第三話 女盗賊アゼリア、覚醒
貴族の身分を捨て、アゼリアは荒野をさまよった。日差しは肌を焼き、夜の寒さは骨を刺した。帰る家も、迎えてくれる家族も、もういない。父は、自分のために自害した。母や他の家族も、きっと離散してしまったのだろう。世間知らずの箱入り娘には、あまりにも過酷な旅路。使用人も、着飾るドレスも全てが過去の幻影。生きるために泥水をすすり、食べ物を盗んだ。
そんな彼女を、運命はさらに弄ぶ。あっけなく、盗賊団に攫われてしまったのだ。
「ひひひ、いい女じゃねえか。高く売れそうだ」
下卑た笑い声をあげる男たち。欲望の対象物として品定めをする視線。粗雑で汚れた指先が、アゼリアの身体に触れようと不用意に近づく行為……。侯爵家令嬢として育てられた羞恥心が、一瞬頭をもたげた。熱い泥の中に突き落とされたような、生理的な嫌悪感。この後に来るだろう肉体的な屈辱に、彼女は全身が凍り付くような恐怖を覚えた。しかし、絶望の淵に立たされたアゼリアは、もう何も怖くなかった。彼女の胸の中には、レオノアに裏切られたことで生まれた、深い孤独と、ねじ曲がった復讐の炎だけがあった。
「私を誰だと思っているの? この私を売り飛ばすなど、万死に値するわ」
アゼリアは、かつて令嬢として身につけた気品と、生まれ持った美貌を武器にした。この屈辱的な状況を受け入れることを、自分に命令したのだ。
彼女は、令嬢としての尊厳が砕け散る音を聞いた。そしてその砕け散った破片は彼女の身体を燃やすような異様な熱を放った。 彼女は恐怖に震えるどころか、不敵な笑みで盗賊たちを見据えてやった。彼女にはもう失うものが何もなかった。
アゼリアの気迫に、逆に男たちがたじろぐ。
若さと自意識、そして失うものがないという強さ。それが盗賊たちを、アゼリアを欲望の対象ではないものにした。彼女は手懐けるべき危険な獲物として盗賊団に受け入れられた。
この盗賊団には明確な頭領がいなかった。
ヴァルガス王の悪政で王国は各地で騒乱が起き、耕す土地を失った農民たちが流浪している。その中には食うために盗賊となるものも多い。
土地を失った農民が、まだ土地を持っている農民を襲う。アゼリアの入った盗賊団は、そんな元農民の集団だった。盗賊団には宿営地には、女性や老人、子どももいた。彼らは略奪者であると同時に、王に見捨てられた被害者でもあった。
アゼリアは、剣を振るって襲撃にも加わり、その盗賊団の中で頭角を現していく。貴族の姫君が持つとは思えない剣の腕は、護身術として学んだものだったが、今や敵の血を吸うことに何の躊躇もなかった。上品な貴族の太刀筋が、襲撃のたびに力強さを増していく。
アゼリアの支配は、まず盗賊たちの間で最も力を持つ二人の男、短気で乱暴なガストンと、計算高いルパートを味方につけることから始まった。
ガストンは、力こそ全てと信じる獣のような男だ。アゼリアは、彼が他の団員を打ちのめし、力を誇示した直後を狙った。
彼を敢えて膝まずかせ、その頭を冷たい視線で見下ろし、勝利の陶酔を奪い取る。
「あなたのような力強い男こそ、この団の頭にふさわしいわ」
その頭に触れるか触れないかの距離で、彼の力を讃える甘い言葉を囁いた。その言葉は、彼が求めるものだった。ガストンは、アゼリアの冷たい愛撫のような言葉に、獣が首輪を与えられたような安堵を覚えた。
一方のルパートは、常に団の次の行動を計算し、虎視眈々と権力を狙う策謀家だ。
「私はあなたの知恵を必要としているの。この団を思うままに動かすには、あなたの力が必要だわ」
アゼリアは彼の策略家としての能力を称えた。そのあとで、アゼリアは彼の最も深い孤独に触れた。
「あなたのような人が、こんな盗賊団にいるなんておかしいわね。あなたはいつも孤独で、誰もあなたの知恵を理解できない。でも私は違う。私はあなたの知恵を、この乱世を覆すための武器として使える。私には、あなたの知的な共犯関係が必要なの。わたしがそこまで連れて行ってあげる」
