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没落令嬢は初恋の騎士に裏切られ悪女になる  作者: 万里小路 信房


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第二話 裏切りの王宮、決別の逃避行

 古びた屋敷、その書斎は、昼間だというのに底冷えがするような薄暗さに沈んでいた。分厚いカーテンが窓からの光を拒み、侯爵家の零落を静かに映し出している。クライナー侯爵は、わずかな燭台の灯りもつけず、ただ一人、ひび割れた革張りの椅子に座っていた。


「この名門の侯爵家を、わしが再興するのだ。王の血を引く子が生まれれば、もう「貧乏貴族」と笑われることもないだろう」


 口の中で何度も、何度も、同じ言葉を反芻する。まるで自分自身を納得させるための、呪文のように。


 先王の愛妾を正妻として押し付けられるほどに落ちぶれた、この伝統あるクライナー侯爵家。

 その歴史の重みを彼は知っている。だからこそ、娘を王の側室として差し出すという、普通なら喜んで従うべき「名誉」に対し、言い訳を重ねるしかなかった。葛藤の種は、娘への愛情ではない。それは、古くからの貴族としての「尊厳」という、もはや虚ろになりつつある、しかし彼にとっては全てである価値観が生み出した、やっかいな影だった。


 妻は、明確に反対した。

 彼女は王宮の女たちの世界の底知れない暗さを肌で知っている。そして何より、侯爵と妻だけが知る、娘にまつわる秘密を抱えていた。その秘密は、王すら知らないはずのもの。だからこそ、王は騎士レオノアを内密の使いとしてよこしてきたのだ。

 アゼリアの美しさは、妻譲りの、得難い武器となる。これを活かさぬ手はない、と。侯爵は、妻の反対を押し切った。


 王宮からの馬車が、埃を立ててクライナー邸の門をくぐる。王宮からの支度金で整えられた王宮で暮らすための家具が、冷たいほどに整然と運ばれていく。今回の使者も、例の騎士、レオノアだった。氷の鎧のように、彼の表情はいつも硬い。アゼリアがかすかに笑いかけても、そのサファイアの瞳は、一瞬たりとも揺るがない。


 アゼリアは、この冷たさの中に、自分の初恋が音もなく終わったことを知った。王の側室になれば、毎日、彼に会える。それだけが、彼女を王宮へと向かわせる、唯一の希望だった。だが、レオノアの態度は、その希望の芽を、容赦なく踏み潰した。


「少しは笑いかけてくれたっていいのに」


 胸の中でそうつぶやいても、騎士は彼女に何の関心もない。いや、むしろ、関心を抱くことすら拒絶しているように見えた。アゼリアは、彼を振り向かせる可能性が、もうどこにも残されていないことを悟った。


 馬車の中で、アゼリアの胸は、初恋の終焉による失望と、伝統ある貴族を軽んじ、家を零落させたヴァルガス王への、じっとりとした憎悪が、濁流となって渦巻いていた。


 父は、侯爵家の名誉のために、この選択をしたのだろう。父がいつも口にしていた「誇り高くあれ」「伝統を重んじる貴族としての誇りを持て」という言葉。それを思い返すうち、アゼリアの思考は、一つの恐ろしい結論へとたどり着いた。


 父は、「王に近づく機会を狙い、王を殺せ」と、言葉ではなく、その眼差しで、無言のうちに自分に命じたのだ――彼女はそう確信した。


 父も母も、そして他の由緒ある貴族たちも、新興の王家の圧迫に苦しんでいる。そうだ、私が、この腐った王権を終わらせるのだ。

 レオノアへの淡い憧れは、粉々に砕け散った。今、彼女の胸に残されたのは、冷たく、硬質な復讐の心だけだった。アゼリアは、ドレスの内側に隠し持った、侯爵家の家宝である、小さな短剣の柄を、強く握りしめた。その金属の冷たさが、彼女の決意を支えているかのようだった。


