第8章 名を返す者
──誰かに、名を渡した記憶がある。
そう思い始めたのは、鏡の中の濡れた子供が、はっきりとそう言ったからだった。
「わたしに、なまえをくれたよね」
あの声を聞いて以降、志津子は自分の記憶の中にずっとひとつの空白があることを意識せざるを得なくなった。子供の頃の出来事は、断片ならいくつも残っている。祖母の家の縁側。庭の井戸。雨の午後。夏休みの湿った畳の匂い。虫の声。濡れた土。そうした細部は不自然なくらい残っているのに、そこにいた“誰か”だけが思い出せない。
顔ではない。
名前でもない。
ただ、自分がそばで何かを話しかけていた相手の輪郭だけが抜け落ちている。
記憶の中に名のない誰かがいる。
それは気味の悪いことだった。人は顔を忘れても、関係性くらいは残るものだ。近所の子だったのか、親戚の子だったのか、架空の遊び相手だったのか。何かしらの説明はつく。だが、志津子の中に残っているそれは、そうした分類のどれにも入らない。ただ“そこにいた”という事実だけが、濡れた指先で心の奥を撫でてくるように残っていた。
夜になると、その感触はいっそう濃くなった。
洗面所の鏡。
スマホの消えた画面。
窓ガラス。
暗くなったテレビの液晶。
反射面の奥に、誰かが立っているような気配がある。目を凝らせば消える。見なかったことにしようとすると、かえって輪郭だけが強くなる。とりわけ深夜、部屋の灯りを落としたあとで黒くなった画面には、自分の姿の背後に、もう一つの影が重なることがあった。
濡れた髪。
白い顔。
唇だけが、何かを言うように動いている。
志津子は、そのたびに目を逸らした。
返事をしてはいけない。
声に応じてはいけない。
名前を与えてはいけない。
そう繰り返し自分に言い聞かせながら、同時に、別の問いも日ごと強くなっていく。
自分は、本当にただ巻き込まれただけなのか。
結麻は消えた。
名前を問われ、記録ごと削られた。
自分は消えなかった。
名を問われてもなお、こちら側に残っている。
そこに違いがあるなら、それは被害の度合いではなく、もっと前のところに理由があるはずだった。
*
その日、志津子は父の残した資料箱の中から、神社関係の未整理メモだけを抜き出して机へ積み直していた。
宵鳴坂。
水送り。
無名の子。
呼び返し。
鏡面結界。
それらに混じって、数枚だけ「神社跡」「祠」「手鏡」という語が繰り返し出てくるメモがあった。どれも採録の途中らしく、地図も年代も曖昧だが、位置だけはおおよそ同じ一帯を指している。七ヶ瀬峠へ入る旧道の途中、かつて小さな社があり、いまは礎石と祠だけが残っているという。
志津子はその紙の端を指で押さえた。
そこだ。
感情より先に、確信に近いものが走る。
父が繰り返し書き留めていたのなら、そこは“現地の残り”だ。地図からは消え、正式記録からもこぼれ落ちたが、それでも現象をつなぎ止める何かだけが残っている場所。
午後、空は薄曇りだった。
雨は降っていない。
だが、降る前の匂いはもう漂っていた。
志津子は手鏡を鞄に入れ、車を出した。
*
神社跡は、道だと知っていても見落としそうな場所にあった。
旧道から少し外れた斜面の下。草に埋もれた石段が三段だけ残り、その先に低い土台と、半ば土へ沈み込んだ祠がある。鳥居はない。拝殿もない。社殿があったとわかる痕跡もほとんどなく、ただここが“何かを置くための場”だったことだけが、地面の平らさに残っていた。
志津子は車を降りると、草をかき分けて祠の前にしゃがみ込んだ。
木製の扉は腐り、蝶番も錆びている。けれど全面が崩れているわけではない。表面には、刃物で刻んだらしい文字がかすかに残っていた。泥を払うと、ようやく読める程度に浮かび上がる。
ナヲ カエスナカレ
ソレハ オマエニ ナヲ カス
志津子は、その意味を心の中で繰り返した。
名を返すなかれ。
それはおまえに名を貸す。
借りるのではない。貸す。
つまり、向こうへ名前を渡したつもりでも、そこで終わるのではない。その名前は回り、戻り、こちらの側にまで食い込んでくる。返還ではなく共有。救済ではなく接続。
