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宵泣き峠、雨の子守唄  作者: 月白ふゆ


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第7章 鏡面と境界

 ──鏡が、濡れていた。


 その朝、志津子は目を覚ましてすぐに違和感を覚えた。枕元ではなく、窓でもなく、部屋の奥にある鏡台のほうへ先に意識が向いたのだ。まだカーテンも開けていない薄暗い室内で、そこだけがわずかに光を返している。


 掛けておいた布が、中央だけ濃く色を変えていた。


 志津子は布団の上でしばらく動けなかった。昨夜、眠る前に自分で確かめたはずだった。鏡台には厚手の布をかけ、その裾を抽斗の脚に軽く挟んでおいた。風でずれるような掛け方ではない。なのに、いま目の前にある布は、ずれてはいない代わりに、内側からゆっくりと湿っていた。


 誰かが向こう側から吐息を押し当てているように。


 志津子はようやく立ち上がり、そっと近づいた。布の中央、ちょうど自分の顔が映るあたりにだけ円く染みが広がっている。指先で触れると、冷たかった。ただの湿気ではない。水滴が布の繊維の奥まで入り込み、じわりと輪を広げている。


 布を外すべきか、一瞬迷う。


 だが、結局外さなかった。


 その代わり、志津子はその場にしゃがみ込み、布越しの鏡を見つめた。向こうに何かがいるのなら、いまはまだ見えないままでいい。見てしまえば、こちらの輪郭もまた向こうへ見える気がしたからだ。


 窓の外は晴れていた。昨夜の雨が嘘のように空が高い。なのに鏡だけが濡れている。


 志津子は唇を引き結び、台所へ向かった。



 異変は、その日から“音”ではなく“反射”の側へ移った。


 最初に気づいたのは、電気ケトルの側面だった。湯を沸かそうとして、銀色の曲面に自分の姿が歪んで映る。その肩越しに、黒い髪の束のようなものが一瞬だけ重なった。振り返る。誰もいない。もう一度ケトルを見ると、自分しか映っていなかった。


 次はスマートフォンの画面だった。通知を確かめようとして持ち上げる。スリープのままの黒い画面に、自分の顔が青白く浮かぶ。その右目の横に、雫のような丸い模様がひとつ、すっと現れて消えた。指で拭っても感触はない。液晶表面は乾いている。


 昼前には、廊下の窓で似たことが起きた。研究室へ向かう途中、曇りガラスの一部がその場だけ透明に変わったように見え、その奥で小さな影が通り過ぎた。子供の背丈だった。急いで外を見ても、そこには雨樋と植え込みしかない。


 いずれも一瞬だ。


 見間違いと片づけることもできる長さしかない。

 だが、その“一瞬”が、決まって何かを映す面で起こる。


 鏡。

 金属。

 ガラス。

 消えた画面。


 水面の代わりになるもの。


 志津子は、研究室の扉を閉めたあと、ようやくそのことを言葉にした。


「……反射している場所だけ」


 誰に聞かせるでもなく呟くと、その声が思ったより乾いて響いた。


 父の資料にあった文が、遅れて頭の中で立ち上がる。

 鏡は水面の代替物である。

 水に起因する怪異は、まず反射から現れる。


 ならば、いま起きていることは予兆ではなく、侵入の形式そのものなのだ。



 午後、志津子は講義を一つ終えたあと、そのまま駅前の古書店へ向かった。


 昨日までなら資料館へ行ったかもしれない。だが今日は、学術的に整理された記録ではなく、もっと周辺の、正式な棚からこぼれたような文献に当たりたかった。鏡にまつわる民間信仰は、地方史の本流より、私家版の資料や、採録しきれなかった覚え書きに残ることが多い。


 古書店の奥は、昼間でも薄暗い。文学全集や全集物の大判が並ぶ棚のさらに奥、郷土史と神道関係のごく狭い区画に、紙焼けした冊子が何冊も押し込まれている。志津子は背表紙を一冊ずつ確かめながら、埃で指先を灰色にした。


 そこで見つけたのが、薄い仮綴じの冊子だった。


 『水神伝承と鏡面結界の構造(私家版・非売品)』


 著者名を見た瞬間、志津子の手が止まる。


 葦原典行 編。


 父だった。


 思わず周囲を見回したが、店主は帳場で新聞を読んでいるだけで、こちらには注意を払っていない。志津子はその冊子を持ったまま、店の隅の小椅子へ腰掛けた。


 中身は活字だが、ところどころに手書きの追記がある。父が自分で編み、数部だけ印刷した類いのものなのだろう。流通経路はわからない。そもそも、これがなぜこの店にあるのかもわからなかった。


