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没落令嬢は初恋の騎士に裏切られ悪女になる  作者: 万里小路 信房


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第一話 躑躅の令嬢と氷の騎士

 アゼリア・フォン・クライナーは、ひどく古い家に住んでいた。

 どれほど古いかといえば、この国を治めるヴァルガス王家よりも、このクライナー侯爵家の歴史のほうが古いと、屋敷の使用人ですら口を揃えるほどだ。だが、古いことは往々にして、朽ちていることと紙一重である。侯爵家とは名ばかりで、領地から上がる収入はとうの昔に先細り、広大すぎる屋敷の維持さえも、今や重荷でしかなかった。世間では、彼らを「貧乏貴族」と陰で笑う。躑躅の花は咲き誇っても、その根はひどく痩せ細っている――そんな風情だった。


 アゼリアは、そんな家のしがない箱入り娘として育った。

 物心つく頃には、クライナー家の苦境は明らかだったが、両親はそれを悟らせまいと、彼女に惜しみない愛情を注いだ。父は威厳を保ちながらも娘には甘く、母は身の丈に合わない贅沢をさせようと、それこそ身を削るようにやりくりした。アゼリアの記憶にある両親は、常に自分に微笑みかけてくれる、慈愛に満ちた存在だった。

 だから、アゼリアもまた、この古びた誇りを失わずに生きてきた。いつか、この箱庭から出て、自分に見合う、素敵な殿方と結ばれる日を夢見ていた。それは、世間知らずで、ただ純粋に未来を信じる少女の、夢見がちな願いだった。


 彼女が、ある一人の男性に執心するようになったのは、全くの偶然からだった。

 その男性――近衛騎士団のレオノア・アストレイドの名を、最初に持ち出したのは、幼馴染のテレーズである。アゼリアにとって唯一心の内を打ち明けることができる、かけがえのない友だ。テレーズは、ある日突然、彼に夢中になった。

「レオノア様ったら、本当に素敵なの。あの銀色の髪と、冷たいサファイアみたいな瞳……」

 テレーズは、屋敷に遊びに来るたびに、堰を切ったようにレオノアの話をした。最初は、アゼリアにとってそれは、他人の恋物語にすぎなかった。テレーズが差し出す恋文の話も、呆れるほど真剣なその顔も、どこかうわの空で聞いていた。


 実際に、その目でレオノア・アストレイドという男を見るまでは。




 王宮で開かれた祝賀会。クライナー侯爵家としては、傾いた家勢を立て直す足がかりを探る、数少ない社交の場だ。アゼリアは、母が苦心して誂えた新しいドレスに身を包み、人々の輪から少し離れた場所で、静かに成り行きを見守っていた。


 その時、風が通り過ぎた。 窓から差し込む一陣の風が、銀色の髪をきらりとなびかせた。

 アゼリアは、思わず息をのんだ。


 そこにいたのが、レオノア・アストレイドだった。 テレーズの話は、誇張でもなんでもなかった。いや、むしろ控えめすぎた。 銀の髪は、月明かりを宿したように輝き、サファイアのような冷たい瞳は、周囲の喧騒を遠い世界のことだとでも言いたげに、何にも関心を寄せていなかった。 息をのむほどの美青年。その無愛想な、どこか影のある美しさに、アゼリアは一瞬で心を奪われた。これは、幼馴染が語っていた「恋」とは、まるで違う。


「一瞬で、恋に落ちた。」


 それは、運命という名の鎖が、カチャリと音を立てて繋がったような、抗いがたい感覚だった。

 それ以来、アゼリアはテレーズの話に、耳だけではなく心も傾けるようになった。


「私、またレオノア様をお見掛けしましたわ。少し離れた場所からでしたけれど、お元気そうでよかった」

 テレーズは、相変わらず幸せそうな顔で話す。アゼリアは表面上、以前と同じように関心がなさそうに聞いているが、内心は全く違った。「レオノア様のことなら、なんでも知りたい」――その一心だった。


 テレーズは、毎日毎日、返事の来ない恋文をせっせと書いていた。それは、若く、情熱的な恋の証だろう。しかし、アゼリアはそういうことはしなかった。 社交の場にほとんど出ることがない彼女は、友人が少ない。唯一の理解者であるテレーズにさえ、この胸の奥で激しく燃え始めた思慕の念を打ち明けることはなかった。

 打ち明けてしまえば、それは現実の、触れることのできるものになってしまう。そうすれば、この秘めた想いの均衡が崩れてしまうような、漠然とした恐れがあった。


 ただ、静かに、激しく、彼のことを心の中で想う。いつか消えてしまうだろう淡い気持ち。そう思い込もうとしながら、アゼリアは古びた屋敷の中で、穏やかな日々を過ごしていた。

 しかし、その平穏は、ある日突然、終わりを告げることになる。

 彼――レオノア・アストレイド自身が、古びた屋敷の門を叩くまでの、僅かな猶予でしかなかったのだ。




「近衛騎士のレオノア様がお見えです」


 母付きの年嵩のメイドが、普段と変わらない抑揚のない声でそう告げたとき、アゼリアは一瞬、自分の耳が現実の音を捉え損ねたのだと思った。

 今も、心の中で、彼の冷たい横顔を思い浮かべていたばかりだ。その彼が、この、傾いたクライナー侯爵家の屋敷に来るなんて。

 心臓が、まるで誰かに掴まれたように、強く脈打った。


 レオノアはすぐに、父であるクライナー侯爵の書斎に通された。何か内密の話があるらしい。使用人の数が少ないのは幸いだった。アゼリアは、使用人の目を気にすることなく、音を立てないように書斎の扉に近づき、耳をつけた。


