前脚を持ち上げてみる。
茶色い毛に覆われた、丸い手。
短い脚。
太い尾。
どう見ても、ラッコだった。
「……本当にラッコになっちゃったんだなぁ」
何となく呟く。
試しに尾を動かしてみる。
ぴこぴこ。
「……動く」
耳も動かしてみる。
ぴくり。
「……こっちも」
少し面白い。
いや、面白がっている場合ではないのだが。
「……さて」
アルバは空を見上げた。
雲がゆっくりと流れている。
今日、自分は十五歳になった。
成人を迎えた。
そして神託によって《大剣聖》という伝説のスキルを授かった。
その結果。
後継者ではなくなった。
父に見捨てられた。
弟にラッコへ変えられた。
屋敷から追い出された。
「…………」
アルバはしばらく黙っていた。
「……すごい誕生日だなぁ」
ぽつりと呟く。
普通なら、泣いてもおかしくないのかもしれない。
怒ってもいいのかもしれない。
弟を恨んでも。
父を責めても。
おかしくはないのだろう。
でも。
アルバは、そんなことを考えなかった。
いや。
考えようとしなかった。
父が自分を必要ないと判断したのなら、仕方がない。
弟の方が優秀なのだから、後継者になるのも当然だ。
家を追い出されたことだって、自分がラッコになってしまったのだから、仕方がない。
そう考えれば、すべてに説明がつく。
ただ。
「……これからどうしよう」
その問題だけは、残っていた。
アルバは自分の身体を見下ろした。
服はない。
お金もない。
食べ物もない。
寝る場所もない。
そして何より。
「……ラッコだし」
その一言が、すべてを物語っていた。
このままでは、普通に働くことすら難しいかもしれない。
「……うーん」
アルバは考えた。
自分に何ができるだろう。
魔法は使えない。
魔導器も使えない。
魔導鎧にも乗れない。
ただし。
「……そういえば」
前脚を持ち上げる。
《大剣聖》。
常人の一万倍の身体能力。
その力だけは、まだ残っている。
「……これ、何かに使えないかな」
アルバは小さな石ころを拾った。
前脚で軽く握ってみる。
ぱきっ。
「……あ」
石が砕けた。
細かな破片が、地面へぱらぱらと落ちていく。
「…………」
アルバは自分の前脚を見つめた。
「……すごいな」
少しだけ、感心した。
しかし。
「……でも、これでどうやってお金を稼ぐんだろう」
石を砕く仕事。
そんな仕事があるのだろうか。
あったとしても、ラッコを雇ってくれるだろうか。
「…………」
アルバは再び空を見上げた。
風が吹く。
小さな身体を覆う毛並みが、ふわりと揺れた。
「……まあ」
しばらく考えたあと。
アルバは立ち上がった。
「とりあえず、街へ行ってみようかな」
何か仕事が見つかるかもしれない。
食べ物だって、手に入るかもしれない。
寝る場所も、探せば見つかるだろう。
そう思った。
その見通しが甘いことなど、アルバ自身も薄々分かっていた。
けれど、それ以上どうすればいいのか分からない。
何しろ。
自分は今日、初めて自由になったのだから。
「……よし」
アルバは前脚を握りしめた。
「行こう」
小さな身体を翻し、街道を歩き始める。
その背中には、もう領主家の紋章もない。
誰かから期待される立場でもない。
何者かになることを約束された未来もない。
ただ、一匹のラッコがいるだけだった。
しかし。
アルバはまだ知らない。
この世界で《大剣聖》というスキルが、なぜ一度しか現れなかったのか。
なぜ、その所有者は魔力に嫌われると伝えられているのか。
そして。
弟の瞳に浮かんだ、あの不自然な紫色の光が何を意味していたのか。
それらの謎が、やがて自分の運命を大きく変えていくことを。
そんな未来など想像もしないまま。
アルバは、ぽつりと呟いた。
「……お腹空いたなぁ」
その声は、誰もいない街道に小さく響いた。
十五歳。
元領主家の長男。
所有スキル、《大剣聖》。
現在の姿、ラッコ。
こうしてアルバの、まったく予定になかった新しい人生が始まった。