 だが内容は、いまの自分に必要なものだった。


 「日本古来の水神信仰において、“鏡面”は単なる姿見ではない。鏡は、水面の代替物として機能し、神霊の出入り口として扱われた」


 「水に起因する怪異は、まず反射から接触を試みる。像を得ることで、向こう側は“こちらの輪郭”を学習する」


 「姿見ではなく“名見”──鏡は、姿を映す以前に、名を持つ者を認識する器である」


 志津子は、その一文の上に引かれた赤鉛筆の線を見つめた。


 名見。


 姿ではなく、名を映す器。


 昨夜までに起きたことを思い返せば、その言葉は比喩では済まない。

 結麻が問われた「お名前は」。

 自分が幼い頃に問われかけた「お名前を」。

 名を失った者。名を与えられた者。名を返してはならないという警告。


 反射面は、ただ像を写しているのではない。

 向こう側が、こちらの“名前のある存在”を見分ける窓になっている。


 ページをめくると、父の追記が出てきた。


 『鏡が濡れる場合、相手はこちらを一方的に見ている段階』

 『こちらの像が遅れて動く場合、輪郭のなぞり取りが始まっている』

 『最も危険なのは、鏡像の口が先に動くとき』


 志津子は、冊子を閉じる指に力を込めた。


 ここまで具体的に書いているということは、父もまた実際に見たのだ。研究ではなく経験として。


 その時、古書店のガラス戸が軽く鳴った。入ってきた客の影が、店内の鏡面に一瞬だけ重なる。志津子は反射的にそちらを見た。


 誰もいない。


 店主は新聞から顔も上げないまま、欠伸を噛み殺している。入口のベルだけが、いま確かに鳴ったはずなのに。



 夜、歯を磨いていた時だった。


 研究室から戻ってからも、志津子は鏡を直視しないようにしていた。鏡台には朝のまま布をかけてある。洗面所の小さな鏡だけは使わないわけにいかないが、視線はなるべく口元と手元にだけ落とす。そう決めていた。