 先祖伝来の広大な屋敷に見合うだけの十分な使用人を雇う力は、もはや侯爵にはない。それが、侯爵令嬢が聞き耳を立てるという、貴族にあるまじき振る舞いを許す結果となった。


 しかし、重厚な樫の扉は、アゼリアの焦燥をあざ笑うかのように、ほとんど音を通さなかった。聞こえるのは、奥で誰かが低い声で話し合っているという、微かな音の塊だけ。何を話しているのか、どんな表情をしているのか、何もわからない。

 もどかしい。喉の奥に小骨が刺さったような不快感と、得体の知れない不安が、アゼリアの胸を締め付けた。何かを聞こうとすればするほど、音は遠ざかっていくような気がした。


 やがて、会談が終わりを迎えた気配を感じて、アゼリアは慌てて自分の私室に戻った。心臓の鼓動が激しく、息が少し乱れている。 書斎の扉が開く音。廊下に響く、二人の足音。 アゼリアは、何気ない顔を装い、タイミングを見計らって私室の扉を開けた。偶然の挨拶を装う。ただ、彼の声を聞きたかった。この、秘めた恋心を抱く相手が、自分に向けて何か一言でも声をかけてくれるだろうと、淡い期待を抱いた。


 しかし、彼の態度は、予想通り、いや、予想以上に冷たかった。

 アゼリアが丁寧に挨拶をすると、彼は黙ってうなずいただけだった。サファイアの瞳は、一瞬、アゼリアの顔をじっと見つめた。それは、査定するような、あるいは何かを見定めるような視線で、ほんの一瞬にして、彼女を通り過ぎた。

 彼の瞳は、彼女の躑躅のように咲き誇る美しさの中に、どこか王に似た気高さを感じ取っていた。そして、その事実に、彼の胸の奥で複雑な感情が渦巻いた。彼は何も返さず、玄関ホールへと向かい、そして、屋敷を去っていった。


 アゼリアの期待は外れ、心に鋭い哀しみが走った。しかし、それ以上に、彼の冷たい瞳の中に宿っていた、一瞬の葛藤のようなものが、彼女の心を捉えて離さなかった。あの男は、何を考えていたのだろう?




 レオノアが帰るとすぐ、アゼリアは父の書斎に向かった。彼が残した用件の正体を知りたいという衝動が、哀しみを凌駕していた。


「お父上様、先ほどの騎士の要件はなんでしたの?」

 何気ない様子で尋ねたつもりだが、彼女の関心がどこにあるかは、聡い両親には明らかだったろう。

「ああ、そのことか。お母様を呼んでおいで」

 侯爵はそう言い、顔をしかめた。


 使用人は少ない。侯爵付の従僕は、レオノアを送っていってまだ戻らない。普段なら使用人に任せるところを、侯爵令嬢が屋敷の奥方を呼びに行く。それは、この家の苦しい台所事情を物語っていた。


 母が来ると、侯爵は頭痛で苦しんでいるような顔で言った。

「あのレオノアはな、ヴァルガス王の密使としてやってきたのだ」

「まぁ」

 母が、滅多に聞かない、普通ではない驚きの声を上げた。

「どんなご用件でございます?」

 母の声には、すでに不吉な予感が滲んでいた。


「とんでもないことを言ってきた。王がアゼリアを側室として差し出せ、と」

 侯爵の言葉に、書斎の空気が一瞬で凍り付いた。

「王のたっての願いだそうだ。侯爵家の令嬢の美しさは前々から聞いていたが、この間の祝賀会で見かけたアゼリアの美しさが、話に聞いていた以上で、忘れられずに使いを出したということだ」


 侯爵は、苦し気な表情で続けた。 クライナー侯爵家は、王家よりも古い歴史を持つ名門である。本来ならば、その令嬢は諸国の王妃にこそふさわしい。歴史の浅いヴァルガス王家の、それも正妃ではなく側室などという地位は、侯爵にとっては耐えがたい屈辱に他ならなかった。


「良い返事がもらえるならば、不満は言わせないとのことだ。……アゼリア、お前はどう思う?」

 侯爵は、承諾などすまいと信じきった顔で、娘に問うた。


 ヴァルガス王家は、クライナー侯爵家にとって、事実上仇敵のようなものだ。王家によって、この家は没落を余儀なくされた。どうして、その仇敵の待つ城へ、自ら行きたいと思うだろうか?


 だが、アゼリアの心は、全く別の場所を向いていた。 もし承諾すれば、いつもレオノアに会える。

 あの冷たい騎士は、王の側近だ。王宮に行けば、彼の姿を目にしない日はないだろう。


 人の側室になることは、アゼリアにとって特別恥ずかしいこととは思われなかった。むしろ、気楽でいいとさえ思った。正妃のような重圧もなく、ただ、あの男の近くにいられる。それこそが、彼女の心を激しく揺さぶる、ただ一つの真実だった。


「……すぐに、お返事することはできませんわ」


 アゼリアは、曖昧な返事をした。曖昧な言葉。それは、承諾を迷う者だけが口にする言葉だ。 両親は顔を見合わせ、その日は何の結論も出さずに終わった。


 夜になり、アゼリアは自室で、窓の外の月を眺めていた。 心の奥底に、恐ろしいほどの歓喜が渦巻いているのを感じる。 愛する男に、毎日会える。そのために、自分の人生を、この傾いた家の命運を、敵の王家に差し出す。 それは、あまりに甘く、そして、恐ろしい取引だった。

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