彼の心の中に秘めているプライドをくすぐった。ルパートは、美貌と知性で自分を上回るアゼリアに、抗うことを放棄した。
アゼリアは、時に甘い言葉で、時に冷たい視線で男たちの心を翻弄した。知性と気品で男たちを支配する快感を彼女は知った。
男たちはアゼリアの美貌と知性に夢中になり、互いに彼女の歓心を買おうと争うようになった。その争いは徐々に激化し、やがてガストンとルパートは互いの足を引っ張り合うようになる。そこに権力の空白が生まれた。
仲間内でのいざこざで、盗賊団の中に「このままだと、盗賊団が分解し、食べていけなくなる」と今後に不安を覚えるものが出てくる。それは静かなささやきで、最初は女たちの間からだったが、その不安はすぐに盗賊団全体に広がった。
アゼリアはその静寂と不安を巧みに利用した。
「これ以上、仲間内で争えば、王国軍に討伐されるだけ。家族を守るためには統率と知識が必要よ」
アゼリアは、盗賊団の不安をあおり、権力を握った。アゼリアが盗賊団での発言権を得ると、まず初めに行ったのは公平な食料の分配だった。
彼女は女性たちが公平に食糧を受け取れるよう指示した。この行為は、男たちへの間接的な支配でもあった。彼女は、男たちの家族を守りたいという気持ちを、自分の管理下に置いたのだ。
アゼリアは、夜の広場に火を焚かせ、ガストンとルパートを処刑し、その一派を追放した後に残ったすべての団員を集めた。
彼女は、侯爵家の令嬢としての毅然とした態度に血の匂いをまとわせて、その中心に立った。火の光が、彼女の冷たい瞳に異様な輝きを宿らせた。
彼女は、誰も言葉を発さない、張り詰めた静寂を利用した。彼女は一人一人の顔を、冷たい瞳で見つめた。それは、感情を読み取るためではなく、彼らの心に巣食う不安と従属欲を見抜き、逃げ道を全て断つ視線だった。
「あなたたちが求めるのは、略奪ではない。家族が安心して生きられる未来でしょう。しかし、あなたたちだけでは、それは叶わない」
アゼリアは、静かに、しかし有無を言わせぬ調子で言った。
「あなたたちが生き残るためには、私が必要よ。その知識、その力、その命までも、私に預けなさい。私に従い、私に服従を誓うこと。それが、あなたたちが生き残ることのできる唯一の方法です」
それは、冷徹な支配の言葉だった。それを今、アゼリアは発している。支配する快感が、彼女の孤独な飢餓感を満たす情欲だった。
誰も抵抗しなかった。恐怖と、そして彼女が示す明確な論理に後押しされ、団員の一人がまず膝をついた。続いて、その場にいる全員が、土の上に頭を垂れた。
「私を、あなたたちの頭領として承認しなさい」
アゼリアは、跪いた彼らを見下ろしながら、その冷たい瞳の中に、情欲の悦びを宿っていることを感じていた。
彼女は今や、盗賊団の誰もが恐れ、そして愛する絶対的な女王となっていた。
かつて恋に頬を染めた乙女は、もういない。アゼリアの頬を染めるのは、敵の返り血。吹き込む風は、鉄錆の香りを運んでくる。
貴族の姫君から、女盗賊へ。アゼリアはアジトの私室で自分の手のひらを見つめる。父の保護の元で暮らし、レオノアの愛を求めていた、何も知らなかった頃の私の手は、白く細く、東洋の磁器のようだった。でも今の手は、剣戟にも慣れ、硬くゴツゴツして、まるで樫の木のようだった。かつての自分の手は庇護される者の手、今の自分の手は誰にも命令されず、自ら支配する力を掴んだ手……。
この手は純粋で従順な令嬢の手ではない。だが、この手で私は生きている。この硬さが、裏切りと孤独を乗り越えた私の情欲の形なのだと、アゼリアは自分の掌を強く握りしめた。彼女はこの手で、この乱世を生き抜くと誓った。