 歯ブラシを口に入れたまま、ほんの気のゆるみで顔を上げる。


 そこに、自分の顔がある。

 その後ろに、もう一つの顔があった。


 志津子の喉が凍る。


 黒い髪。濡れたように頬に張りついている。

 白すぎる肌。

 輪郭の薄い、子供の顔。


 年齢はわからない。女の子にも見えるし、その年齢すら曖昧な、名前を与えられる前の姿にも見えた。


 鏡の中のその子供は、志津子の肩越しに立ち、首を少しかしげている。表情はほとんどない。だが、口だけがゆっくり動いた。


「……あのとき……わたしに、なまえをくれたよね……」


 歯ブラシが床へ落ちた。


 洗面所の狭い床に乾いた音が響く。志津子は一歩で壁際まで下がったが、振り返っても誰もいない。洗濯機、タオル掛け、閉まった戸。現実の空間には、何もない。


 なのに鏡の中だけに、その子供はいる。


「──待って。私は……」


 否定しようとして、言葉が止まる。


 “私はそんなことをしていない”と言い切れなかった。


 古い記憶の底に、雨の日の縁側と、水たまりと、幼い自分の声がある。気まぐれに何かへ名前をつけた記憶。あれがただの子供の遊びでなかったのなら。


 鏡の中の子供が、もう一度口を動かした。


「くれた。だから、いま、ここにいるの。

 なまえは、ね……うたになるの」


 次の瞬間、洗面所の空気が変わった。


 外は雨も降っていない。

 なのに、どこかで水音が反響している。


 蛇口は閉まっている。洗濯機も止まっている。排水口も乾いている。

 それでも、水の揺れる低い音だけが、壁の内側から聞こえてくる。


 志津子は、呼吸の浅さに気づいた。

 鏡から目を離せない。


 向こうの子供は、もう喋らなかった。

 ただ、こちらを見ていた。

 見ているというより、何かの確認を終えたような目だった。


 名前をもらったこと。

 だからここに来られたこと。

 その事実だけを伝えに来たのだとでもいうように。



 夜遅く、志津子は父のノートを読み返していた。


 机の上には、昼間古書店で見つけた冊子もある。

 鏡台には相変わらず布をかけてあるが、その布の下の存在感が、さっきから無視できないほど濃くなっていた。


 父のノートの末尾近く、折り込みが挟まれた頁に、短い断章があった。


 「唄と名は、鏡を通じて繋がる。

 映された“子の像”に名を呼ぶことで、鏡は“返し口”となる」


 その下。


 「一度呼んだ名は、封じなければならない。

 封じられぬなら、像は“名を持つもの”として境界に立ち戻り、現世と幽世を往還しはじめる」


 さらに、最後の一文。


 「最も恐ろしいのは、“名前をもらった側”が、唄を通じて次の名を呼び出すことだ。

 それは連鎖となり、鏡は“名を宿す泉”になる」


 志津子は、ノートの余白を指で押さえた。


 これは封印の破綻ではない。

 もっと別のものだ。


 破られた、というより、引き渡しに近い。


 誰かが自分の名を鏡へ映し、問いに触れ、名前のやりとりを発生させた瞬間から、そこはただの鏡ではなくなる。向こう側へ接続された窓口になってしまう。


 そして、自分はもうその輪の内側にいる。


 結麻は峠で消えた。

 自分は消えなかった。

 その差は何か。


 考えたくはない。

 だが、おそらくは、自分のほうがもっと古くから繋がっていたからだ。



 その頃には、スマホもまた普通ではなくなっていた。


 机に伏せていた画面が、通知もないのに淡く点灯する。

 志津子が持ち上げると、黒い画面の中央に、文字がうっすら浮いていた。


 ──「おかえり、しづこ」──


 喉が動く。


 解除操作をしようとした瞬間、画面が勝手に切り替わった。ブラウザが立ち上がり、とある巨大掲示板のログ画面が表示される。


 スレタイは、『宵泣き峠』。

 流れの下のほう、スレッド番号29。


 最終レス付近に、こう書かれていた。


 「鏡の中で、自分が勝手に動いてた。

 声が出ないのに、口だけ動く。

 しかも、映ってる自分が──泣いてた」

 (ID:R8m-qL12)


 そのすぐ下。


 「もう、見たでしょ。

 なら、名前を返して。

 わたしは、まだ、そこにいるから」

 (ID:YOI5nX5k)


 志津子は、画面を閉じることもできず、そのまま見つめていた。


 自分だけではない。

 鏡の異変を見ている人間が他にもいる。

 しかも、その相手に対しても、向こう側は同じように“名前を返して”と要求している。


 つまり、鏡はもう一つではない。

 部屋の鏡台だけではない。

 画面も、ガラスも、都市のどこにでもある反射面が、それぞれ水面の代替になり得る。


 掲示板は噂を集める場ではなくなっている。

 現象そのものが、そこで観測され、呼び合っている。



 翌朝、志津子は鏡台にかけた布が床に落ちているのを見た。


 落ち方が妙だった。

 ただ滑り落ちたのではない。

 中央から外側へ押し広げられたように、半分だけ裏返って床に広がっている。


 志津子はそっと目を上げた。


 鏡の中で、誰かが笑っていた。


 はっきりした笑顔ではない。

 口元だけが、ほんのわずかに持ち上がっている。

 その笑みは愉悦というより、やっと通じたものを確かめる時の、静かな緩み方に見えた。


 志津子はすぐに目を逸らさなかった。


 見返すな。

 声に出すな。

 名を与えるな。


 それでも、もう完全に無視することはできないところまで来ている。


 鏡台の前で数秒立ち尽くしたのち、志津子は布を拾い上げ、何も言わずにもう一度かけ直した。



 雨の気配はなかった。


 だが、町の片隅では、排水溝が音を立てて逆流していた。


 大学へ向かう途中、商店街の角で志津子は足を止めた。晴れているのに、側溝の網目の下で水だけが妙に濃い色をしている。流れきらない水が、逆に下から押し返されてくるように揺れていた。


 耳を澄ますと、その底から子供の唄が漏れていた。


 はっきり聞こえるわけではない。

 言葉になる直前の、湿った節回しだけが水音に混じる。


 それでも、最後の一節だけはわかった。


 ──名を、呼ばないで。


 志津子は、その場でしばらく動けなかった。


 呼ぶな、と言っているのは誰なのか。

 向こう側の存在か。

 それとも、かつて名前を与えてしまったこちら側の誰かの後悔か。


 答えはまだ出ない。

 だが、はっきりしたことが一つだけある。


 峠の怪異は、もう峠だけのものではない。


 雨と反射面と名前を通じて、志津子の生活圏へ入り始めている。

 しかもそれは、襲ってくるというより、こちらを覚えながらじわじわ近づいてくる侵入だった。


 志津子は商店街を抜けるとき、一度だけ自分のスマホの画面を見た。黒い液晶はただの黒ではなく、どこか水を溜めたように見えた。映った自分の顔の輪郭が、ほんの一瞬だけ揺らいだ気がした。

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