 王宮は、絢爛豪華だった。しかし、アゼリアの目には、それは民の血と汗の上に築かれた、虚飾の城としか映らない。城門を抜け、石造りの建物に入ると、アゼリアは、レオノアの手から、女官たちの集団へと、淡々と引き渡された。彼は、いつもと変わらぬ冷淡さで、アゼリアとほとんど言葉を交わすこともなかった。


 部屋に通され、王の側室となるための衣装に着替えさせられる。用意されていたのは、ヴァルガス王の好む空色のドレス。手の込んだ刺繍と美しい仕立ては、かつて王の愛妾の誰かが着ていたものらしい。他人のための、お下がりのドレス。それなのに、奇妙なほどアゼリアの体にしっくりと馴染んだ。それは、王の好む「型」に、彼女の体型が当てはまっている、というだけの、薄気味悪い事実を突きつけていた。


 着替えさせられる間、アゼリアの頭の中は、ヴァルガス王への憎悪で、まるで黒い靄に覆われたようになっていった。


 しかし、広間に集う貴族たちの中で、他の者と談笑するレオノアの姿を見つけてしまった、その瞬間――彼女の復讐心は、砂上の楼閣のように崩れ去った。


 憎悪に凝り固まっていたはずなのに、彼の姿を見ただけで、心臓がかき乱され、呼吸が乱れる。暗殺計画など、どうでもいい。ただ、もう一度、彼に会って、自分の、今にも溢れ出しそうな想いを伝えたい。


「レオノア様!」


 人目もはばからず、アゼリアは彼に駆け寄った。だが、彼は凍てつくような青白い瞳で、彼女をただ見下ろすだけだった。アゼリアの美しい顔立ちは、ヴァルガス王のそれと酷似していた。彼女は知る由もなかったが、その事こそが、レオノアを苦しめている理由だった。王を愛するがゆえに、王に似たこの娘を、彼は遠ざけようともがいていたのだ。


「アゼリア様。このような場所で何を」


 レオノアの声は、氷のように冷たい。


「私は……、あなたが好きです! 王の側室になんてなりたくない!」


 アゼリアの、魂の叫びのような告白に、彼の眉がわずかに、本当にわずかに動いた。その時だった。


 カラン。


 乾いた音が響いた。彼女のドレスの裾から、隠し持っていた家宝の短剣が、石畳の床に落ちたのだ。短剣は、わずかに跳ね、刃が光を反射して、周囲の視線を集めた。


 広間が一瞬にして、凍り付く。レオノアの瞳が、刃の反射光よりも冷たく、アゼリアを射抜いた。


「……陛下暗殺の企みか。愚かな」


 彼は、アゼリアを庇うことはしなかった。その場で彼女のたくらみを暴露した。衛兵たちが、足音を立てて駆けつけてくる。絶望の底に、アゼリアは突き落とされた。


「……ヴァルガス様のお心を利用するような真似は、やめていただきたい」


 レオノアはそう言い放ち、衛兵たちにアゼリアを捕らえるよう命じた。それは、彼女への決別であり、彼自身の心臓を引きちぎるような、偽りの断罪だった。衛兵たちの手が彼女に触れる直前、彼はアゼリアに耳打ちした。その声は、苦痛に歪んでいるかのようだった。


「……こんな場所から、早く逃げろ。二度と私の前に現れるな」


 意味が分からなかった。だが、その声に含まれた、どうしようもない切迫感が、彼女の足を動かした。アゼリアは、衛兵たちの隙を突き、虚飾の城を、出口を目指して飛び出した。


 両親の待つ、古びた侯爵家へと帰ろうと、ただひたすらに走り続けた。道中、街のざわめきの中で、耳を疑う噂を拾う。


「クライナー侯爵家が取り潰されたそうだ……。娘の謀反の報を受けて、侯爵様は、その場で自害したとか」


 衝撃的な事実は、冷たい鉛となって、彼女の足を地面に縫い付けた。


 ただ追っ手から逃れるために、無我夢中で走り続けてきた自分。裏切られた恋の痛みと、全てを失った絶望だけを、冷たい宝物のように抱きしめながら。アゼリアは、自分の運命が、誰も知らない暗い底へと、音もなく沈んでいくのを感じていた。

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