志津子は、鞄から手鏡を取り出した。
ここまで来て、なぜ鏡を持ってきたのか自分でもうまく説明できない。父のメモに何度も出てきたから、ただ持ってきただけかもしれない。だが、手の中の小さな鏡は妙に馴染んだ重さで、まるで最初からこの場所で使うためにあったもののように感じられた。
鏡を胸の高さへ上げる。
最初に映ったのは、自分の顔だった。
薄曇りの空の下で輪郭が少し青ざめている。
その背後には、傾いた木と草むらと、崩れた石段。
そこまでは普通だった。
次の瞬間、鏡の中だけに、もう一つの顔が現れた。
志津子のすぐ背後。
現実の視界には何もないのに、鏡の中には確かに立っている。
濡れた黒髪の少女。
白目がちの瞳。
頬に髪が張りついていて、肌は水に浸けた紙のように白い。
そして、その口元には、かすかな笑みがあった。
「──しづこ、しづこ、しづこ」
背後から声がした。
耳元ではない。
自分のすぐ後ろ、現実には誰もいないはずの位置から、小さな子供の声が繰り返し自分の名を呼んでいる。
志津子は振り返らなかった。
鏡からも目を逸らさなかった。
もしここで視線を切れば、もう二度とその顔を捉えられない気がした。
「──しづこ、かえして。なまえ、くれたでしょ」
少女の口が、鏡の中で動いた。
志津子の喉が強く上下する。
「ちがう……私は……」
否定しようとしたその言葉は、自分でも空疎に聞こえた。
ちがうと言い切れない。
与えていないと断言できない。
「……じゃあ、だれ?」
少女は首をわずかに傾けた。表情はほとんど変わらない。だが、その問いの中には責めよりも先に、本気で知りたがっている響きがあった。
「なまえ、くれたの、だれ?」
その瞬間、志津子の中で何かが音を立てて緩んだ。
忘れていた記憶ではない。
忘れようとしていた記憶でもない。
ずっとそこにあったのに、意味を持たせないまま放置していた過去の断片が、いま初めて“それだったのか”という形を取ったのだ。
雨の日だった。
祖母の家。
縁側の下にできた水たまり。
井戸のそばにしゃがみ込み、小石や葉っぱを並べて遊んでいた幼い自分。
その時、確かに何かがいた。
人間だったのかどうかはわからない。
でも、子供の志津子はそれを怖がらなかった。怖がる以前に、相手を“遊びの相手”だと自然に認識していた。
そして、相手が言った。
──「なまえ、ないの」
幼い志津子は、何でもないことのように笑って答えたのだ。
──「じゃあ、名前つけようか」
その名が何だったのか、いまも思い出せない。
だが、“名付けた”という行為だけは、あまりにも鮮明に戻ってきた。
志津子は鏡の中の少女を見つめたまま、絞り出すように言った。
「……私が、つけた」
少女はまばたきもしなかった。
「そう」
その一言だけで、答え合わせは終わった。
*
夜、とある巨大掲示板には新しいスレッドが立っていた。
志津子がそれに気づいたのは、帰宅後、夕食も手をつけないまま机へ向かっていた時だった。ブラウザは開いていない。通知設定も切っている。それでもスマホの画面が勝手に灯り、見慣れた板の一覧が表示された。
──スレタイ『名を返したら、見えるようになった』。
その>>1の投稿には、こう書かれていた。
「ずっと鏡の中で誰かが立ってる気がしてた。
今朝、思わず“返すよ”って言ってしまった。
そしたら──午後から、部屋の隅で誰かがこっちを見てる。
窓の外にもいた。
水、出してないのに床が濡れてる」
(ID:Q9vL3vN4)
志津子は、画面を持つ手に力が入るのを感じた。
返したら、見えるようになった。
つまり“名を返す”という行為は、ひとつの現象を終わらせるのではなく、視界の側へ引き寄せるのだ。鏡の中だけにいたものが、部屋の隅や窓の外へも現れるようになる。それは祓いではない。開通だ。
少し下へスクロールする。
レス番号5。
「あなたのなまえ、まだ、わたし、もってない。
だから、かえせないの。
もっと、ちょうだい」
(ID:YOIxxx)
さらにその下には、短い書き込みが一つだけあった。
「↑は? 怖いんだけど」
(ID:uK2-rv31)
志津子はスマホを伏せた。
画面の明かりが木の机に細く残り、それが波のように揺れて見える。
“もっと、ちょうだい”。
怪異は、ひとつの名前で満たされない。
あるいは、そもそも名前そのものが欲しいのではなく、名前をやり取りした痕跡が欲しいのかもしれない。呼ばれた、与えられた、返した、その一連の回路が増えるほど、向こうはこの世界へ踏み込みやすくなる。
それは、ぞっとする考えだった。
*
夜が深まるにつれ、部屋のどこかで水のしたたる音がし始めた。
雨は降っていない。
蛇口も閉まっている。
浴室も乾いている。
なのに、ぽとり、ぽとりと、一定しない間隔で雫の落ちる音がする。耳を澄ませば、その向こうに、さらに低い旋律が重なっていた。
「──なもたずに……よべばきえ……なけばしずむ……」
宵泣きの唄だった。
だが、第六章で見つけた父のメモの文言とも、昭和三十一年の変質した録音とも、微妙に違う。どこか継ぎ足されたような、濁った節回し。誰かが途中から自分の都合で織り込んだみたいに、言葉の境目が曖昧になっている。
志津子はベッドに入っても眠れなかった。
目を閉じると、祠の前の鏡に映った少女の顔が浮かぶ。
「なまえ、くれたでしょ」
あの問いは、怨みではなく確認だった。
自分が橋になった理由は、ようやく明確になった。
被害者である以前に、自分は向こうへ最初の名を与えてしまった側だったのだ。
思いつきのような幼い名付け。
遊びのつもりで差し出した言葉。
その軽さが、長い時間をかけて自分のもとへ戻ってきている。
それでも、不思議と単純な罪悪感だけではなかった。
名を持たないものに、こちらの言葉を与えた。
その行為は危険であり、結果として繋がりを作ってしまった。
だが同時に、向こうにとってはそれがたった一度の“呼ばれた経験”だったのかもしれない。
だから切れない。
だから忘れられない。
*
深夜二時を回った頃、スマホに通知のない振動が走った。
表示はない。
アプリも開いていない。
なのに、机の上に置いていたスマホの画面が勝手に点灯する。
志津子は身を起こし、そっと手に取った。
ホーム画面の壁紙が変わっていた。
いつもの無機質な青い画像ではない。
暗い水面だった。
風もないのに細かく揺れている、水を張った黒い面。
その中央に、自分の顔が映っている。
そして、そのすぐ後ろに──もう一人の自分が立っていた。
輪郭だけが少し遅れて動く。
自分が瞬きをすると、向こうは一拍遅れて目を閉じる。
こちらが呼吸を整えると、向こうの唇だけが先に動いた。
志津子はスマホを落としかけた。
鏡と同じだ。
いや、鏡よりも近い。
手のひらの中に収まる水面が、いまや向こう側の窓口になっている。
彼女はようやく理解した。
名を返すとは、向こうへ返却することではない。
向こうに渡した何かが、別の形でこちらへ戻ってくることだ。
それは名の回収ではなく、共有の始まり。
向こうの存在にこちらの言葉を与えた瞬間、自分の輪郭もまた向こうへ差し出される。
そして、その回路を一度でも通してしまった者は、次の名前を呼び出す側になり得る。
橋になったのは、偶然ではなかった。
幼い日の自分が、すでに最初の板を渡していたのだ。
*
翌朝、志津子は鏡台へ新しい布をかけた。
今回は、前より厚い布にした。裾を抽斗へ挟むのではなく、紐で後ろから結びつける。できる限り丁寧に、雑な隙間ができないように覆う。
作業を終えて一歩下がった時、鏡の外縁に細い水のしみが広がっているのに気づいた。
中心ではない。
布越しでもない。
鏡の枠と枠の境目から、じわりと外へ染み出している。
まるで、何かが内側からこちらへ来ようとしているように。
志津子は、そのしみを拭かなかった。
ただ見つめたまま、低く息を吐く。
逃げても遅い。
否認しても意味はない。
自分はもう、巻き込まれただけの観察者ではいられない。
名を与えた。
だから、いま呼ばれている。
それが橋になるということなら、その橋をどう扱うかを決めなければならなかった。




